2013年2月8日

古田史学会報

114号

1,「高天原」の史料批判
  古田武彦

2,続・
 前期難波宮の学習
  古賀達也

3,吉野と曳之弩
  阿部周一

4,『正法輪蔵』の中の
   九州年号
  岡下英男

5,碾磑と水碓
史料の取扱と方法論
  大下隆司

6,新年のご挨拶
  水野孝夫

  編集後記

 

古田史学会報一覧

補遺 観世音寺建立と「碾磑」 正木 裕(会報110号)
観世音寺の「碾磑」について 正木 裕(会報115号)

観世音寺・大宰府政庁 II 期の創建年代 古賀達也(会報110号)

七世紀須恵器の実年代 -- 「前期難波宮の考古学」について 大下隆司(会報109号)


てんがい と すいたい

碾磑と水碓

史料の取り扱いと方法論

豊中市 大下隆司

 太宰府の観世音寺境内に大きな石臼があり説明版に「碾磑」と書かれています。

観世音寺境内の碾磑:撮影水野孝夫氏
(観世音寺境内の碾磑:撮影水野孝夫氏)
・直径:1.03m ・上臼高さ:21cm ・下臼高さ:28cm ・重量各400kg


(1984年、三輪茂雄氏、森浩一氏らの調査作成図)
調査結果、“大伽藍造営のため「朱をすった臼」とかんがえてよい”としている。『古代学研究 108号』

 この「碾磑」について、正木裕氏は「観世音寺建立と碾磑」において“観世音寺境内の碾磑は『書紀』天智九年(六七〇年)記事に書かれている水碓のことで観世音寺は天智九年(白鳳十年)に建てられたもの”と書かれています。
 これが「古田史学会報一一〇号」において古賀論文「観世音寺・大宰府政庁II期の創建年代」六七〇年代説の補足説明に使われています。。
 ところが「碾磑」とは「挽き臼」のことで“挽く”ものです。
 一方「水碓」とは水力を利用した「碓」で“舂く”ものです。
 “挽く”と“舂く”は全く違う動作で、「碾磑」と「水碓」は別のものです。
 なぜこのような間違った解釈がされてしまったのか、そしてそれがなぜ疑問をはさむことなく「古田史学会報」に掲載されているのか、検証しました。


一、文献と解釈


【文献の記述】
 碾磑と水碓について、『日本書紀』などに次のような記載があります。
(1) 書紀推古十八年(六〇八年)春三月
 高麗の王、僧曇徴・法定を貢上る。曇徴は五経を知れり。且能く彩色及び紙墨を作り、併せて碾磑造る。蓋し碾磑を造ること、この時に始まるか。

(2) 書紀天智九年(六七〇年)是歳
 水碓を造りて冶鐡かねわかす。

(3) 養老律令・職員令第二・主税寮
 頭一人。掌らむこと、倉廩の水稲、諸国の田租、舂米、碾磑のこと。

(4) 養老律令・雑令第三十
 凡そ水を取って田に漑せば・・・・中略・・・・。其れ渠に縁って碾磑を造らんと欲せば・・・・。

(5) 令義解・職員令、主税寮(平安初期に作られた養老令の解説書)
 碾磑とは水碓なり、米を作るを碾といい、麺こむぎを作るを磑という。

(6) 筑前國続風土記(江戸時代)
 観世音寺の前にむかしの石臼・・・・中略・・・・あり、是は古昔此寺営作の時、朱を抹したる臼なりと云う。

【現代の注釈】
イ.岩波日本思想体系『律令』
(職員令の注)
 碾磑=水力利用の石臼。碾 は米をひき、磑は麦をひく。しかしこの部分は唐令を不用意に模倣したもののようである。
(雑令の注)
 碾磑=水流を利用して動力とする石うす。日本で普及したか否かは疑問だが推古紀十八年三月の記事に見える。

碾磑とは「水力利用の石うす」とし、また推古紀に結びつけています。

 

ロ.岩波古典文学大系『日本書紀』

 碾磑とは水力を利用した臼、水碓なり。天智紀の水碓とは水車によって、ふいごを動かし、冶鉄にもちいたものか。

後世の注釈書の令義解をもとにして磑=水碓と間違った解釈をしています。

 

ハ.会報・一一〇号正木説

 正木氏は、“天智紀の水碓(碾磑)の記事にその用途は「冶鉄」とあるが、その造作目的は記されていない。
 『筑前国続風土記』の石臼記事と観世音寺境内碾磑の調査結果、それに天智紀の記述を合せて考察すれば、「白鳳十年の観世音寺建立に際し、朱か金を造るため碾磑が造られた」”としています。

 岩波古典文学大系『書紀』の解釈をさらに進めて「碾磑=水碓、治鉄=朱の製造」としています。

 治鉄の「治」は溶かすという意味です。天武紀の記事は「水碓を造り、鉄鉱石を(砕き)それを溶解させて鉄を作った」との意味で書かれているもので「朱を抹した」とは読めません。

 強引な拡大解釈 です。

 

二、中国の「碾磑」と「水碓」

【文字の意味】
 諸橋大漢和辞典に書かれている意味と“碓”の図です。
「碾」 ひきうす。いしうす。
「磑」 いしうす。ひきうす。すりうす。
「碾磑」ひきうす。いしうす。水車。
「碓」 からうす。ふみうす。

 これらから「碾 ・磑=挽く、碓=舂く」という意味で、それから派生する碾磑と水碓はまったく違うものであることがわかります。

碓:杵の一端をふんで舂く臼

(碓:杵の一端をふんで舂く臼)

【中国の「水碓」】
「水碓」については明代に書かれた『天工開物』に図があります。水力を利用した「碓」です。杵を水車で動かしています。

『天工開物』水碓
(『天工開物』水碓)

 

【中国の「碾磑】
中国・唐代において「碾磑」は、単なる「ひきうす」という意味と「水力をつかった水車システム」の二つの意味に使われています。

(1) 単体として使われている「碾磑」

 洛陽の少林寺に観世音寺のものとほぼ同じ「碾磑」があります。(上臼直径1.16メートル、上臼高さ31.5センチメートル)
 この少林寺の「碾磑」は、武徳八年(六二五年)に、唐の第一代皇帝であった高祖から賜ったと金石萃編巻にあり、『書紀』推古紀の記事の年代に近いものです。
 また『唐律疏義』には「碾は磨上の転石也、磑は磨下の定石也」と説明されています。
洛陽・少林寺の「碾磑」
(洛陽・少林寺の「碾磑」)

 

(2) システムとしての「碾磑」

 唐代において貴族、寺院などが小麦粉などの製粉プラントを盛んにつくりました。このプラントとしての装置も「碾磑」と呼ばれていました。
 三輪茂雄氏などによる論文「碾磑の文献と現存遺物との対比について」に左の図が示されています。水力と大型臼(碾磑)と篩を組み合わせた製粉工場です。

「閘口盤車図」
(「閘口盤車図」)

 唐代における「碾磑」とは小麦粉などを製造するための装置でその構造は「挽く」ことをベースにしています。「水碓」とは全く違ったものです。

 

三、我が国の「碾磑」「水碓」その後

【日本の「碾磑」】

(1) 東福寺の大宋緒山図
 宋の時代中国から伝来したとされる「碾磑図」が残されています。これは「閘口盤車図」とおなじように、水力を利用し臼でお茶や麺を挽いて粉にする装置です。

図3 東福寺の大宋緒山図
図3 東福寺の大宋緒山図

(2) 東大寺「転害門」の由来
 『南都七大寺巡禮記』などの古文書に「西向の南より第三門也。碾磑御門堂と號す。此の門の東に唐臼亭あり。故に碾磑門と云う」。東大寺転害門の名前の由来が、昔そこの近くに人の目をひく美しい石臼「碾磑」があったためと書かれています。
 東大寺建立の時、朱の製造や大仏に鍍金をするためにこの碾磑を使ったのでしょうか。

【日本の「水碓」】

(3) 東大寺造立供養記
 日本において水力を利用した水碓は「天智紀」のあと、鎌倉時代の重源による『東大寺造立供養記』に「構水車令舂多米也」と水車精米のことが書かれています。これ以降は動力水車の記録は江戸時代までありません。

(4) 佐渡金山の水碓
 江戸時代の「佐渡金山絵巻」に水力と杵・臼を使って金鉱石を粉砕する装置が描かれています。基本的には左図の水車の構造と同じです。
「天智紀」にある「冶鉄」もこのような装置で鉄鉱石を粉砕したものと考えられます。

佐渡金山の水碓

 

四、日本語における「ウス」の混同

 北部中国から中央アジア・欧州にかけては小麦など粉の文化圏でした。そこでは製粉を効率よく行うための道具が発達しました。

磨砕と衝撃粉砕

 衝撃により「舂く」ための器具は「つきうす」「杵と臼」そして「唐ウス」へと進化しました。
 「挽く」方法では「すりウス」「サドルカーン」から「手挽きウス」へと移りました。
 その後はそれぞれ水力による動力利用に進んでゆきます。
 日本では米作が主体で小麦粉の大量生産が必要とされなかったためか、製粉器具の発達はそれほど顕著でなく、ことばも粉を作る道具は「ツクものも、ヒクものも」、同じように「ウス」と呼ばれていました。

 

【『令義解』の間違い】

 平安時代に作られた『令義解』がなぜ別のものである「碾磑」と「水碓」を同じものとしてしまったのか。
 これは平安時代には推古、天智期にもたらされていた「碾磑」も「水碓」も実物はなくなっていた、また当時は唐において、「碾磑」が単体とシステムとして二つの意味をもっていたため、これらの意味がよく理解できなかった。
 平安時代の官僚にとって、「ヒク臼」も「ツク碓」も日本語ではどちらも「ウス」であることから間違って「碾磑=水碓」としてしまったと考えられます。
 二次史料とされているものに間違いがあったと考えます。

 平安時代に、碾磑=水碓と呼ばれた米や麺を作る国産の道具があった可能性は百パーセント否定できません。
 しかし、七世紀の推古紀、天智紀に書かれた碾磑や水碓は中国から来たものです。
 これらがどのようなものかは、後世の史料からでなく、まず同じ時代の隋や唐の中国史料・遺物から判断しなければならないと考えます。

 

五、 これまでのまとめ

 「観世音寺の創建年代」と「観世音寺境内の碾磑」、「続筑紫風土記」、そしてその関連を古代の史料に求めるなら、当然「推古十八年条の碾磑記事」と「養老令の碾磑記事」になります。
 「推古十八年条の碾磑記事」と「養老令」を無視して、「天智九年条の水碓」「令義解の解釈」のみをとり上げ、またそれらの史料を強引に結び付けて、観世音寺の創建年代を天智期とする正木論文の方法は間違っていると考えます。

 

六、古田史学の方法論

「都合の良い記事だけの採用」、「二次史料の安易な利用」また「強引な拡大解釈」など「古田史学の会」においては、以前はあってはならないこととされていました。
 なぜこのようなことが起きているのか。これは古賀氏の「前期難波宮=九州王朝副都=孝徳期建設」説にあると考えています。

(1) 仮説の重構

「前期難波宮=九州王朝副都説」はつぎの二つの仮説から成り立っています。
 イ.前期難波宮遺構の孝徳期造営説
 ロ.九州王朝白村江前の副都造営説
 本来はそれぞれの仮説を論証しなければなりません。しかしその論証がないままに、この二つの仮説が重ねられて論が展開されています。

(2) 三十四年遡り説

 この二つの仮説を結び付けているのが「三十四年遡り説」です。
 天武十二年(六八三年)の難波遷都記事を、三十四年前の六四九年に移動させています。そしてその根拠を古田先生の持統の吉野行幸記事に求めています。
 しかし、古田先生の吉野行幸記事は、「真冬の吉野行幸」など、だれが考えてもおかしい記事がまず前提です。そして日付干支などの証拠があり、結果として三十四年遡っていたことがわかったものです。
 ところがこの正木説は「孝徳の前期難波宮」を「天武の詔勅」と結びつけるために、書紀の記事を「三十四年遡り」させています。
 さらに天武八年の「難波の羅城と大坂山の関」建設の記事も三十四年遡らせています。大阪と奈良の国境を閉じて、大和の目の前、大阪湾に巨大な羅城を築いたことになります。
 白村江の前に九州王朝がこのような大和の勢力に宣戦布告するような行為をしたとは考えられません。
 そもそも天武十二年の遷都記事はそれが六八三年に行われたとしてもおかしくありません。「前期難波宮=九州王朝副都説」を成り立たせるために無理をして移動させていると考えます。

(3) 相対論証

 さらに洛中洛外日記第364話(会報の363話は誤植)においては、「相対論証」という新しい言葉(造語)が作られて「証拠がなくても、説明さえつけばよい」として「三十四年遡り」説が擁護されています。自説に都合のよい『書紀』の記事の年代の移動を認めています。
 『日本書紀』記事の年代が移動させられている場合はあると思います。但しその場合は一点一点吟味し、詳しく検討することが必要です。「安易な年代の移動」は絶対にさけるべきと考えます。

(4) 先行学説の無視

 さらに太宰府教育委員会の論文などを根拠にして「大宰府II期政庁、観世音寺の創建年代は六七〇年代」説が会報一一〇号に掲載されています。
 「天智紀」の水城・大野城造営記事は誤りであることを古田先生は論証されました。白村江の敗戦、唐軍の進駐などによる混乱の筑紫で大規模な土木工事は出来ないのは明かです。
 これを無視して「白村江の敗戦はなかった」かのような説が展開されています。
 さらに太宰府、観世音寺の創建年代については「瓦の編年と実年代」という大事な問題があり、東京古田会の大越邦生氏が、「何故七世紀中葉を遡る古代寺院跡が九州にないのか。何故古代寺院の建設は近畿から始まるのか。」と重大な疑問を提起されています。
 現在、考古学者の発掘物に対する解釈は『日本書紀』を基準としています。一部の考古学者からも、それに対して疑問が寄せられています。(会報一〇九号「七世紀須恵器の実年代 -- 「前期難波宮の考古学」について」参照)
 これら常識的な先行学説・意見をまず真剣に検討することが大事で、安易に考古学者による説明・解説にたよることは避けるべきと考えます

本来の「古田史学の方法論」とは
・古田先生の著作に書かれている「学問の方法論」
・古賀氏の論文、会報三七四二号にある「学問の方法と論理」
 などに書かれたものと考えています。

(その他)
 十月会報一一二号古賀論文「太宰府「戸籍」木簡の考察」(注1)において、小生の一一一号掲載論文内容について、「方法論が間違っている」との批判を受けています。事実関係を下記します。

(1) 『皇太神宮儀式帳』の信用性
 儀式帳には孝徳天皇難波長柄豊崎宮とあり、明らかに『日本書紀』に基づいて書かれています。「孝徳期の前期難波宮建設否定」については会報一○七一○九号で詳しく説明しました。
 二次史料の信憑性については本稿「碾磑と水碓」で一例を上げました。『皇太神宮儀式帳』を取り上げる場合その史料批判をきっちりとすべきと考えます。

(2) 「評制の開始時期」
 『なかった創刊号』に古田先生の「『大化改新詔の信憑性』(井上光貞氏)の史料批判」が掲載されています。ここに「倭の五王と都督・評督の問題」が詳しく書かれています。
 評督の支配する土地は「評」と呼ばれていたのではないか。評制は6世紀後半にまで遡ることは十分に考えられます。まったく根拠のない話ではありません。

(3) 天武紀の冠位記事
 同じく「太宰府「戸籍」木簡の考察」(注3)において古賀氏は小野毛人墓誌にある位階「大錦上」のみを取り上げ「天武紀」の信用性を指摘しています。
 古田先生は『なかった六号』「金石文の九州王朝」において、同じく墓碑銘にある「朝臣」の称号、また続日本紀にある毛人の位階「小錦上」から『日本書紀』『続日本紀』の誤りを指摘されています。
 ここでも先行学説が無視されています。

(注記)
「碾磑と水碓」については五月十九日の関西例会において詳しい報告をしました。この論文は例会発表内容にその後調べたものを加えたものです。


(参考文献)
『日本書紀』岩波古典文学大系
『律令』岩波日本思想体系
『令義解』国史大系、吉川弘文館
「太宰府・観世音寺の碾磑について」『古代学研究108』三輪茂雄他、古代學研究会1985
『粉の文化史』三輪茂雄、新潮選書1973
『紛体工学会誌30』三輪茂雄、日高重助、王勇、共著、粉体工学会1978
『天工開物』宋應星、薮内清、平凡社1969
『機械・ものと人間の文化史』吉田光邦、法政大学出版社1974
「前期難波宮は九州王朝の副都」『「九州年号」の研究』古田史学の会、ミネルヴァ書房2012
『古田史学会報』三七~四二号「学問の方法と倫理」古賀達也、2000 ~ 2002。ホームページ「新古代学扉」掲載
「コスモスとヒマワリ」大越邦生、東京古田会ニュース九四号。東京古田会ホームページ掲載。


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