兵庫県氷上郡七日市遺跡 -- 弥生時代「階層」を示す遺跡 大塚誠(会報十九号)

『古代に真実を求めて』(第四集)目次

朝日文庫版 -- あとがきに代えて 補章 神話と史実の結び目古田武彦 『盗まれた神話 -- 記・紀の秘密』 (ミネルヴァ書房


古田史学会報 2001年2月22日 No.42

オイルロード 2000.9月号 特別企画 古代史ブームをめぐって

戦前戦後の古代史観の変化について

古田武彦

 近年、日本の考古学会では続々と新たな発掘による発見があいついでいます。そして、今までの日本古代史の通説の多くがくつがえされようとしています。一般の間にも古代史ファンは増え、いわばブームの様相を呈しています。そこで普段より頭を柔らかくし,発想の転換のためにも日本の古代史観の変化について企画を組んでみました。今回は,学会の通説を打ち破る斬新な新説を発表され続けていらしゃる古代史研究の重鎮・古田武彦先生にいろいろお話しをうかがいました。

 

戦前戦後、津田史学の問題点

●まず、先生が戦前と戦後の歴史学で一番変ったと感じられたあたりから聞かせください。

 戦時中私は学生でしたが,いつ 赤紙 (召集令状)が来てもおかしくない状況で、私より少し早く届いた人は、召集されて兵隊に取られ、 戦死した者も多いのです。明日には来るかと思っているうちに 敗戦を迎えました。そんな状況の中、 世の中がガラッと手のひらを返すように変わってしまい、 歴史観も大きく変わりました。それがあまりにもあざやかな変わり様だったので問題が起きたと思います。戦前の歴史教育は「皇国史観」が中心でしたから、それを学問的にきちんと批判して、良いところ悪いところを検証のうえ、学問のあり方を変転するべきだったのですが、敗戦で政治的にパッと変えられてしまったわけです。
  それで、戦前・戦中に皇国史観を批判する学説をとなえていた津田左右吉さんについて、戦後には文句なしに彼がすべて正しかったのだという論調になってしまったのです。敗戦までは、津田さんをだれも 相手しなかったにもかかわらずです。敗戦前の唯一の例外が、当時東大の助教授だった坂本太郎さんが,「大化改新の研究」という本を出されて,津田さんの学説に反対し、従来の学説が正しいのだ主張されたことぐらいでしょうか。津田さんが一番有名になり,問題になった,神代史・日本書紀や古事記に対する激烈な否定論,これが津田史学の面目躍如たる所以ゆえんだったのですが,これについても戦前、学者は誰も反論せず、ひたすら無視するだけでした。結果津田さんは裁判にかけられ、彼の著書は発売禁止になってしまったほどです。
 それが、戦後は、学界は急に彼を担ぎ出して、津田学説一色になってしまった。津田さんは文化勲章をもらい、古代史学界は津田学説で戦後の路線が決定的になっていったのです。その後も、家永三郎さん等に継承されていく結果となりました。
 私は、戦前当時として、津田さんの仕事は勇気を持って皇国史観を批判された点は立派だつたと思いますが、学問的には明治人の古代史研究者として限界があつたと思っています。

明治期の古代史研究の誤謬ごびゅう

 意外と知られていないことですが、明治の終わりごろに、宮崎県の当時の県知事が一大決心をして県内一切の発掘命令を出したのです。それ以前、明治5年ごろには薩長側が神話時代の天皇の御陵を決めてしまい、薩摩国学にもとづいて天孫降臨関連の御陵を鹿児島側にしました。ところが宮崎は「日向の国」で天孫峰山の高千穂伝説などもありますから「こちらが本命である」と心おだやかではなかつたのです。それで県知事が本来の三種の神器を彫り出して見せるぞとばかりに、大規模な発掘調査にのりだし、その結果、西都原古墳群などが見つかったのですが、肝じんの神代の遺物は出てきませんでした。
 実はそれまでに三種の神器が発掘された例がありました。江戸期に黒田藩、今の福岡県の前原市で三雲・井原遺跡というのが見つかり、見事な遺物が出て、中から銅鏡が30面近く、それと剣と勾玉まがたまがたくさん出てきました。それを黒田藩の青柳種信という学者が詳しく調べて記録に残しています。
 もうひとつは、明治三〇年ごろ、博多の春日市のあたりに須玖岡本すくおかもという所があり、そこのある農家の納屋を建て替える時に遺物が発見されました。弥生式甕かめ棺と、その中から鏡・剣・勾玉が数多く出てきたのです。後にわかったのですが、古代中国の錦(絹織物)が日本で見つかった唯一の例だつたのです。
 この二例があったので宮崎県知事も期待していたらしいのですが、結局、宮崎県からは何も出てこなかった。この出なかったという事実がその後の古代史研究に大きな影響を残しました。京大の梅原末治さんもおっしゃっていますが「若いときにこの出来事を知り、もう、神話や文献に書かれている事は間違っている。これからは出土品中心の考古学しかないと思って、この道を選ぶことにしたのです」といわれたぐらいで、研究者には大きな事件だったようです。
 同時に津田津田左右吉も若い時に、この出土品と古事記・日本書紀に書かれているがことが一致しないという事実が強い印象となって、その後の古代神話の持論につながっていったようです。
 けれども、私からするとここには大きな錯覚があると思っています。

古代九州王朝の実証

 なぜかと言いますと、日本書紀では「日向の国」と書いてありますから現在のように「ひゅうがのくに」と読めます。ところが実は福岡県のほうでは、福岡市の西寄り高祖山(たかすやま)連峰の室見川の上流に「日向」と書いて「ひなた」と読む地名があるのです。また、高祖山近辺には日向山や日向峠という所もあります、そこから博多のほうへ流れ出している川が日向川といいます。この日向川と室見川の合流点に吉武高木という場所がありましてここに日本最古の三種の神器が出てきた遺跡があるのです。ここの鏡は漢式鏡より古い「多鈕たちゅう細文鏡」という最古のものです。
 また、ここは前原市とも近く、そちらへ向かうと平原(ひらばる)というところがありまして、ここの果樹園の地中から銅鏡が出てきました。原田大六さんという方が調べたのですが、直径四六・五センチという大きな鏡が四~五枚と二〇センチ前後のものが三〇数面出てきたそうです。それと剣や玉類が千個以上も、木棺の内外から発見されました。
 ですから、この「ひなたのくに」が日本書紀でいうところの「日向の国」であって、「ひゅうが」と読むのは間違いであろうと想定できます。特に古事記には「日向の国」という地名は全く出てなくて、「ちくしのひなた」という形で出てきます。「ちくし」とは現在の「筑紫」のことですから、福岡の日向を指します。また高千穂とは高く人(あるいは鷹)の住まう山、高祖山を指し、この東西から多くの古代遺跡が発見されているわけです。つまり、遺跡一つの発見という史実は、地中により多くの遺跡が眠つていることを示しますから、このあたりが古事記に書かれている地帯であることにほぼ間違いはないと私は思います。

古代神話の実証的研究

 ということは、日本書紀や古事記の記述のとおりですから、まんざら古代神話に描かれていることも作り話というように片づけられません。津田左右吉は明治時代にわかり得たことで神話を全否定したのですが、早計だったかもしれません。確かに戦前教育のような非科学的な天孫降臨はあり得ないけれども、それにあたる事件が古代にあったのだろうと私は思っています。
 その証拠は、福岡県を中心とした一帯で弥生時代の前期の終わり、中期の初めごろ、前未中初といいますが、BC二〇〇年前後(年輪測定による訂正)、その時間を境に出土物が一変します。先ほどの三種の神器などは前末中初以降しか出てこなくて前末中初以前のものは全然違うものしか出てきません。これは考古学的な常識になつているのですが、私の理解では、この時期に以前からこの地域に住んでいた人々とは全く異なる文明をもつた集団がやって来て、新たにこの地域を支配したのではないかと思います。そうでなければ、ある時間に習俗が一変することはあり得ません。これが今でいえば他部族の浸略ですが、天孫降臨と書かれている神話に対する、歴史的な事実ではないかと思います。神話には実は歴史の重要な真実が隠されていて、私は神武東征も当時の軍事集団の近畿浸入という実話だったと思いますし、天孫降臨にあたる事件もあったと、イデオロギーとは全く関係なく、科学的な事実として考えています.
 古事記には、神武天皇が「ちくしのくにのひなた」から東征に出発したとありますから、まさに福岡あたりから支配力を強めていつた一族が、近畿へ向かつて進軍して行った経緯をあらわしていると思います。当時、近畿圏一帯は銅鐸文化圈だつたのですが、神武軍はまったく違う文化だったために、近畿支配の後は近畿から突如として銅鐸が消えてしまった。実用的な矢じりしか出土しません、しかし、近畿以外では当時の地層から銅鐸も出てくるのです。このあたりのことは、当時の大陸との国際関係もからみ、興味深い事実が神話を検証することでより多く得ることができると思います。

「邪馬台国」から「邪馬壱国」へ

ー先入観念にとらわれずに、やはり元資料に基づいて調べていくー

●先生の邪馬壱国九州説は有名ですが、いつ頃から古代史のご研究を進めていらしゃったのですか。

 私は戦後、親鸞しんらんの実証的な研究をしていたのですが、その経験からも、古代史のほうで魏志倭人伝の原本には「邪馬壱(壹いち)国」と書いてあるのにもかかわらず、「邪馬台(臺たい)」として学界で扱つてきたことに疑問を持って調べ始めたのが私の古代史研究のはじまりでした。先人観念にとらわれず、やはり元資料に基づいて調べていくという手法を親鸞研究で学びましたから、古代史にもその手法を適用したわけです。
 それで私は、昭和四四年に「邪馬壱国」という学術論文を発表し、江戸・明治の国学者が「ヤマタイ」と読みかえたことで「大和、あるいは九州の山門」への道程を魏志倭人伝から読み解くという、目的地の先決 めの研究方法がとられてきたことの間違いを指摘したのです。何か何でもヤマトと読む地名の地にたどり着けるように解釈するという誤謬ごびゅうから解き放そうとしたわけです。そうすると魏志倭人伝の行路表記によれば、まさに「邪馬壱国」の場所は博多湾岸とその周辺になります。倭人伝に出てくる「不弥ふみ国」こそ博多湾岸であり、先ほどお話しした多くの遺跡がある地帯こそ、邪馬壱国そのものになるのです。

縄文時代歴史観の変化

●最近の縄文ブームについてはどう感じられますか。

 縄文文化は今までの常識をさらにさかのぼって、ずいぶん古くから営まれていたことがわかり、日本の縄文時代の歴史的深さを掘り下げつつあります。私の仮説ですが、土器というのは火山の溶岩や火砕流によつて土が焼かれたのを発見したことから始まるのではないかと思います。だとすれば日本は昔から火山国ですから、縄文上器が焼かれはじめたのは縄文初期以前の相当早い時間帯だったのではないかと。それからむしろ周辺の大陸に土器が伝播したのではないかと思つています、
 そうすると土器だけではなく当然、人間の行き来もありますから、言語や当時の民間信仰なども、かなり古い時代に周辺に伝播したことも考えられるわけです。
 また、最近では縄文時代にも定住栽培生活の部族がいたらしいということもわかつてきましたが、今までは国家は弥生時代から始まってそれ以前は原始共産制だったという考え方があります。ですから縄文時代の定住生活というのは存在せず、ユートピア的な無階級な共同生活体であつただろうと考える人もいました。ところが、そうではないと私は考えます。私も青森に行っていろんな縄文の甕かめ棺を見てきたのですが、その中にはさまざまなスタイルで葬られている人骨があります。一部では焼かれて埋葬された人もいるようです。しかも女性が多い。けれど、すべての人が甕棺に葬られたわけではないのです。当時の人口から考えると、ごく少数のエリートの、しかも女性がこういう甕かめ棺に葬られたと考えざるをえません。やはり階級制が存在し、支配層があつたと思います。
 ある時、甕棺の中から子どもを抱いた女性の人骨が出てきました。これを当時の新聞社が「幼児を抱いて埋葬された母親の麗うるわしい姿」と報道しました。ところがこれが後で間違いだとわかった。それは、アメリカ大陸で、それと同型の同種の埋葬スタイルの人骨が大量に発見されて、埋葬されていたのは奴隷の女性だとわかつたのです。つまり身分の高い人の幼児が死ぬと、奴隷の女性を殉死じゅんしさせていたのです。幼児が死後寂しくないように奴隷を殺して抱かせて葬っていたわけです。日本のものもまつたく同じ考え方であろうと訂正されました。
 結論から言いますと、私の考えでは縄文文化といっても支配階級が存在し、それなりの社会体制ができていて、土器だけではなく色々な生産システムや共同労働体制があり、大規模な土木工事も行われていたらしいのです。つまり国家の原型が生まれていたと見るべきです。
 信州では黒曜石などを交易でやり取りしていた形跡もありますから、産地の集団は男衆による軍事力でその利権を守り、他集団とも対抗していたと思います。いねば現代の石油をめぐる各国の動きと同様ですね(笑)。
 縄文時代1万4千数百年の間の歴史的な変遷は、相当多様な、社会や文化の進展があつたと思えます。

●現在、先生はどういった研究に取り組んでおられますか。

 今は古鏡の研究に没頭しております。「三角縁神饌鏡」などですね。これも新たな発見が多くあり、近いうちに発表しようと思っています。
 いずれにせよ、いままで常識と思つていた概念をもう一度で原点にもどつて科学的に検証し、本来の事実を確かめてみる姿勢、これが重要で、神話についても多角的な新たな神話学が21世紀には必要でしょう。今後も、生涯、現役研究者として探求を続けていきたいと思います。

(文責 広報部)

 このインタビュー記事は、日石三菱(株)社内報『オイルロード』 二〇〇〇年九月号(第一六号)の特別企画「古代史ブームをめぐって」に掲載されたものです。同社広報部広報グループのご好意により転載させていただきました。

(『古代に真実を求めて』編集部)


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第四集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一〜六集が適当です。 (全国の主要な公立図書館に御座います。)
新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailは、ここから

『古代に真実を求めて』(第四集)目次

古田史学会報42号へ

古田史学会報一覧に戻る

ホームページへ


Created & Maintaince by" Yukio Yokota"