2013年4月8日

古田史学会報

115号

1,中島嶺雄君に捧ぐ
  古田武彦

2,隼人原郷
  西村秀己

3,七世紀の須恵器編年
前期難波宮・藤原宮
・大宰府政庁
  古賀達也

4,観世音寺の「碾磑」
  正木裕

5,三角縁神獣鏡研究事典
  岡下英男

6,「元興寺」と「法隆寺」(一)
「維摩経疏」残巻と「元興寺」の関係
  阿部周一

7,編集後記
穴埋めヨタ話7
「自天祖降跡以逮」とは

 

古田史学会報一覧

「古田史学」の理論的考察 古田武彦(会報116号)
古田史学の真実 -- 西村論稿批判(古田武彦会報118号)
続・古田史学の真実 -- 切言 古田武彦(古田史学会報119号)

欠史八代」の実相 西村秀己(会報118号)


隼人原郷

高松市 西村秀己

 隼人とは「南九州に居住する異族」である、という解釈が通説である。国史大辞典の「隼人」の項には、

 古代の日向・大隈・薩摩の地域に、狩猟・漁撈を中心に農耕生活を営んでいた人々が、長らく文化的にも孤立していたため、中央政府から「夷人雑類」と見做されていたのが隼人である。

 とある。だが、本当に隼人は南九州の異族なのだろうか?定説的解釈が真実ならば、隼人と熊襲はどう違うのであろうか? 本稿はそんな隼人の真の故郷を探そうとする試みである。

 まず、日本書紀・続日本紀に現れる隼人記事を概観して浮かぶ姿は次の如きものである。

(1) 西暦七〇〇年までは、隼人と朝廷の関係は概ね良好であり、それ以降隼人の叛乱が相次ぐ。

(2) 七〇〇年以前に九州において、朝廷と争うのは全て熊襲である。

 これらは、一元史観では到底理解不能であるが、多元史観を導入すれば明快だ。先の(2)はその多くが古田武彦氏が「盗まれた神話」の中で、「九州王朝史からの盗用」と論証した部分に当たる。
すなわち、
九州王朝 対 熊襲
大和朝廷 対 隼人

という構図が浮かびあがる。
 さらに(2)の内、景行の九州大遠征においても、隼人は一言半句も登場しない。では、前つ君の時代、九州には隼人は存在していなかったのだろうか?だが、神代紀海宮遊幸の段には、

 是を以ちて火酢芹命の苗裔諸の隼人等、今に至るまでに天皇の宮墻の傍を離れずして、代に吠ゆる狗して奉事る者なり。(第十段一書第二)

とある。「至今 いまにいたるまで」とは「この時から今までずっと」という意味だ。また、「天皇の宮墻」とは近畿ではあり得ない。確かに清寧元年には

 隼人晝夜み陵の側に哀號ぶ。食を與へども喫はず。七日にして死ぬ。有司、墓を陵の北に造りて、禮を以て葬す。

とあるように、いかにも隼人が近畿天皇家に仕えていたかのような記事がある。しかし、

 清寧四年 蝦夷・隼人並内附
 欽明元年 蝦夷・隼人並率衆帰附
 斉明元年 蝦夷・隼人並率衆内属

とあるように、この時までは隼人は蝦夷と同じく近畿天皇家には属していないのだ。つまり、この「天皇の宮墻」は北九州を指す。
 従って、隼人は前つ君の時代、九州に確かに存在した。征服される側ではなく、征服する側に。

 では、考古学的にはどうだろう?筆者は考古学に関しては全く無知なので、二〇一二年十月「熊襲・隼人の原像」の著者で宮崎県埋蔵文化財センター所長の北郷泰道(ほんごうひろみち)氏に電話にて取材した。以下はその要約である。

 西村)南九州において、空間的或いは時間的に二種類の種族が存在した考古学的痕跡があるか?

 北郷)無い。南九州に固有のものが連綿と続いている。
 西村)では、熊襲と隼人の違いをどう考えているのか?
 北郷)かつて、熊襲であった種族が四世紀頃から「隼人」と呼び名を替えた、と考えている。

 つまり、現地の考古学の専門家さえ、南九州には二種類の異族がいたという認識はないのだ。だが、北郷氏の言うように、「熊襲」から「隼人」に呼び名を替えたのならば、日本書紀は「・・・熊襲(今謂隼人)・・・」と記述するのではあるまいか。

 さて、藤原広嗣は天平十二年九月三日に北九州にて乱を起こすが、広嗣軍の主力は隼人である。

 広嗣親自ら隼人の軍を率ゐて前鋒と為る。

そして、

 即ち隼人らに呼ばしめて云はく、逆人広嗣に随ひて官軍を拒捍く者は、・・・
 朝庭の遣せる隼人ら扶け救ひて、遂に岸に着くこと得。仍ち降服へる隼人二十人、広嗣の衆十許騎。

 広嗣の乱においては、広嗣軍に従うは隼人のみのような印象を受ける。また、彼らに投降を呼びかける者たちもこれまた隼人である。

 では、隼人とはどのような存在であったのか?
 高天原より降臨した天饒石國饒石天津彦火瓊瓊杵尊には兄があった。天照國照彦火明命である。かつて、古田武彦氏はこの関係を、マッカーサーとルーズベルトと評した。すなわち、火明が本国の支配者(トップ)であり、瓊瓊杵は占領地の支配者(ナンバー2)である。ところが、後の九州王朝の支配者は瓊瓊杵の系譜である。つまり、この間にトップの逆転劇があったことになる。この逆転劇を描いたものが、「海宮遊幸」の物語ではあるまいか?紀の本文でこそ長兄の海幸は火闌降なのだが、後の一書では長兄を火明とするものも多い。物語の上では伯父と同じ名を持つのである。さらに云うならば、海幸の海は「天 あま」を暗示し、山幸の山からは邪馬壱国の「邪馬 やま」が連想される。そしてこの海幸から隼人が生まれた。
 この考察が正しいとすれば、隼人の故郷は天国(あまくに)すなわち壱岐となろう。隼人は壱岐の兵士だった。であるならば、魏志倭人伝の描く「一大率」は隼人の集団の可能性が高いのではなかろうか。
 百歩譲ってみても、瓊瓊杵が降臨したのは、博多近辺の日向である。そこで出会った娘との間に生まれた者が隼人の祖とされているのだから、少なくとも隼人の原郷は北九州となるべきだ。元来は降臨先を南九州としてきた。だから隼人も南九州の種族と考えられてきた。古田武彦氏によって、この前提が崩れたのだから、通説派はいざ知らず、我々は論証抜きに隼人を南九州の異族とするべきではない。

 天孫降臨以前、熊襲は九州全域に居た。これが隼人を内包する侵略軍に追われ、遂には南九州の異族となった。そして、王朝交代が明瞭となる文武四年、これに反対する隼人の反乱が始まる。隼人もまた近畿軍に追われ、南九州に押し込められる。隼人の乱の一応の終熄を見る七一三年、九州年号も終焉を迎えるのである。(大長年号については古賀達也氏の論文を参考にされたい)
 近畿王朝は九州王朝の存在を隠すのだから、当然、九州王朝勢力下の隼人に対しても同様の処置を執らざるを得ない。これが隼人に冠するに、南九州の地名しか付けない理由ではなかろうか。
 隼人は日本国内の異分子となった。これに対し蝦夷は依然日本国外の存在である。これが養老律令に「隼人司」は存在するが「蝦夷司」が存在しない訳であろう。

 


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