2013年4月8日

古田史学会報

115号

1,中島嶺雄君に捧ぐ
  古田武彦

2,隼人原郷
  西村秀己

3,七世紀の須恵器編年
前期難波宮・藤原宮
・大宰府政庁
  古賀達也

4,観世音寺の「碾磑」
  正木裕

5,三角縁神獣鏡研究事典
  岡下英男

6,「元興寺」と「法隆寺」(一)
「維摩経疏」残巻と「元興寺」の関係
  阿部周一

7,穴埋めヨタ話7
「自天祖降跡以逮」とは

 

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割付担当の穴埋めヨタ話7 

「自天祖降跡以逮」とは・・・・

西村秀己

彦火々出見の後世文書の各在位期間

 日本書紀神武即位前紀には「自天祖降跡以逮、于今一百七十九萬二千四百七十餘歳。」という、馬鹿げた記事がある。天孫降臨から約一八〇万年経過したとは、いやはや、ニニギってジャワ原人だったの?と驚くような記述である。本稿では何故そんな数字を捻り出したのかを考えてみたい。
 まず「餘歳」の「餘」を確定してみよう。別表をご覧戴きたい。中世の各年代記にはニニギからウガヤフキアエズまでの三代の治世年数を記してある。この合計はほぼ一八〇万年なので書紀と一致する。ただ、各年代記は細かいところで数字が異なるのだが、概観してわかるように、「皇代記」が一番正しいように思えるので「餘」を「六」としてみよう。
 「今」とは神武即位の六年前すなわち紀元前六六七年であるから、これは紀元前一七九万三一四三年にあたり、戊寅年でもある。(この年を仮に「書紀上元」と名付ける)これは戊寅元暦の上元年を連想させる。岩波の補注3‐五にも「この数の根拠について、飯島忠夫は、余歳を参天台五台山記・簾中抄などに載せた数によって六歳と定め、唐の武徳九年に造られた戊寅元暦の上元戊寅の年とする計算であろうという」とある。ところが、この上元年は紀元前一六万三七二三年で一桁異なる。飯島さんがどういう計算をしたのか知りたいところだ。
 さて日本書紀完成の年は紀元七二〇年庚申である。ここから、(1)百年単位であり(2)同じ干支を持ち(3)神武即位前であることを条件に遡ってみると、千五百年前の紀元前七八一年になる。これと戊寅元暦上元までは一六万二九四二年差となる。さらに、戊寅元暦上元からこの十倍の一六二万九四二〇年を遡ると、ぴったり書紀上元となるのである。
 つまり日本は唐の十一倍も由緒正しいのだぞ、言いたいのではあるまいか。但しはっきりと「・・六歳」と書いてしまえば、その意図が明らかになってしまうので「餘歳」と誤魔化したのではないだろうか。
 各年代記で全て一致している彦火々出見の治世は六三万七八九二年で、古事記の「故日子穗穗手見命者坐高千穗宮。伍佰捌拾歳」とは全く異なる。だが、六三万七八九二を十一と更に百で割ってみると五七九.九となり五八〇とほぼ一致する。これって偶然だろうか。諸兄のご批判をお待ちする。
 「戊寅元暦」=唐の傅仁均によって編纂され武徳年間から麟徳元年まで施行された唐王朝に採用された初めての暦。


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