2014年10月10日

古田史学会報

124号

1,前期難波宮の築造準備
  正木裕

2,「邪馬台国」畿内説は
   学説に非ず
  古賀達也

3,「魏年号銘」鏡はいつ、
何のためにつくられたか

   岡下英男

4,トラベルレポート
出雲への史跡チョイ巡り行
   萩野秀公

5,鉄の歴史と九州王朝
   服部静尚

6,書評
   好書二冊
   正木裕

 

古田史学会報一覧

海幸・山幸と『吠ゆる狗・俳優の伎』 正木裕(会報123号)

盗用された任那救援の戦い 敏達・崇峻・推古紀の真実(上)(下) 正木裕(会報125・6号)

前期難波宮の論理 古賀達也 (会報122号)


前期難波宮の築造準備について

川西市 正木 裕

 「前期難波宮」については、大阪文化財研究所などの努力により近年発掘が進み、孝徳天皇の時代(七世紀中葉)のものである事が一層確実になってきた。これに加え、「宮殿の立地する地形とその改変状況、あるいは宮殿の周縁部に設けられた官衙などの遺構群が明らかになってきている」状況にある(註1)。
 一方、「元壬子年木簡」により難波宮完成の六五二年は「九州年号白雉元年」であることが確かめられ、また、筑紫の須恵器の難波宮整地層からの発見、天武紀の「副都詔」ほかの宮関連記事の分析などから、前期難波宮が九州王朝の造営した宮である可能性は一段と高くなってきている。本稿ではこれを踏まえ、九州王朝による前期難波宮の築造準備を明らかにしていく。
 なお、『書紀』で前期難波宮関連記事が三四年後の天武紀に盗用されていることは、「『日本書紀』の三四年遡上と難波遷都」(『古代に真実を求めて』第十三集古田史学の会編(二〇一〇・三・三一明石書店)、「白雉年間の難波副都建設と評制の創設について」(古田史学会報八二号二〇〇七年十月。古田史学の会HPで公開)ほかで述べており、紙面の都合上詳細は略させて頂く。

 

1、難波宮予定地の囲い込み

 (1).『書紀』天武八年(六七九)→三四年前は大化元年(命長六年・六四五)
 十一月(略)是の月に、初めて関を竜田山・大坂山に置く。仍りて難波に羅城を築く。

 「竜田山・大坂山の関」について、『書紀』天武元年(六七二)の壬申の乱記事中「三百の軍士を率て、竜田に距(ふせ)かしむ。復佐味君少麻呂を遣して、数百人を率て、大坂に屯(いは)ましむ」とある。
 これは天武元年時点での竜田関、大坂関の存在を前提とした文だ。ここから、天武八年の「竜田・大坂の関、難波羅城築造」記事全体がそれ以前の事実だったと考えられる。
 そして、「羅城」とは「京の四周にめぐらす城壁(*当時なら城柵)」(『岩波注』)のことだ。大阪文化財研究所の高橋工氏によれば、「前期難波宮の土地造成工事の期間はどこまで絞り込めるのであろうか。建築工事を含めた造営期間については諸説があって、最短で二年弱、最長で六年半と考えられているが、最長期間を取れば六四六〜六五二年の間ということになり(高橋報告)とされている。
 つまり、天武八年記事は三四年遡上した大化元年(六四五)十一月からの盗用だったとすれば、難波宮築造開始時期にずばり整合するのだ。
 従って、「難波の羅城」とは前期難波宮予定地を囲む「城壁(柵)」を意味し、この時期から宮の造営準備が始まったと考えられよう。
 これは、最近前期難波宮の「条坊遺構」が発掘されたことからも裏付けられる。高橋氏の別の報告では、条坊遺構は「天武朝より古く、最初に難波宮が造られた孝徳朝に遡る可能性が高いと考えられる」とあることから、難波宮当初より「条坊都市=難波京」として計画されたことになる(註2)。そうであれば、現代で開発予定区域をネットフェンスで囲むように、条坊=京域予定地を城柵で囲んだことは十分に想定できるのだ。

 

2、予定地の視察・番匠(*工匠)の派遣

 (1).『書紀』天武十一年(六八二)→大化四年(常色二年・六四八)
 三月甲午朔に、小紫三野王及び宮内官大夫等に命して、新城に遣して、其の地形を見しむ。仍りて都造らむとす。(略)己酉(十六日)、に幸す。

 この天子の「新城」行幸について、愛媛県越智郡大三島町大山祇神社諸伝の『伊予三嶋縁起』(以下『縁起』)に次の記事がある。
◆三七代孝徳天王位。番匠初。常色二(六四八)戊申日本国御巡禮給。当国下向之時。玉輿船御乗在之。同海上住吉御対面在之。同越智性給之。(修験道資料集?昭和五十九年)

 「番匠」は「番上の工匠の意。古代、交代で都に上り、木工寮で労務に服した木工(『広辞苑』)」の意味だ。従って『縁起』は、孝徳時代、宮殿等の造営に携わる「番匠」制度が始まり、常色二年(六四八・大化四年)に「天子」が日本巡礼(巡行)途上、伊予に立ち寄った記事になる。これは、天武十一年三月記事(1).を三四年前のものと考えれば、『縁起』と「時期(年)と行幸目的(造都)」が一致する。そして、「賜姓の権限」は天子にしかないうえ、「常色」は九州年号だからこれは「九州王朝の天子の行幸」と考えられる。
 『縁起』は、天武十一年(六八二)の三四年前、常色二年(六四八)に九州王朝の天子が、「新城」即ち難波宮建設予定地視察のため筑紫から難波に行幸した。その途上伊予に立ち寄ったことを示すものとなろう。
 そして「戊申日本国御巡禮給」とある、その「戊申」年木簡が難波宮整地層から発掘されているのだ。岩波版『日本書紀』天武十一年の「新城」の注では、「結局都は造られなかった」とするが、天武期ではなく「常色期に九州王朝により番匠が派遣され、都が造られた。それが前期難波宮だ」ということになろう。

 

3、地形調査

 更に「其の地形を見しむ」とあるが、従来このフレーズに特別な意義があるとは考えられなかった。
 しかし、発掘が進み、「宮殿が立地する地形については、東西幅がせいぜい一五〇〇m程度しかない上町台地にあって、急峻な谷が複雑に入りこんでいる状況が把握されている。宮殿は起伏の激しい地形の中の僅かな平坦部をうまく利用して築造されている(高橋報告)」という「難波宮の特別な地形」が判明し、難地形での築造の困難性が指摘されている。これにより、「地形を見しむ」との文言は、「都の建設が可能か、どう造成すればよいのかを調査させる」という重要な意義を持つ語句である事がわかったのだ。

 

4、副都建設と官衙造営の詔

 天武十二年に「先づ難波に都造らむ」とあり、これが正式な「難波副都建設の詔」となる。
 (1).『書紀』天武十二年(六八三)→大化五年(常色三年・六四九)
 十二月庚午(十七日)に(略)又詔して曰く、凡そ都城・宮室、一処に非ず、必ず両参(ふたところみところ)造らむ。故、先づ難波に都造らむと欲す。是を以て、百寮の者、各往りて家地を請(たま)はれ。
 高橋報告によれば、前期難波宮では、東方官衙・西方官衙に加え、西方宮外官衙(板塀に囲まれた建物群)や、「一二〇mに達する」建物跡も存在する西南方宮外官衙(朱雀門外西南の連続する長舎建物群)が発見されている。更に朝堂院の西にも官衙の存在が想定され、「利用できる用地はほぼ全て官衙にあてられ(略)、八省百官とされる役所機構が実際に稼働していた可能性を示している(高橋報告)」とされる。
 これは六五二年完成の前期難波宮造営にあわせ、大規模な官衙造営が行われたことを意味し、「百寮の者、各往りて家地を請はれ。」との記述と見事に一致するのだ。この大規模官衙の発掘により、天武十二年記事が本来三四年前の大化五年(常色三年・六四九)のものであることが一層確実になったと言えよう(補註)。

 

5、宮殿の位置確定と工匠による着工

 『書紀』天武十三年に「宮室之地を定めた」とあるとともに、三四年前の『書紀』白雉元年(常色四年・六五〇)に「宮地に入れる為に丘墓を壊され、或は移転させられた人」への補償記事がある。
 (1).『書紀』天武十三年(六八四)→白雉元年(常色四年・六五〇)
 二月癸丑朔(略)庚辰(二八日)に、浄広肆広瀬王・小錦中大伴連安麻呂、及判官・録事・陰陽師・工匠等を畿内に遣はして、都つくるべき(應都)地を視占しめたまふ。是の日に、三野王・小錦下采女臣筑羅等を信濃に遣はして、地形を看しめたまふ。是の地に都つくらむとするか。
 三月癸未朔(略)。辛卯(九日)、天皇京師に巡行(あり)きたまひて、宮室之地を定めたまふ。

 (2).『書紀』白雉元年(六五〇)冬十月に、宮の地に入れむが為に、丘墓を壊られたる人、及び遷されたる人には、物賜ふこと各差有り。即ち将作大匠(たくみのつかさ)荒田井直比羅夫を遣はして、宮の堺標を立つ。
 天武十三年(六八四)と白雉元年(六五〇)は三四年離れているが、その内容は、白雉元年三月「宮室之地」が定まり、派遣された「工匠」らによって宮造営工事が開始された。これに伴い、同年十月に「移転補償」が行われたと考えれば、難波宮の宮室造営に伴う事実としてきれいに整合するのだ。
 また、天武十三年記事に、「工匠」の記事が見える。「都を造る工匠」だから、これはずばり『縁起』に孝徳時代に始まったと記す「番匠」にあたる。
 そして、『書紀』では孝徳時代の白雉元年記事に「将作大匠」荒田井直比羅夫とある。「将作監」は宮室等を造営する役所、大匠はその長官のことだから、九州王朝の「番匠(工匠)」派遣は白雉元年の事実で、その長官が「将作大匠荒田井直比羅夫」だったことを裏付けるものとなろう。

 

6、官僚・兵の移転・移動準備

 (1).『書紀』天武十三年(六八四)→白雉元年(六五〇)
 閏四月丙戌(五日)に、詔して曰はく「来年の九月に、必ず閲せむ。因りて百寮の進止・威儀を教えよ」(略)「凡そ政要は軍事なり」。

 都を遷すにあたって必要なのは施設建設だけではない。当然「百寮・兵の大規模な移動」を伴う。この移転に混乱をきたさない為、「進止・威儀を教え」、万全の「移転準備」をおこなうよう指示したのがこの詔となろう。
 その移転は宣言通り、翌白雉二年(六五一)に行われている。次の記事から、先発隊の派遣は九月で、現地で万全の備えが行われたと考えられる。

 (2).天武十四年(六八五)→白雉二年(六五一)
 九月甲寅(十一日)に、宮処王・広瀬王・難波王・竹田王・弥努王を京及び畿内に遣して、各人夫の兵(武器)を校へしめたまふ。
 また、難波副都における「諸役」の任命も十月に行われている。

 (3).『書紀』天武十四年冬十月甲申(十二日)に、浄大肆泊瀬王・直広肆巨勢朝臣馬飼・判官以下、并せて廿人を以て、畿内の役に任す。
 こうした万全の備えを行った後、いよいよ天子が居を難波宮に移したことになる。それが「伊勢王等、亦東国に向る」記事だ。

 (4).『書紀』天武十四年(六八五)→『書紀』白雉二年(白雉元年・六五一)
 冬十月己丑(十七日)に、伊勢王等、亦東国に向る。
 この記事こそ九州王朝の天子「伊勢王」らが筑紫から難波宮に遷居した記事だと考えられる。「東国」とは筑紫から見て東国、即ち近畿難波宮を指すからだ。
 ちなみに、『書紀』白雉二年(六五一)是の歳に、「難波津より、筑紫海の裏に至るまでに、相接ぎて艫舳を浮け盈(み)てて、新羅を徴召(め)して、其の罪を問はば、易く得べし」とある。唐に臣従した「新羅」に対し威圧行動を行うべきとの奏上だ。
 そして三四年後の、天武十四年(六八五)に武器を周防と筑紫に送った記事、「新羅を徴召(め)した」記事、筑紫に派遣された防人の海難記事がある。

 (5).『書紀』天武十四年(六八五)→白雉二年(六五一)
 十一月癸卯朔甲辰(二日)に、儲用の鉄一万斤を、周芳の総令の所に送す。是日、筑紫大宰、儲用の物、?一百匹・絲一百斤・布三百端・庸布四百常・鉄一万斤・箭竹二千連を請す。筑紫に送し下す。
(略)己巳(二七日)に、新羅、波珍?金智祥・大阿?金健勲を遣して政を請す。仍りて調進る。
 十二月壬申朔乙亥(四日)に、筑紫に遣せる防人等、海中に飄蕩(ただよ)ひて、皆衣裳を失へり。則ち防人の衣服の為に、布四百五十八端(むら)を以て、筑紫に給り下す。
 これらの記事は、戦地に近い筑紫から、難波に移転した伊勢王が実施した新羅に対する威圧行動と、「新羅を徴召」した成果、「相接ぎて艫舳を浮け盈」た結果おこった事故の顛末だったのだ。

 

7、九州王朝の難波遷都

 そうして、十二月の晦に、全面完成間近な難波宮(味経宮)において、新宮の無事を祈念するための大法要を執り行ったのち、新宮(難波宮)に入城し新年の賀を受け、白雉改元に向けた諸準備をおこなったことになる。
 そして官衙の整備状況から難波宮において「八省百官」が政務を執っていたことが分かるとすれば、それはもはや「遷都」と呼んでも過言ではないだろう。
 このように、現地の発掘状況と『書紀』記事から、九州王朝の難波「遷都」に向けた動きが明らかにできるものと考える。
 (1).『書紀』白雉二年(常色五年六五一) 冬十二月の晦に、味経宮(あじふのみや)に、二千一百余の僧尼を請せて、一切経読ましむ。是の夕に、二千七百余の燈を朝の庭内に燃して、安宅・土側等の経を読ましむ。是に、天皇大郡より、遷りて新宮に居す。号けて難波長柄豊碕宮と曰ふ。

(註1)以下発掘関連の引用文は大阪文化財研究所高橋工氏の「難波宮発掘の最前線」大阪歴史博物館金曜歴史講座二〇一四年九月十二日による。(*講座に参加された服部静尚氏より提供頂いた。文中では「高橋報告」という。)

(註2)高橋工「孝徳朝難波京の方格地割か 〜上本町遺跡の発掘から〜」(『葦火』一六六号)など。

 この点については、「古賀達也の洛中洛外日記」第六八三話(難波京に七世紀中頃の条坊遺構(方格地割)出土。二〇一四年二月)、第六八三話(難波京からまた条坊の痕跡発見。二〇一四年三月)に詳しい。氏も六八三話で「七世紀中頃の前期難波宮の造営に伴って、条坊の造営も開始されたことがうかがえます」とされる。

 

(補註)

なお、『書紀』天武十二年(六八三。三四年前は六四九常色三年)に、
 十二月甲寅朔丙寅(一三日)、諸王五位伊勢王・大錦下羽田公八国・小錦下多臣品治・小錦下中臣連大嶋、并判官・録史・工匠者等を遣はして、天下に巡行きて、諸国の境堺を限分ふ。然るに是の年、限分ふに堪へず。

 とあるが、『常陸国風土記』ほかから、六四九年頃全国に評制が敷かれ、新たな国県の領域が定められたことが分かっている。

 (1). 『神宮雑例集』神封事。度会郡。多気郡。(略)己酉年(六四九)(『書紀』大化五・常色三)を以て始めて度相郡(*評)を立つ。

 (2). 『常陸国風土記』難波の長柄の豊前の大宮に臨軒しめしし天皇のみ世に至り、高向臣、中臣幡織田連(はたのむらじ)等を遣はして、坂より東の国を惣領しめき。時に我姫の道、分れて八の国と為り、常陸国、其の一に居れり。

 従って「諸国の境堺を限分」とは、評制に基づく新たな国県領域の再編を示すものと考えられる。それは「集権体制の成立」を意味し、難波宮での「八省百官とされる役所機構の稼働」を必然化するものなのだ。
 また、『書紀』では「遣伊勢王」と伊勢王が派遣されたかのように記す。しかし、評制は九州王朝の制度であり、伊勢王が「天下」を巡行したとある天武十二年(六八三)の三四年前は六四九・常色三年で、全国(「天下」と同義)における評制施行時期と一致する。従って、伊勢王は白雉期の九州王朝の天子であり、「天下巡行」とは「筑紫から行幸し全国に評制を施行した」意味だと考えられる。これは『縁起』とも一致するのだ。
(*この点は「伊勢王と筑紫君薩夜麻の接点」古田史学会報八六号・二〇〇八年で詳述)。
 この評制施行は六五〇年〜六五一年までに順次実施され、再編された諸国には恩賞が与えられた。それが(3).に記す伊賀・伊勢等近隣諸国の人民への調・役(税)免除と、(4).に記し東国諸国の「有位の人」等への課役免除だと考えられよう。

 (3). 『書紀』天武十三年(六八四))→白雉元年(常色四年・六五〇)
 冬十月己卯朔(中略)辛巳(三日)、伊勢王等を遣して、諸国の堺を定めしむ。是年、詔したまはく、伊賀・伊勢・美濃・尾張、四の国、今より以後、調の年に役を免し、役の年に調を免せ。(*本来は「伊勢王が、諸国の堺を定め、詔して税を減免した」記事だったと考えられる。)

 (4). 『書紀』天武十四年(六八五)→白雉二年(六五一)
 秋七月乙巳朔、(中略)辛未(二七日)、詔して曰く、東山道は美濃より東、東海道は伊勢より東の諸国の有位の人等に、並に課役を免せ。


 これは会報の公開です。

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