補遺 観世音寺建立と「碾磑」 正木裕(会報110号)
碾磑と水碓 大下隆司(会報114号)
観世音寺の「碾磑」について
川西市 正木裕
本稿では、大宰府観世音寺境内の「碾磑」と称される石臼は、天智九年(白鳳十年)の同寺創建時に、建築物に塗布するベンガラ製造を目的に、原材料の鉄鉱石を湿式微粉砕するため設置されたと考えられることを述べる。
1、観世音寺石臼の現況
大宰府観世音寺境内の講堂前の広場に、石垣で囲まれ「碾磑」と書かれた札の立つ石臼がある。
(写真・註1)(上下臼)

直径は上下共一〇三〇mm(最大部)、厚さ上臼二六〇mm(同)、下臼二八〇mm(同)。上臼の二箇所の材料供給口から (上臼)材料を投入し、臼の摺合せ面まで送り、臼の回転により粉砕して外部に排出する仕組みとなっている。(図1)
上臼

2、科学的調査状況
(下臼)
この石臼については一九八四年に、同志社大学三輪茂雄教授(紛体工学)(註2)・九州歴史資料館・同志社大学森浩一教授(考古学)らの手によって調査検討が行われている。
その結果は、「水を流しながら鉱石の粉鉱物質の原料、朱か金の原鉱を湿式粉砕するのに使用されたと推測した。古代における朱の製造は寺院の建設には必要不可欠であった」という。(三輪氏。詳細は後述)
3、現地の伝承・記録
またこの臼に関する記事が『筑前国続風土記』にある。
(1) 「観世音寺の前に、むかしの石臼とて、径三尺二寸五分、上臼厚さ八寸、下臼厚さ七寸五分なるあり。是は古昔此寺営作の時、朱を抹したる臼なりと云。」(『筑前国続風土記』「巻之七御笠郡上。観世音寺」貝原益軒・寛政十年一七九八)
ここで「朱を抹したる」とあるが、「奈良時代以前の日本においては、建造物塗装に用いられた赤色顔料としてはいわゆるベンガラによる塗装しか今のところ認められず、水銀朱や鉛丹による塗装は確認されなかった(註3)」とされており、寺社に塗布されたのであれば、朱とは「ベンガラ」即ち酸化鉄(α - Fe2o3)で、(1) 赤鉄鉱を抹する、即ち微粉砕して得たもの、あるいは(2) 褐鉄鉱を焼いて酸化・発色させ粉体にしたもの等をいうことになる。(註4)
そして「ベンガラ」は北九州の装飾古墳で盛んに使われた「なじみの」塗料なのだ。
このように、科学的分析結果と現地伝承を併せれば、「観世音寺の碾磑と称される石臼は、朱の原鉱を微粉砕するのに用いられた臼で、同寺院の建立時に使用されたもの」となろう。

4、「朱を抹した」時期は白鳳十年
そして、『日本書紀』ほかの文献によって、「朱を抹した」年は天智九年(白鳳十年・六七〇)であることが知られる。
I 『日本書紀』
『日本書紀』には臼を用いて冶金を行った記事が一か所だけ存在する。それは次の天智九年の「水碓」記事だ。
(1) 『日本書紀』天智九年(白鳳十年・六七〇)「是歳、水碓を造りて冶鉄す」
「冶」は溶かす意味だが、碾磑であろうと水碓(臼)であろうと、臼で金属は溶かせない。従って「冶鉄」とは、鉱石から金属をとり出して精製したり、合金を作ったりする工程(所謂「冶金」)全体を指し、その中で「臼」は原料を「粉砕・紛体加工」する役割を果たしたこととなる。
このように石臼の現況とその科学的分析結果、現地の伝承・記録、『日本書紀』記事等から、この臼は白鳳十年観世音寺創建時に「朱か金の原鉱の湿式微粉砕」に用いられたもので、かつ「冶鉄」の語や、九州で「ベンガラ(鉄朱)」が広く使われていたことからすれば、その原鉱である「赤鉄鉱・褐鉄鉱」の微粉砕に用いられたと考えられる。
II 九州年号資料
これを補強するのが様々な九州年号資料だ。
まず、『二中歴』では、九州年号「白鳳」年間の記事に観世音寺が建立されたとある。
(1) 『二中歴』白鳳二三辛酉(六六一~六八三)「対馬採銀観世音寺東院造」
これは「白鳳」元年は辛酉(六六一)で二三年間続き、その間に観世音寺が創建されたという記事だ。
また、『勝山記』『日本帝皇年代記』は、より明確に観世音寺建立を「白鳳十年」と記している。(註5)
(2) 『勝山記』白鳳十年(六七〇)「鎮西観音寺造」
(3) 『日本帝皇年代記』天智天皇 唐高宗咸亨元庚午白鳳十(年)「鎮西建立観音寺、建立禅林寺、俗曰當麻寺」
これら白鳳十年観世音寺創建記事は、『書紀』天智九年(白鳳十年)の「造水碓冶鉄」という記事の信憑性を強く裏付けるものとなろう。
III 観世音寺瓦の考古学的編年
加えて、詳細は略すが、白鳳十年の観世音寺創建は、同寺の瓦が藤原京の瓦より古い川原寺と同形式の「老司1式」で、七世紀中・後半のものという考古学的知見とも矛盾しないのだ。
5、「碾磑」と「水碓」
I 我が国での認識
観世音寺の石臼の立札には「碾磑」とあり(由緒は不明)、『書紀』では「水碓」とある。そこで「碾磑と水碓は違うのか」について検討する。
漢字の意味や中国の事例では、一般に碾磑は挽き臼を指し、臼(碓)は搗き臼を指すという。しかしここで大切なことは、「『書紀』記事の水碓とは何を指すか」なのだ。つまり『書紀』編者が「何を水碓と称したのか」が問題なのだ。
そして、我が国で「水碓」は搗き臼のみを示すものではない。
三輪氏は、「(我が国では)主として衝撃力を利用する搗き臼も、また主として剪断力を利用する挽き臼も、石製であれば石臼と呼ばれ、石製の粉砕用具一般を指す」とされているが、これを裏付けるように、『令義解』に「碾磑とは水碓なり」とある。
(1) 『令義解』・職員令・主税寮条義解「碾磑とは水碓なり、米を作るを碾といい、麺を作るを磑といふ」
後述の通り、中国史書で「碾磑」が最も多く記述されているのは「旧唐書」で、次が「新唐書」。何れも唐代(六一八年~九〇七年)を記録した書だ。
そして『令義解』の編纂は八三三年で、まさにその「唐代」。また、『書紀』が「水碓」を記す六七〇年も、『書紀』の完成(七二〇年)も、『養老令』編纂(七一八年~七五七年)も、同様に「唐代」だ。
従って、これらの編纂者はじめ同時代の倭国の知識人が碾磑についての知識を欠いていたとは到底考えられない。彼らは碾磑の何たるかを承知したうえで「水碓を造りて冶鉄す」「碾磑とは水碓なり」と書いたのだ。
そのことをより確かに示すのが「米を作るを碾、麺を作るを磑」という文章だ。
中国では「碾」は漢代に見られる比較的早期の挽き臼を言い、主に「精米」に使われたとされ(註6)、また、「磑」は唐代に一般に普及した麺の材料である「小麦」の製粉に優れていたとされる。(註7)
「米を作るを碾、麺を作るを磑」の句は、『令義解』の「碾磑とは水碓なり」が、碾磑についてのこうした明確な知識に基づくものであることを示しているのだ。(註8)
II 中国での認識
そもそも、中国でも史書の記述において碾磑と水碓が明確に区別されていたとは考えられない。
何故なら、二四史で「水碓」とあるのは、
【A群】『晋書』(6か所)、『三国志』(1)、『宋書』(1)、『南斉書』(1)、『南史』(1)、『隋書』(1)、『明史』(1)、『後漢書』(1*但し注釈文)で、
「碾磑」とあるのは、
【B群】『旧唐書』(7)、『新唐書』(5)、『北斉書』(1)、『金史』(2)、『北史』(1)、『旧五代史』(1)であり、
「碾磑」とある史書には「水碓」は無く、「水碓」とある史書には「碾磑」がない。(表1)
「碾磑」を挽き臼、「水碓」を搗き臼と限定すれば、A群の時代に挽き臼(碾磑)は無く、B群の時代に搗き臼(水碓)は無かったことになってしまう。これは無理な想定だ。
そして、B群の『旧唐書』では碾磑の害が指摘され、撤去命令がたびたび出されたとある。
『旧唐書』大暦十三年(七七八)、詔有りて白渠水の支流の碾磑、民の田を漑すを妨げるを以て、毀ち除かしむ。
この詔からB群の「碾磑」は挽き臼・搗き臼を問わず「水力をもって製粉をする装置全体」を指す意味であることが分かる。挽き臼のみを禁止・撤去し、搗き臼は放置するなど考えられないからだ。
A群はさらに明快だ。
B群で「水碓」は水碾・水磑といった語で代替されたと考えることも出来ようが、A群には「碾磑」は全く無く、類似の語も見られない。
註6の通り、挽き臼(碾)は漢代から存在しているから、A群の「水碓」は「挽き臼を含めた表現」と判断されるのだ。(註9)
因みに、B群では『旧唐書』等に「水碾磑・水磑」、『魏書』等に「水碾」、『宋史』に「水磑碾碓」等の折衷形がある。また、A群の『南斉書』『南史』に「水碓磨」、『明史』に「水磨」とあり、これは「水碓」には「磨=磨り臼」の意味も含まれることを示している。
6、三輪氏らによる調査結果の概要
I 原鉱の湿式微粉砕に使用
石臼調査結果の詳細は『古代学研究』第一〇八号に記されているが、三輪氏はその結果概要を別途次の様に述べられている。
「ところで、この臼は何を挽いたのであろうか。小麦だろうか。私はこの調査を行うまで、小麦であることを半ば期待していた。ところが答はノーであった。臼の目の形は、頂上が平らでしかも滑面になっているのである。これでは小麦の皮を破ることは不可能である。それに主溝が異常に深い。この目から、水を流しながら鉱石の粉鉱物質の原料、朱か金の原鉱を湿式粉砕するのに使用されたと推測した。古代における朱の製造は寺院の建設には必要不可欠であった。」(ブログ「観世音寺碾磑調査」より)
II 不自然な「臼の目」
そして、この三輪氏らの調査で不可解な事実が判明している。それは上下の臼の溝目の方向が反対であることだ(図2)。つまり逆さにしてかぶせれば「同一方向の目」となり、粉砕物の送り出しがきかない。逆目なら目の交点が出来、これが回転につれ外に動き、中央部の供給口から投入された粉砕物を排出できるのに逆だ。
これは特異なことで、三輪氏によれば考えられる理由は、
「中国(あるいは我が国かも知れないが)で小麦製造その他の用途に使われていた碾磑の中古品を、上下石の組み合わせを変えて使用した。後述するように小麦製粉は無理としても、湿式粉砕(水流を利用する水挽き)であれば、水流による送り出し作用があるの で、実用上差支えなかった。(『古代学 研究』第一〇八号・十頁)」からだという。

つまり観世音寺の「碾磑」は中古品の再利用である可能性を指摘されているのだ。
次に、その可能性を検討してみよう。
7、推古十八年記事との関係
『日本書紀』では推古十八年に高麗僧曇徴が作り、これが碾磑の始まりと記されている。
(1) 『日本書紀』推古十八年(六一一)春三月に、高麗の王、僧曇徴・法定を貢上る。曇徴は五経を知れり。且能く彩色及び紙墨を作り、併て碾磑造る。蓋し碾磑を造ること、是時に始まるか。(註10)
しかし、この石臼の通常は考えられない「目」と、三輪氏の「再利用」との考察から考えれば、この碾磑は後代「冶金」目的に、異なる碾磑を組み合わせて造られたのであり、推古十八年曇徴によって作られたものではないことになる。高句麗僧曇徴が、渡来して最初に、食料の製粉に使用できない極めて異例な碾磑を造ったとは考えられないからだ。
「碾磑を造ること、是時に始まるか」とは、その後も碾磑が造られたことを示しており、現に東大寺や唐招提寺から「碾磑」様の石臼が三輪氏らによって確認されているから、こうした既存の碾磑を冶金目的に再加工した可能性は十分考えられるだろう。もちろん下臼に合わせて上臼を新たに造った(或はその逆)も当然考えられよう。
8、結論
以上のように、観世音寺に現存する「碾磑」と称する石臼は、科学的検討結果と、『書紀』『筑前国続風土記』『二中歴』『勝山記』『日本帝皇年代記』等の文献資料、律令、考古学的編年がよく整合しているところから、「白鳳十年観世音寺の建立時、朱(ベンガラ)の原鉱(鉄鉱石等)を湿式微粉砕するのに使用されたもの」である可能性が極めて高いといえる。
今後渠残存物の更なる分析等によって、こうした石臼の用途が解明されることを期待する。
註
(註1)写真及び図等は、三輪茂雄・下坂厚子・日高重助「太宰府・観世音寺の碾磑について」(『古代学研究』第一〇八号・一九八五)より引用。写真は三輪氏らによる現地調査時の撮影。
(註2)三輪茂雄(一九二七~二〇〇七)元同志社大教授。専門は粉体工学。『粉体工学実験マニュアル』(一九八四)『粉の文化史 -- 石臼からハイテクノロジーまで』 (一九八七)『粉と臼』(一九九九)他多数。
(註3)「古代における建造物塗装は、瓦に付着する顔料に基づいて検討した。塗装の際にはみ出して付着したと考えられる顔料をもとに推定すると、奈良時代以前の日本においては、建造物塗装に用いられた赤色顔料としてはいわゆるベンガラによる塗装しか今のところ認められず、水銀朱や鉛丹による塗装は確認されなかった。」朽津 信明『歴史的建造物における塗装の変遷に関する研究』(東京文化財研究所主任研究員)
(註4)高田潤『ベンガラの歴史と材料科学的研究』(岡山大学大学院教授)による。
なお、ベンガラのすべてが天然赤鉄鉱を粉砕し製造されたものではなく、より色鮮やかではあるが少量しか生産困難な鉄バクテリア由来の「パイプ状ベンガラ」、色は落ちるが大量に供給できる鉄分を多く含む黄土、含水酸化鉄や褐鉄鉱性の風化土壌等を原材料とする「丹土ベンガラ」などもある。また可能性は低いが水銀朱の材料である「辰砂」を粉砕した可能性も含めり、今後より詳細な石臼の用途の分析が待たれるところだ。
(註5)『勝山記』は、甲斐国(山梨県)の河口湖地方を中心とした年代記。六世紀から十六世紀まで書き継がれたものとされている。
『日本帝皇年代記』は二〇世紀初頭に発見紹介された薩摩入来院家に伝承されている文書の二九番で、歴代天皇の年代記。
(註6)漢代の遺跡からは「碾(碾子とも)」が出土しているが、小麦が普及するのは唐代だから、当時の「碾」の用途は米の精米が中心。中国では現在も精米を「碾米」と称する。
(註7)唐代のころから小麦が麦類の中心となった。穀物類の中で小麦の製粉はとくに微粒子の麺*(めん)(パウダー)にする必要があるので,小麦の普及につれて磑(がい)(磨ともいう。すりうす)も普及してきた(『世界大百科事典』)
麺*は、麺の異体字。JIS第三水準ユニコード9EB5
(註8)なお『養老令』は現存せず、我々が令を知る方法は『令義解』を通じるしかない。かつ義解は令についての「公定力」を持つので、令の解釈は義解によるほかないから、「『令義解』をあげて『養老令』を無視している」と言われても困惑するほかない。また、『養老令』編纂から『令義解』編纂までは中国は「唐代」、日本側も政権や官僚組織は連続しているから、「碾磑」の認識が令・義解で異なる要因はないと考えられる。
(註9)二四史外で「水碓」は『徑山志』1、『天童寺志』1、『西天目祖山志』1、『重修曹谿通志』1。これら史書にも「碾磑」は見えない。
(註10)六一一年は隋代だが、『隋書』には「碾磑」は無く「水碓」とある。これも碾磑と水碓が区分されていないことを示すものだろう。
表1、「二四史」中の水碓・碾磑史書群表

| 表1、 「二四史」中の水碓・碾磑史書群表 | |||||||
| 史書群 | 史書 | 水碓 | 碾磑 | 水碾磑 | 水碾 | 水磑 | その他 |
| A群 | 晋書 | ○ | ○ | ||||
| 三国志 | ○ | ||||||
| 宋書 | ○ | ○ | |||||
| 南斉書 | ○ | 水碓磨 | |||||
| 南史 | ○ | 水碓磨 | |||||
| 隋書 | ○ | ○ | |||||
| 明史 | ○ | 水磨 | |||||
| 後漢書 | ○ | ||||||
| B群 | 旧唐書 | ○ | ○ | ○ | ○ | ||
| 新唐書 | ○ | ○ | ○ | ||||
| 北斉書 | ○ | ○ | ○ | ||||
| 金史 | ○ | 水磨 | |||||
| 北史 | ○ | ○ | ○ | ○ | |||
| 旧五代史 | ○ | ||||||
| その他 | 元史 | ○ | ○ | ||||
| 魏書 | ○ | ||||||
| 宋史 | 水磑碾碓・水磨 | ||||||
| 遼史 | ○ | ||||||
| ○は史書中に標記の語の見えるもの | |||||||
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