『文選』王仲宣の従軍詩 -- 『三国志』蜀志における二つの里数値について 古谷弘美(会報116号)
「墨子」と「呂氏春秋」における里数値の検討
枚方市 古谷弘美
『墨子』
墨子の生存年は大略紀元前五世紀後半から四世紀にかけての時期とされています。『墨子』のなかの里数値について短里の可能性を検討しました。短里は一里を約七六mとしました。テキストは明治書院、『新釈漢文大系五〇、墨子、上』、『新釈漢文大系五一、墨子、下』を使用しました。
南は則ち荊越の王、北は則ち齊晉の君、始めて天下に封ぜられし時、其の土地の
方、未だ数百里有るに至らず、(中略)。攻戦の故を以って、土地の博きこと、数千里有るに至り、 (非攻篇上二二一頁)
荊は楚の別名で、楚越齊晉という大国が方数千里であるとしています。数千里を五、六千里とすると長里では約二一〇〇〜二六〇〇km、短里では約三八〇〜四五〇kmになります。戦国時代の地図では短里による数値が妥当します。非攻篇の中で呉の滅亡のことが記されていますので、越の領域は呉を加えた状況となるのではないでしょうか。
士を教ふること七年、甲を奉じ兵を執り、三百里を奔りて舎す。
(非攻篇上二二四頁)
武装した兵士が三百里を走って宿営したというのです。長里で約一三〇km、短里で約二三kmになります。人間の歩行速度を時速五kmとしますと、長里の場合、二六時間かかることになります。
大阪市から大垣市までが直線距離で約一三〇kmになります。これは一日の行軍を記述していると考えられるので、短里が妥当します。
短里と考えられるのは二例でしたが、他の諸子百家の文献の中に短里を見つけることが出来るのではないでしょうか。
『呂氏春秋』
『呂氏春秋』は中国戦国時代末期に秦において成立した百科全書的文献です。
テキストは明治書院、『新編漢文選 呂氏春秋 上中下』を使用しました。
昔、師を興して以って鄭を襲はんとす。蹇叔諫めて曰はく、(中略)今行くこと数千里、又諸侯の地を絶ぎて以って国を襲ふ。 (巻十六先識覧五〇七頁)
秦の繆公は春秋初期の人。「春秋時代列国図」によれば秦 ーー 鄭間は約六〇〇kmです。数千里を六〇〇〇里とすると、短里(一里約七六m)で約四五六km、長里(一里約四三五m)では二六一〇kmとなり、短里が妥当します。
三師乃ち懼れて謀りて曰はく、我数千里を行き、数々諸侯の地を絶ぎ、以って人を襲はんとす。
(巻十六先識覧五〇九頁)
三師は秦の将軍。鄭を襲うために数千里を行軍したといっているもの。前項と同じ状況を述べています、すなわち短里が妥当。
驥を貴ぶ所為の者は、其の一日にして千里なるが為なり。(巻二十一開春論八〇四頁)
一日で一〇〇〇里を行く馬のことですから、短里による距離、約七六kmが妥当します。
矢の速きも、二里を過ぎずして止まる。(巻二十四不苟論九〇四頁)
矢の飛距離を示している文章です。現代のアーチェリー競技の最長距離は九〇mですので、二里は短里による距離(約150m)とするのが妥当ではないでしょうか。
夫れ馬は伯楽之を相し、造父之を御し、賢主之に乗り、一日千里す。
(巻二十五似順論九三〇〜九三一頁)
一日で一〇〇〇里を行く馬ですから、短里による表記です。
『呂氏春秋』は秦の宰相呂不韋が編集したとされる書ですから、短里が現れるのは意外でした。しかし始皇帝による長里制定以前は秦も短里を使用していたと考えれば、納得できます。
春秋時代地図は筑摩書房、世界古典文学全集『諸子百家』に拠りました。(編集部注・戦国時代地図は省略しました)
これは会報の公開です。
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