荒振神・荒神・荒についての一考察 服部静尚(会報118号)
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鉄の歴史と九州王朝 服部静尚(会報124号)
日本書紀の中の遣隋使と遣唐使
八尾市 服部靜尚
一、はじめに
日本書紀に出てくる推古十五年〜十六年(六〇七年〜六〇八年)の遣唐使小野妹子と大唐使人裴世清に関する記事を、史学界では、隋書に記載されている大業三年〜四年(六〇七年〜六〇八年)の倭国からの遣隋使記事と同一視することを定説としてきました。
これに対して古田武彦氏は、市民の古代第三集「遣隋使はなかった」の中で、次にあげる根拠で、前者日本書紀記事が十年以上遡りされていて、この記事は遣隋使ではなく文字通り遣唐使記事である。日本書紀(以下書紀)には、遣隋使記事は記載されていないと論証しました。
(一)隋書の裴世清の官職名・官位は「文林郎・従八品」、書紀では国書中に「鴻臚寺の掌客・正九品」とあり、違っている。出典はいずれも中国側の正式な文書で、官職・官位を間違うはずがない。(裴世清は、文林郎の職位で隋の使者として、鴻臚寺の掌客の職位で大唐の使者として、二度我国を訪れている。)
(二)書紀では「大唐」とあるが、唐を「大唐」と称するのは六一八年の唐建国の以降であって、六〇八年では合わない。
(定説では書紀編纂当時は中国名の総称として、唐と呼んでいたとしているが、)推古紀二六年記事で「隋煬帝」とあって、ここでは隋のことを唐とは呼ばず、隋と言っている。
(三)書紀のこの記事周辺で、左記のように、少なくとも十年以上の“年代誤差“を含んでいると考えられる。
舒明紀三年(六三一年)「百済王、義慈が、王子豊章を入れて質とする」とあるが、その時の百済王は武王であって、義慈王ではない。この年ではこの記事は成り立たない、この記事は義慈王が即位する六四一年以降のものである。
又推古紀十七年(六〇九年)「(百済王が呉国に遣わしたが、其の国に乱れ有り、入ることを得ず本郷に返る際に暴風に逢い)百済の僧道欣等が肥後の国の葦北の津に泊する」とある。李子通が江都で呉を建国し、その後滅ぶのは、武徳二年?四年(六一九?六二一年)のことである。この年では、この記事も成り立たない。
(四)唐の国書に「寶命」とあるが、これは第一代天子のみが名乗る言い方である。隋の煬帝は二代目なので、「寶命」はあり得ない。これは唐の初代天子高祖の国書である。(六二二年に)高祖が高麗へ送った国書にも「朕、寶命に恭膺し(うやうやしく宝命にあたり)率土に君臨す」と同じ表現がされている。
極めて理にかなう論証です。この古田説を受けて、本稿では(三)項のこの遣唐使は実際いつ派遣されたのか、それは近畿天皇家による遣唐使であったのかについて検証します。
二、 初めての遣唐使はいつの事か
(一)書紀の遣唐使記事を整理すると次になります。
(1).推古十五年(六〇七年)七月、大礼小野臣妹子を大唐に遣す。
(2).推古十六年(六〇八年)四月、妹子、裴世清と筑紫に。三〇艘で迎える。九月、裴世清帰国、妹子再遣(高向玄理・僧旻・福因・恵穏・清安ら)
(3).推古十七年(六〇九年)九月、小野臣妹子等大唐より至る。
(4).推古二二年(六一四年)六月、遣犬上君御田鍬・矢田部造闕名を大唐に遣す。
(5).推古二三年(六一五年)九月、犬上君御田鍬・矢田部造、大唐より百済の使いと帰国。
(6).推古三一年(六二三年)七月、新羅使に伴い唐より福因・恵日帰国。
(7).舒明 二年(六三〇年)八月、大仁犬上君三田耜・大仁薬師恵日を大唐に遣す。
(8).舒明 四年(六三二年)八月、大唐高表仁を遣し對馬に泊る。三田耜・僧旻も帰国。十月、唐国使人高表仁ら難波津に泊る。船三二艘で江口に迎える。
(9).舒明 五年(六三三年)正月、大唐の客高表仁等帰国。
ここで、(1).(2).(3).の記事、(4).(5).の記事、(7).(8).(9).の記事がそれぞれセットとなっています。
(二)これに対して旧唐書では、倭国からの初めての遣唐使は貞観五年(六三一年)とされています。これに対し、太宗は新州刺史高表仁を遣します。唐會要によると「貞観十五年十一月。使者が到着。太宗はその道程の遠さを哀む。高表仁に節を持たせて派遣し、これを慰撫した。表仁は海を乗り出し、数カ月で到達した。道は地獄の門を経て、その上に気色鬱蒼とするを見て、鎚で殴られるような音を聞き、甚だしい恐怖を感じた。表仁には慎みと遠慮の才覚がなく、王と礼式で争い、朝命を宣下もせずに帰還した。ここに再び通交が途絶えた」とあります。唐會要と旧唐書で、年数が違っていますが、編纂時期から見て貞觀五年をとるべきです。
(三)貞觀五年(六三一年)十一月に遣唐使が到着して、往使高表仁の派遣の決定そして出発、更に(唐會要によると)日本への到着に数ヶ月要しているので、そうすると書紀の(8).舒明四年(六三二年)八月対馬着という記事とが、矛盾無く合致します。つまり書紀の(7).(8).(9).記事の年数は信用できるということになります。
(なぜか旧唐書には記載が無いのですが)書紀によると、(7).(8).(9).記事以前に(1).(2).(3).と(4).(5).の二度の遣唐使があったことになっています。(1).(2).(3).記事が古田説のとおり十年以上ずれていて、(4).(5).が表記どおりの年数であったとすれば、後先が逆転するので、(4).(5).も同様に十年以上ずれていることになります。
次に、(6).と(7).の記事で薬師恵日の派遣と帰国が逆になっています。(6).も同様に十年以上ずれているとすれば、辻褄が合います。
又、(5).と(7).の御田鍬(三田耜)記事から、(5).のずれが十五年以上であれば、矛盾することになります。
つまり、書紀の(1).〜(6).までの記事が十年〜十四年ずれている。(7).以降はずれていないことなります。
(四)次に、朝鮮各国の遣唐使派遣状況を見ます。
高麗=旧唐書東夷伝によると、「武徳二(六一九)年,遣使來朝。四(六二一)年,又遣使朝貢」。三国史記高句麗本紀にも、「(六一九年)春二月(王が唐に)使者を派遣し朝貢した」「(六二一年) 秋七月(王が唐に)使者を派遣し朝貢した」とあります。
新羅=旧唐書東夷伝によると、「武徳四(六二一)年,遣使朝貢。高祖親勞問之,遣通直散騎侍郎 [广/臾]文素往使焉,賜以璽書及畫屏風、錦彩三百段,自此朝貢不・」。三国史記新羅本紀では「(六二一年)秋七月」とされています。
[广/臾]は、广編に臾。JIS第3水準ユニコード5EBE
百済=旧唐書東夷伝によると、「武徳四(六二一)年,其王扶餘璋遣使來獻果下馬」。三国史記百済本紀で「(六二一年)冬十月」とされています。
高麗の六一九年が早いですが、高麗の次の派遣を含めてその他は六二一年の遣唐使となっています。
(五)唐の建国初期、武徳二年(六一九年)当時の中国国内の状況を旧唐書高祖紀で確認します。(添付図参照)
唐の李淵は長安にあって、山西・陝西・甘粛を支配領域としていましたが、北東面は「閏月辛酉,劉武周侵我並州」閏二月に東突厥と組んだ劉武周が晋陽に迫り、「九月丁酉,並州總管、齊王元吉懼武周所逼,奔於京師,並州陷」九月に晋陽の留守李元吉(李淵の四男)が長安に逃げ出します。晋陽は劉武周によって陥落します。唐の李世民(太宗=李淵の次男)が、再び晋陽を回復するのですが、「夏四月甲寅,秦王大破宋金剛於介州,金剛與劉武周奔突厥,遂平並州」それは翌武徳三年四月のことです。
東面は李密・宇文化及・王世充などが割拠していましたが、「夏四月乙巳,王世充簒越王[イ同]位,僭稱天子,國號鄭」武徳二年四月には王世充が都を洛陽とする国号「鄭」を興し、天子を名乗ります。九月には鄭が李密を討ち勢力を拡大します。「秋七月壬戌,命秦王率諸軍討王世充」武徳三年七月になってやっと、(上記晋陽の劉武周を討った後)李世民が王世充を討ち、更に四年五月に竇建徳*を滅ぼし、その結果唐がほぼ統一を果たします。
[イ同]は、人編に同。JIS第3水準ユニコード4F97
徳*は、徳の異体字。JIS第3水準ユニコード5FB7
この状況から、高麗による武徳二年二月の遣唐使は、同閏2月の劉武周の晋陽攻めの直前であったために、きわどく送り込めた遣唐使であったことが判ります。
その後は、長安の北面も東面も戦場または緊迫した状態で、とても遣唐使の派遣と、唐側の受入れ、答礼使の派遣がとてもできない状況でした。唐がほぼ全国統一できたのは武徳四年五月以降のことで、朝鮮各国の遣唐使も武徳四年七月および十月で、まさに中国国内情勢に合致しています。
(六)それでは倭国の初めての遣唐使はどうかですが、もし書紀の(1).(2).(3).記事が十二年ずれていたとした場合、武徳二年遣唐使派遣と同三年の答礼使となります。つまり武徳二年七月に倭国を出立しその冬に長安に到着、裴世清*は年末年始頃の出立で武徳三年四月の筑紫到着です。その頃は、丁度元吉が晋陽から長安に逃げかえった頃で、長安の東面でも唐と鄭との戦争状態です。これはありえません。
清*は、清の異体字。ユニコード6DF8
武徳三年であればぎりぎり成り立ちますが、高麗・新羅・百済の遣唐使派遣と比較すると、武徳四年の派遣であったとするのが自然です。この場合書紀のこの記事は十四年ずらされていて、実は推古二九(六二一)年のことであったことになります。
(七)蛇足になりますが、学生などの唐滞在年数からも見ても、十四年ずれは正しいと考えられます。
推古紀の遣唐使で学生などが唐に渡っていますが、これらの滞在年数が書紀どおりとすると、軒並み十六年〜三三年と、成人が老人になってしまうような年数です。とても現実的ではありません。
これが十四年ずれとすると、福因は足掛け二年、僧旻は足掛け十一年、恵穏(慧隱)は足掛け十八年、高向玄理は足掛け十九年、清安(請安)も足掛け十九年で妥当な年数となります。
三、推古三十(六二二)年の大唐使人裴世清は九州王朝を素通りしたのだろうか
(一)阿部周一氏はそのブログで「国交もないような近畿王権に対して国書を出すようなことを想定するより、倭国という日本列島を歴史上代表してきた国に対して王朝成立後、正式に使者が出されたとするのは当然すぎるぐらいではないでしょうか。つまり書紀に書かれてある唐の高祖からの国書というものは、倭国王権に提出されたものと考えるべきではないか」と提起しています。阿部氏の視点で裴世清の来訪記事を見ますと、
(a)推古十六(実は三十)年四月大唐使人裴世清、至於筑紫。筑紫は九州王朝のある所です。筑紫に着いて、九州王朝を素通りすることはあり得えません。
(b)六月、客等泊于難波津。この難波津で飾り船三十艘(舒明四年は飾り船三二艘)の歓迎をしています。隋書で九州王朝が行った(飾り船による歓待ではなくて、「從數百人、設儀仗鳴鼓角來迎。又遣大禮哥多、從二百餘騎郊勞」)ものとは異なる歓待であり、これは難波津=大阪湾岸での近畿天皇家による歓待と考えるのが妥当です。筑紫到着後足掛け二ヶ月経っているので、筑紫から大阪湾岸への航路に充分な時間があります。
(c)秋八月、唐客入京。召唐客於朝庭、令奏使旨。この時、飾り騎七五匹で歓待していますが、先の隋書の九州王朝側の歓待は二百餘騎です。明らかに規模が劣っています。
九州王朝と近畿天皇家の当時の勢力・権威が、二百余りと七五の差になったのでしょう。この入京は近畿天皇家への入京と考えるべきです。
ということで、大唐の使人裴世清は九州王朝、近畿天皇家に歴訪したものと考えるのが妥当です。
尚、九州王朝が滅び完全に近畿天皇家の時代となっていた宝亀九年〜十年(七七八〜七七九年)に、七世紀中頃以降で言えば、初めて正式な唐使である孫興進ら(本来の唐使である趙宝英は航海中に遭難死)を迎えますが、唐客の入京の際、騎兵二百騎と蝦夷二十人で出迎えています。この二百騎の出迎えは、明らかに隋使を迎えた際の、九州王朝の歓待を意識したものと思われます。
(二)次に国書ですが、書紀によると妹子は百済を通過する際に、唐帝の書簡を盗まれたとあります。
しかし、これとは別に裴世清は唐帝の親書を言上しています。
「皇帝はここに倭皇への挨拶を述べる。使者長吏大礼蘇因高の一行が来て、倭皇の考えを詳しく伝えた。私は謹んで天命を受け、天下に君臨した。徳を広めて人々に及ぼそうと思う。慈しみ育む気持ちには、遠近による隔てなどない。倭皇はひとり海外にあって、民衆をいとおしみ国内は安泰であり、人々の風習も睦まじく志が深く至誠の心があって、遠くからはるばると朝貢をしてきたことを知った。その美しい忠誠心を私は嬉しく思う。稍(ようやく)暄(あたた)かなり比常如(つねのごとく)也。そこで鴻臚寺掌客裴世清*らを遣わして、往訪の意を述べ、併せて別に物を送る」
先ず、唐より親書を持たせた使者を送っているのに、それとは別に妹子に別の親書を持たせた、これは考えにくい。妹子が失くしたという親書は無かったのではないでしょうか。
元々九州王朝への親書しか無かった。阿部氏の言うように裴世清が言上した親書は、九州王朝への親書を盗用したのではないでしょうか。
そうすると、親書に「大礼蘇因高」とあるのはどういうことかとなります。妹子の冠位大礼は冠位十二階の一つです。推古紀十一年十二月「始行冠位」、十二年正月「始賜冠位於諸臣」とあるのですが、この遣唐使記事に至るまで冠位の記載は、「鞍作鳥の大仁」のみで少な過ぎます。九州王朝のことを記載したと見られる隋書にも、冠位十二階の記載があって、これは九州王朝の制度と考えられます。
小野妹子臣は遣唐使記事以外には全く姿を現しません。以上から、小野妹子臣は九州王朝系の人、もしくは蘇因高と小野妹子は別人と考えるのが妥当です。
この国書が、九州王朝向けのものであった直接証拠にはなりませんが、傍線を引いた部分は季節の挨拶で、「暄」は漢和辞典によると、晩春の暖かさを指しているそうです。先に記述したように、裴世清が長安を出立するのは年末から年初(季節で言うと冬から初春)で、晩春直後の四月には筑紫に到着しています。どう見ても季節が合いません。
ちなみに、三国史記百済本紀によると、隋の答礼使文林郎裴世清は「六〇七年三月に百済の南路を通過した」とありますので、書紀の四月筑紫到着も、この隋使に合わせるために月日を作為した可能性があります。
(三)次に、書紀にある大唐の客高表仁の記事を見ますと、左記のように裴世清と同様、高表仁も九州王朝への訪問をメインにしていて、その後近畿天皇家に訪れたものと考えられます。
(a)八月に対馬に着き、翌正月に帰国の途についていますので、裴世清と同じく足掛け六ヶ月の逗留。
(b)旧唐書では「王子と礼を争う」、書紀は「高表仁が船三二艘の出迎えと神酒饗応に喜ぶ」と、くい違いがある。
(c)唐會要に「地獄之門。其上氣色蓊鬱。又聞呼叫鎚鍛之聲」と阿蘇山の噴火描写と思われる記載がある。
(四)九州王朝は、数度の遣唐使派遣を経て、六三二年この高表仁を迎え、その際に「王子が礼を争い」、その結果白村江の戦いに突入していきます。しかし全く交流が途絶えたのではなくて、六四八年には新羅に同行して奉表し、六五四年の遣唐使、六五九年の遣唐使と継続的に朝貢しています。
この六五九年の記事で、唐天子の言葉の中で、「日本国天皇」と「倭客」の使い分けがされていることや、韓智興の従者「西漢大麻呂」による「我客」への讒言事件があることより、当時、九州王朝の使者と近畿天皇家の使者の、両者が唐に居たことになります。
このように、裴世清および高表仁が、九州王朝と近畿天皇家の両方を訪れていたとするのが理にかなうわけです。
四、それでは推古紀十七年記事と、舒明紀三年記事も十四年ずれなのか?
古田氏が指摘した、一 ー (三)少なくとも十年以上の“年代誤差“は何年なのかについて検証します。
推古十七年(六〇九年)四月「(百済王が呉国に遣わしたが、其の国に乱れ有り、入ることを得ず本郷に返る際に暴風に逢い)百済の僧道欣等が肥後の国の葦北の津に泊する」。
これに対して、李子通の呉の建国は、武徳二(六一九)年九月で、これが武徳四(六二一)年十月に滅びます。
戦乱時期ということなので、武徳三年の春とすると呉の建国後すぐの入国できないほどの戦乱は考えにくく、武徳四年の話のようです。つまりこの記事は十二年ずれています。
次に、舒明三年(六三一年)三月「百済王、義慈が、王子豊章を入れて質とする」の記事ですが、百済本紀によると義慈王は六四一年に即位します。古田武彦氏は「失われた九州王朝」の中で、百済本紀の義慈王十三年(六五三年)「秋八月、王、倭国と通交す」とあり、この記事以外に倭国との通交記事がないことより、この年の人質ではないかとされています。
しかし、書紀によると皇極二(六四三)年百済太子余豊が三輪山で蜜蜂を飼うとあって、この余豊は豊章と同一視できると考えられること、白雉元年(六五〇年、九州年号で言うと六五二年)二月の白雉献上および白雉改元の儀に、百済君豊璋が参加していることから、六五三年では遅すぎます。この人質記事は義慈王即位直後の六四二〜六四三年のこと考えられます。つまり十一年もしくは十二年ずれています。
先の遣唐使記事が十四年ずらされた理由は、隋書にあった遣隋使を近畿天皇家の事跡と偽装するためのものでしたが、こちらは、なぜ書紀編纂者によってずらされたのでしょうか。
古田氏は、前述「失われた九州王朝」で、近畿天皇家内部の固有の伝承の中に「余豊の人質来朝」の事実が存在しなかったからで、何か一種の徴証 ーー つまり百済人もしくは百済貴族の来朝記事が舒明三年に存在していたので、誤ってここに嵌め込んだのでしまったとしています。
まさに十一年ずれとすれば、百済王義慈即位後の同時期に、王子豊章と弟王子翹岐が別個に、人質もしくは使者として倭国に来たことになっています。書紀の文脈からみると、王子豊章の方が正式な百済から(九州王朝に)差し出された人質で、弟王子翹岐の方は正式に百済国の派遣では無いと考えられます。弟王子翹岐はたまたま同時期に(近畿天皇家に)亡命してきたのではないかと見られます。
もう一つの、葦北の津に漂着した百済の僧道欣・恵弥を首として十人、俗七十五人の内、道欣(原文では人)等十一人が留まることを申し入れたので、元興寺に住まわせるとあります。大越邦生氏は市民の古代第七集「法興寺研究」の中で、書紀にもう一つある元興寺記事(推古十四年丈六仏を金堂に安置)と併せて、これらは九州王朝史料からの盗用であった(元興寺は九州にあった)と結論付けています。
そうすると、古田氏の指摘どおり、この二つの記事はいずれも、元々九州王朝の事跡であって、これを書紀に盗用する際に、編纂者の錯誤で十一〜十二年ずらしてしまったと考えられます。
五、最後に、本稿の主な論点は、倭国による初めての遣唐使が武徳四年(六二一年)のことであったということです。実は、私は当初武徳二年(六一九年)のこと、つまり百済王子人質記事・百済の呉使漂着記事と同じ十二年ずれと考えていました。しかし、当会の西村秀己氏より「武徳二年では唐は未だ全国制覇していない。早過ぎる。」との指摘を受けて本稿の結論に至りました。西村氏に感謝します。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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