2013年 8月15日

古田史学会報

117号

1,「いじめ」の法則
続「古田史学」の理論的考察  古田武彦

2,前期難波宮
・九州王朝副都説批判
 史料根拠と考古学
 大下隆司

3,古田先生にお応えする
  西村秀己
  追記

4,古代ロマン
 邪馬壹国への道
魏志倭人伝の一大國と伊都國を訪ねて
  白石恭子

5,「墨子」と「呂氏春秋」における里数値の検討
  古谷弘美

6,なんばライブラリー開設
  編集後記

古田史学会報一覧

「『古田史学』の理論的考察」(会報116号)へ
古田史学の真実 -- 西村論稿批判(古田武彦会報118号)
続・古田史学の真実 -- 切言
古田武彦(古田史学会報119号)

追記 へ

隼人原郷 西村秀己(会報115号)
欠史八代」の実相 西村秀己(会報118号)


古田先生にお応えする

高松市 西村秀己

 会報一一六号「『古田史学』の理論的考察」において、我が師古田武彦先生は拙稿に対する批判を寄せられた。対象となったのは「隼人原郷」(一一五号)及び「『マリア』の史料批判」(六二号)である。筆者が先生の批判を受けるのはこれが初めてで、つまりは今まで歯牙にもかけられなかったのであるから、大いなる慶びと言えよう。厚く御礼申し上げます。しかし、一部には古田先生の誤解ともいうべき部分を含んでいるように見受けられるので、ここに弁解させて戴くこととする。
 
 まずは、「『マリア』の史料批判」である。
 但し、筆者が当該論文を発表してから既に九年が経過しており、殆どの読者諸兄がその内容を覚えていらっしゃらない(或いは、知らない)と推察されるので、その概要を述べたい。
  I  新約聖書の四福音書には「マリア」がイエスの関係者の九名のうち五名登場し、非関係者三名には「マリア」は存在しない。筆者は「マリア」が多すぎると感じた。ところが、「マリア」は「花子ほどありふれた」名前なので、多いのは当然である、という意見が大半である。

  II  女性の十人に一人が「マリア」だとしても、九人の中に五人も「マリア」がいる確率は約千二百十分の一であり、偶然であるとはとても言えない。

 III  「マリア」がありふれた名前であるかどうかを旧約聖書で調査すると、はっきり女性と確認できる百二十六名の内唯一人(ヘブライ語では「ミリアム」)であって、決してありふれた名前ではない。

 VI イエスには弟子のシモンにペテロと名付ける、などの前科があり、「マリア」についてもイエスの名付けの可能性がある。

 V  「ミリアム」は旧約聖書に登場する最初の女預言者であり、(アロンがモーセの預言者であったように)「マリア」たちはイエスの預言者として、こう名付けられたのではないだろうか。

 以上である。
 さて、古田先生は、筆者が「マリアはありふれた名前」ではないことを立証するために旧約聖書を用いたことに対し、

  ここで対比されている史料である「旧約聖書」(A)と「新約聖書」(B)との史料性格の「差異」が考慮されていないからである。
  (A) 歴代のユダヤの代表者が大部分である。時代は、イエスの出現以前。
  (B) イエスの周辺の庶民。時代は、イエスと同時代。

  従って右の二史料を「同列」において「比較」し、そこから結論を導くこと自体が無理なのである。

とされた。
 おっしゃる通り、である。当該論文が「『マリア』はありふれた名前ではないことを立証するため」に書かれた論文であるならば、である。
 当該論文の目的は「イエスの周りには『マリア』が多すぎる、これは不自然である」ことを論証することにあった。つまり、初めの確率計算でほぼ目的は達せられているのである。論文中では「十人にひとり」を用いたが、仮に「マリア」が「五人にひとり」でもイエスの関係者九人の内マリアが五人になる確率は一、七%であり、偶然とは言い難いのであるから。従って、「新約聖書」と「史料性格の似た」文書を用いて「マリア」は当時のユダヤ民族の女性の内「四人にひとり」或いは「三人にひとり」いたことを立証すべきは、筆者とは逆に「『マリア』が多くても当然である」ことを主張する方々なのである。
 これは実は、古田先生が行った「三国志における「壹」と「臺」の全調査」と同じ手法なのだ。先生にとって、これは絶対に必要な調査ではなかった筈である。なぜなら

  少なくとも「」を天子のシンボルとして尊崇した三世紀の、魏志中の表記としては、絶対に出現することはありえない。 (「邪馬台国」はなかった ミネルヴァ判P五五)

のだから。従って、仮に三国志中に幾らかの「壹」と「臺」の混用が見られたとしても、古田先生は些かの痛痒も感じなかったのではあるまいか。
 これについては、筆者も同様である。「旧約聖書」に「マリア」或いは「ミリアム」が十名以上出現していたとしても、筆者の結論は変わっていない。事実、当該論文執筆以降、キリスト教関係者やイスラエル大使館との応答の末、筆者はもう一人の「ミリアム」を発見している。(歴代誌上四ユダの子孫における「ミルヤム」である。母音記号の付けられなかった時代にはこれは「ミリアム」と同じ表記になったと思われる)ちなみに、「出エジプト記」の「ミリアム」の出自は「歴代のユダヤの代表者」ではなく「エジプトにおける奴隷の娘」である。その他「旧約聖書」にはハガル・ジルパ・ビルハ等の女性の庶民・奴隷が多く登場する。

 次に「隼人原郷」について申し述べる。
 古田先生は、

  だが、逆に「そんな、隼人に関する古田説はなかった」かのような「立場」に立つならば、それは「古田史学」でもなんでもない。三十数年間にわたって、わたしの説が「なかった」かのような「醜い態度」をとりつづけてきた、従来説の“手法”そのものに対する「模倣」となるからである。

と論述されている。
 ここにも、古田先生の誤解があるようである。筆者の当該論文の主眼は「隼人は南九州の存在ではなく北九州の存在」なのである。つまり、

 南九州(鹿児島県)の彼等は、近畿天皇家に対してはもちろん、九州王朝に対してもまた「はるかに悠久なる、文明中枢」をなす地帯であった。

とされる古田先生も、誠に失礼ながら、こと「隼人は南九州」という一点においては、筆者にとって「通説派」のひとりなのである。現在、「隼人は北九州」派は筆者唯一人なのであるから、そこで古田説に触れるのならば、江戸時代から現代に至る全ての日本史研究者の著作に言及しなければ、不公平との誹りを免れることはできない。また、事実上不可能でもある。そこで、「国史大辞典」に「通説派」を代表してもらった次第である。この判断が結果として「古田説無視」になり、古田先生のお怒りを招くことになったとすれば、幾重にもお詫び申し上げますが、他意無きことをご諒解戴ければ幸いです。
 尚、先生の「隼人論」は主に「言素論」によって構成されていると思われる。この「言素論」は「多元」に連載中であるが、筆者は「多元的古代研究会」の会員ではなく、「多元」の全てをしかもタイムリーに読むことは出来ない。先生の言及された、

 たとえば、今年(二〇一三)三月の「多元」No.一一四の「言素論の新展開」(言素論三五)でも、この「隼人」をもって「縄文早期」にさかのぼる「縄文神殿」の“呼び名”として、言素論的に分析した。

は、会報一一五号が完成してのち、目を通すことができた。従って、拙稿で触れることは不可能であった。この辺りの事情もお酌み取り戴ければ幸いである。
 さて、ではここで「古田隼人論」に触れておきたい。先に述べたように、これは主に「言素論」において展開されているようなので、まずは「言素論」の有用性を検討してみたい。
 現代語や現在知ることのできる古代語の共通性を調べ、これから「言素」を抽出(帰納)する方法は、一応有効と言えよう。しかしながら、この「言素」を元に別の言葉を分析(演繹)することは、いかがなものであろうか。この演繹が有用性を持つためには、
 (1)  ひとつの「言素」がひとつの意味しか持たない。
 (2)  (1)の「言素」が何処ででも通用する。
 (3)  (2)の「言素」が時代を超えて変化しなかった。
 つまり、統一された言語が縄文時代から弥生時代に架けて、さらには古墳時代にまでも変わらず日本列島で使われた。この証明が不可欠ではないだろうか。この証明無くして、傍証に使うのであればまだしも、「言素論」を論証の根幹に用いるのは慎むべきでは無いかと愚考する。
 ところが現に、「額」には「ひたい」「ぬか」「でこ」、「腕」には「うで」「かいな」、「尻」には「しり」「けつ」、「脛」には「すね」「はぎ」など、日本語には多数の二重或いは三重の読みが存在するし、古田先生も既にこの多重性に言及されている。
(古代史の未来P九三第二部第十一章「神武弁」)

 さらに、「ち」も「み」も「け」も「神」を現わす「言素」とするならば、「言素」の総数が五十に満たないものと考えると、これらの総てが同一の「言語」に属しているとは到底思えない。つまり、「神」の「言素」からも、かつての日本語の多重性が浮かび上がる。
 従って、「言素論」による「論証」は成立しないと言わざるを得ない。
 だが、仮に「隼人」が「『縄文早期』にさかのぼる『縄文神殿』の“呼び名”」という分析が正しいとしよう。しかしこれからは、「隼人は南九州」という証明は不能である。この点において、古田先生にして、通説を踏襲していると言わざるを得ないのである。

 最後に、質問をふたつさせて戴きたい。
 古田先生の「隼人論」が正しいとするならば、

 六千三百年から六千四百年前(縄文早期末)、鬼界カルデラの一大爆発が起きた。(中略)
 (A領域)全滅及び全滅に準ずる地域 ーー 火山灰三十センチ以上。
  鹿児島湾岸、南半部をふくむ硫黄島周辺海域上の島々は全滅。鹿児島県の中央部及び北半部(有明海沿岸を除く)、宮崎県の、ほぼ全部、高知県の足摺岬近辺は、全滅に準ずる地域。   (失われた日本 原書房判P三三)

 この「縄文早期」から輝ける先進文明を誇った「隼人」は如何にして、この未曾有の大災害を切り抜け、弥生時代・古墳時代を通して南九州で文明を保持し続けることができたのか?
 そして、南九州で生き続けることのできた「隼人」が「景行の九州大遠征」に一切登場しないのは何故か?

 宜しくお願いします。

 

追記

 一一六号に古田稿を掲載するにあたり、ワード入力を役員のひとりにお願いしたところ、タイプミスにより先生の原稿が「『古田史学』の理論的考察」となっていたにもかかわらず「『古田史学』の論理的考察」となってしまい、更に責任を持って校正すべき筆者はこれを見落としてしまいました。深くお詫びするとともに、ここに訂正させて戴きます。


 これは会報の公開です。

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