< 「室見川銘板」の意味するもの

2015年 2月10日

古田史学会報

126号

1,平成27年、
賀詞交換会のご報告
   古賀達也

2,犬(火)を跨ぐ
   青木英利

3,「室見川銘板」の意味
   出野正

4,盗用された
   任那救援の戦い
敏達・崇峻・推古紀の真実(下)
   正木裕

5,先代旧事本紀の編纂者
   西村秀己

6,四天王寺と天王寺
   服部静尚

7,盗用された
「仁王経・金光明経」講説
   正木裕

8,倭国(九州王朝)
  遺産一〇選(上)
   古賀達也

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「室見川銘板」の意味するもの

奈良市 出野 正

 一九四八年に「延光四年」(一二五年)の文字がある銘板が室見川河口近くの西鴈で発見されました。銘板の内容は以下の通りです。

 「高暘左 王作永宮齊鬲 延光四年五」

 「高暘左」と書かれた周代の「銅戈」が見つかっており、また「鬲」は新石器時代から戦国時代末期にかけてみられる石器や青銅器で、漢代の頃にはなくなり使われなくなったようです。三本足で、中の空間に水を入れ、その上に甑を載せて火にかけ、水を沸騰させることで穀物などを蒸すのに使われました。青銅器は祭祀の際の儀器にも使われたので、上文の「鬲れき」も儀器の意味だと思われます。
 「延光四年(一二五年)」は後漢の安帝の時期で、この年の三月に安帝は崩御し、四月に少帝があとを継ぎますが、少帝はその年の十月に崩御し、十一月には順帝が即位します。「延光四年五」は、おそらく延光四年五月のことですので、少帝が王位を継いだ時期に当たります。安帝は後漢の第六代皇帝で、一〇六年〜一二五年が在位期間です。『後漢書』には「安帝の永初元年(一〇七年)、倭の国王帥升等、生口百六十人を献じ、請見を願う」とあり、安帝や少帝は九州にあった日本列島の倭人の国に対して一定の知見をもっていたと思われます。
 東方の日の出る所を暘谷といい、「高暘」は暘谷(湯谷)を指すものとみて間違いはないでしょう。天子が南面して江東のことを江左といった表現があることからみると、「高暘左」は短直に「湯谷(扶桑の国)」を表していることになります。ところが、この場合には「倭人の国」と「湯谷(扶桑の国)」の同異を見極めなければなりません。よく「倭人の国」と「湯谷(扶桑の国)」をごっちゃにして考える内容の本を見かけますが、「倭人の国」は現実の国で「湯谷(扶桑の国)」は伝説の理想郷です。両者は同じものではありません。「倭人の国」と「湯谷(扶桑の国)」とは概念上区別しておく必要があります。中国の洛陽を中心としてその東側に倭人の国があり、さらにその東に「湯谷(扶桑の国)」があるのです。もちろん、「倭人の国」が「湯谷(扶桑の国)」に近いので、その徳を受けているという考え方はあると思います。孔子があこがれた国や徐福が秦の始皇帝に告げた不死の薬のある国は、東方の日の出る所に近き神仙の国、すなわち湯谷(扶桑の国)なのです。したがって、室見川銘板の「高暘左」は暘谷(湯谷)に極めて近い国といった意味になると思われます。
 また「左」は「左く(たすく)」の意があり、「左」は金文を「   」につくります。「渦」は左手、「工」は神に祈るための呪具で、「左」には元来、神の加護により左(たす)くの意が含まれています。したがって、「高暘左」は「王」にかかり、「高暘が左くる王」と読むことができます。すなわち、「日の出る所に近き神仙の国が左くる(ところの)王」となります。「湯谷(扶桑の国)」の徳の及んだ王を意味しているものだと思われます。つまり、この文章の「左」は「ひだり」の意味と「左く」の意味を兼ねていると思われます。
 「王作永宮齊鬲」は「王は永宮を作り、鬲を齊ふ」の意味で、この王は九州列島の王を指すのは間違いがないでしょう。帥升がこのときまでに生きていましたら、帥升のことを指しますが、そうでない場合には帥升を継続した王を指します。「鬲を齊ふ」の「鬲」は祭祀の際の儀器を意味すると思われ、「鼎の軽重を問う」の「鼎」にあたるもので、国家としての祭祀の方法を整える意味だと思います。「鬲」は漢代ではすでに使われなくなっていますので、「鬲を齊ととのふ」は「鬲」を実際にそろえておく意味ではなく、比喩として「鬲」を用いた表現です。
 これらのことから考えて、私は、「室見川銘板」の正体は安帝亡き後の漢王朝が楽浪郡を通じて九州の王に与えたものと推測します。この銘板は、おそらく漢または楽浪郡で作られたものだと思います。おそらくは倭人の国をもち上げておいて、皇帝が安帝から少帝に引き継がれた後にも前と同じように漢は九州にいる倭人の王を庇護しますよ、というメッセージであるように思われます。楽浪郡を安定して統治するためには、ぜひとも九州の倭人の国を味方につけておく必要があったのです。古代にあっても、政治とはいつも現実的です。中国において「高暘左」の銘が刻された銅戈と「永宮齊鬲」の銘が刻された銅鬲が見つかっており、いずれも周代の銅器です。室見川銘板はこの二つの慣用句を用いた文書が刻されています。このことは、漢王朝がこれらの慣用句を用いて日本列島の王に表向きには親愛の情を表し、実質的な意味では漢王朝に恭順を強いたものだと思われます。「室見川銘版」が漢の王から下賜されたものであるとするならば、「延光四年(一二五年)」に「室見川銘版」は少帝より日本列島の倭人の王に贈られたものと解することが出来ます。この王は、永初元年(一〇七年)安帝に遣使を派遣した国王帥升等か、或いはその次の王かまたはその次の次の王ぐらいの系譜にあたる王であることになります。
 銘板が日本で作られたとする考え方がありますが(古田武彦先生説)、この時代に日本人がこのような銘板を作ったという考え方は飛躍に過ぎると思います。この文章を見ますと、「高暘左」「王作永宮齊鬲」は金文、「延光四年」は隷書(あるいは楷書)、「五」は金文です。これが日本で作られたとするならば日本人が作った最初の金石文になりますが、『説文解字』が一〇〇年につくられたすぐその後で、日本人がそのような知識を持っていたと考えるのはいささか無理な状況把握であるように思います。後漢時代の『説文解字』ができた頃には隷書が横行していたことから考えますと、金文で文章を書けることは当時の中国人としても漢字の素養が相当ハイレベルにあるといえます。「高暘左」「永宮齊鬲」は中国の故事で、この言葉を使いこなせるのも相当な教養です。当時の日本人の漢字の素養では到底不可能でしょう。また、この銘板は完成度がよくないから日本で作ったものだとする見解もあるようですが、私はこの銘板がそれほど低い完成度とは思えません。全体的なデザインは、大変整っていると思います。後の五世紀の金石文である稲荷山古墳出土の鉄刀とか江田船山古墳出土の鉄刀よりは、むしろ漢字の形がずっと整っています。また、「室見川銘版」が日本人の手によってつくられたのなら、その後に同じような銘板がいくつかつくられるように思いますが、この時代には室見川銘板が唯一つで、後に続くものは全くありません。その点では「室見川銘板」は日本列島におけるオーパーツ(ooparts)と言ってもよいでしょう。オーパーツとはその時代の文明にそぐわない古代の出土品、当時のその土地の技術では不可能と考えられる加工品のことを言います。日本列島での銘板の出現は七世紀末に墓誌として使われるまで待たねばなりません。一点限りの出土品でその後同じ系譜の出土品が出ないものは別の土地から持ってきたものと考えるのが妥当です。もしこの見解に反対される方がいたとしたら、そのような事例を上げて論証される必要があります。その点、漢または楽浪郡で作られたとすると、銘板はその前にも後にも作られましたから、ごく自然な解釈だと思います。
 『古事記』には邇邇芸命(ににぎのみこと)が天下りした時の様子が述べられております。「筑紫の日向の高千穂の久士布流多気に天降りまさしめき」とありますが、この「日向」は宮崎県ではなく福岡県です。古田武彦氏は、「竺紫の日向の高千穂のくじふる峯」の竺紫は福岡県の筑紫、日向は福岡市の西方で糸島郡にいたる日向(ひなた)峠、高千穂は高く突出した岳という意味、くじふる峯は福岡市と糸島郡の間にある高祖山連峰の中にあるクシフル峯、と比定されました。「筑紫の日向」を九州の日向(ひゅうが)とするのは誤りで、「筑紫の日向」と地名を二段表記した場合、必ず筑紫地方の日向の意味になります。北九州の博多とは言うけれど、九州の博多とは言わないでしょう。

「此地は韓国に向かひ、笠沙の御前を真來通りて、朝日の直刺す國、夕日の日照る國なり。故、此地は甚吉き地」と邇邇芸命が述べたのも、その地を北九州の地に当てれば韓国に向かう地であり何の矛盾もありません。逆に宮崎県の日向ですと不自然です。また、『古事記』に「故、日子穂穂手見命ひこほほでみのみことは、高千穂の宮に五百八十歳坐しき。御陵はすなわち高千穂の山の西にあり」とあります。

 日子穂穂手見命は一般的には山幸彦の名で知られます。また

「神倭伊波禮毘古命、その同母兄五瀬命と二柱、高千穂宮に坐して・・・・・・」とあります。

 この2つの「高千穂」も、同じ筑紫の高千穂で、神倭伊波禮毘古命(かむやまといわれびこのみこと)すなわち神武天皇も宮崎の日向ではなく、筑紫の日向(ひむか)にいたと思われます。神武天皇の出発が「すなわち日向ひむかより発たして筑紫に幸行でましき」とあるのも、筑紫の日向(ひむか)が東征の出発点です。このように天孫降臨から神武を経て卑弥呼までの王朝はすべて、筑紫の地で居を構えたことになります。
 室見川の上流には、吉武高木遺跡があります。私は、「王作永宮齊鬲」の永宮は、この吉武高木遺跡のことであろうと思います。吉武高木遺跡は早良平野の中央を流れる室見川の中流左岸に立地し、弥生時代前期末から後期初頭の甕棺墓・木棺墓は総数一二〇〇基に及びます。発掘された銅剣・銅矛・銅戈のほかに多鈕細文鏡・ヒスイ製の勾玉・碧玉製の管玉などから、日本で始めて三種の神器が出たところといわれています。多鈕細文鏡は朝鮮製の鏡で、地朝鮮半島との結びつきも深いように思われます。遺跡の東、約五〇mからは一二・五m×九・六mの庇がついた大型の掘立柱建物と高床倉庫が発見されており、被葬者の居住空間と推定されています。墓から出土した副葬品といい、建物跡といい、古代の王墓とみて間違いがないようです。
 「筑紫の日向」も「くじふる峯」も、室見川の上流からは指呼の間です。この一帯が初期九州王朝の居住域であったことは間違いがないようです。その地から「室見川銘板」が出たことは、ごく自然な気がします。一〇七年に後漢の安帝に朝貢した時の王帥升もまたこの地に葬られた可能性が大いにあります。また、吉武高木遺跡にはその規模から見て国王帥升に至るそれ以前の倭人の王墓がいくつかあると思います。金印「漢委奴国王」の「委奴国王」も、ひょっとしてここに眠っているのではないかと私は想像します。金印授与は五七年で、帥升と同じ系譜の王であるなら、帥升の四・五代前の王ですから充分可能性があり得る訳です。


 これは会報の公開です。

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