参照 古田武彦講演記録『神話実験と倭人伝の全貌2』四 泉国(いずみのくに)と黄泉国(よもつくに)
女王俾弥呼より今までを語る伊予(越智)の「紫宸殿」論 古田武彦松山講演会(会報113号)
二〇一一年度 久留米大学公開講座 九州王朝新発見の現在 古田武彦氏講演要約 文責=大下隆司(会報105号)
中島嶺雄君に捧ぐ 古田武彦(会報115号)
「高天原」の史料批判 古田武彦(会報114号) ../kaiho114/kai11401.html「高天原」の史料批判
古田武彦
一
莞爾(かんじ)として死ぬことができる。現在のわたしのいつわらぬ感懐はこれだ。朝夕に、新たな探求と発展の道が拡がり、止むときがない。当然、ある日、わたしの寿命の尽きる日が来よう。それまで、今のような「新発見」の爆発が続くならば、何たる天佑であろうか。
百年あとか、千年か。必ず「知己」が現われ、わたしの銘記する筆端を、深く読み抜いてくれるであろう。 ーー では。
二
今までのわたしは、予想もしなかった。自分の使用してきた『古事記』や『日本書紀』、岩波の古典文学大系本やその他の活字本、さらに『続日本紀』、吉川弘文館の国史大系本も、すべて「編者の主観とイデオロギー」によって「改ざん」されたものであった、とは。思いもしなかったのである。
しかし、ふりかえってみれば当然だった。あの「邪馬壹(一)国」、『三国志』の「紹煕本」や「紹興本」の原表記を捨て、「大和(ヤマト)」と“訓みうる”かに見えた、『後漢書』の「邪馬臺(台)国」を採り、その「邪馬台国」が近畿か九州か、をひたすら“争って”きたのが現今の日本の学界だったからである。
その上、岩波文庫本の「魏志倭人伝」では、「景初二年」を「景初三年の誤」と称し、「会稽東治」を「会稽東冶の誤」と断じ、日本の研究者や一般人の「目」を“狂わせ”て、“恥じず”に来た。とすれば、今回わたしのようやくはじめて“気付いた”ところ、『古事記』や『日本書紀』や『続日本紀』そのものの「活字本」自体に、同じ「改ざんの手」が及んでいたこと、それはむしろ「必然」にして「自明」の結果だったのである。
三
若干の事例を挙げよう。
その一つは「皇居」問題。『日本書紀』の「第九 神功皇后」において次の一節がある。
「天照大神、誨をしへまつりて曰のたまはく、『我が荒魂あらみたまをば、皇后(おほみとも 傍線は古田、インタネットは赤色表示)に近ちかづくべからず。当に御心みこころを広田国に居らしむべし』とのたまふ。」(岩波・日本古典文学大系『日本書紀』(上)、三四四ページ)。
右の「皇后」は本来の「底本」(北野本、熱田本、伊勢本)では、「皇居」である。それが後代版本(卜部系諸本)によって、「皇后」と「改ざん」されているのだ。だが、ここで「皇居」と言っているのは「志賀」(滋賀県)である。(日本書紀では)景行天皇の末期以来の「都の地」がこの「志賀京」だったことが記されている。
仲哀天皇の没後、神功皇后と「タケノウチノスクネ」の「反乱軍」が「都の地」の「カゴサカ・オシクマ」の二皇子(正統の王者側)を攻撃した。「反乱軍」だ。その「反乱」を“弁明”するために、「天照大神の誨え(お告げ)」を持ち出した個所の一節だ。だから「皇居」でなければならない。「皇后」では“意味をなさない”のである。
このような「重大な改ざん」が各所で“平気で”行われている。それに今回、気付きはじめたのである。(注1)
四
その二は、『続日本紀』の巻三、「文武天皇紀」の慶雲四年(七〇七)四月十五日の「詔」である。「依而ヨリテ、多利麻比氏*(タチマヒテ ーー 傍点は古田)夜々弥賜閉婆(ヤヽミタマヘバ)・・・・・」
右の多利麻比氏*は「原本」(宮内省図書寮所蔵・谷森健夫氏旧蔵本)では、「タリマヒテ」であるが、この「国史大系本」では「タチマヒテ」と“傍訓”している。その理由は、上欄にしめすように、「利、宣長云う、恐らくは当に知に作るべし。」と、本居宣長の「説」に従って“訓み変え”ているのである。ところがその宣長自身の説くところでは、「多利麻比弖夜々彌賜閉婆、此所誤字あるか、すべて心得がたきを強シヒて試みにいはば、多利麻比は、利ノ字は、草書似たれば、知の誤りにて、立廻(タチマヒ)なるべし。」(『続紀歴朝詔詞解』第一巻、「本居宣長全集第七巻」、筑摩書房刊、二〇八ページ)とのべている。
この宣長の「説」は、実は師の賀茂真淵からの継承だった。
「多利麻比弖夜々彌賜閉婆、忌思事爾、コハイカナル事ニカ、誤事ナトアルヘキカ、」(A)
本書の頭に書給ふ如く、利は知の誤なるへし。立廻てと云へし、やゝ見も、漸観なるへし、」《校訂者注、ココニ云ウ『本書』ハ、宣長が『続日本紀』ヨリ抄出シテ贈レル宣命ノ抄本ヲ指ス》(B)
(「続紀宣命辞不審」『本居宣長全集』第七巻、筑摩書房刊、五ページ上段、所収)
右の(A)は宣長の質問、(B)は真淵の回答である。先述の宣長の「説」が、真淵の「説」の継承であることが知られよう。
けれども、この「真淵・宣長説」には大きな盲点がある。「日出ずる処の天子云々」の「名文句」を掲載した『隋書』?国伝では、その国主(天子)の名は「多利思北孤(タリシホコ)」である。また藤原朝臣・鎌足(カマタリ)も、この動詞「タリ」であるから、この「タリマヒテ」の「タリ」を斥しりぞけ、「立ち」と“改ざん”すべき理由がない。いわんや「国史大系本」が、この個所の“訓み”の「タリ」を「タチ」と「改ざん」すること、全く不当である。
現代の「国史大系本」が、「国学の権威」に“盲従”している、という他はない。
五
以上は、「書誌学」上では“正論”であっても、文意全体、すなわち古典そのものの姿からは“論ずる”ほどのことならず。そのように感じるひとも少なくないであろう。しかし、次の事例は重大だ。これは『続日本紀』第一の冒頭(文武天皇)の「詔」(元年(六九七)八月十七日)に出現する。
「詔テ曰ク現御神(アキツミカミ)止大八嶋国所知(シロシメス)天皇大命(スメラガオホミコト)……(中略)高天原(タカマノハラ)尓事始而(ニコトハジメテ)」の一段である。この「尓」について、上欄注では
「尓」、原乎に作る。今、下文、神亀元年(七二四)二月の詔に従う。○御世、宣長の説に據りて補う。」と記せられている。この点、やはり宣長が「高天原爾、爾ノ字、本どもに乎と作(カケ)るは誤也、第五詔に高天ノ原爾事波自米而(タカアマノハラニ、コトハジメテ)とあるによりて、今改メつ。」(前記書、一九八ページ、一行目)と述べている。「国史大系本」はここでも、この「宣長の説」に従って「乎(ヲ)」を「否(ノウ)」とし、「爾(ニ)」を「是(イエス)」とすべき旨を注記したのである。
わたしははじめ、不審だった。「こんな些細な点まで、なぜ宣長は“手直し”しようとするのか」、それが理解できなかったのである。
だが、ここには「重大な天地図」の問題、宇宙観の是非が、この一語の「深相」に存在していたのである。
六
すでにわたしは「本居宣長批判」、「続本居宣長批判」の二文を書いた。(注2)
古事記の神話の冒頭「国生み神話」の舞台は、九州である。壱岐島の北端部にある「天の原海水浴場」(現在)の地域がその「現場」である、と。 イザナギが、「黄泉(ヨミ)の国」から逃げ帰った、という「黄」は「キ」、紀伊(和歌山県)の領域だ。「泉」は「イヅミ」。「泉州」(大阪府、和歌山県寄り)である。現在、関西空港のある地帯だ。この二つの具体的な「地域名」に対して、中国風の「黄泉」という“当て字”を行ったに過ぎない。 右の「黄泉」が出発点だ。同じく“帰着点”も、博多湾岸(西寄り)の「竺紫(チクシ)の日向(ヒナタ)の橘(タチバナ)の小門(オド)の阿波岐(アハキ)原」という、福岡県内の具体的な一地名の場へと“到着”しているのである。
「国生み」の場の「淤能碁呂(オノゴロ)島」はもちろん、博多湾岸の、九州本土と壱岐島との間にある「能古(ノコ)島」が「現地のモデル」となっている。
同様に、今問題の「高天原」もまた、壱岐島北端部の「天の原海水浴場」の地が、「現地鑑」をしめす「現場」なのである。決して“抽象的な”、何十万メートルもの「上空の全体」などを指す言葉ではない。いずれも、日本列島西半部の「具体的な地名」を現地とする「具象神話」だ。これが神話の本来の姿なのである。
七
以上の、わたしの「解説」が何を“言おう”としているか。すでに明敏な読者にはお判りであろう。「記紀神話は、西日本各地の『地名鑑』をもとに語られている。」
この基本視点だ。だから、ここに出てくる「高天原」は決して「何十万メートルもの上空全体」を指す言葉ではない。例の「天の浮橋」も海士(アマ)族の日用器具として、陸から舟へ“飛び移る”ときに必要な一メートル前後の長さの「踏み板」のことだ。現在でも、隠岐島(島根県)や広島県では“常用”されている「日用語」なのである。この点、すでにわたしは何回も書いた。
八
本居宣長の「観念」は、これとはちがっていた。「高天原」は“何十万メートルもの上空”の全体であり、「天の浮橋」はそこからこの日本列島へと、天孫「ニニギノミコト」の降りて来られる、壮大な「虹の」ような“かけはし”だった。わたしの少年時代(敗戦前)の教科書には、その「画」が描かれていた。それは「宣長のイメージ」の「教科書化」に他ならなかったのである。それは敗戦後、墨で“消され”た。「周知」のところだ。その宣長は「自家の観念」に立って『続日本紀』を見た。だから先述の「高天原を、事始めて」(α)では「理解できなかった」のだ。そのためにこれを「高天原に、事始めて」(β)と“手直し”したのである。右の(α)の場合なら、「この高天原の現場での出来ごと」という意味となろう。しかし宣長風の「何十万メートルもの上空」としての「高天原」の場合には、文脈上の“つじつま”が合わない。そのため、これを「高天原に、事始めて」と手直しした。「自家の観念」に合わせ、その「観念」に合うように、「原文」を「改ざん」したのであった。これもまた今は、「墨で消さるべき」筋合いの「改ざん」ではないか。 国史大系本は、この「宣長風の観念」を上欄注に記したのである。
九
宣長の“手直し”の「方法」は次のようだ。 先述のように「今、下文、神亀元年二月の詔に従う。」と述べている。しかし、これは不当だ。なぜなら、今当面している第一回の「高天原乎」を第二回目の「高天原爾」と“併あ わせ”て「同一文」化しようとするものだからである。
第二回目の「使用法」は、当然ながら第一回目の用法を「前提」とし、それを“受けて”記述されている。それなのに、宣長は「第二回目の用法」に“併あわせ”て、第一回目の事例を“書き変え”るのだ。なぜか。
その“書き変え”によって、自家のイメージする「高天原」、「何十万メートルもの上空」に当てた「壮大なる、高天原幻想」を“維持できる”と考えたからである。この「乎(ヲ)」と「尓(爾(ニ))」との異同は、その本質において決して「些少」ではない。古典理解の根幹を“問う”べきテーマだったのである。
十
『続日本紀』第一の冒頭部、「文武天皇の項」に次の一節がある。
「高天原広野姫天皇(持統也 ーー 傍記)十一年ニ立テ皇太子ト為ス」(一ページ)。
持統天皇の息子、日並知皇子がはやく没したため、持統天皇の孫に当る文武天皇が皇太子となり、ついで即位したのである。問題は、右の持統天皇に対する尊号だ。ここに例の「高天原」の三文字が現われている。先述の「高天原乎事始而(下略)」の一節は、右の直後(二行あと)の記事なのである。この「高天原、理解」が続日本紀全体にとって“重要な三文字”であることが知られよう。
その三文字の「基礎概念」のもととして、宣長は「乎」から「爾」へ、という、一見ささやかな、しかし本質的に「重大なる改ざん」を提起したのだった。国史大系本(吉川弘文館)は、この「宣長私案」に従って、上欄に注記したのである。
十一
右の「高天原」問題は、一端である。岩波の日本古典文学大系の『古事記』『日本書紀』や、吉川弘文館の「国史大系本」の「活字本」のもつ「改定」の一端にすぎない。他にも、次のような諸例が“目白押し”だ。
〈その一〉「我が魂」に「わがみたま」という“訓み”を付している。(『日本書紀』・神功紀)(注3)
〈その二〉「アマテル」(北野本)を消して、「天照大神(アマテラスオホミカミ)」に統一している。(注4)
〈その三〉巻九の表題の「神功」(北野本)を「神功皇后」(熱田本以降)と「改記」している。(常陸国風土記では「神功」は天皇と表記。仲哀亡きあと、長期間の摂政表記は不自然)。
〈その四〉天照大神の「御誨」(お言葉)中に「御心(ミココロ)」の表記が出現している。「アマテル」は最高神ではないのである。(古田『古代史を疑う』の「阿麻氏*留大神」参照)。しかし、岩波の日本古典大系本ではすべて「神々の中の最高神」の立場から「原文」(北野本)を改定して「新定本」を作製している。
阿麻氏*留(アマテル)の氏*は、氏の下に一です。
〈その五〉『日本書紀』「神功紀」の天照大神(アマテル)の「御誨」(お言葉)につづき「稚日女(チヒメ)尊」や葉山媛が出現している。
「稚日女(チヒメ)」は「稚(チ)(「神」以前の“古き神”)」と「日女(ヒメ)」(女性の太陽神)を示す。この点、『日本書紀』「神功紀」の上欄注では、釈紀所引の私記や先代旧事本紀によって「天照大神の子」や「天照大神の妹」説をもって解説している。「天照大神の絶対中心」というイデオロギーにもとづく解説である(岩波・古典文学大系『日本書紀(上)』一一四ページの上欄注一)(注5)
以上のように、従来の『古事記』『日本書紀』また『続日本紀』は従来説(近畿天皇家中心の一元史観)に“合う”ように「原文」を各所で「改ざん」しているのだ。
今後、これらを逐一「再検証」しなければならない。
すでにわたしは京都大学の文学部図書室において『日本書紀』の北野本や熱田本を熟覧した。その写真・複製本の到着を待って、各個所の再点検を行いたい。また宮内省図書寮(皇室書陵部)の谷森健男氏旧蔵本の「巻一~三」の全体(写真版)を入手し、本稿に取り上げたような諸問題を逐次再点検させていただきたいと思う。わたしの余命がもしそれを許すならば。
以上。
(注1)「『仲哀・神功紀』の史料批判」Tokyo古田会News No.147 「閑中月記」(第八十一回)所収、参照。
(注2)「本居宣長批判」Tokyo古田会News No.140 「閑中月記」(第七十三回)、「続本居宣長批判」同News No.141、同(第七十四回)所収、参照。
(注3)前記(注1)参照
(注4)北野本の「アマテル」という“訓み”は、日本書紀・神功紀(岩波・日本古典文学大系本)には「表記」されていない。(京都大学文学部図書室の「北野本」複製本で確認した)。
(注5)岩波・日本古典文学大系本『日本書紀(上)』の依拠した「史料批判」の“手法”については、同書六〇六ページの「仲哀・神功紀の構成とその成立」に詳しい。筆者は井上光貞氏。
二〇一二・十二月八日 記了
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