2013年 6月 6日

古田史学会報

116号

1,「古田史学」の
   論理的考察
  古田武彦

2,「消息往来」の伝承
  岡下英男

3,白雉改元の宮殿
「賀正礼」の史料批判
  古賀達也

4,「放生会」は
 九州王朝の儀式
利歌弥多弗利の創設
  正木 裕

5,元興寺と法隆寺(二)
勅願寺としての同一性と
斑鳩寺の存在
  阿部周一

6,『文選』王仲宣の従軍詩
『三国志』蜀志における
二つの里数値について
  古谷弘美


古田史学会報一覧

『正法輪蔵』の中の九州年号 岡下英男(会報114号)

聖徳太子の伝記の中の九州年号 岡下英男(『古代に真実を求めて』 第十七集


「消息往来」の伝承

京都市 岡下英男

1.書簡の内容は病床にある「利」の願い

 消息往来(聖徳太子と善光寺如来の間の書簡のやりとり)は、『善光寺縁起集註』や『蔡州和伝要』などには、三回にわたってなされたと記載されているが、ほとんどの聖徳太子伝では一回目のみが記載されている。これについて、当初、三回の全てを記載すると長くなるから他の二回は割愛されたのであろうと考えていたが、そうではないようである。一回目と二、三回目とは性格が異なることが知られていたためであろうと考えるに至った。一回目は書簡のやりとりとして実際に存在したが、二回目、三回目は、別の史実を材料とした後世の編集のようである。
 その第一回目のやりとりは左記である。

 聖徳太子から善光寺如来へ
  名号称揚七日巳 此斯為報広大恩
  仰願本師弥陀尊 助我済度常護念
  命長七年丙子二月十三日  

 善光寺如来から聖徳太子へ
  一日称揚無息留 何況七日大功徳
  我待衆生心無間 汝能済度豈不護

 消息の意味するところは、概略、聖徳太子の「念仏行を七日間にわたって行った、私を救い護りたまえ」という願いに対して、善光寺如来が「一日念仏しただけでも息が切れるのに七日も念仏したのは結構なこと、貴方は救われる、私が護らないということがあろうか」と答えたと理解される。
 ここで強調されているのは、「我を救う」と「汝を護る」の意味であって、万徳寺本などの聖徳太子伝で、太子が父の用明天皇の三十三回忌のために、四天王寺の西門で、七日七夜の念仏行を行い、その功徳を善光寺如来に尋ねたという説明には合わない。
 『聖徳太子伝暦』を初めとする太子の伝記には、太子が夢殿に七日七夜の間参篭したという記事があり、この「七日」の共通性が消息往来説話の太子伝への取り込みに利用されたと考える。それにしても、書簡には「菩提を弔う」とか「尋ねる」を意味するような文字が見当たらないのに、強引な結び付けである。
 この聖徳太子からの手紙とされる文書についてはすでに古賀達也氏、正木裕氏による報告がある。
 古賀氏によれば、三回の消息往来で合計六通ある書簡のうち、“この「命長七年」文書だけが本物の九州王朝系の人物によるもの”であり、その人物は多利思北孤の皇太子の利、すでに倭王に即位しているとみられる「利」、が病に倒れ、自らの救済を阿弥陀如来に願っているのではあるまいかとされている。(註1)
 正木氏の報告では、日本書紀の、命長七年(六四六)の三十四年後となる天武九年(六八〇)の天皇・皇后の病気平癒記事は、九州王朝の史書からの「三十四年遡上盗用」であり、“「命長七年、九州王朝の天子『利』が重病に陥り、善光寺如来への請願むなしく崩御”したことと解し、“古賀氏の考察と三十四年遡上盗用からの考察はぴたりと一致”するとされている。(註2)
 これらの報告を読んで、「命長七年」の九州年号を持つ書簡を差し出したのが「利」であることが理解できた。では、その書簡はどこにあるか、または、どこにあったのであろうか。

2.書簡はどこにあるか、または、どこにあったか

 『法隆寺の謎と秘話 (註3)』では、もちろん、法隆寺にあるとされているが、それ以前の史料(聖徳太子伝以外で、消息往来を記載している史料の意味)にはどのように書かれているか。翻刻・出版されているものをいくつか調べると次のようである。(註4)
(1) 述懐抄 ーー 建武年間(一三三〇頃)成立、所在の記載無し。
(2) 蔡州和伝要 ーー 暦応二年(一三三九)成立、所在の記載無し。
(3) 善光寺縁起 ーー 記載内容から応永年間(一四〇〇頃)の成立と見られ、「応永縁起」とも呼ばれる。所在の記載あり。「太子御手跡。如来御自書硯。于今在之云云。」
(4) 神明鏡 ーー 永享六年(一四三四)成立、所在の記載あり。「太子ノ御文ヲハ・・・・度々ノ火難ニ失セケルトナン。如来ノ御報ハ天王寺第一ノ宝蔵ニ今ニアリ」
(5) [土蓋]嚢鈔 ーー 天文元年(一五三二)成立、所在の記載無し。
(6) 善光寺縁起集註 ーー 天明五年(一七八五)、所在の記載あり。「今猶在大和国法隆寺也」
     [土蓋]は、土編に蓋。JIS第3水準ユニコード58D2

 上記六点の史料で、消息の在り処を記載しているのは、『善光寺縁起』、『神明鏡』、『善光寺縁起集註』であり、さらに、消息の双方について記載しているのは『神明鏡』だけである。如来の返報に関しては、『神明鏡』と『善光寺縁起集註』で、天王寺と法隆寺で異なるが、それらの成立年代からみて、『善光寺縁起集註』の法隆寺は後世の創作で、成立年代が古いところから、『神明鏡』の天王寺の信頼性が勝ると考える。
 坂井衡平氏は『善光寺史』の中で、次のように書かれている。(註5) ただし、傍線は筆者が付けたものである。(赤色でインターネット表示)

 “ 応永縁起には、

     贈答御書即進覧王城云、太子之鳥冊云、如来竜書拝見八木之勢、殆超張之字、太子御手跡、如来御自書硯于今有之云々

と見えて、応永初年迄は善光寺に如来書・太子書共に珍蔵されて『太子之鳥冊』なる古記録さへ在った趣が明らかである。然るに永享六年の神明鏡には、

 太子ノ御文ヲハ善光寺ノ宝蔵ニ納メケルヲ、度々ノ火難ニ失セケルトナン。如来ノ御報ハ天王寺第一ノ宝トテ宝蔵ニ納メテ今ニ有リ云々

と、本寺の御書は焼失したが天王寺に御返書を宝蔵する由を伝えている。 ”

 上記の文は、いくつかの点の修正が必要と理解する。
 「八木之勢」は「入木之勢」で、木に墨が染み込むほど勢いが良いこと、『太子之鳥冊』は、「冊」は「札」の意味で、古記録ではなく「太子之鳥札」で太子の手紙のことであろう。また、珍蔵されているのは如来書ではなく如来が返報を書くのに使った硯である。如来の返報が善光寺に残っているはずがない。
 この『善光寺史』の文を上記のように修正して読むと、ここでは、聖徳太子が送ったとされる書簡は、『善光寺縁起』の時代以前には存在したが、それ以後『神明鏡』の時代までの間に焼けて無くなり、一方、如来の返報は天王寺にあったと理解されていると考える。

3.「利」は天王寺付近で病に臥していた

 書簡が「利」から善光寺如来へ送られたのであるから、如来の返報は病床の「利」の許へ届けられたはずである。それでは、「利」はどこで病床にあったのか。
 如来の返報が天王寺に宝蔵されていたということは、その近くに返報が届けられた、すなわち、「利」は、その近辺で病床に臥していたのではなかろうか。
 「二中歴」の倭京の項に「二年(六一九)難波天王寺聖徳建」とある。(註6) これは、九州王朝とゆかりのある「聖徳」という人物が天王寺を建立したと理解される。したがって、九州王朝と天王寺の間に行き来があり、「利」が天王寺またはその近辺に滞在していたとしてもおかしくは無い。
 正木氏は「記事の場所は筑紫」とも推測されているが(註7)、筑紫から善光寺は遠い。善光寺如来像は、守屋によって「難波の堀江」に捨てられ、そこから聖徳太子によって拾い上げられたとされている。この伝承は聖徳太子の伝記に記載されている情報であるが、「利」が御利益を望んで病気平癒を祈願したということは、その当時、すでに、善光寺の名声が高かったからであろう。当然、「難波の堀江」のいきさつも知られていたに違いない。したがって、「利」が天王寺付近に臥していたから、祈願する先として善光寺が浮かんだのではなかろうか。
 以上は『神明鏡』という一個の史料の記載からの推測である。

 (投稿に際して、例会報告の内容を指摘により書き直した。)
 註1.『「九州年号」の研究』第III 部一三
 註2.『「九州年号」の研究』第III 部一八
 註3.高田良信著、株式会社小学館
 註4.述懐抄:浄土宗全書続第九巻
   蔡州和伝要:大日本仏教全書六六
   善光寺縁起:続群書類従二八輯上
   神明鏡:続群書類従二九輯上
   [土蓋]嚢鈔:日本古典全集
   善光寺縁起集註:大日本仏教全書一二〇
 註5.坂井衡平著、東京美術
 註6.『失われた九州王朝』補章
 註7.古田史学会報 第九四号

     [土蓋]は、土編に蓋。JIS第3水準ユニコード58D2


 これは会報の公開です。

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