2015年 2月10日

古田史学会報

126号

1,平成27年、
賀詞交換会のご報告
   古賀達也

2,犬(火)を跨ぐ
   青木英利

3,「室見川銘板」の意味
   出野正

4,盗用された
   任那救援の戦い
敏達・崇峻・推古紀の真実(下)
   正木裕

5,先代旧事本紀の編纂者
   西村秀己

6,四天王寺と天王寺
   服部静尚

7,盗用された
「仁王経・金光明経」講説
   正木裕

8,倭国(九州王朝)
  遺産一〇選(上)
   古賀達也

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盗用された任那救援の戦い -- 敏達・崇峻・推古紀の真実(上) 正木裕(会報125号)

「張家山漢簡・居延新簡」と「駑牛一日行三百里」 正木裕(会報125号)


盗用された任那救援の戦い

敏達・崇峻・推古紀の真実(下)

川西市 正木 裕

 前号(上)では、『書紀』に見える推古八年(六〇〇)・九年(六〇一)の任那救援戦記事は、「任那滅亡以前」の欽明元年(五四〇)・二年(五四一)から「一運(六十年)」繰り下げられたものであったことを述べた。
◆推古八年(六〇〇)春二月に、新羅と任那と相攻(せ)む。天皇、任那を救はむと欲す。是歳、境部臣に命(ことおは)せて大将軍とす。穂積臣を以て副将軍とす。〈名を闕せり。〉則ち万余の衆を将て、任那の為に新羅を撃つ。(略)新羅に到りて、五つの城を攻めて抜く。(「新羅の降伏譚」略)。則ち使を遣して将軍を召し還す。将軍等、新羅より至る。即ち新羅、亦任那を侵す。

◆推古九年(六〇一)十一月甲申(五日)。新羅を攻むることを議(はか)る。

 本号では、『書紀』(「岩崎本」)推古三十年(六二二)の新羅・任那関連記事も、欽明二十三年(五六二)から「一運(六十年)」繰り下げられたものであることを示す。

一、「一運(六十年)」繰り下げられた推古三十年の新羅討伐記事

1、推古三十年(六二二)の新羅・任那関連記事

 『書紀』(「岩崎本」)の推古三十年(六二二)には、次の通り「新羅の任那討伐記事(1)」、及び、これに対する倭国の「遣使(2)」、「新羅の降伏(和議)(3)」「新羅討伐(4)」の各記事がある。(註1)
◆『書紀』推古三十年(六二二)是歳、新羅伐任那
 (1).新羅、任那を伐つ。任那、新羅に附きぬ。
 是に天皇、将に新羅を討たむとす。大臣に謀り、群卿に詢(とぶらひ)たまふ。田中臣対して曰さく、「急に討つべからず。先づ状かたちを察あきらめて、逆したがはぬを知りて後に撃つこと晩おそからじ」(略)。中臣連国曰さく、「(略)請ふ。戎旅いくさを戒いましめて、新羅を征伐ちて任那を取りて、百済に附つけむ」(略)田中臣曰さく、「然らず。(略)百済に附くべからず」とまうす。則ち果して征(う)たず。

 (2).爰(ここ)に、吉士磐金を新羅に遣し、吉士倉下(くらじ)を任那に遣し、任那の事を問はしむ。

 (3).時に新羅国の主、八の大夫を遣して、新羅国の事を磐金に啓(まう)す。且(また)任那国の事を倉下に啓す。因りて約(ちぎ)りて曰さく、「任那は小国なれども、天皇の附庸ほどすかのくになり。何ぞ新羅輙たやすく有むや。常の随ままに内官家うちすみやけと定め、願くは煩わずらふこと無けむ」とまうす。(*「新羅・任那の朝貢」略)

 (4).然るに磐金等未だ還るに及ばずして、即(そ)の年に大徳境部臣雄摩侶・小徳中臣連国を以て大将軍とし、小徳河辺臣禰受・小徳物部依網連乙等・小徳波多臣広庭・小徳近江脚身臣飯蓋・小徳平群臣宇志。小徳大伴連。〈闕名〉小徳大宅臣軍を以て副将軍とす。数万の衆(いくさ)を率(ゐ)て、以て新羅を征討(う)つ。時に磐金等、共に津に会ひて、発船せむとして風波を候ふ。是に、船師(ふないくさ)、海に満ちて多に至る。(略)。

 (5).是に磐金等相謂(かた)りて曰はく、「是の軍の起おこること、既に前の期ちぎりに違ふ。是を以て任那の事、今亦成らじ」といふ。則ち発船(ふなだち)して渡る。

 (6).唯将軍等、始めて任那に到りて議(はか)り、新羅を襲はむとす。是に、新羅国王、軍多(いくさ)に至ると聞きて、予め慴(お)じて服(まつろ)はむと請(まう)す。時に将軍等共に議(はか)りて表(ふみ)を上(たてまつ)る。天皇、聴(ゆる)したまふ。

 

2、推古三十年の新羅討伐記事は欽明二十三年からの盗用

 任那は欽明二十三年(五六二)に、新羅により滅亡させられている。
◆『書紀』欽明二十三年(五六二)春正月、新羅、任那の官家を打ち滅しつ。
 「任那官家は任那(諸国)に同じ(岩波注)」であり、『書紀』にも「加羅国等十国を合せて任那という」とある。そして、この年にこれら任那諸国が滅亡したことは『新羅本記』でも確認できる。
 しかし、推古三十年(六二二)記事(1).は、「新羅、任那を伐つ。任那、新羅に附きぬ」と、「既に滅亡して久しい」任那諸国が「もう一度」滅亡した記事となっており、これは極めて不可解な事といえよう。
 ところが、この記事も「一運(六十年)繰り下げ」られたもので、本来「欽明二十三年(五六二)春正月に、新羅、任那の官家を打ち滅しつ。任那、新羅に附きぬ」とあったものから、「任那、新羅に附きぬ」以降の記事を切り取って、「一運(六十年)後」の推古三十年(六二二)に張り付けたものと考えれば、「二度の滅亡」などという矛盾も生じないのだ。
 前半の「新羅打滅任那官家」を残し、推古三十年にはこれを要約し「新羅伐任那」としたのは、「欽明期に滅んだのは『宮家』であり、『任那国』は推古期まで存在した」とするためだろう。しかし、『新羅本記』等の海外史書を見れば、それが「虚偽・偽装」であることは明らかなのだ。

 

3、新羅討伐軍の半島への渡海

 推古三十年(六二二)記事では、新羅の任那併合以降も直ちに討伐戦に踏み出さず、磐金等を遣して新羅と交渉をおこない、「任那は従来のまま倭国の内官家とする」との新羅の意思確認と、朝貢を確認した。ところがその報告前に(未だ還るに及ばずして)「数万の衆を率ての新羅征討」に踏み出したところ、新羅は降伏したとある。結局、こうした一連の新羅討伐戦の経緯は一運前の欽明二十三年から盗用されたものだったのだ。
 そして、「船師、海に満ちて多に至る(1)」とあるのは、磐金等の帰還前に倭国の軍船団が朝鮮半島の津に至ったというもので、欽明二十三年の新羅討伐の軍事行動においては、「討伐軍の倭国から半島への渡海」の過程を記す記事となっている。

 

4、欽明二十三年七月に「討伐軍が渡海して後([ロ多][ロ利]以後)」の記事が

 これを裏付けるように、欽明二十三年(五六二)七月の「紀男麻呂宿禰」を大将軍とする「新羅討伐記事(7).」は、「討伐軍が渡海して後([ロ多][ロ利]以後)」の戦いを記すもので、(4)記事の後に続くに相応しい内容となっている。
◆(7).欽明二十三年(五六二)七月是月。
「大将軍紀男麻呂宿禰」を遣し、兵を将て[ロ多][ロ利]を出づ。副将河辺臣瓊缶(にへ)、居曾山(こそむれ)を出で、新羅の任那を攻る状を問はむとす。遂に任那に到る。薦集部首登弭(こもつべのおびととみ)を以て百済に遣して軍(いくさ)の計(たばかり)を約束せしむ。(略)新羅、降帰附(もうしたが)はむと乞(もう)す。紀男麻呂宿禰、勝ち取りて師を旋し、百済に入りて営む。(略)河辺臣瓊缶、独り進みて転(いよいよ)(たたか)ふ。向ふ所皆抜く。新羅、更た白旗挙げて、兵(つはもの)を投げて降首(したが)ふ。(*その後の倭国軍の大敗は省略)。

 この(7).の「(大将軍・副将等が)新羅の任那を攻る状を問はむとす。遂に任那に到る」とは、推古三十年記事の(6).「将軍等、始めて任那に到りて議(はか)り、新羅を襲はむとす」と全く同様の記事内容だ。
 しかも、(7).の「新羅、降帰附もうしたがはむと乞もうす」というのも(6).の「予め慴じて服まつろはむと請まうす」と同じ。そして(7).「勝ち取りて師を旋す(軍を退く)」のは、(6).「天皇の聴ゆるし」により「降伏を認める」具体的な行動なのだ。

 

5、崇峻四年の軍の筑紫派遣記事は欽明二十二年末の「半島渡海以前」

 また、前号で述べたように、崇峻四年(五九一)十一月の、新羅討伐軍の「筑紫派遣(筑紫に出居る)記事(8).」は、欽明二十三年と同じ「紀男麻呂宿禰」を大将軍としており、三十年繰り下げられた欽明二十二年(五六一)十二月(*)の事実だと考えられる。
 そして、記事の内容は、新羅討伐の軍事行動において、(4).の「討伐軍の半島への渡海」以前の、「筑紫への集結(出居る)」過程を記しているのだ。
◆(8).崇峻四年(五九一)冬十一月己卯朔壬午(四日)に、「紀男麻呂宿禰」・巨勢猿臣・大伴囓連・葛城烏奈良臣を差して、大將軍とす。氏々の臣連を率て、裨將(つぎのいくさのかみ *副将)・部隊として、二萬餘の軍を領て、筑紫に出居る。吉士金を新羅に遣し、吉士木蓮子を任那に遣し、任那の事を問はしむ。(*壬午は五六一年十一月には無く、十二月十一日壬午となる。『国史大系本』では十二月とある。)

 

6、本来は「欽明二十二年〜欽明二十三年」の連続した記事だった

 つまり、「推古三十年(4).・欽明二十三年(7).・崇峻四年(8).」の三つの記事の「繰り下げ」を其々補正し、年次を「再構成」すれば、これらの記事は、本来「討伐軍の筑紫集結(8).」→「討伐軍の渡海(4).」→「渡海以後の半島での戦い(7).」という、本来欽明二十二年末から欽明二十三年にかけての新羅討伐経緯を記した記事から「切り分け」られて「盗用」されたものとなるのだ。

 

二、欽明二十二〜二十三年の事実の再構成

 それでは、崇峻四年、推古三十年記事を、「任那滅亡以前」の欽明二十二〜二十三年の事実として、年次順に再構成してみよう。

1、欽明二十二年(五六一)十二月。紀男麻呂を大将軍とする「二萬餘」の軍を筑紫に派兵。
←『書紀』では崇峻四年(五九一)十一月(8).。

2、欽明二十三年(五六二)正月。新羅が任那を討伐。これをうけ「将に新羅を討たむ」とし群卿にはかり、まず「磐金等を新羅・任那に使者を立て、任那の事を問はせた」。(註2)
←『書紀』では推古三十年(六二二)是歳(1).(2).。

3、欽明二十三年(五六二)。新羅は和睦と遣使朝貢を申し出る(3).。

4、倭国は「破約」し「数万の衆」で渡海、新羅征討に乗り出した。
←『書紀』では推古三十年・六二二年是歳(4).。

5、欽明二十三年(五六二)「将軍等」は「始めて任那に到り新羅を襲はむと」し、新羅は降伏を申し出た(服はむと請す)。
←『書紀』では推古三十年(六二二)是歳(6).。

6、欽明二十三年(五六二)七月に、大将軍紀男麻呂等は兵を将て??を出、河辺臣瓊缶は居曾山を出、任那に到る。新羅、降帰附(降伏)する。
←『書紀』でも同じ欽明二十三年(7).。

 なお、「新羅国王・・服はむと請す(6).」は、欽明二十三年条の「新羅、降帰附はむと乞す(7).」と同じ意味であるうえ、どちらも「任那に至」ってからの事件だ。つまり、5番の(6).・6番の(7).は同じ欽明二十三年の同じ事件を記述したものだった。

7、欽明二十三年(五六二)。その結果、紀男麻呂宿禰は「軍を還し」、百済に帰還(勝ち取りて師を旋し、百済に入る)する。「軍を還し」とは、『書紀』推古三十年条に記す、「新羅の降伏」による「天皇、聴したまふ(6).」(*実際は欽明二十三年)との発詔にもとづく「具体的停戦行動」だった。
 しかし、その後河辺臣瓊缶が「新羅は(*約どおり)更た白旗挙げ、兵を投げて隆首(7).」したにもかかわらず侵攻を続け大敗する。(註3)
←『書紀』でも同じ欽明二十三年(7).。

 というものだ。要するに欽明二十三年(五六二)新羅の新羅国主は和睦を約したにもかかわらず、倭国側はこれに反して侵攻し、大敗北したことになる。この敗北により任那は回復せず滅亡したのだ。
 このように『書紀』記事を詳細に検討すれば、欽明二十二〜二十三年の「新羅による任那併合」と、これに対する「倭国の戦闘準備」、「遣使による和解工作」、「大軍を以ての半島出兵」、「新羅の降伏と停戦の盟約」、「これを破約した河辺臣らの新羅侵攻と大敗北」という経緯が浮かび上がってくる。
 磐金等が、「是の軍の起ること、既に前の期に違ふ。是を以て任那の事、今亦成らじ」といった((5).記事)のは、まさにこうした経緯と、これによる「任那滅亡」を的確に表すものだった。

 

三、「任那救援戦」は「筑紫なる九州王朝」の事績

 それでは、この欽明紀の一連の任那を巡る新羅との攻防は「誰の事績」だったのだろうか。

1、「海表の国」の朝貢先は「筑紫国」

 『書紀』欽明元年(五四〇)に「高麗・百済・新羅・任那、並びに使を遣して献り、並びに貢職みつきたてまつる」とあり、直前の宣化元年(五三六)には、「海表の国は(筑紫国に)、海水を候ひて来賓き、雨雲を望りて貢き奉る」とある。これは、欽明期に新羅等が「貢職を脩(奉)った」のは筑紫国であることを示す。

2、全国から穀物が筑紫に運ばれ、備蓄された

 同時に全国から筑紫に「穀稼もみいね」が運ばれ、備蓄されており、そうすることが応神以来数百年に及ぶ「歴代の国を安んじる最良の方策」とある。「穀稼」とは「税(租)」であり、これが筑紫に収められたことを示している。
 海外諸国の「貢職」と「税(租)」の収蔵先が「筑紫」ということは、「倭国の権力の中心・主体」は筑紫・九州王朝であったことを意味する。これは「倭の五王」時代を含んだ描写であり、当然彼らも九州王朝の天子となろう。
◆『書紀』宣化元年(五三六)五月辛丑朔に、詔して曰はく、「(略)夫れ、筑紫国は、遐とおく邇ちかく朝で届る所、去来の関門所なり。是を以て、海表の国は、海水を候ひて来賓き、雨雲を望りて貢みつき奉る。胎中之帝(応神)より、朕が身に泪いたるまでに、穀稼もみいねを収蔵おさめて、儲糧を蓄へ積みたり。遥に凶年に設け、厚く良客を饗す。国を安みする方、更に此に過ぐるは無し。故、朕、阿蘇仍君〈未詳也。〉を遣して、加また、河内国茨田郡屯倉の穀を運ばしむ。
(略*尾張国屯倉・新家屯倉・伊賀国屯倉の穀を筑紫に運ばせる)。
官家を那津の口に修り造てよ。又其の筑紫・肥・豊三国の屯倉、散れて懸隔に在り。運び輸さむこと遥に阻れり。儻如し須要もちゐむとせば、以て卒に備へむこと難かるべし。亦諸郡に課せて分り移して、那津の口に聚め建てて、非常に備へ、永ら民の命とすべし。早く郡県に下し、朕が心を知らしめよ」とのたまふ。(註4)

3、「守るべき拠点」は「筑紫」

 また、宣化二年(五三七)の新羅討伐でも、「磐、筑紫に留りて、其の国の政を執りて、三韓に備ふ。狭手彦、往きて任那を鎮め、加また百済を救ふ」と「筑紫」が守られるべき拠点とされている。
◆宣化二年(五三七)冬十月の壬辰の朔に、天皇、新羅の任那に冦(あたな)ふを以て、大伴金村大連に詔して、其子磐と狭手彦を遣して、任那を助けしむ。是の時に、磐、筑紫に留りて、其の国の政を執りて、三韓に備ふ。狭手彦、往きて任那を鎮め、加また百済を救ふ。

 このように、「筑紫」の重要性は繰り返し強調されているが、「大和に朝貢した」とか「大和に糧を集めよ」「大和を守れ」などとは一言も書かれていないのだ。

4、「活躍する」のは「筑紫の人物」

 さらに、欽明十五年(五五四)正月に、百済は「筑紫」の「内臣うちつおみ」に派兵を要請し、内(有至)臣は五月に渡海し新羅を伐つが、その時に活躍するのが「竹斯物部莫奇委沙奇」であり、また、窮地に陥った余昌(威徳王)を助けたのは「筑紫国造」で「鞍橋(矩羅膩くらじの君」の尊称が贈られている。
◆欽明十五年(五五四)十二月九日を以て、新羅を攻めに遣りつ。臣、先ず東方領物部莫奇武(まがむ)連を遣りて、其の方の軍士を領ゐて、函山城(かむうれのさし)を攻めしむ。有至臣が将(ゐ)て来る所の民竹斯物部莫奇委沙奇(まあがわさか)、能く火箭を射る。(略)餘昌、遂に囲繞(かこ)まれて、出でむとすれども得ず。士卒遑駭(あわ)てて、所図(せむすべ)知らず。能く射る人、筑紫国造有り。進みて弓を彎(ひ)き、占擬(さしまかなひ)て新羅の騎卒の最も勇壯者を射ち落とす、発つ箭(や)の利(と)きこと、乘れる鞍の前後橋を通して、其の被甲(よろひ)の領會(くび)に及ぶ。(略)餘昌、国造の囲める軍を射却しめることを讚(ほ)めて、尊びて名けて鞍橋君と曰ふ。鞍橋、此を矩羅膩(くらじ)と云ふ。(註5)

 そして百済は、「速く“竹斯嶋”の上の諸の軍士を遣して、臣が国を来り助けたまへ」と要請している。また欽明十七年(五五六)正月に、「筑紫火君」(筑紫君兒、火中君弟)が勇士一千を率い「筑紫国の舟師」で百済王子惠を百済に送っている。
 要するに、百済の交渉相手は「筑紫」におり、軍も筑紫から遣され、活躍するのも「筑紫」の人物だった。つまり欽明紀において、任那救援のため新羅と戦ったのは「筑紫」の勢力、即ち九州王朝であったのだ。
 そして、敏達・崇峻・推古紀の「任那救援戦記事」が「欽明期」からの盗用であるなら、それは、「筑紫」の記事、即ち九州王朝の事績からの盗用で、「九州王朝の任那経営を巡る新羅との抗争の経緯」を示しているのだ。

 

四、「任那救援戦記事」は何故盗用されたのか

1、推古八年・三十年は九州王朝にとって画期を成す年

 それでは、何故『書紀』編者はそのような盗用を行ったのだろうか。
 『書紀』には記されていないが、『隋書』では、推古八年(六〇〇)に多利思北孤が隋に使者を送り、また釈迦三尊像光背銘から、推古三十年(六二二)は多利思北孤の崩御年で、翌推古三十一年(六二三)は太子「利」の即位年にあたると考えられる。
 従って、これらの年の九州王朝の史書には、多利思北孤や「利」に関する多くの記事があったはずだが、これらが「カット」され、代わりに「任那救援記事」が「一運繰り下げ」て挿入されていることになる。

 

2、『隋書』に記す「大国」に相応しく潤色

 『隋書』では、当時のイ妥国(倭国)について、「新羅、百済皆イ妥を以て大国にして、珍物多しとし、並びて敬仰し、恒に通使往来す」と、新羅・百済に大国として「敬仰」され積極的に交流していたとある。
 一方『書紀』では推古八年(六〇〇)に、新羅は「天上に神有します。地に天皇有します。是の二神を除きたまひては、何にか亦畏きこと有らむや。今より以後、相攻むること有らじ。且た船柁を乾さず、歳毎に必ず朝む」と言ったと記す。これは『隋書』に言う「敬仰し」「恒に通使往来す」と同義で、近畿天皇家が「大国」であったと誇示する文言だ。

 

3、九州王朝の事績を消し、近畿天皇家の事績と入れ替える

 つまり『書紀』編者は、欽明元年(五四〇)・二十三(五六三)年の「任那救援記事」を「一運繰り下げ」、多利思北孤と九州王朝関連記事を消し、同時に推古・「聖徳太子」の時代に至るまで、半島で任那を経営し、新羅・高句麗と覇権を争ったのは近畿天皇家であるという潤色を施したのだ。
 但し、六〇〇年の「遣『隋』使」記事は、『隋書』に多利思北孤の「実名」があること等から、推古とか厩戸皇子(聖徳太子)の事績にできない為削除した。そして、六〇七年の小野妹子派遣と裴世清の訪問だけを「遣『唐』使」と潤色し、近畿天皇家の事績であるかの様に偽装した。そのうえ、当然持っているべき「唐の国書」が近畿天皇家には無いことの言い訳として「国書を盗まれた」としたのだ。

 

4、『隋書』の描くイ妥国と合わない『書紀』推古紀の任那救援戦

 こうした『書紀』の「偽装」にもかかわらず、『隋書』では、「兵は有りと雖も、征戦無し」、「城郭無し。人は頗る恬靜(てんせい *おだやか)、爭訟は罕まれにして、盜賊少なし」と“平和な庶民の日常”が伺え、楽や囲碁、遊戯にいそしむ平和な国家として描かれている。六〇〇年に多利思北孤が送った国書にも「厳しい戦闘」など影も見えないのだ。
 『書紀』でも推古紀の大半(盗用以外の部分)には、新羅・百済・唐(隋)との平和的な交流が記され、仏教を崇拝する聖徳太子の「和を以て貴し」とする統治時代とされている。三十六年に亘る推古紀中、新羅・任那に関する紛争記事は「推古八年〜十一年、三十年」の五年にしか見えない。しかも九年は「任那救済の詔」が発せられただけ。十年、十一年は「未遂」であって、実際の戦は起こっておらず、戦闘記事は推古八年(六〇〇)と推古三十年(六二二)にしかないことになる。
 つまり、『書紀』でも、推古八年〜十一年と推古三十年の「軍事に明け暮れる」記事は、推古時代の全般的状況と合わず、加えて、先述の通り、推古八年は遣隋使派遣の年、推古三十年は多利思北孤の崩御年、「喪」の年であり、大軍を興し新羅討伐戦を決行するとは考えづらいのだ。(註6)
 逆に、六十年前の欽明時代なら、半島での紛争に明け暮れた状況と合致するうえ、欽明元年(五四〇)は新羅との任那を巡る紛争が激化していた年、欽明二十三年(五六二)は「任那の滅亡」年で、大規模な戦闘があってしかるべき年となる。

 

5、『書紀』の欺瞞

 『書紀』記事には、欽明二十三年(五六二)に新羅に併合され滅亡したはずの任那が、敏達・崇峻・推古紀では再び新羅と抗争し、再度併合され滅亡するという矛盾が生じた。
 この矛盾を解消するのが「任那滅亡後の敏達・崇峻・推古紀の任那関連記事は、滅亡前の欽明紀ー正確には五六二年以前の九州王朝の史書から盗用されたもの」という本稿で提起した仮説だ。即ち、『書紀』編者は、推古天皇・「聖徳太子」の時代に至るまで、半島で任那を経営し、新羅と覇権を競ったのは近畿天皇家であるとするため、九州王朝史書から「滅亡前」の任那に関する記事を盗用し、「滅亡後」に繰り下げた。
 特に、『隋書』に見える「イ妥国王」、即ち九州王朝の天子多利思北孤や、太子「利」の事績を消すため、推古八年・三十年の彼らの法要・即位と言った重要な事績をカットし、代りに「新羅との戦闘」記事を「一運繰り下げ」て「埋め込」んだ。
 というものだ。しかし、本稿において『書紀』や『隋書』ほかの記事を九州王朝説に基づき分析することにより、「九州王朝が六世紀の中盤に半島で、新羅を相手に、任那の存亡をかけて戦った」という真実の歴史を示す事が出来たと考える。諸氏のご批判を期待する。

 

(註1)岩波『日本書紀』が底本とする「天理本」では推古三十一年とあるが、本稿では「岩崎本」の編年により論述する。これは明治から昭和期にかけての天文学者・暦学者小川清彦氏(一八八二〜一九五〇)が『日本書紀の暦日について』(一九三八年頃の論文)で、『書紀』の「月朔干支の誤り」を検討し、諸本で「推古三十二・三十三年」とあるのは「岩崎本」の「推古三十一・三十二年」とあるのが正しいことを明らかにされており、従って「推古三十一年」は必然的に誤りで、「岩崎本」の「推古三十年」が正しいことになるからだ。(*小島荘一『日本書紀の暦日 -- 暦法に適合しないいくつかの事例について』による)
 推古三十一年(六二三)の真の朔日干支は「岩崎本」に記すように四月は丙午、九月は甲戌、十月は癸卯だが、「天理本」ほかの諸本では推古三十二年(六二四)四月・九月・十月の朔日干支となっている。推古三十二年一月朔干支も正しくは壬申で「岩崎本」と一致するが、他の諸本では推古三十三年一月朔が壬申とあり、明確に「一年繰り下がって」いる。
 なお『書紀集解』(一八〇六年頃完成)も「三十〜三十二年」としている。

(註2)なお本稿の分析では、(2).の「吉士磐金を新羅に遣し、吉士倉下を任那に遣し、任那の事を問はしむ。」(推古三十年・六二二年、実際は欽明二十三年・五六二年正月の任那滅亡時)と、(7).の「吉士金を新羅に遣し、吉士木蓮子を任那に遣し、任那の事を問はしむ。」(崇峻四年・五九一年、実際は欽明二十二年・五六一年十二月末)とは派遣時期と派遣先、目的から見て、同じ事実を述べたものと考えられる。
 「吉士磐金」は「吉士金」と、「吉士倉下くらじ」は、恐らく欽明十五年(五五四)条の対新羅戦で活躍する「筑紫国造鞍橋君(くらじ 鞍橋、此を矩羅膩くらじと云ふ。)」と同じ人物であろう。

(註3)前号の欽明二十三年七月記事(再掲)。
◆(倭国の)前鋒の傷やぶるる所、甚だ衆おほし。倭国造手彦、自ら救ひ難きを知り、軍を棄て遁のが)れ逃ぐ。

(註4)尾張連が尾張屯倉の穀を、新家連が新家屯倉の穀を、伊賀臣が伊賀屯倉の穀を運ぶ中で、阿蘇仍君が河内国茨田屯倉の穀を運ぶという記事はいかにもおかしい。本来は阿蘇仍君が茨田連(継体妃の家系)を遣わして茨田屯倉の穀運ばせたというものか。或いは屯倉の穀を運ばせる全体の主体が「阿蘇仍君」であり、蘇我稲目らに「宣り遣」し、各屯倉の管理者に運ばせたというものか。そうであれば「阿蘇の君」は九州王朝の「君(天子)」となる。

(註5)なお、鞍の骨組みをなす部分を鞍橋(くらぼね)というが、福岡の宮地嶽神社には、金銅製龍虎紋様透かし彫り天冠のほか、鍍金が施され「龍紋」が彫刻された「金銅製鞍橋覆輪金具」が伝承されている。
 同神社は、神功皇后の新羅遠征に功績のあった勝村・勝頼大神を祭っているところから、半島で活躍した「鞍橋くらじの君」に由来する遺物とも推測される。また「鞍橋の君」は福岡県では鞍手郡の鞍橋神社ほかに広く祀られ、「筑紫君」磐井も『書紀』では「国造」とされていることから、「筑紫国造鞍橋の君」は九州王朝の皇族だった可能性も高い。

(註6)『隋書』のイ妥国国書からは「新羅との紛争・戦闘」は想起し難く、『隋書』にイ妥国では「貴人は三年殯す」とある。


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