荒振神・荒神・荒についての一考察
八尾市 服部静尚
一、はじめに
古事記および日本書紀には「荒ぶる神」あるいは「荒神」と言われる神が何度も出てきます。一般的に「荒々しく、天皇に敵対する王のこと」という解釈をされています。
ここではこれに加えて、「荒神」とはある一定の民族の王のことを指していて、この族・民はその人名あるいは地名に「あら」をいただく族・民であったという説を述べます。
二、先ず古事記での「荒」の使用例ですが、
(一)葦原中国の平定の段で、高御産巣日神(高みむすひの神=高木神)と天照大御神は、「この葦原中国は私の御子の支配する国と委任した国である。ところがこの国に道速振荒振國神*(ちはや振る荒ぶる国つ神)が多くいる。どの神を使いに出して服従させようか」と言い、天菩比神(あまのほひの神)を遣わしますが、天菩比神は大国主神に媚びへつらって三年の間復命しなかった。次に高木神・天照大御神は天若日子(あめのわかひこ)を遣わしますが、天若日子も大国主の娘を妻にして戻らない。
そこで「その国(=葦原中国)の荒振神等を平定せよと言ったのに八年間も復命しないのはどういうことか」と、問い詰めるため雉を遣わします。それでも復命しない天若日子は死にます。
その代わりに建御雷神(たけみかづちの神)が派遣されて、大国主に国譲りをさせ、そののち天孫の迩々芸命(ににぎのみこと)が筑紫に降臨すると言う話に続きます。
この文脈から、道速振荒振國神*=荒振神であることは自明です。又、建御雷神は出雲国の伊耶佐の小浜に降り立って、大国主神と対峙しますので、ここで言う葦原中国とは(出雲+筑紫+α)のことで、荒振神とは、天孫降臨前に(出雲+筑紫+α)を支配していた王たち=国神ということになります。
(二)神武天皇記には、日下の楯津で敗退した神武軍が、熊野山で危機に瀕しますが、その際に建御雷神のもたらした太刀で、荒神はひとりでに皆斬り倒されます。「これより奥は荒神がはなはだ多い、八咫烏の先導で行くように」と言う高木神の教えで神武らは無事に進むことができます。その結果神武は荒夫琉神*(荒ぶる神)等を退治し追放して、畝傍の橿原宮で天下を治めたとあります。
以上の文脈より、荒神=荒夫琉神となります。又、熊野で危機に瀕した神武軍を見て、天照大御神と高木神は建御雷神に対して「葦原中国はひどく騒がしい、私の御子たちは苦労しているらしい。その葦原中国は、もっぱらお前が平定した国である。だから建御雷神よ降るべし」と仰せになって、それに答えて建御雷神がこの太刀をもたらしたとあります。
つまり、(一)項と併せて道速振荒振國神*=荒振神=荒夫琉神=荒神で、葦原中国は(出雲+筑紫+熊野〜畝傍+α)ということで、高木神・天照大御神・迩々芸命そして神武天皇が征服した国が葦原中国で、その前王者=国神が荒神と言う構図になります。
(三)尚、古賀達也氏は「古事記」神武東征説話の新・史料批判(古代に真実を求めて第六集)の中で、「神武東征中の天神御子説話中に、迩々芸命による糸島・肥前侵略説話が盗用挿入されている」ことを論証しています。(二)項の記事は古賀氏がまさに盗用されたとされる箇所で、これによると、葦原中国は(出雲+筑紫+肥前+α)となります。
(四)景行天皇記の小碓命(後の倭建命)の記事にも荒神が出てきます。景行天皇が倭建命に「東方の十二道の荒ぶる神を言向け和平せよ」と指示し、倭建命は東国で山河の荒神をことごとく平定し、更に倭建命は走水(横須賀)から(上総へ)入って荒振る蝦夷等を言むけ、山河の荒神等を平定した。小碓命は東西の荒神を平定したとあります。
(一)項(二)項の記事の流れより、この荒ふる神=荒神は葦原中国を元々支配していた王、又はその同族となります。
(五)景行記以降は、「荒神」としての「荒」は姿を消します。(序を除く)古事記の全文中に「荒」と言う字は十七箇所出てきますが、「荒神」としては以上九箇所で終わり、以降は人名の一部と荒魂(あらみたま)の「荒」のみとなります。
三、日本書紀での「荒(麁を含む)」について
(一)景行紀で日本武尊は伊吹山で荒神に遭遇し、東夷を討ち反逆者は罪に伏し、荒神は自から和するようになったとあります。
これは二 ー (四)項の景行記と同じ説話の記述で、当然「荒神」も同じ意にとれます。
遡って崇神紀では、遠き「荒人等」は、なお臣従しない畿内に事無し、畿外の「荒俗」のみ騒ぐこと止まず(そこで北陸道・東海道・西道・丹波に派兵する)、教えをたれて「荒俗」を平らげ、不服(まつろわぬ)者を討伐します。
これも古事記の高志道・東国十二国・丹波への派兵記事と、西道を除いて一致する記事であり、これより紀で言う「荒人」=「荒俗」は、荒神または荒神に従う人々とみなして良いと考えられます。
(二)日本書紀での「荒」の出現例は合計三十九件で、「荒人」「荒俗」「荒神」の形で六件が景行紀までに現れて、それ以降は人名・地名が主体となります。
ということで、「荒神」が指すところ、および景行紀で「荒神」の出現が終了するところ、全く古事記と合致します。
四、記紀の「荒神」の意
(一)以上のように記紀に現れる「荒神」を整理すると、高木神・天照大御神・建御雷神・迩々芸命が征服した国が葦原中国で、その国の前の支配者が「荒神」、そしてその「荒神」は景行期に東方十二道に現れ、倭建命に征服されその後姿を消す、ということになります。
景行期はもちろん九州王朝の時代なので、その結果九州王朝が東北の蝦夷を残して全土を統一していたということになります。実はこの状況は、古田武彦氏の言われる ーー 『東日流外三郡誌』では、安日彦(あびひこ)・長髄彦(ながすねひこ)兄弟はアラハバキを奉じて、九州から津軽へ来たという ーー 説(詳しくは後述の注)に、合致する状況です。
元々(仮称)荒族が日本を統治していたが、(仮称)天族がこれを征服し東北に押しやったと言う構図です。
(二)つまり、「荒神」が指すところは、一般的に「荒々しい、天皇に敵対する王」と言う意味に加えて、ある一定の民族の王、又は一族のことで、この民族はその人名あるいは地名に「あら」をいただく民であったということです。
(三)この仮説の根拠は次のとおりです。
(1).「荒々しい、天皇に敵対する王」としましたが、普通「おとなしく敵対する」とは言わないので、単に「敵対する」で良いと思います。
記紀の説話で、景行天皇の時代以降も天皇に敵対する勢力はあります。例えば神功皇后の新羅征討です。しかし記紀では新羅王を荒神とは呼称していません。敵対するもの「全て」が「荒神」では無いということになります。
(2).「蝦夷に三種有り、遠きもの都加留(つがる)、次は麁(あら)蝦夷、近きものを熟(にぎ)蝦夷と名づく」とあります。同じ斉明五年紀に阿倍臣が蝦夷国を征討し、その際に飽田・渟代・胆振の蝦夷と併せて、津軽郡蝦夷百十二人と其の捕虜四人を饗応したという記事があります。征討ですから当然天皇に敵対する蝦夷であったわけですが、「都加留」と「あら」の蝦夷は別の蝦夷として扱っています。
(3).記紀では「荒」が人名・地名に十一例、述べ二十四例も使われています。しかし「荒」の字意はアレル・ハゲシクナル・乱レル・アライ・スサム・辺境と言うような意味、「麁」もアライ・粗末・ザツ・オオマカと、決して良い意味合いでない。
そのような悪字を人名・地名に用いる理由は、アラハバキを奉じて、その名あるいは地に「あら」をいただく民であったとすると理解できます。征服された側の人の名と地名に「荒」が残って、それらを近畿天皇家が配下として取り立てたということです。
五、風土記の「荒神」
風土記には征討される側の神として「荒神」が登場しますが、(常陸国を除き)往来人の半数を殺すあるいは妨害するという共通の特長を持っています。
(一)播磨国風土記の賀古の郡、昔神前の村に荒神有り、通行人の舟を半数妨害して通さなかった。
(二)播磨国風土記の神前の郡、生野に昔荒神有り、往来の人の半数を殺した。
(三)肥前国風土記の基肆の郡、姫社の郷に昔荒神有り、行路人の半数を殺した。
(四)肥前国風土記の神埼の郡に、昔荒神有り、往来の人が多く殺されたが、天皇巡狩の時に静かになった。
(五)肥前国風土記の佐嘉の郡に、荒神有り、往来の人の半数を殺した。土蜘蛛姉妹の占辞で静かになった。
(六)常陸国風土記の新治の郡に、昔東夷の荒賊(あらふるにしもの)がいた。
(七)常陸国風土記の信太の郡、高来の里は普都の大神が荒梗之類(あらぶるかみのたぐい)を平らげ、還昇蒼天した所。
六、続日本紀の「荒」
続日本紀の時代になると、南九州と東北に「荒俗」「荒夷」が残っていて、これらを皇化したとあります。
(一)大宝二年(七〇二)十月:薩摩隼人を征する時に、〜神威で遂に荒賊を平らげた。
(二)和銅三年(七一〇)正月:日向の隼人である曽君細麻呂が、「荒俗を教喩し聖化に馴服せしめた」として外従五位下を授かる。
(三)養老四年(七二〇)六月:詔して曰く、蛮夷害を為すこと古より之れ有り。周王は再駕を労し、荒俗を王のもとへ朝貢させた。〜大伴旅人を征隼人将軍として遣わす。
(四)天平宝字四年(七六〇)正月:陸奥國按察使兼鎭守將軍正五位下藤原惠美朝臣朝獵等は、荒夷を教え導き皇化に馴れ従わしめた。
(五)宝亀三年(七七一)八月:毎年九月に、荒祭神になずらえて馬を奉納する。又荒御玉命等を官社に入れる。
七、結論
風土記の記事からも、「荒神」は一般的な敵対勢力で無く、他と画する特長を持つ存在であったことがわかりますし、続日本紀にも記紀の「荒神」からの連続性があります。
以上のとおり、記紀の「荒神」は、その人名あるいは地名に「荒」をいただく民およびその王のことであって、(古田武彦氏が言われる)『東日流外三郡誌』に現れる、アラハバキを奉じて九州から津軽へ来た安日彦・長髄彦兄弟らを含む一族を指すのではないかと考えます。
以上
(注)『シンポジウム倭国の源流と九州王朝』(古田武彦編)より抜粋
安日彦、長髄彦は稲穂と神様を持って津軽へ行ったのです。その神さん『東日流外三郡誌』に繰り返し出ていて荒吐(アラハバキ)の神というのです。「ハバ」というのは途中に「神の場」という意味で、固有名詞部分は「アラ」である。そして「キ」は城、要害のキである。だから、アラキの神、もっと詰めればアラ神である。アラ神、聞いたことありませんか。「荒神」という字を、神社で。それを誇らしく言って、「アラハバキの神」と東北で言っているだけである。『古事記』の中で天孫降臨の前に「ちはやぶる、あらぶる国つ神」という、こういう言葉がある。ところが、ちはや(千早)というのはありますよね、この博多の近くの香椎宮のところに千早という地名が。それで今度は博多の中です。で、「あら」というのは、福岡城の前が荒戸、その先が荒津でしょう。その西側が荒江でしょう。その後ろ側が荒平山でしょう。福岡城周辺は「荒」だらけです。アラの中心地は福岡城や平和台のところではないかという感じがするのです。
これは会報の公開です。
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