2013年6月6日

古田史学会報

116号

1,「古田史学」の
   理論的考察
  古田武彦

2,「消息往来」の伝承
  岡下英男

3,白雉改元の宮殿
「賀正礼」の史料批判
  古賀達也

4,「放生会」は
 九州王朝の儀式
利歌弥多弗利の創設
  正木裕

5,元興寺と法隆寺(二)
勅願寺としての同一性と
斑鳩寺の存在
  阿部周一

6,『文選』王仲宣の従軍詩
『三国志』蜀志における
二つの里数値について
  古谷弘美

 

古田史学会報一覧

史料紹介 古谷弘美(会報106号)
「墨子」と「呂氏春秋」における里数値の検討 古谷弘美(会報117号)

『文選』王仲宣の従軍詩

『三国志』蜀志における二つの里数値について

枚方市 古谷弘美

   1

 『文選』は六世紀に梁の照明太子等によって編集された詩文集、周より梁までの代表的作品を収録しています。後漢末期の王粲(字は仲宣)の作品に里数値があります。

軍に従ひて苦楽有り、但問ふ従ふ所は誰ぞと。
従ふ所神且つ武ならば、焉んぞ久しく師を勞するを得ん。
相公關右を征し、赫怒して天威を震ふ。
一擧して?虜を滅し、再擧して羌夷を服し、
西のかた邊地の賊を収むる、忽ち俯して遺を拾ふが若し。

(中略)

地を拓くこと三千里、往返速かなること飛ぶが若し。
(後略)

    王仲宣、従軍詩五首
(新釈漢文大系一五『文選』詩篇下 四五八頁)

 漢文大系本の題意にはこの詩について次のように書かれています。
 魏志によれば、建安二十年(二一五)に、曹操は西に進んで張魯を征し、魯及びその五子を降した。張魯は鬼神の説で民を惑わし、黄巾の賊を従え、漢中に拠っていたもの。操はこれを起伏させ、十二月に南鄭(陜西省)から引きあげた。時に侍中の王粲は五言詩を作って、その事をたたえたという。(四五八頁)

 魏志を見ると、武帝紀建安二十年条に関中占領記事がありますが、王粲の五言詩のことは裴松之の注に記されています。

三月、公は張魯征討に西へ赴き、陳倉に到着し、武都から?へと入るつもりであった。?人が道を塞いだので、先に張?・朱霊らを派遣して攻撃させ、これをうち破った。夏四月、公は陳倉から散関へと出、河池に到達した。(中略)秋七月、公は陽平に到達した。公の軍は南鄭に入城し、張魯の庫に蔵められていた珍宝をことごとく奪い取った。
 (筑摩書房 世界古典文学全集 三国志 I 四〇頁)

「三国時代地図」によれば、陳倉〜散関〜南鄭(漢中)間は二〇〇〜三〇〇kmです。「拓地三千里」は短里(一里約七六m)では約二三〇km、長里(一里約四三五m)では約一三〇〇kmになり、短里が妥当することになります。
 「三国時代地図」は平凡社、中国古典文学大系一六「漢魏・六朝詩集」に拠ります。

    2

 二六三年、蜀の劉禅は魏に降伏するために魏の将軍に文書を送ります。
『三国志』蜀志、後主伝のその文書中に次のような個所があります。

 長江と漢水に区切られ、不思議な運命にあやつられ、蜀の地をよすがとして片隅に隔絶し、天運を犯して強引に居すわり、次第に年を経、かくて都と一万里をへだてたままとなりました。つねに思うことには、黄初年間、文皇帝(曹丕)が虎牙将軍の鮮宇輔に命ぜられて、内密の詔を宣示され、三つの好条件を提示されるという恩寵を受け、門戸を開かれたことがありました。
(筑摩書房 世界古典文学全集 三国志II 三四四?三四五頁)

 この文書は「黄初」、「文皇帝」という言葉が使われていることから、魏の制度を正統として認めています。「都」の部分は百衲本『三国志』では「京畿」となっています。これは魏の都、洛陽のことになります。成都〜洛陽間は約八七〇km、短里では約一一四〇〇里となります。

「一万里」は魏の制度である短里による表記といえるでしょう。

 『三国志』魏志、王粲伝によると建安二二年(二一七)に王粲は亡くなっているので、「従軍詩」は二一五年から二一七年の間に作られたことになります。後漢末期に短里が復活していたか、検討する必要があります。


(参考 三国時代地図)

 


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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