碾磑と水碓 -- 史料の取り扱いと方法論 大下隆司(会報114号)
前期難波宮の学習 古賀達也(会報113号)
続・前期難波宮の学習 古賀達也(会報114号)
白雉改元の宮殿 -- 「賀正礼」の史料批判 古賀達也(会報117号)
前期難波宮の論理 古賀達也(古田史学会報122号)
文字史料による「評」論 -- 「評制」の施行時期について 古賀達也(会報119号)
前期難波宮・九州王朝副都説批判
「史料根拠と考古学」について
豊中市 大下隆司
【はじめに】
会報一一三〜五号にかけて問題が詳細に入り全体が見えなくなってきました。一度もとにもどり全体を整理、問題点を明らかにしたいと思います。
イ、出発点
「前期難波宮・九州王朝副都説」は二〇〇七年末、古賀氏により洛中洛外日記一五四話(以降「洛外日記」と省略)に発表されました。
このときのポイントは次の三点と考えています。
(1) この説により一元史観論者の困っていることの説明ができる。 (註1)
(2) 『日本書紀』によれば白雉改元の儀式が難波宮で行われている。 (註2)
(3) 上町台地に立ってこの仮説が確信できた。
その後五年が経過しその間、古賀氏により多くの論文が「洛外日記」に発表されました。
また大阪市立歴史博物館(以降「大阪歴博」)の研究、正木氏の「三十四年遡り説」などの採用で補強され、現在は「古田史学の会」の定説のような形となっています。
ロ、新しい状況の出現
十年前に大阪の地質学者から新しい「古代大阪湾の古地理図」が発表され、「難波津は上町台地になかった」ことが明らかになり、従来の古地理図によって作られた大阪湾岸の古代史の根本的見直しが必要になってきました。
「難波津」はどこにあったのか、若手考古学者による探求が始まっています。大阪市の「長柄」説、尼崎市の「神崎川河口」説、そして豊中市の「上津島遺跡」など、古代の港湾遺跡をもとめた発掘・調査が進められてきました。
また吹田市の五反島遺跡でも七世紀後半の港施設と寺院跡と見られる遺物が発見され神崎川流域が特に注目されてきています。
ハ、大下疑問
このように基本的な条件が変わってきたなかで、ほんとうに古賀氏のいうように「上町台地に九州王朝の副都があった」のだろうかと疑問をもち、調べた結果を会報一〇七号「古代大阪湾の地図」等で報告しました。
この大下論文に対して古賀・正木氏より多くのご指摘をいただきました。指摘された内容がまとを得ているものか、【A 新しい地図と土器】【B 史料根拠について】【C 考古学について】にわけて整理しました。
内容は多岐にわたり、完全には小生の手に負えるものではありません。間違っている点、疑問点あればご指摘いただき、問題点を明確にし、さらに研究を進め「七世紀日本の古代史の真実」に一歩でも近づきたいと思っています。
【A 新しい地図と土器】
一、新しい「大阪湾の古地理図」
イ、大下見解
・新しい地図は大阪市域二万か所以上のボーリングによる調査をもとに大阪市文化財協会の手で作成されました。これは今まで使われてきたものとは大きく違っています。
・難波津が上町台地周辺になかったことが証明され、さらに上町台地は谷が多くて「孝徳紀」に描かれた、小郡、大郡、味経宮、また高麗館、三韓館、などの外交の館を作るスペースもまったくないこともわかってきました。
・従来の図をベースに古代大阪を描いてきた通説の根拠は完全に崩れたと考えています。(「古代大阪湾の地図」会報一〇七号)
ロ、「大阪歴博」
・若手研究者は「新しい古地理図」を使い発掘調査報告をしています。
・しかしベテランの研究者は、「古い古地理図」を使い、相変らず、難波津は上町台地にあったとしています。
・また基本的な「大阪歴博」の方針は従来通りで、館内の展示地図も古いものを使い大阪の古代についても今までと同じ説明をしています。
ハ、古賀説
・孝徳紀の「難波長柄豊崎宮」は「難波宮」とは別で大阪市の長柄にある。(註3)
・その他は基本的に「大阪歴博」の古い見解に従っています。(会報一〇二号)
・小郡宮や、外交館などの場所はまったく触れられていません。
大阪湾の古地理図は「一級史料」です。
古田先生は「難波長柄豊崎宮」は博多湾とされています。
古田先生のご指摘の通り「孝徳紀」の「難波」は大阪ではなかったことが考古学的に明らかになったと考えています。
二、前期難波宮出土の土器
今回の論争は考古学の問題が大きなテーマとなっています。それぞれの説をもう一度整理します。
イ、 小森説(会報一〇七、一〇九号)
(1).須恵器年代観の基本認識
・一型式の須恵器は二十〜三十年弱。
・「坏B」の始まり670年頃。
(2).前期難波宮遺構年代
・宮殿遺構の整地層から出土する「杯B」は七世紀後葉のものであり、その上にある遺跡が七世紀中葉のものではありえない。
ロ、「大阪歴博」
(1).須恵器年代観の基本認識
・一様式の須恵器は二十〜三十年ぐらい。
・「坏B」の始まりは660年頃。
(2).前期難波宮遺構年代
・近くの谷から出土する土器は七世紀中葉のもの。従って前期難波宮遺構は孝徳紀のもの。
・整地層から出土した「坏B」の見解は不明。
ハ、古賀説(会報一一三〜五号)
(1).須恵器年代観の基本認識
・一様式の須恵器は五十年以上。
・「坏B」は太宰府 I・II 期で出土。
・太宰府 I 期は通説でも七世紀中葉、実際はそれより古いと考える。
(2).前期難波宮遺構年代
・整地層出土の「杯B」は太宰府出土の「杯B」か,その影響を受けていると考えられるから前期難波宮は孝徳期に作られたもの。
・近くの谷から出土する土器の年代観は「大阪歴博」と同じ。「大阪歴博」は信頼できる。
・小森氏は一元史観論者だから信用できない。
整地層出土土器も「一級史料」です。
古賀説は「考古学の基本を否定」するものです。詳しくは後半で説明します。
【B 史料根拠について】
つぎに古賀氏の指摘される「史料根拠」とは具体的のどのようなものかまとめてみました。
一、「史料根拠」の定義
定義について古賀氏は「洛外日記」三四六〜三五一号の「九州年号の史料批判」で次のようにされています。
一次史料:金石文・木簡などで信用出来る。
二次史料:『日本書紀』などで批判が必要。
三次史料:二次史料を引用したりしたもの。さらに慎重に扱う必要がある。
二、「相対論証」の史料根拠とは
それとは別に、古賀氏は「絶対論証と相対論証」の定義を説明するために次の二つの「史料根拠」が存在するとしています。(「洛外日記」三六四話)
(1) 論証が成立する史料根拠。
・「絶対論証」が成立する。
(2) 論証力におとる史料根拠。
・論証力は劣るが有力な仮説を提供できる。これにより「相対論証」が成立する。
(1)は「直接証拠、一次史料」とされるもので理解できます。
(2)の「論証力におとる史料根拠」とはどのようなものか、はっきりとは説明されていません。正木氏が「相対論証」を得意とされるとのみ説明されています。
具体的に古賀氏の定義する「相対論証」や「論証力におとるが有力な仮説を提供できる史料根拠」とははどのようなものか、ちょうど正木裕氏の論文「観世音寺の「碾磑」について」が会報一一五号に掲載されていますのでこの論文をもとに検討してみました。
(観世音寺の「碾磑」について)
この論文には次の五つの問題点があります。詳しくは会報一一四号の拙論「碾磑と水碓」を参照下さい。
イ、『日本書紀』記事の強引な「読み替え」
天智九年の「水碓を造りて冶鉄す」を「碾磑を作ってベンガラの製造をした」と読んでいます。
(大下見解)
・「水碓」と「碾磑」は同じでない。
・「冶鉄」は「ベンガラ作り」ではない。
中国は漢字の国でその用法は正確です。「碓」はツクもの、「碾・磑」はヒクものです。「冶鉄」は鉄を作るときに使う言葉です。
ロ、調査の「手法」
中国における「水碓」と「碾磑」を調べるのに、中国正史の記事を調べています。古田先生の手法らしきものを使っているので、一見正しいように見えます。
しかし、中国農業の機械を調べるのには中国の農業書にあたるのが常道です。
たとえば中国農業史研究の第一人者とされる天野元之助博士の著書『中国農業史研究』(一九七九年、お茶の水書房)に農業機械の歴史が詳しく書かれています。
そこでは「碓」は舂くもので「碾 ・磑」は挽くもの、と明確に分けられています。
また「水碓」(P860〜)と「碾磑」(P901〜)はまったく別物であることが図を付けて詳しく説明されています。
その他の中国農業の研究書にも「水磑」、「水碾 」、「水磨」「水碓」がまったく別のものとして説明がされています。
正史に書かれていないから「なかった」とするのは間違いです。該当する事項の書かれている書物を調べるべきです。
ハ、科学者意見の間違った紹介
(正木氏説明)
日本では「搗く」「挽く」はすべて「ウス」と呼ばれており、「水碓もウス」、「碾磑もウス」でそれらは同じものとし、その根拠として三輪氏の説を紹介しています。
また三輪氏も「天智紀の水碓が観世音寺の碾磑である」との意見であるかのような説明をされています。
(三輪氏の論文内容)
しかし三輪氏は日本ではあまり「ウス」が普及せず、古来から手で動かせる小型のものは「つきうす」も「ひきうす」も同じように単に「ウス」と呼ばれていた、とされているだけです。
牛馬や水力で動かす「碾磑」や「水碓」ついてはそれが同じように「ウス」と呼ばれていたとは一言も書かれていません。
また三輪氏が論文に引用しているのは推古十八年僧曇徴の「能く彩色及び紙墨を作り、併せて碾磑を造る」の記事です。
三輪氏はこの記事が「観世音寺建立の時、境内におかれている碾磑でベンガラを造り寺の建物に朱を塗った」のではないかと、その可能性を指摘されているものです。
天智紀の「冶鉄」記事については一言も触れられていません。
三輪氏の説については「粉体工学のホームページ」にも書かれています。
http://bigai.world.coocan.jp/msand/powder/kanzeonji.html
粉体工学の専門家の意見は専門家の意見として客観的に紹介すべきものと思います。
ニ、『令義解』の解釈
「碾磑は水碓と同じ」とする“令義解の注釈”については、会報一一四号拙論を読んでいただければ『令義解』の解釈が間違っていることがわかると思います。また正木氏はその解釈が正しいとする根拠に「当時の倭国知識人が同時代の唐の知識を欠いていたとは到底考えられない」と書かれています。
しかし、岩波思想体系『律令』の解釈では「この部分は唐令を不用意に模写したもののようである」としています。
正木氏の根拠とされるものは、正木氏の推定にすぎません。
ホ、九州年号史料(三次史料)の扱い
(1).『勝山記』『日本帝皇年代記』
・いずれも後世(戦国末から江戸時代)に書かれた、明確に『日本書紀』の影響を受けている三次史料です。
・引用されている「鎮西観音寺を作る」の「鎮西」というのは近畿の権力が西にある九州を鎮めるという意味です。寺名も「観音寺」と書かれています。
・このお寺は九州王朝が作った博多の「観世音寺」なのか疑問です。
(2).『二中歴』細注
・皇極天皇記事があり全面的には信頼できないと考えています。
(3).問題ある三次史料の具体例
・「洛外日記」三八一話で、『海東諸国紀』賢接三年の「六斎日を以て経論を被覧し、其の太子を殺す」記事について、本来は“「以六斎日、被覧経論、殺生禁断、其太子〜」とあったものが、誤写などで「生禁断」が抜け落ち、誤伝したのではないか、太子は殺されていない”という説が紹介されています。
三次史料は慎重な史料批判が必要です。
◎「相対論証」まとめ
・イ〜ホ、いずれも「読み替え」「意味のとり違え」「推定」などにより、もとの史料に解釈を加え成り立つようにしたものです。史料根拠とは言えません。
「相対論証」という概念の存在はあり得ません。「直接証拠」「間接証拠」などを使いわかり易い説明をすべきです。
三、古賀説の「史料根拠」とは
次に古賀氏の論文について整理しました。
イ、記事の「読み替え」「移動」
・古賀氏は「副都説」(最近では遷都説も示唆「洛外日記」五三八話)の根拠として『書紀』記事を次のように取り扱っています。
(1). 「難波長柄豊崎宮」は「難波宮」と読む。(「洛外日記」一六三話)
(2). 「味経宮」も「難波宮」と読む。
(「洛外日記」五四九、五六一話)
(3).天武紀の難波記事は三四年前の孝徳年間のものとする。正木説の採用。
(「洛外日記」一六〇話)
・宮名の読み替えに関する古賀氏の説明は状況証拠のみを根拠にしています。
・正木氏の三十四年遡り説の問題点は会報一一四号を参照下さい。
ロ、『皇太神宮儀式帳』(三次史料)
・この平安時代の文書は「評制が孝徳期に始まった」とする古賀・正木説が「史料根拠」とするものです。
・原文は「難波長柄豐前宮御宇天萬豐日天皇御世・・・・難波朝廷天下立評給」で、内容は日本書紀に基づいていることがわかります。
・これを古賀説によると「上町台地にあった九州王朝副都の難波宮で、九州王朝の天子が評制を発布した」と読むことになります。
会報三七号「学問の方法と倫理(一)」に古賀氏は”「壹」を「臺」と読み替えたい者に全用例を調査してでも「壹」は「臺」の誤りであったことを証明しなければならない”と書かれています。今回のケースにおいても、読み替えの理由を明確に示して欲しいと思います。
ハ、評制成立時期について
(1) 古賀氏の見解
会報一一五号五頁上段に次の記載があります。
・古田先生も「評制成立(出現)時期を七世紀中頃とされ、古賀と同じである」。
・大下は「自ら紹介した古田先生の講演録を正確に読まれたのでしょうか」。
(2) 事実関係・古田先生の説
・古田先生は『なかった』創刊号でそのようなことは書かれていません。全体の内容は「都督と評督はセットのもので、評制施行は郡制以前のものである、古くからあったのではないか」と示唆されているものです。
・「評督」史料については日本において見られるのは「七世紀中頃から末まで」で、それ以降は消えてしまった。「評制の最後の時期が七世紀末」と先生は書かれているのです。
・古田先生は「評制の施行時期」については明示されていません。しかし「郡評論争にまけた学会が坂本太郎氏の疑問を黙殺し、京大・東大そろって孝徳天皇の時に「評」が作られたものとしている。そのことは記紀にどこにも書いていない。それは学者の説にすぎない」と明確に「孝徳期成立」を否定されています。(会報一一三号「古田史学の会・四国講演二頁」)
古田講演録について「大下が正確に読んでいない」のではなく、古賀氏が先生の文章を「曲解」しているのです。
ニ、自説の根拠を示さない大下稿
(1) 古賀氏論文(会報一一五号)
・論文の小見出しを「根拠を示さない大下稿」とし、文中には「大下は“まったく根拠のない話ではない”といっているが、根拠(木簡・金石文・文献等)の存在をほのめかすだけで具体的に(何も)明示していない」と書かれています。
(2) 大下論文の「根拠」とは(会報一一二号)
・よく読んでもらえばわかるように、大下論文における「根拠」とは“『なかった』創刊号で古田先生もそのようなことをいわれている”というレベルの根拠です。
・日本語の「根拠」の意味として、とくに間違った使い方をしていないと思います。史料根拠とはいっていません。
古賀氏は「一般的な意味での根拠」といっていることを「一次史料根拠(木簡・金石文・文献等)」という別次元のものにすり替えています。
ホ、冠位制定記事(進大弐)
「天武紀の位階記事」疑問の理由を次に示します。左は『日本書紀』記事です。
◎天武十三年二月
・庚辰。遣淨廣肆廣瀬王。
◎持統二年八月
・丁酉。命淨大肆伊勢王奉宣葬儀。
◎朱鳥元年九月
・次淨大肆伊勢王誄諸王事。
(大下の疑問)
(1) 天武十四年の位階制定より以前に天武が定めたとされる「淨廣肆」が出現している。
(2) 正木、古賀氏は天武・持統紀の「伊勢王」記事をすべて三十四年遡らせて「孝徳期」のものとしている。「淨大肆伊勢王」をどのように説明するのか。
古賀氏は「天武紀位階記事」は信憑性があるとされています。
しかし小生はこれに疑問をもったことを会報に書いたものです。はたして701以前に近畿天皇家が位階を制定したのか?これには明確な史料根拠はありませんが、古田先生の本を読んでいれば常識としてでてくる素直な疑問です。
常識的な疑問は積極的に持つべきで、時には発信する必要があると考えています。
(正木氏三十四年遡り説について)
古田先生が持統の吉野訪問記事を三十四年前のものとされた時、日付干支の一致がありました。
正木説では三十四年前に遡らせると位階記事が一致しません。正木氏は「淨大肆伊勢王をどのように読むのか」説明がありません。
このことからも古田先生の「持統行幸記事」と正木氏の「三十四年遡り説」は別のものであると考えています。
【C 考古学について】
一、整地層出土の「杯B」
前期難波宮整地層から須恵器「杯B」が出土しています。(土器編年については会報一〇九号「七世紀須恵器の実年代」を参照下さい)
<杯B>
・大阪歴博
(660年〜)
・小森氏
(670年〜)
イ、大阪歴博・小森氏の年代観
・両者はこの“かたち”の始まりの時期を上図のように見ています。
ロ、古賀氏の考え方
(1) 須恵器一様式は二五〜五十年、それ以上である。
(2) 「杯B」は太宰府政庁1・2期からも出土している。1期政庁は通説でも七世紀なかばである。
(3) 筑紫の土器が難波へ運ばれている。整地層遺跡の土器は筑紫の土器か、もしくはそれをもとに大阪で作られたものである。
従って「前期難波宮整地層は六三〇〜六五五年である」としています。
ハ、大下意見
◎ 須恵器一様式の期間一一五号の古賀氏の計算の仕方はよく理解できません。
・また七世紀の須恵器一様式の期間が五十年とはどの論文を見ても書かれていません。すべての専門書に書かれている編年表には小森氏、佐藤氏のいわれる二〇〜三〇年に納まっています。素人でも一目で理解できます。
二、「かたち・型式・様式」
(用語の説明=註4)
イ、「杯H」について
・須恵器の古い“かたち”である「杯H」は左図のように上から蓋がかぶさるもので、三百年以上続いています。しかし型式・様式というのは“かたち”だけでなくて、製造する時のヘラの当て方など膨大な史料を詳細に調べ判定されています。
・「杯H」は人によって違いますが三百年の間に十五様式ほどあります。だいたい一様式の期間が二十〜三十年とされているものです。
ロ、「杯B」について
・「杯B」は七世紀後半に始まり現在までもこの“かたち”は続いています。七世紀後半に現在我々が使っている食器の“かたち”が出来たのです。
・“杯のかえり”の有無やその細かい形状の違いなどで、初期の段階に作られたものか、次の段階で作られたものか、検討が加えられています。「大阪歴博」では“一様式の期間はかなり短い範囲に絞ることが出来る”としています。
・また消費地である難波宮遺跡だけでなく、陶邑など畿内の生産地から出土する土器との比較、検討も行い年代観が作成されています。
・古賀氏は、太宰府の発掘調査報告の中の一枚の表に書かれた須恵器の“かたち”だけを見て、考古学の長年の研究を無視した解釈をされています。
・これは「かたち」と「型式・様式」を混同しているためと思えます。
三、九州と近畿の土器
イ、上町台地と筑紫の土器年代観
(1) 通説
・大阪歴博、京都の小森氏など一般に須恵器、瓦ともに同じ形式であれば、同じ時期のものとしています。
・これは、畿内出土土器は『日本書紀』の記述に基づき実年代を推定しているが、地方の土器は『書紀』からでは推定できないので、地方の土器は畿内から早い時期に伝わったとしているものです。
(2) 内倉武久氏
・『太宰府は九州王朝の首都だった』(ミネルヴァ書房二〇〇〇年)において、内倉氏は次のように指摘されています。
A.九州歴博の炭素14測定によると、九州土器は畿内より大幅に古い年代を示している。
B.また通説の根拠としている地磁気測定も、測定した学者から異論がでている。
(3) 大下意見
・小生も九州の土器は須恵器・瓦ともに畿内より時代が古いものと考えていますが証拠はありません。また九州土器がいつ畿内に伝わったかの証拠も見ていません。
(4) 古賀氏の新説
・九州がより古く筑紫の「杯B」が上町台地に初期の頃に伝わった。それは孝徳期難波宮の証拠である。
ロ、筑紫の土器が畿内に伝ったか
(1) 大阪歴博報告・筑紫の土器
・古賀氏が七世紀筑紫土器の伝播の根拠としている報告書です。(「古代難波に運ばれた筑紫の須恵器」寺井誠、二〇〇八)
・報告書にある事実関係を次に示します。
A、出土したのは一〇センチほどの大きさの数個の土器片のみ。
B、土器表面にある「横位平行タタキメ」は北部九州独特の製造手法で、九州において六世紀後半から九世紀前半の土器に見られる。
C、出土地は難波宮遺構の南600mの難波宮整地層とされる谷間。
・これが七世紀に九州王朝の支配が及んでいたことの証拠であり、九州で先駆けて作られていた「杯B」が上町台地に運ばれていた傍証になる、としています。
(2) 大下意見
A、わずか一〇センチ程度の数個の須恵器小片の出土が九州王朝の上町台地支配の証拠とはならない。
B、九州の「杯B」の畿内への伝播の確実な証拠、時期はわかっていない。
C、上町台地に太宰府、観世音寺に使われている「老司式」瓦が出土していない。
四天王寺には法隆寺式の瓦が出土しているだけです。
新しい説を出す場合はだれでもが納得できる論理的かつ具体的な説明が必要です。
四、「大阪歴博」の土器年代観
古賀氏は「大阪歴博」の年代解釈を全面的に信頼し論を進められています。
しかし京都市教育委員会の小森氏だけでなく他の研究機関、大学からも「大阪歴博」の年代観には疑問が出されています。
イ、年代観相違の具体例
(1) 戊申年(六四八年)木簡
(「大阪歴博」)
・出土土器は七世紀中葉。
(別意見)
・廃棄された時期は特定できない。
木簡学会の栄原永遠男氏などの説です。詳しくは会報一〇九号参照下さい。
(2) 狭山池一号窯
(「大阪歴博」)
・狭山池の樋管の材木年代が六一六年、その土手で焼かれた土器は七世紀中葉。
(別意見)
・この窯で焼かれた須恵器は六一八年以降のものであることが証明された。しかしそれがいつか、具体的な年代は特定できない。(『年代のものさし』大阪府立近つ飛鳥博物館)
・おなじ『年代のものさし』において大阪府教育委員会は難波宮出土土器に関する「大阪歴博」の年代観に疑問を呈しています。
(3) 三条九ノ坪出土須恵器
(「大阪歴博」)
・兵庫県芦屋川の右岸にある水田遺跡に流れる水路から「元壬子年(六五二年)」の木簡が出土している。木簡出土層の下層部分から「杯G」が出土している。
・この土器は七世紀中葉のもの。
(別意見)
・木簡学会の市大樹氏は『飛鳥の木簡』において、木簡や須恵器は上流から流れてきたもので、同じ時期のものか不明。「大阪歴博」の年代観に疑問をもたれています。
(4) 難波宮西北の井戸枠の土器
(「大阪歴博」)
・井戸枠に使われていた木材の伐採年が年輪から六三四年とわかった。この井戸の基礎部分から出土した須恵器は七世紀中葉の土器である。
(大下見解)
・もし井戸に六三四年に伐られた新しい材木が使われたとすると、基礎部分には遅くとも六三四年前後までに使われていて廃棄された須恵器が埋められたと考えられます。
・その場合、普通に考えるとその須恵器は七世紀前半のものになります。歴博のいう七世紀中葉説は疑問です。
・「大阪歴博」の報告書「難波宮址の研究十一」にもそれを裏付けるかのような文章が書かれています。
ロ.「大阪歴博」の解釈について
(1) 「大阪歴博」の年代観
・「大阪歴博」のいう根拠を詳しく調べてみると、彼らの定点とする土器がそれほど確実なものとは思えません。「大阪歴博」以外の考古学者もそれを指摘しています。
(2) 「大阪歴博」のおかれている立場
・大阪市は孝徳の都の発掘という名目で「難波宮遺構」を保存し、「博物館の建設」などに莫大な費用を投じてきました。
・「大阪歴博」の使命は「前期難波宮遺構が孝徳天皇の都であった」ことを証明することで、いまさら「孝徳の都は大阪になかった」とは言えません。
・他の大学や研究機関とは目的が違います。
・「大阪歴博」の解釈を盲信するのでなく、他の研究機関の説にも耳をかたむける必要があると思います。
発掘調査報告書を理解するのは大変ですが、研究機関の解釈にたよらず自分で解釈できるようにこれからも勉強してゆきたいと思っています。本論について忌憚のないご意見をたまわればありがたく存じます。
以上
(註1)
・困っているのは前期難波宮遺構を「孝徳期」としたい大阪歴博などの考古学者だけです。同じ一元史観でもこれを天武期とする京大系の学者は困っていません。
・古田先生は難波長柄豊崎宮は博多湾難波の地とされています。そして飛鳥浄御原宮を小郡の飛鳥に比定されています。
「大化改新批判」『なかった ・真実の歴史学』 第五号
「生涯最後の実験」古田史学会報八八号
・孝徳紀白雉年間の記事の舞台は九州王朝の中枢地である筑紫です。本来の古田史学の立場にたてば何も困ることはありません。
(註2)
・孝徳紀白雉改元の記事には具体的に宮の名前は書かれていません。文脈から推定すると「難波宮」ではなく「味経宮」です。
(註3)
長柄のある淀川左岸は古代から淀川の氾濫原で一部の微高地を除き、古代の遺跡もありません。豊臣秀吉が淀川左岸に堤防を作って、はじめて安定した地域です。古代の都などありえません。
(註4)
須恵器の形状についての用語は、次の通りです。
(1) かたち=「杯H」「杯G」「杯B」といった形状のことです。
(2) 型式 =TK208式は陶邑208号
窯で作られた須恵器の型です。これを型式と呼んでいます。生産された窯を中心とする分類です。
(3) 様式=ナニワ一期、二期、飛鳥I 期、II期様式などその時期に作られた型式の土器を年代別にグループ分けしたものに様式という言葉が使われています。
一様式と一型式の期間は、おおまかにみて、それほど大きな差はないと見てよいと思います。
これは会報の公開です。論争の両者の報告を印刷してお読みいただくようお願いいたします。
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