2013年10月10日

古田史学会報

118号

1、古田史学の真実
   西村論稿批判
   古田武彦

2、「実地踏査」であること
を踏まえた『倭人伝』の行程
   正木裕

3、「廣瀬」「龍田」記事について
「灌仏会」、「盂蘭盆会」との関係
  阿部周一

4、難波と近江
の出土土器の考察
  古賀達也

5、荒振神・荒神・荒
についての一考察
  服部静尚

6,欠史八代」の実相
  西村秀己

7,書評
朱鳥あかみとり翔かけよ
  不二井伸平

 

古田史学会報一覧

論争の提起に応えて 正木裕

隼人原郷 西村秀己(会報115号)

古田先生にお応えする 西村秀己(会報117号)

続・古田史学の真実 -- 切言 古田武彦(古田史学会報119号)

「古田史学の会」新年賀詞交換会 -- 古田武彦講演会・要旨 文責・古賀達也(会報120号)


古田史学の真実

西村論稿批判

古田武彦

 前号(古田史学会報、N0.117)に掲載された西村論稿を一読してショックを受けた。「古田先生にお応えする。高松市 西村秀己」論稿である。西村氏が「正しい学問のあり方」と信じておられるところと、わたし自身、この三十数年間、あるいは青年時代以来「学問」と信じてきたところと、その“落差の大きさ”に驚いたからである。
 もちろん、この「古田史学会報」の読者の方々がどのような「目」でこの会報を読まれるか、また読んだあとでどのように考えられるか、それはすべて、その方々の自由だ。
 だが、西村氏の場合、一般読者ではない。編集部の一員だ。しかも、古賀達也氏が最近その西村氏の論考に「絶讃」を加えておられる。この御二人に全く「他意のない」ことは、わたしは平常から信じてきた。今も変りはない。それ故、今回の西村論稿の出現を「好機」として、わたしの「学問」と信じるところを平易に、率直に語らせていただこう。一両日のショックのあと、そう考えた。これがわたしの真実である。

     二

 わたしはこの六十数年間、学問に対する考え方を一貫させてきた。岡田甫先生や村岡典嗣先生に学んだところである。アウグスト・ベェク(ベーク)の学問に対する方法論に立ってきた。「認識されたものの、再認識」の立場である。
 親鸞研究にはじまり、古代史研究に入ってからも、『「邪馬台国」はなかった』以来、変更するところはなかった。最近では「Tokyo古田会」の学問論、閑中月記、また「多元的古代研究会」の「多元」へとわたしの「学問研究」の進展を逐一書きすすめてきた。いずれもわたし(古田武彦)の歴史学の本質である。けれども、西村氏は「「多元」所載の『言素論』を論証の根幹に用いるのは慎むべきでな
いかと愚考する。」と言われる。わたしの学問にとって不可欠の立場、それをなぜ「自粛」せよというのか。不明だ。氏を含む何ぴとにも、そのような権限は存在しないのである。

     三

 念のため、わたしの立場を、二、三の実例によって簡潔に述べよう。
 第一は「邪馬壹国」。これは三国志の魏志倭人伝中の中心の一語だ。最初は「中国側の表記」と考えていたが、倉田卓次氏の批判を受け、倭人側の表記と見なした。その上一昨年(二〇一一)公刊の『俾弥呼』で詳述したように、俾弥呼から中国(魏朝)側へ送った国書(上表文)中の自国名だった。「訓み」は「ヤマイチ国」である。 しかも、それは「七万戸」の全体を指している。後漢書倭伝で、「大倭王」の居所とされている国名と“スケール”を異にしている。たとえば「東京都」と「宮城」のちがいと同類だ。この「『壹』と『臺』の峻別」こそ、わたしの立論の基礎をなしている。そのために三国志の中の「壹」と「臺」を調べ、この二字の“まぎれ”なきことを確認した。それがわたしの論文(「邪馬壹国」、史学雑誌七八‐九)と『「邪馬台国」はなかった』執筆の原点となったこと、すでに「周知」のところだ。
 これに対して西村氏が「従って、仮に三国志中に幾らかの『壹』と『臺』の混用が見られたとしても、古田先生は些かの痛痒も感じなかったのではないか」という一文には驚く他はなかった。もし、そのような「混用」が見出されたとすれば、右の「邪馬壹国」の論文も、『「邪馬台国」はなかった』の著作も、わたしが「書く」ことはなかったであろう。この点、今年(二〇一三)の九月中旬刊行予定の『真実に悔いなし』(ミネルヴァ書房)にも、その時の状況が率直に述べられている。西村氏は“斜め読み”のせいか、わたしの立論の根本を「誤読」されたようである。

     四

 第二に「裸国・黒歯国」。三国志の魏志倭人伝には、この二国が「東南、船行一年」の地にあり、とせられている。「二倍年暦」で、現在の「六か月」に当る。黒潮に乗ればエクアドル・ペルーの近辺、フンボルト大海流と衝突する地帯である。その原住民(千余年前のミイラと共に)と現代の日本人(太平洋岸)と同一のウイルス(HV‐ I の1)と、同一の遺伝子をもっていた。わたしの倭人伝解読は正しかったのである。
 その地帯(エクアドル)に二十数人の方々と研究調査を行ない、現地に(チチカカ湖をはじめ)幾多の日本語地名を確認したのである。この点、スペイン語に堪能な大下隆司さんのおかげをこうむること多く、大下論稿が「古田史学会報」に掲載されている。貴重な成果である。(「バルディビア探求の旅?倭人世界の南界を極める No.79」「続・「バルディビアへの旅」 -- 九州の甕棺と縄文土器 No.80」)これも当然わたしの知る古田史学に不可欠の一画である。

     五

 第三に「チクシ」。深津栄美さんのお知らせによって、北極海に近いシベリアの一隅にこの地名のあることを知った。南米(エクアドル)の経験をもとにこの「チクシ」も「原初日本語」の一つではないか、と推定した。わたしの「言素論」の理論的帰結である。 ところが今回は“意外な反応”がもたらされた、というより「必然の反応」だった。ロシアのウラジオ大学のオキノフ博士の論文において、同一の問題提起がすでになされていたのである。(ドニエプル出版、小野元裕氏による。「多元」No.117参照)。南米(エクアドル等)のケースは「日本列島から南米へ」が主方向だったけれど、今回は「シベリアから日本列島へ」の方向だ!いずれもわたしの「言素論」の学問としての真実、その有効性が証明されることとなったのだ。これに対し、西村論稿は言う。「この「言素」を元に別の言葉を分析(演繹)することは、いかがなものであろうか。この演繹が有用性を持つためには、(1).ひとつの「言素」がひとつの意味しか持たない。(2).(1).の「言素」が何処ででも通用する。(3).(1).の「言素」が時代を超えて変化しなかった。つまり、統一された言語が縄文時代から弥生時代に架けて、さらには古墳時代にまでも変わらず日本列島で使われた。この証明が不可欠ではないだろうか。」(10頁上段)

 この一文を読んで、わたしは“がっかり”せざるをえなかったのだ。なぜなら
 第一、最初わたし自身(大学時代の常識によって)このような考え方をしていた。(村岡典嗣先生を除く)

 第二、しかし、そのような“考え方”に重大な疑問を生じ、悪戦苦闘の末、この「言素論」の立場へと進んだ。わたし独自の「歴史学への道」であった。その経験が「多元」(隔月刊)の三十八回にわたる大事な論稿であった。

 しかるに、西村氏はそれを読まずに、あるいは“斜め読み”のままでわたしの「大学(在学)時代」と同類の旧態の思考法をもち出して(大胆にも)わたしの「言素論」を批判したかのように“信じて”おられるようである。何とも言いようがない。この「言素論」が、なぜわたしの学問にとっての「必然の道」となっていったか、次回改めて詳述することとしよう。

 次に「隼人」。氏はわたしの『失われた日本』から「六千三百年から六千四百年前の(縄文早期末)鬼界カルデラの一大爆発が起きた。(中略)」以降の文面を引用した上、「この『縄文早期』から輝ける先進文明を誇った『倭人』は如何にして、この未曽有の大災害を切り抜け、弥生時代・古墳時代を通して南九州で文明を保持し続けることができたのか? そして南九州で生き続けることのできた『隼人』が、『景行の九州大遠征』に一切登場しないのは何故か?」(10頁中段)と言われる。

 ここでは、氏がわたしの主張(歴史観)を「誤解」というより、「真反対の主張」へと“おき変えて”おられることに、一驚せざるを得なかったのである。わたしの主張は、第一、「隼人」の先進文明は、縄文早期から鬼界カルデラの一大爆発までの存在であり、それ以後へと“継続”することはなかった。(川内せんだい地方周辺を除く)。

 第二、古事記・日本書紀の「神代の巻」(特に古事記)は、右の一大爆発の被害が(実質上少なかった)筑紫(福岡県)・出雲(島根県)が中心となっている。

 第三、けれども古事記の履中記の曾婆訶理(そばかり)が「隼人」であり、“もっとも愚劣で悪逆な人物”として描かれているのは、この「隼人」こそ「神話時代(弥生時代)」の「筑紫・出雲」より、さらに古く、一層神聖な時代、その文明の存在したことの「反映」である。ちょうど「天照大神以前」の太陽神に代えて「水蛭子」、“なめくじ”めいた存在を、神の名に入れるべきに非ず、としていたのと同類の“手法”である。(バイブルの「イヴとアダム」も同類)。

 以上が、わたしの歴史観、史料批判の方法なのである。だから、もし、「縄文の後半期」や「弥生・古墳期」まで「隼人の輝ける文明」が南九州に存在しつづけていたとすれば、まさに「古田の隼人認識」はまちがっていたこととなろう。
 西村氏はみずから“告白”しておられるように、「筆者は『多元的古代研究会』の会員ではなく、『多元』のすべてをしかもタイムリーに読むことはできない」(9頁下段)としながら、それでなおかつこれほど「一刀両断」風に、わたしの「言素論」を切り捨てる。これは氏の錯失あるいは不用意と言うほかはない。

     六

 次に、せっかくの御批判であるから、氏の「マリア論」と、「隼人北九州論」に対する再批判を述べさせていただこう。第一、「マリア論」。旧約・新約を通じて「マリア」という女性名をすべて“抜き出し”て調査されたこと。これは正しい方法である。しかし、問題はそれが「史料批判の基礎」でなければならない。わたしの「『壹』、『臺』」の調査が、「三国志と後漢書を一律に扱ってはならない」という根本理解の一環となったように、同じく「旧約聖書と新約聖書を一律に扱ってはならない」という立場に氏が立たれたら、さらにすばらしかった、と思われる。また、わたしが原初的イエス像を保存すると見なした『トマスによる福音書』や、『旧約・新約聖書の他の巻々』を加えたらどうなるか。あの『死海文書』を加えたらどうなるか、楽しみだ。結果はどうなるにせよ、本質的に着実な研究と史料批判への道を、「時」と「ところ」を越えて進めてゆくこととなろう。これがわたしにとっての「学問の方法」だ。氏のみならず、後生の方々に期待したい。

     七

 最後に、西村氏の「隼人北九州論」のもつ問題点にふれよう。

 第一、わたしの「南九州、隼人の先進文明論」について。地理的位置(南九州)のみを“とりあげ”て、「古田説は従来説と同じ」と“言われる”けれど、歴史学の問題として重要なのは、「単語」ではなく、その地名のもつ「歴史的位置づけ」なのではあるまいか。たとえば「大和(奈良県)」を「やまと」と訓んだら、それだけで「従来説」と称するのは不当だ。三世紀において「大和(奈良県)」が果して「倭人の国々の中心かどうか」こそが問題なのではあるまいか。それと同じだ。

 第二、だから西村氏がわたしの説に「反対」だとしたら、わたしの「縄文早期の先進縄文文明としての隼人」論の「あやまり」を(支葉末節ではなく)、正面から批判してほしい。その上で「自分の北部九州説」へと“論を向けて”ほしい。それが学問の王道だ。

 第三、西村氏の立論の「脆弱点」は、北九州に「隼人」という地名がないことである。ことに「北九州」は、古事記・日本書紀神話や歴史の叙述の“もっとも多い”地帯なのに、それが「ない」点だ。 かって高木彬光あきみつ氏が、わたしの「邪馬壹国」が現地地名に存在せぬ点を“拡大”し、現存地名を一切無視(壱岐から後)して、自家の好む到着地(豊の国・大分県)へと、“突っ走った”先例がある(『邪馬台国の秘密』)。西村氏も高木氏と同じ「学問の方法論」に従われるとすれば、それはもちろん、わたしの「学問の方法」ではない。全く異質の方法、別の学問である。

 西村氏がどのような道を選ばれようと、それは氏の自由に属する。当然だ。だが、その自家風の好みの学問を古田史学などと呼んでほしくない。代って「西村史学」と名乗って、その自己流の歴史学を“拡め”られればよい。それなら筋が通っている。しかし、現在の「古田史学の会」の会員は、わたし(古田)の拠って立つ「歴史学」の意と解して、会員となり、会費をはらっておられる方々が大半なのではあるまいか。当然だ。
 「羊頭狗肉」の“そしり”は避けてほしい。それがわたしの切に願うところである。
 西村氏の忌憚なき御批判のおかげで今回(と次回)率直な再批判、わたしにとっての学問の“ありかた”を述べさせていただきえたこと、氏に対して深く感謝させていただきたい。
        二〇一三、九月六日

 


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