一元史観からの太宰府「王都」説 -- 井上信正説と赤司善彦説の運命 古賀達也(古田史学会報121号)
文字史料による「評」論 -- 「評制」の施行時期について 古賀達也(会報119号)
観世音寺考 -- 観世音寺と観音寺 古賀達也(会報119号)
条坊都市「難波京」の論理 古賀達也(会報123号)
前期難波宮の築造準備について 正木裕(会報124号)
前期難波宮・九州王朝副都説批判 -- 「史料根拠と考古学」について 大下隆司(古田史学会報117号)
前期難波宮の論理
京都市 古賀達也
学問に対する恐怖
最近、中部大学教授の武田邦彦さんがご自身のブログで「学問に対する恐怖」という表現を使用して、地球温暖化説が観測事実に基づいていない、あるいは故意に温暖化説に都合の悪いデータ(この十五年間、地球の平均気温は上昇していない、等)を無視しているとして、不勉強な気象予報士や御用学者の「解説」を批判されていました。
良心的な科学者であれば、地球温暖化説に不利な観測データを無視できないはず。温暖化説など怖くて発表できないはずと述べられているのですが、武田さんはこのことを「学問に対する恐怖」という言葉で表しておられました。これは「真実に対する恐怖」と言い換えてもよいかもしれません。
この「学問に対する恐怖」という表現は、わたしにもよく理解できます。新しい発見に基づいて新説を発表するとき、本当に正しい結論だろうか、論証に欠陥や勘違いはないだろうか、史料調査は十分だろうか、既に同様の先行説があるのではないか、などと不安にかられながら発表した経験が何度もあったからです。中でも前期難波宮九州王朝副都説の研究の時は、かなり悩みました。『日本書紀』孝徳紀に記されたとおりの宮殿が出土したのですから、その前期難波宮を遠く離れた九州王朝の副都とする新説を発表することが、いかに「学問的恐怖」であったかはご理解いただけるのではないでしょうか。
当初、怖くてたまらなかった前期難波宮九州王朝副都説でしたが、その後の論証や史料根拠の増加により、今では確信を持つに至っています。何よりも未だに「なるほど」と思えるような有効な反論が提示されていないことからも、今では有力な仮説と自信を深めています。
前期難波宮九州王朝副都説への批判や反論は歓迎しますが、その場合は次の二点について明確な回答を求めたいと思います。
1.前期難波宮は誰の宮殿なのか
2.前期難波宮は何のための宮殿なのか
この二つの質問に答えていただきたいと思います。近畿天皇家一元史観の論者であれば、答えは簡単です。すなわち、孝徳天皇が評制により全国支配した宮殿である、と答えられるのです。しかし、九州王朝説論者はどのように答えられるのでしょうか。わたしの知るところでは、上記二つの質問に明確に答えられた九州王朝説論者を知りません。
七世紀中頃としては最大規模の宮殿である前期難波宮は、後の藤原宮や平城宮の規模と遜色ありません。藤原宮や平城宮が「全国」支配のための規模と様式を持った近畿天皇家の宮殿であるなら、それとほぼ同規模で同じ朝堂院様式の前期難波宮も、同様に「全国」支配のための宮殿と考えるべきというのが、避けられない考古学的事実に基づく理解なのです。
この考古学的事実に九州王朝説の立場から答えられる仮説が、わたしの前期難波宮九州王朝副都説です。自説に不利な考古学的事実から逃げることなく、学問への恐怖に打ち震えながらも、学問的良心に従って、反論していただければ幸いです。真摯な論争は学問を発展させますから。
九州王朝の「遷都」論
わたしは前期難波宮九州王朝副都説に至るよりも以前に、九州王朝の遷都について研究を続けていました。というのも、古田先生の『失われた九州王朝』に九州王朝の遷都を示唆する記述があり(第五章にある「遷都論」)、その研究が九州王朝史研究にとって重要テーマの一つであると考えていたからです。
その後も、古田先生は九州王朝の「遷都」についての検討を続けておられ、「天武紀」に見える「信濃遷都計画」についても言及されていました。たとえば、『古田史学会報』(一九九九年六月、三二号)掲載の「古田武彦氏講演会(四月十七日)」の次の記事です。
二つの確証について
九州王朝の貨幣と正倉院文書
(前略)この銭(冨本銭のこと=古賀)が天武紀十二年に現われる銅錢にあたるという。そうすると厭勝銭とは思えない。まじない銭に詔勅を出すだろうか?。このときの詔勅では「今後、銅銭を使え、銀銭は使うな」とある。銀銭には反感を持っていて、使用禁止。『日本書紀』は信用できないか?。いや、この点は信用できる。「法隆寺再建論争」で喜田貞吉は『書紀』の記述のみを根拠に再建説をとり、結局正しかった。「焼けもせぬものを焼けたと書くか?」という論理しか根拠はなかった。『書紀』が信用できない点は、年代や人物のあてはめなどイデオロギーに関するものであって、事物や事件は基本的に「あった」のだ。(中略)
天武紀十三年に「三野王らを信濃に遣わす」の記事あり、このとき携行したのかとの説がある。都を移す候補地を探したというが、近畿天皇家の天武がなぜ長野に都を移そうとするのか?ウソっぽい。白村江戦後、唐の占領軍は九州へ来た。なぜ近畿へ来なかったのか?納得できる説明はない。九州王朝が都を移そうとし、『書紀』はこれを二十四年移して盗用したのではないか?。
朝鮮半島の情勢に恐怖を感じて遷都を考えたことはありうる。なぜ長野か?。海岸から遠いから。太平洋戦争のとき松代に大本営を移すことを考えたのに似ている。(後略)
以上のように講演で指摘されているのですが、「『書紀』はこれを二十四年移して盗用した」という部分は、正木裕さん(古田史学の会・全国世話人、川西市)の「三四年遡り説」と同様の視点で、興味深く思います。このような古田先生による先駆的な研究に刺激を受けて、わたしの前期難波宮九州王朝副都説への発想が生まれたのかもしれません。
木柱の酸素同位体比測定
西井健一郎さん(古田史学の会・全国世話人、大阪市)から郵便物が届きました。表に「朗報・新聞在中」と書いてありましたので、なんだろうと思いながら開けてみますと、「読売新聞」(2014.02.25)が入っていました。『難波宮跡の柱「7世紀前半」…新手法で年代特定』という大きな見出しが目に飛び込み、記事を読んで驚きました。それは「年輪セルロース酸素同位体比法」という、樹木の年代を測定する新技術でした。わたしは初めて知った技術です。インターネットでは次のように説明されています。転載します。
酸素原子には重量の異なる3種類の「安定同位体」がある。木材のセルロース(繊維)中の酸素同位体の比率は樹木が育った時期の気候が好天だと重い原子、雨が多いと軽い原子の比率が高まる。酸素同位体比は樹木の枯死後も変わらず、年輪ごとの比率を調べれば過去の気候変動パターンが分かる。これを、あらかじめ年代が判明している気温の変動パターンと照合し、伐採年代を一年単位で確定できる。
以上のような新技術ですが、たしかにこの方法なら原理的に一年単位で木材の年代決定が可能です。もちろん新技術には予期せぬ問題点の発生という、発展途上技術として避けられない「未完熟性」のリスクがありますので、今後のデータ蓄積や他の年代測定方法とのクロスチェックによる精度と信頼性の向上が待たれます。
新聞報道によれば、難波宮から出土した柱を酸素同位体比法で測定したところ、七世紀前半のものとわかったとのこと。この柱材は二〇〇四年の調査で出土したもので、一点(直径約三一センチ、長さ約一二六センチ)はコウヤマキ製で、もう一点(直径約二八センチ、長さ約六〇センチ)は樹種不明。最も外側の年輪はそれぞれ六一二年、五八三年と判明しました。伐採年を示す樹皮は残っていませんが、部材の加工状況から、いずれも六〇〇年代前半に伐採され、前期難波宮北限の塀に使用されたとみられるとのことです。
従来の年輪年代法は年輪幅のデータがそろっている杉、ヒノキにしか使えませんが、酸素同位体比法では樹種に関係なく、同年代なら同じ同位体残存率を示すことが確認されているそうです。
酸素同位体比測定法の検討
「年輪セルロース酸素同位体比法」という、樹木の年代を測定する新技術について、何人かの方にご意見を求めたところ、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)からは懐疑的な意見が出されました。西村さんが懸念されていたのは、地方によって同じ年でも降雨量が異なり、その結果、酸素同位体比に地域差が生じ、地域ごとの基礎データと、測定対象樹木の産地が確定できなければ、正確な年代測定は困難ではないかという問題でした。それに対してわたしは次のような理由をあげて、信頼してもよい技術ではないかと返答しました。
1.木材の年輪中に固定されたセルロース分子内の酸素を分析対象としているため、外部からの不純物混入のリスクが少ないと思われる。
2.樹種を問わないので、基礎データとなる対象木材サンプル(年代が明確なもの)数が多く、安定したデータベース作成が可能できる。
3.古代においては、それほど遠隔地から木材が搬入使用されるとは考えにくいので、基本的に出土地近辺の木材データベースとの比較により、年代確定しても信頼性は高いと思われる。
4.前期難波宮の水利施設出土の木枠が年輪年代測定により七世紀前半(六三四年)の伐採が確定されており、その木枠の年輪セルロース酸素同位体比との比較、クロスチェックが可能であり、既に実施した上で発表したのであれば、今回の発表は信頼性が高い。
概ね以上のような意見を述べ、4で述べましたように、前期難波宮水利施設出土の木枠の酸素同位体比測定が行われたうえでの結果であれば、クロスチェックを経たことになり信頼性が高いということで、西村さんと意見の一致をみました。
直木氏の前期難波宮首都説
大阪市中央区法円坂から出土した宮殿遺構「前期難波宮」を九州王朝の副都とする私に対して、西村秀己さんからは副都ではなく首都であると度々厳しいご批判をいただいています。正木裕さんも「ある期間の首都」説の立場を発表されています。西村さんの批判の根拠は、そこに天子がいて白雉改元の儀式をしているのだから、首都とみなすべきだというものです。わたしも、少なくとも首都機能を有す副都であると考えています。
近畿天皇家一元史観では、前期難波宮は『日本書紀』孝徳紀に見える孝徳天皇の「難波長柄豊碕宮」としていますから、前期難波宮は「大和朝廷」の首都であると当然のように見なしています。この通説の「前期難波宮」大和朝廷首都説を、直木孝次郎さんはその宮殿の規模・様式を根拠に次のように主張されています。
「周知のように藤原宮朝堂院も、平城宮第二次朝堂院も、いずれも十二朝堂をもつ。平城宮第一次朝堂院はやや形態をことにして十二朝堂ではないが、一般的には十二朝堂をもつのが朝堂院の通常の形態で、長岡京朝堂院が八朝堂であるのは、簡略型・節約型であるとするのが、従来の通説であった。この通説からすると、後期難波宮の八堂というのは、簡略・節約型である。なぜそうしたか。奈良時代の首都である平城京に対し、難波京は副都であったから、十二堂を八堂に減省したのであろう。(中略)
首都十二堂に対し副都八堂という考えが存したとすると、前期難波宮が『十二の朝堂をもっていた』すなわち十二堂であったという前記の発掘成果は、前期難波宮が副都として設計されたのではなく、首都として設計・建設されたという推測をみちびく。
もし前期難波宮が天武朝に、首都である大和の飛鳥浄御原宮に対する副都として造営されたなら、八堂となりそうなものである。浄御原宮の遺跡はまだ明確ではないが、現在有力視されている明日香村岡の飛鳥板蓋宮伝承地の上層宮跡にしても、他の場所にしても、十二朝堂をもっていたとは思われない。そうした浄御原宮に対する副都に十二朝堂が設備されるであろうか。前期難波宮が天武朝に造営されたとする意見について、私はこの点から疑問を抱くのである。
前期難波宮が首都として造営されたとすると、難波長柄豊碕宮と考えるのがもっとも妥当であろう。孝徳朝に突如このような壮大な都宮の営まれることに疑惑を抱くむきもあるかもしれないが、すでに説いたように長柄豊碕宮は子代離宮小郡宮等の造営の試行をへ、改新政治断行の四、五年のちに着工されたのであろうから、新政施行に見合うような大きな構想をもって企画・設計されたことは十分に考えられる。(中略)
〔追記〕本章は一九八七年に執筆・公表したものであるが、一九八九年(平成元年)の発掘の結果、前期難波宮は『従来の東第一堂の北にさらに一堂があることが判明し、現在のところ少なくとも一四堂存在したことがわかった』(中尾芳治「難波宮発掘」〔直木編『古代を考える 難波』吉川弘文館、一九九二年〕)という。そうならば、ますます前期難波宮は副都である天武朝の難波の宮とするよりは、首都である孝徳朝の難波の長柄豊碕宮と考えた方がよいと思われる。」直木孝次郎『難波宮と難波津の研究』(一一二頁。吉川弘文館、一九九四年)
この直木さんの文章は近畿天皇家一元史観の限界とともに重要な示唆を含んでいます。十二朝堂を持つ首都に対して、八朝堂の宮殿を副都とみなすという視点は注目されます。このことなどを理由に直木さんは前期難波宮を天武朝ではなく孝徳朝の首都とされているのですが、この問題を九州王朝説の視点から見れば、西村秀己さんや正木裕さんが主張されるように、前期難波宮は九州王朝の首都とする見解も有力と言わざるを得ません。
近畿天皇家一元史観において、前期難波宮を孝徳天皇の「難波長柄豊碕宮」と理解したときに避け難く発生する問題についても、直木さんは正直に「告白」されています。「孝徳朝に突如このような壮大な都宮の営まれることに疑惑を抱くむきもあるかもしれない」とされた箇所です。この点こそ、わたしが前期難波宮九州王朝副都説に至った理由の一つだったのです。
近畿天皇家の宮殿の発展史からすると、前期難波宮の存在は説明困難な異常な状況なのです。皇極天皇の比較的小規模な明日香の宮殿から、次代の孝徳天皇がいきなり巨大な朝堂院様式の宮殿を造営し、その次の斉明天皇の時代にはまた小規模で朝堂院様式ではない明日香の宮殿に戻るという変遷が理解不能・説明困難となるのです。そのため直木さんは「長柄豊碕宮は子代離宮小郡宮等の造営の試行をへ、改新政治断行の四、五年のちに着工されたのであろう」と、考古学的根拠が皆無(子代離宮・小郡宮は発見されていない)であるにもかかわらず、このような「言い訳」をせざるを得なくなっているのです。この点こそ、一元史観では説明困難な前期難波宮の「謎」なのです。
「難波長柄豊碕」説の問題点
直木さんは白雉改元の宮殿を小郡宮とされ、『日本書紀』白雉元年条(六五〇)に記された改元の儀式が可能な規模の宮殿であったとされています。従って、その小郡宮の造営などを背景にして更に大規模な前期難波宮が造営されたとし、「大和朝廷」の宮殿発展史の矛盾を解決されようとしたのです。
直木さんをはじめ、通説派の論者が前期難波宮を難波長柄豊碕宮に比定したのは、『日本書紀』白雉三年条(六五二)に見える「たとえようのないほどの立派な宮殿が完成した」という記事にふさわしい大規模な宮殿が、法円坂から出土した前期難波宮しか難波にはなかったことによります。そうすると、今度は『日本書紀』白雉元年条(六五〇)の白雉改元の儀式を行った宮殿を前期難波宮以外(以前)に求めざるを得なくなったのです。そのため、直木さんはまだ発見もされていない「小郡宮」を白雉改元の宮殿と見なし、それは『日本書紀』に記されたような白雉改元の儀式が可能な規模の宮殿てあったはずと、考古学的根拠もないまま主張されたのです。この点、他の通説派の論者も似たり寄ったりの立場です。
この通説派の矛盾と限界の原因は、『日本書紀』の白雉年号が九州年号の白雉を二年ずらして盗用したことよります。『二中歴』などの九州年号「白雉」の元年は六五二年で、『日本書紀』の白雉元年は六五〇年です。従って、本来は九州年号の白雉元年(六五二)に行われた大規模な白雉改元の儀式はその年に完成した「たとえようのないほど立派な宮殿」すなわち前期難波宮で行われていたとすればよかったのですが、白雉改元記事がその二年前に『日本書紀』に盗用挿入されたため、その記事(内容と年次)を信用する一元史観の通説派は白雉改元の宮殿を未完成の前期難波宮とするわけにはいかなくなったのです。かといって九州年号の白雉元年(六五二)に改元儀式が行われたことを認めれば、とりもなおさず九州年号と九州王朝を認めることになり、これもまた一元史観の通説派には到底できないことなのです。ここに、通説派による無理・矛盾の根本原因があります。
考古学的「実証」と「論証」
難波宮跡出土の木柱が七世紀前半(最も外側の年輪が六一二年、五八三年)のものとした「年輪セルロース酸素同位体比法」の結果が何を意味するのか、どのような展開を見せるのかを考えてきました。その結果、前期難波宮の考古学的「実証」により、次のような「論証」が成立することを改めて確信しました。
大阪市中央区法円坂から出土した巨大宮殿遺構は主に前期と後期の二層からなっており、下層の前期難波宮は一元史観の通説では孝徳天皇の「難波長柄豊碕宮」とされています。少数意見として、天武朝の宮殿とする論者もありますが、今回の出土木柱の年代が酸素同位体比法により、七世紀前半のものとされたことから、前期難波宮造営を七世紀中頃(孝徳期)とする説が更に有力になったと思われます。
これまでも紹介してきたことですが、前期難波宮の造営年代の考古学的根拠とされてきたものに、今回の木柱を含めて次の出土物があります。
1.「戊申」年木簡(六四八年)
2.水利施設木枠の年輪年代測定(六三四年伐採)
3.木柱の酸素同位体比法年代測定(六一二年、五八三年)
4,前期難波宮整地層出土主要須恵器(杯H・G)が藤原宮整地層出土主要須恵器(杯B)よりも一?二様式古く、天武期に造営開始された藤原宮よりも前期難波宮の方が古い様相を示している。
以上のように少なくともこれら四件の考古学的事実からなる「実証」が、いずれも前期難波宮造営を七世紀中頃とする説が有力であることを指示しています。それでも天武期造営説を唱える人は、
(1)「戊申」年木簡は偶然か何かの間違い(無関係)とし、信用しない。
(2)木枠の年輪年代も偶然か何かの間違い(無関係)とし、信用しない。
(3)木柱の酸素同位体比法年代も偶然か何かの間違い(無関係)とし、信用しない。
(4)整地層須恵器も偶然か何かの間違い(無関係)とし、信用しない。
というように四回も「偶然」や「間違い(無関係)」を無理矢理想定し、「信用しない」という「論法」を用いざるを得ないのですが、およそ四回の「偶然」や「間違い(無関係)」の「同時発生」を自説の根拠とするような方法は学問的判断とは言い難いものです。
このようにどちらの説が有力かを比較論証する「学問の方法」を、わたしは古田先生から学びました。たとえば古田先生との共著『「君が代」うずまく源流』(新泉社、一九九一年)で、「君が代」が糸島・博多湾岸の地名・神名を読み込んでこの地で成立したとするのは「偶然の一致」にすぎないとする批判に対して、次のような反証を古田先生はなされています。
第一に、博多湾岸(福岡市)の「千代」が「君が代」の「千代」の歌詞と一致しているのは、偶然の一致にすぎず、とする。
第二に、糸島郡の「細石」神社が、「君が代」の「細石」の歌詞と一致しているのは、偶然の一致にすぎず、とする。
第三に、糸島郡の「井原(岩羅)」が、「君が代」の「岩を」(或は「岩秀〈ほ〉」)の歌詞と一致しているのは、偶然の一致にすぎず、とする。
第四に、糸島郡の桜谷神社の祭神、「苔牟須売神」が、「君が代」の「こけのむすまで」の歌詞と一致しているのは、偶然の一致にすぎず、とする。
右のように、四種類の「偶然の一致」が偶然重なったにすぎぬ、として、両者の必然的関連を「回避」しようとする。これが、「『君が代』を『糸島・博多湾岸の地名』と結び付けるのは、学問的論証力を欠く」と称する人々の、必ず落ちいらねばならぬ、「偶然性の落とし穴」なのである。
しかし、自説の立脚点を「四種類の偶然の一致」におかねばならぬ、としたら、それがなぜ、「学問的」だったり、「客観的」だったり、論証の「厳密性」を保持することができようか。わたしには、それを決して肯定することができぬ。
右によって、反論者の立場が、論理的に極めて脆弱であることが知れよう。(同書、九七頁)
この『「君が代」うずまく源流』は、わたしにとって初めての著作であり、尊敬する古田先生との共著でもあり(古田先生、灰塚照明さん、藤田友治さんとの共著)、この論証方法は今でも印象深く記憶に残っています。この論証方法が前期難波宮の研究に役だったことは感慨深いものです。そして結論として、前期難波宮の造営を七世紀中頃とする説は不動のものになったと思われるのです。
前期難波宮のシュリーマンの法則
古田先生の「学問の方法」で最も有名なものの一つに「シュリーマンの法則」というものがあります。古田学派の研究者や読者であればよくご存じのことと思います。文字史料や伝承などの記録と考古学的事実が一致する場合、それは歴史的事実である可能性が高いと判断するというものです。ギリシア神話の「トロイの木馬」伝承を歴史事実の反映と考えたシュリーマンがヒッサリクの丘からトロイ遺跡を発見し、その神話伝承が歴史事実であったことを証明したことに由来する「学問の方法」です。具体的には『真実の東北王朝』(ミネルヴァ書房。二〇一二年三月刊行、古代史コレクション一〇)の「第五章 東日流外三郡誌との出会い」で次のように古田先生は記されています。
「記・紀の表記の厳密な理解と考古学的出土分布とは一致する。これを『シュリーマンの法則』と呼ぶ。」(同書、一五二頁)
「人々は、従来の慣例やゆきがかり上、冷淡や無視や反発をくりかえしつつ、結局、「シュリーマンの法則」をうけ入れざるをえなくなるであろう。
?『神話・伝承と考古学的出土分布との一致』がこれである。」(同書、一五三頁)
今回は、この「シュリーマンの法則」で前期難波宮を考察してみることにします。まず考古学的事実の要点は次のようでしょう。
1.七世紀中頃の宮殿遺構であり、当時としては日本列島内最大規模である。
2.日本列島初の朝堂院様式の大規模宮殿遺構である。
3.朝堂の数は十四堂で、後の藤原宮や平城宮の十二堂よりも多い。
4.その周囲(東西)に大規模な官衙遺構を持つ。
5.火災による消失跡がある。
6.その遺構の上層には聖武天皇による「難波宮」(後期難波宮)遺構がある。
以上の考古学的事実に対応する文献史料には次のようなものがあります。
1.『日本書紀』孝徳紀白雉三年条(六五二年、九州年号では白雉元年に相当)に、「秋九月に、宮造ることすでに終わりぬ。その宮殿の状(かたち)ことごとくに論(い)うべからず。」(たとえようのない見事な宮殿が完成した)という記事があります。
2.『日本書紀』には上記の記事の他、天武十一年九月条「勅したまはく『今より以後、跪(ひざまづく)礼・匍匐礼、並びに止(や)めよ。更に難波朝廷の立礼を用いよ。』とのたまう。」のように「難波朝廷」という記事もあり、「朝堂院様式」の宮殿を表す「朝廷」という記載が対応しています。
『皇太神宮儀式帳』(延暦二三年・八〇四年成立)にも「難波朝廷天下立評給時」という記事があり、七世紀中頃に「難波朝廷」が天下に評制を施行したことが記されています。この「朝廷」という表記も、七世紀中頃の朝堂院様式の前期難波宮遺構に対応した表現です。
3.上記の1と2が対応します。
4.七世紀中頃に全国に「評」が創設されたとする多くの記録(先の「天下立評」など)があり、それら評制を施行し、管理するのに必要な「朝廷」の官衙群に対応します。
5.『日本書紀』天武紀朱鳥元年条(六八六)に難波の宮殿が火災で焼失したという記事に対応しています。
6.『続日本紀』の聖武紀に見える「難波宮」に対応します。
以上のようですが、こうして見ると『日本書紀』の記述と前期難波宮遺構がよく対応していることがわかります。すなわち、前期難波宮には「シュリーマンの法則」が成立しており、その結果、この大規模な宮殿を誰の宮殿とするのかが問われるのですが、九州王朝説論者の皆さん、どのようにこの問いに答えますか。わたしの「前期難波宮九州王朝副都」説以外に、九州王朝説を支持する誰もが納得できる仮説はあるでしょうか。ちなみに、近畿天皇家一元史観からの答えは簡単です。「『日本書紀』の記述通り孝徳天皇の宮殿であり、孝徳天皇が全国に評制を施行した宮殿である」と答えられるのです。
織田信長の石山本願寺攻め
NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」は、織田信長の摂津石山本願寺攻めが舞台となって展開中です。ご存じの通り、摂津石山本願寺の石山とは今の大阪城がある場所で、難波宮の北側です。大阪歴史博物館の窓からは大阪城と難波宮址の両方が展望できますので、お勧め観光スポットです。
石山本願寺と織田信長の戦いは「石山合戦」と呼ばれ、十年の長きにわたり続きましたが、この歴史事実は石山がいかに要衝の地であり難攻不落であったかを物語っています。といいますのも、前期難波宮九州王朝副都説への批判として、太宰府のように神籠石山城に囲まれているのが九州王朝の都の特徴であり、前期難波宮にはそのような防衛施設がないことをもって、九州王朝とは無関係とする意見があるのですが、そうした批判への一つの回答が「石山合戦」なのです。
本年三月の古田史学の会・関西例会においても同様の疑問が寄せられましたので、神籠石山城の存在は「十分条件」ではあるが、「必要条件」ではないとする論理性の点からの反論をわたしは行ったのですが、西村秀己さんから、「難波宮は難攻不落の要害の地にあり、信長でも石山本願寺攻めに十年掛かっても落とせなかった。秀吉はその地に大阪城を築いたほど」という指摘がなされました。その意見を聞いて、わたしは「なるほど、これはわかりやすい説明だ」と感じました。わたしがなかなかうまく説明できなかったことを、見事な例で言い当てられたのです。まさに「我が意を得たり」です。
関西の人はよくご存じのことと思いますが、当時の難波は天王寺方面から北へ伸びている「半島」となっており、三方は海に囲まれています。現在も「上町台地」としてその痕跡をとどめています。その先端付近に難波宮があり、後にその北側に石山本願寺や大阪城が造られています。
七世紀中頃、唐や新羅の脅威にさらされた九州王朝の首都太宰府は水城と大野城などの山城で周囲を防衛しています。その点、難波であれば朝鮮半島から遠く離れており、攻める方は関門海峡を突破し、多島海の瀬戸内海を航行し、更に明石海峡も突破し、その後に上町台地に上陸しなればなりません。特に瀬戸内海は夜間航行は不可能であり、夜間は各地に停泊しながら東侵することになります。その間、各地で倭国軍から夜襲を受けるでしょうし、瀬戸内海の海流も地形も知り尽くした倭国水軍(「河野水軍」など)と不利な海戦を続けなければなりません。したがって、古代において唐や新羅の水軍が自力で難波まで侵入するのは不可能ではないでしょうか。
同様に日本海側からの侵入も困難です。仮に敦賀や舞鶴から上陸でき、琵琶湖の東岸で陸戦を続けながら、大坂峠を越え河内湾北岸まで到達できたとしてしも、既に船は敦賀や舞鶴に乗り捨てていますから、上町台地に上陸するための船がありません。このように、難波宮は難攻不落という表現は決して大げさではないのです。だからこそ近畿天皇家の聖武天皇も難波を都(後期難波宮)としたのです。
同様の視点から、愛媛県西条市で発見された字地名「紫宸殿」も防衛上の問題があります。考古学的調査はなされていませんが、もし九州王朝のある時代の「首都・王宮」であったとすれば、ここも周囲に防衛施設の痕跡はありません。北方に永納山神籠石はありますが、離れていますから王宮防衛の役割は期待できそうにありません(せいぜい「逃げ城」か)。
しかし、ここでも唐・新羅の水軍は関門海峡の突破と瀬戸内海の航行を経なければ到達できません。難波に至っては、その距離は倍になりますから、更に侵入困難であることは言うまでもありません。
難波宮が防衛上からも、評制による全国支配のための「地理的中心地」という点からも、やはり九州王朝(倭国)の副都とするにふさわしいのです。NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」で信長軍が石山本願寺攻めに苦慮しているシーンを見るにつけ、こうした確信が深まっています。
※本稿は「古田史学の会」HPに連載の「洛中洛外日記」を加筆訂正し、転載したものです。(二〇一四年三月十八日、筆者)
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailはここから。古田史学会報一覧へ
Created & Maintaince by" Yukio Yokota"