学問の方法と倫理(六)史料批判か史料否定か

古田史学会報 2001年 2月22日 No.42


学問の方法と倫理(六)

史料批判か史料否定か

京都市 古 賀 達 也

 西尾幹二氏の大著『国民の歴史』(産経新聞社)が売れているそうである。氏は「新しい歴史教科書をつくる会」の代表であるが、「亡国の教科書」(注1.)に代わる「新しい歴史教科書」を作ろうという主旨に理解しうる点、少なくはないのであるが、古代史についてどのような立場がとられるのか、小生は注目していた。というのも、西尾氏自身、歴史教科書において最大の課題は「従軍慰安婦」問題などをかかえている近代史ではなく、古代史であると発言されていたからであった(注2.)。さらに、同会主催のシンポジウムにおいて、九州王朝説を認めるべきとの会場からの発言に対して、パネラー(岡田英弘氏・常磐大学教授)から、「九州王朝はなかった」との発言がなされていたからでもある(注3.)
 すなわち、西尾氏ら「新しい歴史教科書をつくる会」の主要メンバーは古田史学・九州王朝説の存在を熟知されているのだ。「進歩的文化人」や「戦後サヨク」からの「新しい歴史教科書をつくる会」への批判(注4.)に対しては、有効な反論を行い得ていた彼らにとって最大の難関が古田説・多元史観であることは、こうした発言からも、十分に予想できた。
 彼らの基本スタンスは、戦後の対米屈服歴史観(自虐史観)に対抗して、日本民族のアイデンティティの再構築にあると言っても、大過ないと思われる。彼らの作る「新しい歴史教科書」がどのような内容かは今のところ不明だが、その代表者の西尾氏の著書『国民の歴史』に関しては、それは「新しい歴史教科書」というよりは、江戸時代の松下見林まで先祖帰りした「古き古代史観」のようである。
 古田氏はその精緻かつ実証的な史料批判の方法を駆使し、中国史書や「記紀」を史料根拠として多元史観の地平を切り開いた。そうした古田説に対して、通説側は「無視」という対応を選んだのであるが、西尾氏は「魏志倭人伝は歴史資料に値しない」という、歴史学の常道である史料批判ではなく、史料否定という道を選ばれた。これは歴史学にとって「自殺行為」である。氏がこうした道を採られたのは、中国史書による限り、そこに記された倭国が大和朝廷であるとする一元史観を維持できないことを知悉されていたからではあるまいか。結局のところ、「新しい歴史教科書をつくる」という看板とは裏腹に、西尾氏は一元史観から一歩も出ることなく、松下見林が用いた方法「中国史書の否定」という「より古き教科書」への道を選ばれたのである。
 この西尾氏の立場「史料否定」と古田氏の史料批判とは、その意味するところ大きな隔たりがある。必要にして充分な論証なしに、現代人の認識や「都合」により史料を書き換えてはならないとする古田史学の史料に対する根本精神は、当たり前のようでありながら、それを貫き通すことはたやすいことではない。たとえば、古田氏が魏志倭人伝に対してとられたその方法を和田家文書に対しても同様にとられたのだが、その結果、少なからぬ古田支持者が古田氏の学問の方法を理解できず、偽作キャンペーンに踊らされ、氏から離れたことは記憶に新しい。
 史料否定という道は史料事実からの逃避であり、歴史の重みからの逃避でもある。対して、フィロロギー学はこうした道とは正反対である。いかなる史料も人間の手が加わっており、その執筆者・作成者の認識を再認識し、それを通じて史料価値を判断し、歴史の真実に肉薄するという学問がフィロロギーなのである。
 こうしたことは、古田学派では今さら言うまでもない学問の方法であったはずだが、残念ながら西尾氏と同類の手法をとる論者もある。たとえば、自説に都合の悪い史料事実を一般的な不審論で否定したり、自説の史料根拠の不在を近畿天皇家による「証拠隠滅」のせいにして合理化する方法は、古田史学とは異質の方法と言わざるを得ない。歴史学に必要なことは、実証的な史料批判であり、史料根拠を示しての論証であるからだ。繰り返しになるが、論証無き史料否定は盲信的な史料肯定と共に歴史学の自殺行為である。
 具体例を上げて論じよう。古田史学の会・関西の論客、室伏志畔氏は神武東侵は糸島から筑豊への侵入であり、記紀に記されているヤマトとはこの筑豊地域であり、天智の近江朝より前の「近畿天皇家」の説話の舞台は筑豊であるとする新説を主張されている。その根拠として、大和と筑豊の地名の一致などをあげられ(注5.)、『日本書紀』に対する不審論を前提に、近畿ヤマト説を否定されたのであるが、この新説が成立するためには、一般的な『日本書紀』不審論による史料否定ではなく、実証的な史料批判が必要である。たとえば、古田氏が論証された次のテーマをクリアすることが最低限必要な手続きであろう。

 一、南方の論証(注6.)
 神武の河内湾突入と撤退ルート(南方経由)が弥生時代の地形に一致しており、八世紀の近畿天皇家の史官に造作できるものではなく、従ってリアルである。

 二、畿内の銅鐸滅亡(注7.)
 畿内に出土していた中期銅鐸が弥生後期になると出土せず、破壊された銅鐸など外部勢力の侵入の痕跡を示しており、いわゆる神武東侵説話と整合している。

 三、大和の初期古墳の吉備の影響(注8.)
 大和盆地の初期古墳に特殊器台など吉備の影響が認められるのは著名な考古学的事実であるが、神武東侵の際、神武勢は吉備に滞在していたと「記紀」に記されている。従って、神武が吉備勢力のバックアップを受けて大和へ侵入したことを、文献と考古学的事実の一致が証明している。

 四、崇神・垂仁天皇による大和盆地外への進出(注9.)
 『日本書紀』崇神紀・垂仁紀には、大和盆地内で勢力を確立した神武の後継たちによる周囲の銅鐸圏への侵略を開始した説話が記されている。これに対応するように、近畿の中心的銅鐸遺跡である東奈良遺跡(大阪府茨木市)などが「滅亡」している。従って、『日本書紀』の崇神紀・垂仁紀の説話はリアルである。

 この他にも、「記・紀」の記述と考古学的事実との一致例は少なくない。これら古田氏が論証された例全てを、古田氏以上の論理性をもって否定できない限り、室伏氏の新説成立は困難ではあるまいか。『日本書紀』は近畿天皇家の利害に基づき「編纂」されているが、たとえそうであっても、必要にして充分な論証無しにその記述を自説に都合よく「修正」「否定」することは、学問の方法として許されない。このことは、古田氏が『「邪馬台国」はなかった』において、「論証無き原文改訂は非」と、繰り返し強調されたところでもある。
「亡国の教科書」に代わる真に「新しい歴史教科書」への道は、古田史学とフィロロギー学を抜きにしては語れまい。西尾氏のような史料否定ではなく、徹底した史料批判により、古田学派は未来の為の歴史学を構築する使命を担わなければならないと、新世紀を迎えて小生も決意を新たにしたのである。

(注)
1. 古田武彦「つばする天空…藤田氏の著作への書評に代えて」、『古田史学会報』 No. 四一所収。二〇〇〇年十二月。

2. 西尾幹二・西部邁「我らをドンキホーテと呼ばば呼べ」、『諸君』一九九八年五月、文芸春秋社。

3. 新しい歴史教科書をつくる会第三回シンポジウム、一九九八年一月十七日、九段会館。『正論』一九九八年五月号収録、産経新聞社。

4. 「新しい歴史教科書を作る会」の中心的メンバーの一人、漫画家小林よしのり氏の著作『戦争論』(幻冬社、一九九九年。太平洋戦争を、アジアを植民地化する白人帝国主義と黄色人種の日本との戦いとして肯定的に描いた漫画。既に五十万部を越えるベストセラー)に反対する特集が雑誌『世界』(一九九八年十二月号、岩波書店)に掲載されたが、ほとんど有効な反論になっていない。

5. 「地名の一致」という傍証を論証に代えることの非は、前稿「論証と傍証」で指摘したとおりである。

6. 古田武彦『ここに古代王朝ありき』朝日新聞社、一九七九年。

7. 同 6.

8. 古田武彦「天皇陵の軍事的基礎」、『古田史学会報』 No. 四一所収。二〇〇〇年十二月。

9. 同 8.

〔後記〕室伏氏とは関西例会において、毎回のように論戦を交えており良い刺激となっている。その縁もあり、今回取り上げさせていただいた。例会では火花を散らしているが、終了後は二次会で親睦を深めている。


 これは会報の 公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第五集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一〜六集が適当です。 (全国の主要な公立図書館に御座います。)

新古代学の扉 インターネット事務局 E-mail sinkodai@furutasigaku.jp


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