古田史学会報四十二号 |
発行 古田史学の会 代表 水野孝夫>
真実と歴史と国家 -- 二十一世紀のはじめに 古田武彦
古田史学の会・仙台
会長 佐々木広堂
二十一世紀の扉が開かれました。科学技術での発展に彩られた二十世紀は、一方では豊かさの代償として二度の世界大戦や生態系の破壊など負の遺産を残しました。日本はバブル崩壊による不況から抜け出せず閉塞状況の中で二十一世紀に入りました。振り返ってみますと戦国時代や江戸時代末も、不透明感に覆われました。織田信長や明治維新の志士が現れ新時代を築きました。二十一世紀もプロ野球の野茂投手やサッカーの中田選手に代表される合理的論理的な生き方を敢然と実行する若者が活力のある新時代を作ってくれると思います。
古田先生が『「邪馬台国」はなかった』を出版されてから三十周年を迎え、記念すべき年となりました。最近新しい発掘が劇的に増え、一元史観では説明不能になっています。歴史学の分野でも新進気鋭の学者が科学的分析結果に基づき自己主張を始めて来ています。
古田史学の会も不当不条理なバッシングにより逆に鍛えられました。二十世紀の蓄積を土台に、更なる発展を期さねばと思います。幸い古田先生は益々元気で研究に取り組まれています。力強い限りです。
古田史学の会・仙台の新年度活動方針を述べます。
1)東日流外三郡誌を読む
通算5年間継続しています。二十一世紀中に全巻読了する意気込みです。
2)史跡巡りの実施(縄文遺跡・古墳・城柵)
宮城県内を中心に東北六県に範囲を広げ、年3回実施しています。
3)自由討論会の実施
本読会・史跡巡り終了後、会員自由研究テーマについてフリートーキングによる発表を行います。アルコールが入り盛り上がり、当会発展の原動力になっています。
私の二十一世紀の目標。
東北地方に於ける遺跡発掘が急速に進んでいます。弥生前期から後期迄、相当数(三桁)の遺跡が発掘されています。古墳も大和地方と同時代に南三県で一千ヶ所発掘されている。多賀城以前(七世紀後半)の城柵発掘が進んでいます(郡山遺跡・名生館遺跡・南小林遺跡)。この発掘資料を組み立て直し、古田先生が提唱されました東北王朝論を進化させたいと考えています。
古田史学の会・北海道
会長 鶴 丈治
向日市 西村秀己
不覚にもごく最近まで、日本書紀は古事記の「倭」の殆どを「日本」と書き替えてあるものと思っていた。大倭豊秋津島→大日本豊秋津洲、倭建命→日本武尊の類である。しかしながら、事実は全く異なっていた。この書替えは先の二例以外は神武から孝元までの天皇の和風謚号とそれに準じた表現だけであったのである。(この他にも「日本」は勿論出現する。しかし「日本府」等古事記に無い用例だ。)先輩諸兄には周知のことであったのであろうが、まさしく汗顔の至りとはこのことである。
そこで、日本書紀(岩波古典文学大系)に登場する「倭」を全てチェックしてみた。なんと出て来る出て来る。日本書紀に「倭」は百十三例も出て来るのである。(但し、人名の重出は一と数える・同系統の姓名の重出、例えば倭直・倭国造・大倭国造・大倭連は同系列なので一と数える・一記事中に表われる地名は一と数える・倭京は六例あるが一と数える)その内訳は、人名に使用されたもの十二例・姓名、部名、神名等に使われるもの十三例・地名五十例・外国史料等の引用十三例・表音記号として使用されたもの二十五例である。(尚、眼によるカウントなので、データベースをお持ちの方にご確認戴ければ幸いである)これらは表音記号と一例(倭文)を除いて、殆どを「ヤマト」と読ませている。これは本当に正しいことなのであろうか?以下各々検証してみたい。
日本書紀の最初の「倭」は表音記号として登場する。
神代上第六段本文注── 少宮此をば倭柯美野と云ふ。
以下、合計二十五個の「倭」が表音記号として用いられ、我(waga)・若(waka)等の「wa」を表している。
神武即位前紀戊午年十一月── 「天神子召汝、怡奘過怡奘過」過音倭 ー等である。
ところで、前二例と顕宗紀の一例以外の「倭」は全て歌謡に用いられるのだが、実は用いられる期間が限られている。雄略紀から斉明紀までの間なのである。但し、天智紀以降は「wa」音を用いた歌謡がない。従って、安康以前は「和」、雄略以後は「倭」と考えられる。この使い分けが何を意味しているのかは不明だが、何らかの理由がある筈である。例えば、允恭・安康時代もしくはこれらが文字化された時期までは「倭」は「ワ」とは読まれていなかった、等々である。今は紹介に留めたいが、諸兄にはお考え戴ければ幸甚である。
次に登場するものは、
神代下第九段国譲り注ー 一に云はく、二の神遂に邪神及草木石の類を誅ひて、皆已に平けぬ。其の不服はぬ者は唯星の神香香背男のみ。故加倭文神建葉追命を遣せば服ひぬ。
ーである。倭文神はシトリガミと読み、シトリはシツオリつまり日本古来の織り文様のことであるらしい。神武東侵以前なので、奈良県は登場すべくもない。つまり、この時の「倭」は中国史書に表われる「倭」と同様の意味を持ち、もし、和訓するとすれば「チクシ」以外には有り得ない。
これと同種の命名と思われるものが、
綏靖即位前紀十一月── ・・・・乃ち弓部稚彦をして弓を造らしめ、倭鍛部天津真浦をして真“の鏃を造らしめ・・・・、
ーである。この天津真浦は時代が離れている為同一人物とは考えられないが、古事記の天の石屋戸の段に天津麻羅として鍛冶屋の役で登場するので天孫降臨以前からの部名と考えられ、即ち「ヤマト」とは読み得ないのである。
であるならば、
允恭七年十二月── 時に倭飼部、新羅人に従いて・・・・
ーも同様であろう。何故「ヤマト」人が新羅人に従って入国しなければならないのだろうか?
こうなると、その他の「倭」を冠する姓・部は全て再考すべきであろう。
雄略九年五月ー 倭子連 (注)連、未だ何の姓の人なるかを詳にせず。
顕宗元年二月注ー 近江國の狭狭城山君の祖、倭[代/巾]宿禰の妹・・・・──彼は、狭狭城山君韓[代/巾]宿禰と対にして語られる。
武烈七年四月ー (百済の斯我)遂に子有りて、法師君と曰ふ。是れ倭君の先なり。
何れも「ヤマト」と読むにはいかがわしい。
では、「倭」を冠した残りの姓、倭直〜大倭連の系譜について検討しよう。
神武即位前紀甲寅年十月── 椎根津彦とす。(注)此即ち倭直部が始祖なり。
神武二年二月── 珍彦(椎根津彦の別名)を以て倭國造とす。
なんと神武の気前の良いことか。神武は自分が新たに獲得した領土の全てを珍彦(椎根津彦)に預けたと云うのである。それとも、神武が征服した土地の一部に小字の「倭」があったというのであろうか?だが、「倭」は本来九州を指す用語である。神武がはるばる九州から持参したというのであれば、神武以前の小字「倭」には首肯しえない。
この前段、
神武即位前紀戊午年九月── 時に弟猾又奏して曰さく「倭国の磯城邑に、磯城の八十梟師有り。(中略)此の類皆天皇と距き戦はむとす。(中略)今當に天香山の埴を取りて
これによれば、今まさに神武に攻められる土地が「倭国」と呼ばれている。奈良県には既に「倭国」があったのであろうか?だが、同じ記事の中に「天香山」が出て来る「天香山」は、天国の「香山」である。奈良県の山では有り得ない。つまり、これは天孫降臨時の戦闘記事が神武東侵記事の中に混入したものと考えられる。筑紫は、「倭」と呼ばれていた。これは古事記において,大国主が筑紫に行くのに「倭に上がり」と表現されていることにより明らかである。そして、筑紫の中に小字「倭」があることと矛盾しない。珍彦(椎根津彦)が倭國造の任命を受けたのは、ニニギからなのである。従って「倭国造」は、「ヤマトノクニノミヤツコ」ではなく「ワノクニノミヤツコ」もしくは「ツクシノクニノミヤツコ」と読むべきである。
以上、性・部名の「倭」の殆どは「ヤマト」とは読み得ない。或いは「ヤマト」と読むと即断すべきではないことを論じた。
さて日本書紀に十三例登場する引用史料の「倭」が「」と読まないことは明らかである。
神功三九年注── 魏志に曰はく・・・・倭の女王・・・・
神功四〇年注── 魏志に曰はく・・・・倭國に詣らしむ・・・・
神功四三年注── 魏志に曰はく・・・・倭王・・・・
神功六二年注── 百済記に曰はく・・・・大倭に向きて啓して云さく・・・・
神功六六年注── 晋の起居の注に曰はく・・・・倭の女王・・・・
雄略五年注── 百済新選に曰はく・・・・大倭に向でて天王に侍らしむ・・・・
武烈四年是歳注── 百済新撰に云はく・・・・琨支、倭に向づ、時に筑紫嶋に至りて・・・・
継体七年六月注── 百済本紀に云はく、委の意斯移麻岐彌といふ。
欽明一五年十二月── 百済、下部杆率“斯干奴を遣して表上りて曰さく「百済の王臣明及び安羅に在る諸の倭の臣等・・・・
推古十六年八月── 時に使主裴世清親ら書を持ちて(中略)其の書に曰く「皇帝、倭皇を問ふ。
白雉五年二月注── 伊吉博得が言はく、・・・・別に倭種韓智興・・・・
斉明五年七月注── 伊吉連博徳書に曰はく、・・・・倭の客最も勝れたり(中略)「汝等倭の客・・・・」
神功三九年から推古十六年八月までは全て外国史料であるので「倭」を「ワ」と読むのは明白である。伊吉連博徳は日本側の人である為、判断が付きにくいように思われるが、斉明五年七月注の「汝等倭の客・・・・」は唐帝の勅旨であるので「ワ」と読むしかないのである。
次に、人名を検討しよう。とりあえず、表を作成した。
【人名紀記対比表】
番号 紀名 日 本 書 紀 古 事 記 備 考
1 孝霊 倭國香媛 意富夜麻登玖邇阿礼比売命
2 孝霊 倭迹迹日百襲姫命 夜麻登登母母曾[田比]売命 孝霊と1の娘
3 孝霊 倭迹迹稚屋姫命 倭飛羽矢若屋比売 孝霊と1の娘
4 孝元 倭迹迹姫命 2と同一視
5 崇神 千千衝倭姫命 千千都久和比売命 崇神と御間城姫の娘
6 崇神 倭彦命 倭日子命 崇神と御間城姫の子
7 崇神 倭迹速神浅茅原目妙姫 2と同一か?
8 垂仁 倭姫命 倭比売命 垂仁の娘
9 景行 稚倭根子皇子 倭根子命 景行の子
10 継体 倭彦王 仲哀五世孫
11 継体 倭媛 倭比売 三尾君堅威の娘
12 天智 倭姫王 天智皇后・古人の娘
まず、全体像をご覧戴きたい。時代がひどく偏っていることにお気付きだろうか?もし、「倭」を「ヤマト」と読み奈良県を意味するのであれば、もっと各時代平均して出現する筈ではないだろうか?
特に、応神から武烈まで全く登場しない。では、この応神から武烈までの時代はどのような時代だったのであろうか?
まず第一にこの前後の天皇たちが持つ、「彦」だの「耳」或いは「日本根子」といった、おそらく九州王朝の官職名であろう称号を一切持っていない。第二に日本書紀では活発な対外活動をしているこれらの天皇たちが、古事記では少なくとも近畿地方から外へ出た形跡がない。
つまり、この時期の近畿王朝は九州王朝と政治的な交渉をもっていなかったと推察出来るのだ。その理由は唯一つ。神功・応神の反乱と纂奪である。この不法な纂奪者とその子孫たちを九州王朝は承認しなかったのである。だからその時代、近畿には「倭」を冠した人物が存在しないのだ。
では、九州王朝と交渉があれば、何故「倭」を戴いた人名が出現するのか。天皇の子供たちは様々な理由でその名を獲得する。生地の地名・扶養地の地名・扶養者の氏族名などである。上記の内、何人かは九州に何らかの繋がりがあるのではあるまいか。
一つだけヒントを挙げてみよう。
継体二四年九月注── 大日本の人、蕃の女を娶りて生めるを韓子とす。
次に、古事記との対比である。確かに、倭國香媛と倭迹迹日百襲姫命は古事記では「夜麻登」とされている。従ってこの二人に関しては「ヤマト」と読んでも差し支えないかもしれない。(こう即断するにはやや問題がある。倭國香媛まったくの別名であり、倭迹迹日百襲姫命も微妙に表現が異なるからだ。但しこの稿では保留する)
では、古事記にも登場する他の6名は何故古事記で「夜麻登」ではないのだろうか?
その最大の理由は元来「ヤマト」と読まなかったからではないのだろうか。特に千千衝倭姫命は「倭」を「和」と書替えてある。古事記が固有名詞を表記するルールに従えば、少なくとも千千衝倭姫命は「ヤマト」とは読んではならないのである。
継体紀の倭彦王について検討しよう。
継体即位前紀─・・・・今、足仲彦天皇の五世の孫倭彦王、丹波の國の桑田の郡に在す。
この倭彦王は継体より先に天皇位に迎え入れられようとするが、大伴金村の一行に驚いて逃げてしまうといった、情けない人物として描かれている。つまり継体の引き立て役である。しかし、考えて見よう。果たして仲哀の五世孫といった人物が本当に存在したのであろうか? 応神は仲哀の末子である。応神が生まれる前に仲哀は死ぬのだからこれは確実だ。その応神を戴いた神功と武内宿禰は当時の近江朝に対し反逆するのである。
神功攝政元年三月── 武内宿禰、精兵を出して追ふ。(中略)忍熊王、逃げて入るる所無し。則ち五十狭茅宿禰を喚びて、(中略)則ち共に瀬田の濟に沈りて死りぬ。(中略)是に、其の屍を探けども得ず。然して後に、日數て莵道河に出づ。
まさしく「艪櫂の及ぶ限り」忍熊王を追いつめる執拗なまでの武内宿禰の行動だ。これを見る限り、彼らがその他の王位継承権者を生かしておくとは考えられない。応神以外の仲哀の子孫たちは殺し尽くされたに相違ない。ここに応神以外に仲哀の血を伝える者は途絶えたのである。ましてや、仲哀五世孫など存在する筈がない。
では、この仲哀五世孫とされる倭彦王とは一体何者なのか。武烈死後、王位継承権者のいない近畿地方が内乱に陥ったことは想像に難くない。九州王朝はこの内乱に介入しようとはしなかったのであろうか。そして、筑紫から近畿に素速く、しかも安全に到着する方法の一つとして、対馬海流に乗り出雲沖を抜け丹後半島に上陸し陸路を丹波・山背と進む方法がある。「丹波の國の桑田の郡」に居た、とされる倭彦王はこの軍隊の指揮者ではなかったのではないだろうか。或いは、倭王つまり磐井その人であった可能性すら否定できないのである。何れにしても、「倭彦王」は少なくとも「ヤマトヒコノキミ」と読むべきではない。
天智紀の倭姫王は天智の皇后である。父親は天智の異母兄とされる古人大兄である。まず、この系譜が疑わしい。「大兄」とは異母兄弟中最年長の男子に与えられる称号である。ところが、天智も中「大兄」だ。一般には天智は二番目の大兄なので「中大兄」なのだと説明されているが、この判断は果たして正当だろうか。もしそうであるなら、天智には固有名部分が存在しないことになる。天智は「葛城皇子」という別名もあったのだから、「葛城中大兄」と呼んでも差し支えない筈だが、日本書紀にこういった記述はない。また、他の天皇の子の内に「中大兄」が存在しないことも不思議だ。つまり、舒明の子には二人の「大兄」がいたとされているのである。しかも、この古人大兄は孝徳元年十一月に反逆罪で殺されている。反逆罪で殺された男の娘が皇后に成り得るものだろうか。更に、天武は天智に出家届を提出する際、この倭姫王を次代の天皇に推すのである。如何におおらかな古代とはいえこんなことは考えられない。
後は想像するしかないのだが、形式的には九州王朝が存在しているとはいえ、この時期実力ナンバーワンだったであろう天智の皇后に最も相応しい人物は、政略的にみれば九州王朝の皇女である。つまり、薩夜麻の娘だ。もし、この人物が筑紫から遥々近畿に嫁いできたとすれば「倭姫王」の名が最も似つかわしい。すなわち「チクシヒメノキミ」である。
続いて、地名を検討しよう。
日本書紀は従来「夜麻登」或いは「山跡」と記述されていたものを、全て「倭」「倭國」或いは「大倭」と書替えてある為、地名に関しては非常に判断が困難である。だが、仁徳紀にこんな不可思議な記述がある。
仁徳即位前紀── 是の時に、額田大中彦皇子将に倭の屯田及屯倉を掌らむとして、(中略)大鷦鷯尊、倭直が祖麻呂に問ひて曰はく、「倭の屯田は、元より山守の地と謂ふは、是如何に」とのたまふ。對へて言さく、「臣は知らず。但し臣が弟吾子籠のみ知れり」とまうす。(中略)爰に淤宇、韓國に往りて、即ち吾子籠を率て來り。因りて倭の屯田を問ひたまふ。對へて言さく、「傳に聞る、纏向玉城宮御宇天皇の世に、太子大足彦尊に科せて、倭の屯田を定めしむ。是の時に、勅旨は、『凡そ倭の屯田は、毎に御宇す帝皇の屯田なり。其れ帝皇の子と雖も、御宇に非ずは、掌ること得じ』とのたまひき。是を山守の地と謂ふは、非ず」とまうす。
屯田が天皇供御料田であることは明らかであり、現に上記に於いて垂仁もそう述べている。その意義が仁徳のみならず天皇家とその臣下団から失われていたと云うのである。有り得ることではない。また、唯一その意義を知っていたのが、先に倭(ワもしくはチクシ)と論じた、倭直の一族吾子籠と云うのだ。
では、問う。この「倭の屯田」を制定した垂仁の時代はどんな時代だったのか。崇神までは近畿と九州の間に巨大な銅鐸王国が広がり、近畿天皇家と九州王朝との大規模な通行を妨げていた。ところが垂仁の時、ついにこの銅鐸王国を滅ぼした。そう、貨物の輸送が可能になったのである。近畿天皇家は神武以来、九州王朝の臣下を自認していた訳だから、当然九州王朝に対し貢献する義務を負う。従ってその貢献物である米を作る田を定める必要が発生したのである。即ち、垂仁の云う「御宇す帝皇」とは九州王朝の王、つまり倭王であり、「倭の屯田」は「チクシノミヤタ」なのである。
では、仁徳の時代、何故「チクシノミヤタ」の意義が忘れられていたのだろうか。答えはいたって簡単である。前段で論じたように、神功・応神以来近畿天皇家は九州王朝の承認を得ていなかった。言い替えれば、服属していなかったのだ。従って、九州王朝に対する納税義務も消えたことになる。「倭の屯田」の意義が失われる所以である。
さて、こうして「倭」(ワもしくはチクシ)の地名が奈良県内部に遺存してしまった。とすれば、残り四十九件の「倭」もすなおに「ヤマト」と読めるのかどうか問題となるのである。
最後に、「倭大國魂」に言及したい。果たして、この神は「ヤマト」大國魂と云い得るのだろうか。
崇神六年── 百姓流離へぬ。或いは背叛くもの有り。其の勢、徳を以て治めむこと難し。是を以て、晨に興き夕までにおそりて、神祇に請罪る。是より先に、天照大神・倭大國魂、二の神を、天皇の大殿の内に並祭る。然して其の神の勢を畏りて、共に住みたまふに安からず。故、・・・
この後、天照大神は笠縫邑から最終的には伊勢神宮に、倭大國魂は大和神社に祀られるのである。
では、「是より先に」とはいつ頃から「天皇の大殿の内に並祭」していたのであろうか。天照大神は明らかに神武が九州から連れて来た神である。とすれば、倭大國魂も同様ではなかろうか。或いは、神武から垂仁までの間にヤマト以外の土地から来たのだろうか。何故なら、倭大國魂はこの時初めて、「天皇の大殿の内」から出されるのであり、「ヤマト」原住の神とは考えられないからだ。この倭大國魂を「ヤマト」原住の大物主神と混同する向きもあるが、これは明らかに誤りである。
崇神七年八月── 大田田根子を以て、大物主大神を祭ふ主とし、亦、市磯長尾市を以て、倭大國魂神を祭ふ主とせば、必ず天下太平ぎなむ。──とあって、まったく別の神格だ。そして倭大國魂の神主に任命された市磯長尾市とは、またしてもあの「倭直」の一族なのである。
となれば、この「倭大國魂」は何処から神武たちが連れて来た神だろうか。並祭していたのを、以後別けて祀るのであるから、本来天照大神とは別の土地の神だと思われる。ヤマトでないならば、吉備・安芸・豊或いは筑紫の神であろうか。
大和神社を現地に取材すると、本殿の傍らに「高“」が祀ってある。社伝には、竜神にして倭大國魂の使神、とされている。この神は非常に古い神らしく、神代紀の神生みの段一書第七に、軻遇突智の屍より生まれたとされている。軻遇突智が何処で殺されたかは定かではないが、この後イザナギは泉國へイザナミを訪ね、更に「故、橘の小門に還向りたまひて」とあるので、おそらくこの神の生地は筑紫であろう。ではこの神を使いとしている倭大國魂も筑紫の神と考えることが自然だ。
つまり、「天国」=天照大神、「倭(筑紫)国」=倭大國魂なのである。そしてこの神の呼び名は、大和神社には申し訳無いながら「チクシオオクニタマ」なのである。
以上、日本書記の「倭」が必ずしも「ヤマト」とは読めない旨、論述してきた。ところが、書き進むにつれて、こんな当たり前のことを書いていて良いのだろうかと不安に駆られてきた。何故なら、
神代紀上第四段本文注── 日本、此をば耶麻騰と云ふ。下皆此に效へ。──と、あって「日本」の読み方はハッキリ指示しているが、「倭」の読み方など何処にも指示していないからだ。
「倭」の音は「wa」である。「倭」を「ヤマト」と読むには、「ヤマト」の国に「倭」の中心が存在する必要がある。では、日本書紀編纂当時既に「倭」=「ヤマト」は人口に膾炙していたのだろうか。だが、もしそうであれば、歌謡はともかく、本文注の「ワ」を表す文字は「和」を使用すべきではないだろうか。
ともかく、日本書紀に指示されていない以上、本来の読み方である「ワ」以外の読み方は、論証無しにはすべきではない。だから、「倭」を「ヤマト」と読まないことは、実は当たり前なのである。
それでも、「倭」を全て「ヤマト」と読みたい人があるのなら、次の一文の読み方を示して戴きたい。
大化二年二月詔勅── 「明神御宇日本倭根子天皇・・・・」──岩波の日本古典文学大系ではこの3文字を「ヤマト」としているが、まさしく糞飯物といえよう。
「倭」を日本書紀の規定しない「ヤマト」と読みたい方にこそ、その論証責任があるのである。
特別企画 古代史ブームをめぐって
戦前戦後の古代史観の変化について
古田武彦さん
〈日石三菱 社内報「オイルロード」より転載)
(『古代に真実を求めて』
第四集に掲載)
奈良市 水野孝夫
『日本書紀』天武・持統紀や万葉集の初期歌に現われる「吉野」・「吉野宮」は九州にあったのではないか、との仮説に基づき、佐賀県を旅した。
結論として、次の二ケ所の候補案を挙げる。
1.嬉野温泉付近
2.神埼町の仁比山神社付近
古文献『太宰管内志』、『肥陽古跡縁起』などによると、武雄から遠くないところに「木場の吉野の御嶽」と呼ばれた山がある。これを現代文献『佐賀県の地名』等で調べると、この山は鹿島市にある「琴路岳」のことである。この「吉野の御嶽」という呼び名の古さはまだよく分らない。琴路岳の山上に「琴路(ことじ)神社」の上社があり、麓の中川沿いに中社があり、ずっと下の鹿島市街に近く下社がある。下社は同じく「琴路」と書くのに、「キンロ」と読む慣習になっている。この神社の主祭神は「吉野権限」とも「吉野水分神」ともされる。奈良県吉野から「吉野水分神」を勧請したとの伝承もある。この山へ登って見たかったが、地図を見ても登山可能な山なのか、よく分らなかった。現地に近い塩田町の白川氏にお聞きしたところ登山可能とわかり、十一月十日に現地を訪れた。
鹿島駅前からタクシーで、まず下社の「琴路(きんろ)神社」に行く。本殿の後百メートル位のところに古墳があって、横穴石室が開いている。本殿の前には樹齢四百年と伝える楠が立つ。この古墳位置からは琴路岳が美しく見える。中川に沿ってバス停・掛橋入口まで行くと、ここから山へ上がる林道が整備されている。林道の最高地点に駐車できる空地があって、林道は山の反対側へ降れる。ここには鹿島市長名の林道整備記念碑が立っている。それなのに市販の鹿島市だけの詳細地図にも林道が記載されていない。琴路岳の山頂には正確には二つのピークがあり、鹿島市に近い(東)側のやや低いピークを「御嶽」、最高地点を「琴路岳」というそうである。地元のタクシー運転手さんも、ここへ来たのは初めてで、林道があるのも知らなかったという。「御嶽」へ行く。五十メートル位のゆるやかな登り。粗末な木製だが展望台が整備されていて、鹿島市街を始め北−東方面が展望できる。唐泉岳、地元では鹿島富士というが、美しく見え、杵島山や有明海も望める。ピーク地点には墓搭がひとつあり、まわりに古い石組みのようなものがあるが、神社跡とはハッキリしない。ここで写真フィルムが切れてしまった。駐車場に戻り、次に「琴路岳」山頂へ向かう。ここはかなり険しい登りである。途中に小さい谷を越える木の橋がある。長さは三メートル位か。これが「掛橋」か?。古くは山岳信仰の霊地であったはずだが、いまやそんな気配は感じられない。
山頂まで十五分ぐらいかかる。上にはベンチが整備されていて、北側の眺望は良いが、西〜南は木が茂っている。嬉野温泉が見えるか否かが私の関心であるが、温泉街は見えることを白川氏と運転手さんが確認して下さった。しかし嬉野の「轟の滝」は山蔭になるそうである。車に戻り、琴路岳の奥(西)側麓まで行く。ターンして中川沿いを戻って中社へ行く。ここは「三嶽神社」という。本殿には金字の「三嶽山」(もちろん右からの横書き)という額がかかっているが、この額の筆者名が「朝鮮国風月堂」と署名されている。その横になぜか明治天皇の写真が飾られていた。境内を掃除しておられたご老人八十四才のお話を聞く。ここは三川が合流するので三河内というと。また鹿島の佑徳稲荷神社の初詣は人出が多くて思うように歩けないので、山越えをして駅とは反対側から行くとも。その佑徳稲荷神社(日本三大稲荷のひとつといい、九州中の信仰を集めている)へ行くかどうか迷ったが、大名の奥方が京都の伏見稲荷を勧請したという由来がハッキリしているらしいので、次の目的地もあり、佑徳稲荷には参詣しなかった。しかしこれは失敗だったかも知れない。そのあと白川氏とお別れして、鹿島から嬉野温泉に向かい、宿にチェックインしてから「轟の滝」へ出掛けた。今度は嬉野から琴路岳を眺めることになるのだが、この地がはじめての私ひとりでは、どの山が琴路岳だかわからないのである。宿で聞いても知らないという。先ほど登ったばかりの山だから見当はつくが、確定はできなかった。滝へ向かう川岸には両岸に遊歩道が整備されていた。主滝は川上に向かって最も右にあり、中央に落差は主滝よりも大きいが幅の狭い小滝があり、この滝壷下の淀みはやや深くて緑色に見える。滝壷のやや下流に左(東)から別の川が注ぎ、その左の川にも小さい滝がある。これらの合流点から下流は川幅(二十メートル位)一杯全体が一枚の岩板で奥行も川幅と同じ位はあり、岩目は流れに対して斜に走っている。この岩板の上を透明な水が厚さ数センチメートルの膜のように流れ、岩目のところにさざ波をたてているのである。滝壷の横に、ふたつの川に挟まれて浅い島があり、釣をしている人の姿があった。
この人影と比べると、滝壷下の淀みはかなり広くて船(ボート)を浮かべる程度のことはできそうである。滝から更に上流五十メートル位のところに橋があり、川の様子が見渡せる。川は岩で大きく二つに別れていて、滝のすぐ上に川中島があるのだ。そこには不動明王を祭るほこらがあり、明王が背負う炎の光背が、真っ赤に塗られている。また東側から流れ込む川との間の三角州の上は公園らしく整備されていて、屋根つきの小亭がある。このあたりからは、私が見当をつけている琴路岳は見えず、ずっと下流の旅館街に近い橋の上だと、その山の山頂だけがかすかに覗くようになる。仮に琴路岳に「吉野宮」があったとすると、どうもこれを「滝の上の吉野宮」とは言いにくいと思った。旅館街から北へ向かい、旅館街を見降ろす山へ登ってみる。ここは地元の墓地公園として整備されている山である。
ここからだと、私が見当をつけている琴路岳はよく見えるようになる。あとは旅館街へ戻る。私の宿の近くに、昔シーボルトが足を洗ったと伝える泉と、田地の管理境界を示す石の遺跡というのがあった。江戸時代、ドイツ人医師のシーボルトやケンペルといった人たちは長崎から江戸へ向かうのに嬉野温泉を経由し、塩田川の船便を利用したのである。これは彼等の旅行記に記録されている。嬉野から「たぎつ河内に船出」の可能性がある。当時、長崎から江戸に向かう、いわゆる「長崎街道」には佐賀県内のみに、嬉野経由と武雄経由の両ルートのあったことが知られている。ちなみに伊能忠敬の大日本沿海輿地図の上に長崎街道を示した記念切手が本年六月に発売されている。鹿島付近に山が描かれているが、切手からは文字が読み取れない。忠敬の地図を確認したい。田地の管理境界を示す石というのは、川から水を引ける範囲の田と、山側の田は管理者や租税が異なっていて、その境界争いが激しかったため、当時の藩が境を示す石多数を番号付きで並べたというものである。九州の古い田地の整備の仕方には、他の地区とは異なる、独特のものがあることが知られている。これが九州王朝の農地整理の伝統を引く可能性がある。これらを写真撮影したり、メモするのは翌朝にしようと思ったら、翌朝はあわただしくて、宿の車で送って貰ったので、記憶のみである。
福岡、佐賀での古田講演会のあと、神埼町の厚生年金施設「かんざき」に宿泊した。神埼駅からまっすぐ山側へ向かい、山の入口といった場所である。すぐ横を城原川が流れており、この川は最後は筑後川に合流する。川の西岸側に宿泊施設があり、すぐ下には水車型の建物がある。かっては水車が活躍しており、今はそれを模した資料館が建っている。東南には吉野ケ里遺跡が見え、有明海も望める。川の東岸には仁比山神社があり、その一部のように見える九年庵という紅葉の名所がある。このあたり数百メートルの間に、城原川は落差四〜五メートルの滝を3段にもっている。本年正月に古田氏他の一行は、地元史家の江永氏の先導でこの道を車で通過したのだが、数キロメートル上流の広滝へ直行し、仁比山神社へは停車しなかったので、一行はこの滝を見なかったのである。神社の裏(北)側は仁比山であって、山頂を回遊する歩道がある。木材で階段を作ってあるが、かなり険しい登りである。途中に巨石を集めたらしいイワクラがいくつもある。この歩道、行程約1時間と看板に掲示されていたが、私は三十分でまわってきた。山頂の展望はすばらしいはずだが、現実には樹木が茂っていて、鳥栖(東)方面しか展望が効かない。
「吉野宮」を仁比山神社に比定すれば丁度、「滝の上」になる。吉田信啓著『日本のペトログラフ』には仁比山神社の重要性が説かれている。
以上で、候補地二ケ所を説明した。嘉瀬川流域の雄渕・雌渕の滝あたりを含めてどの候補地がふさわしいか。私は現在、嬉野を第一に考えている。
万葉集・巻一、三六歌。吉野宮に幸しし時、柿本朝臣人麿の作る歌
やすみしし わご大君の 聞し食す 天の下に 国はしも 多にあれども 山川の 清き河内と 御心を 吉野の国の 花散らふ 秋津の野辺に 宮柱 太敷きませば 百磯城の 大宮人は 船並めて 朝川渡り 舟競ひ 夕河渡る この川の 絶ゆることなく この山の いや高知らす 水激つ 滝の都は 見れど飽かぬかも。
反歌 見れど飽かぬ吉野の河の常滑の絶ゆることなくまた還り見む。
この反歌にある「常滑」とはどういう意味か、『広辞苑』を引いてみた。
「○1.河床の岩にいつも生えている水苔。また、その水苔などのいつもなめらかなこと。[上の反歌の引用]。○2.河床の平らな岩の上を、少量の水が静かに流れている所」。『広辞苑』の著者、新村出博士が、どこからこの意味を引出して来られたのか知らないが、本来の意味は○2.の方であるのに、奈良県の吉野川には○2.のような場所がない、しかし上の反歌があるから(万葉集中に、常滑はここ一ケ所のみ)、○1.の意味を歌から逆に考え出された、のではないかと疑われる。ところが嬉野の滝のすぐ下流には、平らな大きい岩板があって、まったく○2.の説明どおりである。嬉野を流れる塩田川が「吉野川」であろう。そうすると琴路岳は「吉野水分神」を祭る山であり、「吉野宮」は嬉野滝に近い、どこかの山にあったと考えたい。もとの地名、吉野はどこかの時点で、嬉野に変ったのであろう。
地図で見ても琴路岳は、末は鹿島に注ぐ水系と、末は塩田川となる水系を分けている。
(二〇〇〇・十一・二四記)
大阪府泉南郡 室伏志畔
かつて啓蒙時代に悪は蒙昧の内にあるとされたが、二〇世紀の極悪は理性によって招来されたというアドルノとホルクハイマーの逆説をに接すると、とても笑えたものではない。八世紀初頭に『日本書紀』が成した「策」によって、我々の大和認識(理性)は歴史から遠いものとなった。さてこれ以上歴史を誤らせないためにも、そろそろ記紀をなぞった大和認識に総退場の時は来たのである。大和の発祥地・大倭(おおやまと)にある箸墓の公開調査に向けて古田武彦が一石を投じているのを見て、私は大倭論をしてみたくなったのは、新たな大和像の提示なくしてその一新はありえないからである。
大倭における信仰の中心に三輪山がある。その三輪山信仰が大倭の古信仰を伝えるものと信じ、三輪山を御神体とする大神神社がその祭祀の中心にあると我々はしてきた。しかし、それはとんでもないまちがいで、それこそ八世紀以後の大和朝廷が仕組んだ猿芝居ではなかったか。それは先年、その近くの黒塚古墳から出土した三十三面の三角縁神獣鏡は、日光を乱反射させ被葬者を包むものとしてあったし、箸墓古墳もまた三輪山を貫く小川光三が明らかにした「太陽の道」(北緯三四度三二分)の線上に置かれていることを思い出すなら、私は大倭の古信仰を太陽信仰と三輪山が一つのものとなった春日信仰の内にを取り戻したいと思う。
飛鳥に散らばる春日神社を結んだところ、耳成山を頭に右手に盾、左手に剣をもって胸部の藤原京を守護する縦二〇キロ、横十五キロに及ぶ巨人の地上絵を先年、毎日テレビが出現させて以来、私はこの春日神社が何を意味するかについて思案してきた。その剣先が三輪山の方まで及んでいることから、もしやこれら神社の中心がそこにあるのではという私の目論みは外れたが、私は三輪山の山頂を真東に仰ぐ線上に多神社を得た。これが大倭の中心線であることは、その多神社の鳥居が真東に三輪山を、真西からは少しずれてはいたが二上山を見ることによって明らかとなった。
その『多神宮注進状』には「神地ノ旧名春日宮、今多神社と云フ」とあった。私はそこに忘れられた春日信仰を主宰した多氏を見い出した。それは笠縫の地にあり、近辺にある春日神社と結ぶと先の巨人絵が笠を被っていることに気づいた。東アジアにおいて笠が太陽信仰に関係深いことを思い出し、春日信仰が立春の太陽信仰に基づくもので、多神社は春秋の彼岸に三輪山山上に日の出を仰ぐのである。とするとき、先の巨人の地上絵は、太陽信仰をもって藤原京を守護するもので、春日信仰とは太陽信仰と三輪山の神奈備信仰が一体となったもので、その中心に多神社を置き、大神神社があるのではなかった。
大和岩雄はかつて大和の三大社とは三輪神社、大倭神社、多神社であったとし、天平二年(七三〇年)の『大和国正税帳』を挙げて、多神社の蓄積稲は大神神社の二.六倍、大倭神社の一一.四倍、石上神社の三〇倍という群を抜いたものであったという。その多神社は『三代実録』の貞観元年(八五九年)の神位においては、他の三社が従一位を賜ったのに対し正三位に貶められ、鎌倉時代に至るやまったく往年の面影を失ったという。
ところで多神社はいうまでもなく多氏の総社で、多は意宇、意富、於宇、大、太と様々に書かれてきた。出雲国の支配者が於宇郡にあったことは出雲の一の宮(熊野大社)がそこにあることから推察できる。つまり於宇(多)とは、出雲で布都主命(or武御雷命)やまた原大和で天皇家によって支配される以前の旧王を意味し、現在の表示はその無念の跡なのではないのか。
多神社の宮司・多忠記は、『古事記』の太安萬侶から数え五十一代目で、その安萬侶の父が多臣品治であると知り、私はぬかったことを知った。というのは壬申の乱で天武が吉野から東国入りをはかった際に、美濃の湯沐令として登場する人物こそ多臣品治で、不破の関を取り、戦局を一気に天武側に好転させた緒戦の立役者なのである。また私が飛鳥の地上絵の主を、『大和の向こう側』の「氏上論」で壬申の乱後の死後功賞から、この戦いにおいて、物部氏を組織した物部連雄君こそふさわしいとしたが、その功労によって死後、物部の氏上とされていたからである。私はその時、東アジアに思考を開き、於宇から新羅第一王朝の朴王朝を思い浮かべたのは、その王朝が太陽信仰の国で、朴がホオと読めるからである。この壬申の乱の立役者・物部連雄君の元名は朴井連雄君で、この朴の字を刻んでいた。のみならず、この戦いで大活躍した大分君恵尺や大分君稚臣はみな、多を始め大、朴の字を誇っている。彼らはかつての国譲りした大国主命の草分けではなかったか。
とするとき、大和における物部氏というのはこの大倭にあった多氏以外ではありえない。つまり天武王朝はこの大倭にあった多氏の肝入りで成った共同政権であった。そこが大倭と呼ばれ、箸墓が大市墓と呼ばれるのは多氏(於宇)に関係するからではないのか。
その多氏が天武を飛鳥に招いたが、その飛鳥は昨年の富本銭の出現以来、池を巡らした大庭園跡、亀型水槽そして合葬墓と相次ぐ発見に沸き立っている。そしてこれら発見を記紀史観からした歴代天皇史の上に重ね、あれは斉明、これは天武と比定している。しかしそれに隣接する飛鳥京跡は飛鳥板蓋宮跡とされ、そこで大化の改新を行ったお醤油顔の天智の顔が表示されているが、その外郭から大津皇子や大来と記載された木簡及び天武朝の廷臣の名が見つかり、もはやそこが天武の飛鳥浄御原宮跡であることは動かない。亀井博はそうすると前期難波宮跡から藤原宮跡に至る宮趾発展史に矛盾するとするが、それは歴代の大和朝廷がずっと大和にあったとした記紀史観にマインド・コントロールされ学問にこそ問題があったのである。私や大芝英雄は、唐の占領政策によって倭国は解体され、その九州を見限って近江に逃亡した天智政権を潰すことによって、初めて大和朝廷は天武によってここに開始を見たとしてきた。それゆえ急造された飛鳥浄御原宮はたちまちエビノコ郭を外に増設しなければならないほど小さなものでしかなかったのだ。その不便さに懲りて天武は大都・藤原京の造営にかかったのは、その条坊の上に大官大寺や紀寺があったことによって知られていたが、近年の発見はそれを裏付けた。とするとき、近年の飛鳥における発見の数々は、この天武と多氏が共同した大和朝廷の開設に伴う記念事業の内にこそすべて回収さるべきであろう。
おそらく大倭の多氏は出雲の国譲りによって、国を失い四方に散った大国主命一族の一つが近畿に入ったもので、近くの纏向遺跡の出土物が東国や出雲に関連するのが多いのは、国譲りによってもうひとつの中心が東国に流れたことを語るのである。
『日本書紀』は天皇制を創出した天武の業績を、天智を皇祖とするものへ書き換えた。それは陰日なたにあって天皇制を支えた物部氏から藤原氏への国譲りなしにはありえない。神代において国譲りが強調された所以は、正史『日本書紀』の成立期にこの多氏(物部氏)から藤原氏への第二の国譲りの正当性を主張するためにこそあったのだ。その痕跡は『万葉集』の玉藻刈りの歌として残されており、中臣神道がこのとき改めて「大祓の祝詞」を持ち出し、この追討劇を正当なものとして皇軍を言祝いだのである。今次大戦における皇軍のアジアでの殺戮を正当化する根拠は、皇軍に罪はないとするここにあったのである。この多神社は三輪山山頂の日の出と二上山の日没を見る好位置にあることについて先に述べた。しかし小川光三はこの春日宮である多神社は、三輪山の祭祀する場を別にもっていたとして、その場所を、三輪山の山頂にある日向神社と多神社を結ぶ線上の、三輪山に近い穴師川と狭井川の合流地点にある慶田寺に隣接する春日神社に求め、百数十メートル四方にわたる広い古代斎場を推定し、そこに三つ鳥居を置いている。三つ鳥居というのは大神神社と桧原神社に伝えられる由来不明のものだが、その三つ鳥居をこの春日神社に置くと、中央の大鳥居から三輪山に昇る彼岸の日の出、左右の小鳥居からは冬至と夏至の日の出を拝することができるという。
とするなら藤原氏は玉藻刈り(物部狩り)において、出雲大社の再建をはかることによってそれを正当化する一方、大和においてこの多氏の主宰した春日の中心祭祀場を廃神毀社し、奈良遷都と前後して三蓋山の太陽信仰に基づく現在の春日大社に掠め、大国主命に引導くれた高御雷命を氏神として勧請し、我々を今日まで欺いてきたのである。本来、春日信仰は本邦において八幡信仰、天神信仰につぐ信仰で、その中心主宰者は藤原氏ではなく、この大和における春日宮に居ました多氏が主宰するものであったのだ。
その三輪山を通る「太陽の道」(日の出線)は桧原神社を通って穴虫峠を抜け、西端は出雲の須佐に及ぶが、その東端は伊勢斎宮(伊勢滝原宮)であるという。とするとき藤原氏はこの大和の春日信仰を奈良の春日大社に掠める一方、その東端にあった伊勢斎宮(滝原宮)を皇祖神・天照大神として独立させ、伊勢神宮として中臣氏の掌中に置いたのである。『多神宮注進状』によれば、中臣氏は多氏の下で祭祀に従事する者であったという。恐らく日神も出雲の神からのパクリで、それを天照大神としたのであろう。
その伊勢神宮が競り上がって来るのは、壬申の乱において大海人皇子(天武)が東国に向かう途中、三重県の朝明郡の迹太川のほとりで天照大神を望拝したことに発する。そこは伊勢船木氏の領域で多氏とは関係が深いことを大和岩雄は明らかにしている。
私は玉藻刈りの開始を六八六年の天武の崩御に続く大津皇子の処刑(丙戌の変)に始まるとしてきた。その大津皇子の姉が伊勢斎宮となり名歌を残した大来皇女で、その母は大田皇女であるが、彼女は莵野皇女(持統)や大江皇女、新田部皇女とともに天智の四皇女の一人とされている。しかし彼らが一様に誇っているのは大なのである。とするとき、それは多氏の出自を伝えるものではないのか。皇子に恵まれなかった天智が四人の皇女に恵まれ、その全て天武に差し出したという不自然さは、その外戚関係を天智に回収することによって隠し、藤原氏の天皇を実現するための方策であったのだ。
その丙戌の変は大津皇子の処刑を伝える。ところで多神社の本殿は四棟並列形式で、それぞれの棟には天皇家始祖伝承にそった神武天皇、神八井耳命、神沼河耳命、姫御神が祭祀されているが、本来は彦姫の二坐を祭祀したという。私はそれを水神と日神を祭祀する稲作に関係あるものと見ている。ところで現在の宮司・多忠記は、多神社の御神体をなんと七十二体に及ぶ木像であると教えてくれた。私はこの夥しい木像を大津皇子の処刑としか語られなかった玉藻刈りにおける多氏の夥しい犠牲者を鎮魂するものではなかったかと幻視する。それは多氏(物部氏)に支えられた天武天皇制から、天智をいただく藤原氏に語られざる国譲りにおいて、いかなる犠牲を必要としたかを暗い本殿で今日も語り伝えているのではあるまいか。
(H一二.一〇.一〇)
学問の方法と論理6 史料批判か史料否定か 京都市 古賀達也
会報四一号の正誤表(全て訂正済み)
狡従→狡徒 一頁四段十一行
である。→である。 一頁四段最後
親征服地→新征服地 二頁二段最後
議せられ→擬せられ 二頁四段後十二行
すにわち→すなわち 三頁一段後十一行
寄与台古墳→巨大古墳 六頁一段最後
三百歳・四百歳・七百歳。→八百比丘尼の年令は二百余歳・四百余歳・八百余歳。 十一頁一段後八行
思い品物→重い品物 十一頁二段後四行
□□<事務局だより□□□□□□
▼『「邪馬台国」はなかった』発刊三〇周年と二一世紀を迎えた。秋には東京で記念イベントを開催予定だが、本会はお祝いと研究活動支援の為、パソコンを古田先生に贈呈させていただいた。インターネットで世界の学者と交流するのを楽しみにしておられるとのこと。
▼本号では日石三菱の社内報「オイルロード」から先生のインタビュー記事を転載した。歌集「火の群れ」七六・七七号にも古田先生の六時間対談記事が掲載されている。古田史学の輪は近年、予想以上の速さで広がっている。政府の閣内にもファンがいるらしい。
▼学界の無視や中傷、雑音など一蹴し、二一世紀も古田史学の旗の下、学問の大道を、威風堂々と前進したい。(古賀)
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第四集(新泉社)、『古代に真実をめて』(明石書店)第一〜六集が適当です。(全国の主要な公立図書館に御座います。)
新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailは、ここから。
古田史学会報一覧に戻る
Created & Maintaince by" Yukio Yokota"