「墨子」と「呂氏春秋」における里数値の検討 古谷弘美(会報117号)
『文選』王仲宣の従軍詩
『三国志』蜀志における二つの里数値について
枚方市 古谷弘美
1
『文選』は六世紀に梁の照明太子等によって編集された詩文集、周より梁までの代表的作品を収録しています。後漢末期の王粲(字は仲宣)の作品に里数値があります。
軍に従ひて苦楽有り、但問ふ従ふ所は誰ぞと。
従ふ所神且つ武ならば、焉んぞ久しく師を勞するを得ん。
相公關右を征し、赫怒して天威を震ふ。
一擧して?虜を滅し、再擧して羌夷を服し、
西のかた邊地の賊を収むる、忽ち俯して遺を拾ふが若し。
(中略)
地を拓くこと三千里、往返速かなること飛ぶが若し。
(後略)
王仲宣、従軍詩五首
(新釈漢文大系一五『文選』詩篇下 四五八頁)
漢文大系本の題意にはこの詩について次のように書かれています。
魏志によれば、建安二十年(二一五)に、曹操は西に進んで張魯を征し、魯及びその五子を降した。張魯は鬼神の説で民を惑わし、黄巾の賊を従え、漢中に拠っていたもの。操はこれを起伏させ、十二月に南鄭(陜西省)から引きあげた。時に侍中の王粲は五言詩を作って、その事をたたえたという。(四五八頁)
魏志を見ると、武帝紀建安二十年条に関中占領記事がありますが、王粲の五言詩のことは裴松之の注に記されています。
三月、公は張魯征討に西へ赴き、陳倉に到着し、武都から?へと入るつもりであった。?人が道を塞いだので、先に張?・朱霊らを派遣して攻撃させ、これをうち破った。夏四月、公は陳倉から散関へと出、河池に到達した。(中略)秋七月、公は陽平に到達した。公の軍は南鄭に入城し、張魯の庫に蔵められていた珍宝をことごとく奪い取った。
(筑摩書房 世界古典文学全集 三国志 I 四〇頁)
「三国時代地図」によれば、陳倉〜散関〜南鄭(漢中)間は二〇〇〜三〇〇kmです。「拓地三千里」は短里(一里約七六m)では約二三〇km、長里(一里約四三五m)では約一三〇〇kmになり、短里が妥当することになります。
「三国時代地図」は平凡社、中国古典文学大系一六「漢魏・六朝詩集」に拠ります。
2
二六三年、蜀の劉禅は魏に降伏するために魏の将軍に文書を送ります。
『三国志』蜀志、後主伝のその文書中に次のような個所があります。
長江と漢水に区切られ、不思議な運命にあやつられ、蜀の地をよすがとして片隅に隔絶し、天運を犯して強引に居すわり、次第に年を経、かくて都と一万里をへだてたままとなりました。つねに思うことには、黄初年間、文皇帝(曹丕)が虎牙将軍の鮮宇輔に命ぜられて、内密の詔を宣示され、三つの好条件を提示されるという恩寵を受け、門戸を開かれたことがありました。
(筑摩書房 世界古典文学全集 三国志II 三四四?三四五頁)
この文書は「黄初」、「文皇帝」という言葉が使われていることから、魏の制度を正統として認めています。「都」の部分は百衲本『三国志』では「京畿」となっています。これは魏の都、洛陽のことになります。成都〜洛陽間は約八七〇km、短里では約一一四〇〇里となります。
「一万里」は魏の制度である短里による表記といえるでしょう。
『三国志』魏志、王粲伝によると建安二二年(二一七)に王粲は亡くなっているので、「従軍詩」は二一五年から二一七年の間に作られたことになります。後漢末期に短里が復活していたか、検討する必要があります。
これは会報の公開です。
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