「古田史学」の理論的考察 古田武彦(会報116号)
中島嶺雄君に捧ぐ
古田武彦
一
わたしは思い出す、あの北アルプス連峯に抱かれた街、信州松本の街並みを。そこで君は育った。幼児の音楽教育を開発した、鈴木鎭一さんの「暗譜(あんぷ)」を学んだ。一家でヴァイオリンを弾く、君の「家風」が樹立されたのだね。
わたしにとっても、松本は「音楽の町」だった。昭和二十三年(一九四八)四月、深志高校の新米教師として赴任したとき、当時流行の電蓄(電気蓄音機)を買ってきて、昼休には校門のそばの芝生で鳴らした。シューベルトの「冬の旅」やダミアの「ソンブル・ディ・マンシュ」、ドイツ語やフランス語の歌を流したね。
君はフランス語のクラスで、私の無二の親友、並木康彦君の教え子だったから、きっとあの時も、聞いてくれていたにちがいない。
あるいは、わたしのレコードがあの街の喫茶店で流されていたとき、君も聞いてくれたかもしれない。
「あの東洋のアルプスの静かな麓町流れゆいた」
わたしの「歌詞」も、耳にしたかもしれない。浅間温泉で並木君と「共生」していたのが、当時のわたしだったから、な。
二
それなら、話したかった。松本市で市民合唱の、ベートーヴェンの第九が企画されたとき、わたしは全歌詞(ドイツ語)を翻訳して、みんなに配布した。訳してみると、(当然ながら)全編「キリスト賛歌」だ。
「日本のメンバーはクリスチャンばかりじゃない」
そう思った。ドイツは「キリスト教、単性社会」だ。だが、日本はそうではない。この「矛盾」は? 君と語りたかった。「知の鎖国」と「知の開国」を熱論している、君と語りたかった、な。
わたしの「結論」はハッキリしている。
「閉ざされた第九から、開かれた第九へ」
人類の未来は、ベートーヴェン以上の「天才」を待ち望んでいるのだ。
三
あのとき、君はいたのかな。松本深志のフランス語の授業で、東京大学教授の渡辺一夫さんが「代講」を勤められたときだ。
前夜、浅間温泉で、渡辺さんを歓迎して飲んだ。渡辺さんは、深志のフランス語の授業を視察に来られたのだった。ところが、翌朝、並木さんは起きれない。君も承知の通り、彼は朝が苦手。夜に目が覚める口(くち)だ。彼の下宿(旅館)で、待ったけれど、どうしても駄目。仕方なく、わたしが渡辺さんをタクシーに乗せ、ギリギリ、時間の寸前に到着。わたしが「今日は、東大の渡辺教授の『代講』です。」と生徒に紹介した。前代未聞の光景、君も覚えているかな。なつかしい。
四
残念なことが、一つある。君に招かれて、秋田国際教養大学(AIU)へ行ったときのことだ。見学した、全授業。英語、それは額面通りだったけれど、「日本史」の授業が“お粗末”だった。すでに映像化されていたフィルムで映写し、若干の解説を加えただけ。これでは「看板だけ」で「正味 しょうみ」がない、そう感じた。一緒に行った人々(大下さんなど)も、同感だった。
もちろん、他の大学のいずれの「日本史」も、似たようなものだ。いや、もっとひどいだろう。「日出ず(づ)る処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙(つつが)なきや。」隋書イ妥國伝の「名文句」、あの多利思北孤(タリシホコ)という男性を、近畿天皇家の女性、推古天皇と「同一人」として、明治以来、教えつづけてきた。文字通り、「知のロボット」を大量生産する、それを「公の教育」と稱してきたのだからね。
それこそが、君の言う「知の鎖国」状態、そのものだ。「男を女にして女を男にする」以外は、何でもできる。これが専制政治形容の「定き まり文句」だ。だが、明治以降、平成に至る日本の「公の教育」はその「専制君主」にも、出来ないことを、平気でやり通してきた。やはり、君はまだ、この世を去るには早過ぎたようだ。
五
だが、君は去り行く前に、一書を贈ってくれた。『学歴革命 -- 秋田発国際教養大学の挑戦』(KKベストセラーズ)だ。深志時代の、わたしとのかかわり、印象的な「事件」も、見事に記されている。その上、わたしの「新東方史学会」の会長になったこと、さらに、もっとも肝要な、わたしの一言「知り尽くす」こと、それをクローズアップしてくれた。その通りだ。
君は去るに当たって、逆縁ながら、わたしに託したかったのであろう。
「『知の開国』は、これからです。」
と。二〇一三年二月十四日、君はこの世を去った。あまりにも早過ぎる、別れだった。だが、わたしは嘆くより、君の意志を後生に伝えたい。「知り尽くす」ことの決定的な重要さを。
二月二十四日 記了
〈付〉
新東方史学会の新会長は萩上紘一さん。松本深志高校出身、中嶋君の後輩に当る。
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