短里と景初 -- 誰がいつ短里制度を布いたのか? 西村秀己(会報127号)
先代旧事本紀の編纂者
高松市 西村秀己
先代旧事本紀の編纂者と目される人物はまず興原敏久(おきはらのみにく)と言えようか。江戸時代の国学者御巫清直がまずそう唱えたらしい。かの安本美典氏も「古代物部氏と『先代旧事本紀』の謎」(二〇〇三年勉誠出版)の中で「編纂者は明法博士の興原敏久で成立年代は西暦八二〇年代の末、八二七年‐八二九年前後であろう」ことを考証している。次いで石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ)であろうか。この両名は物部の一族でもある。序文は矢田部公望(やたべのきんもち)が後で付けたものだろうとするのが大方の見方であるらしいのだが、わずかに本文もこの人であるとする論者もいるらしい。
以下、国史大辞典より引用する。
興原敏久 生没年不詳 平安時代前期の代表的な明法官人の一人。三河国の人で、もと物部敏久といい、(中略)『令義解』の編集にも関係した。『法曹類林』には彼の明法勘文がみえ、『令集解』などの「物(記)云」「興大夫云」は彼の学説であろう。(野村忠夫)
石上宅嗣 七二九‐八一 奈良時代後期の貴族。文人。姓は朝臣。物部、石上大朝臣とも称する。(以下略)(中西進)
矢田部公望 生没年不詳 平安時代中期の学者。承平六年(九三六)の『日本書紀』の講筵に文章博士として講師をつとめ(中略)『釈日本紀』に「公望私記曰」として引用するところ(約二十例)も、延喜のものとみられるが、中に師説を批判する公望の考述もあり、別に承平六年私記の零本とみられるものも伝存するので、公望の学殖の一斑をうかがうことができる。(太田善麿)
さて本稿ではこの候補者たちが先代旧事本紀の編纂者として果たして適当かどうかを検討する。
先代旧事本紀は古事記・日本書紀およびその他の先行文献をミックスし中に独自の情報を交えた構成をしているが、国生みのシーンはほぼ古事記のコピーである。以下、古事記の四国の説明部分を記す。但し、訓注は省略した。
次生伊豫之二名嶋。此嶋者、身一而有
面四。毎面有名。故、伊豫國謂愛比賣。讃岐國謂飯依比古。粟國謂大宜都比賣。土左國謂建依別。《岩波古典文学大系、以下も同じ》
次に先代旧事本紀の陰陽本紀の同じ部分である。尚、括弧内は細注。
次伊与二名嶋。謂此嶋者身一而有面四。毎面有名。伊豫國謂愛比賣(西南角)。讃岐國謂飯依比古(西北角)。阿波國謂大宜都比賣(東北角)。土左國謂速依別(南東角)。《吉川国史大系、以下も同じ》
いかがだろうか。「伊豫之二名嶋」と「伊与二名嶋」の表記が違うのはご愛敬だが、「粟」を「阿波」に訂正したのは同時代人に分かりやすいようにだろうか。「建依別」と「速依別」の変化は不明だ。だが特筆すべきは新たに書き加えられた四国各国の方角だ。ところが、実際には伊豫は「北西」讃岐は「北東」阿波は「南東」土佐は「南西」が大まかに言えば正しい。つまり先代旧事本紀は正しきよりも反時計回りに九十度回転して記載されているのである。これは四国や山陽道を知る人間には有り得ざる間違いだが、文字資料だけで四国の地理を理解している人間には考えられることではあるまいか。四国は南海道に所属する。そしてその南海道は、紀伊‐淡路‐阿波‐(ここから西へ)‐讃岐‐(分岐して)‐土佐・伊豫、と進む。南海道という言葉のイメージを考えると、この先代旧事本紀の編纂者が持つ四国の地理は、紀伊淡路から阿波の鳴門を真北にして佐田岬と足摺岬を真南に、要するに淡路から南へぶら下がっていると誤解しているのではないだろうか。
次に九州地方はどうだろうか。
古事記では、
次生筑紫嶋。此嶋亦、身一而有面四。毎面有名。故、筑紫國謂白日別、豊國謂豊日別、肥國謂建日向日豊久士比泥別、熊曾國謂建日別。
先代旧事本紀では、
次筑紫嶋。謂身一而有面四。毎面有名。筑紫國謂白日別。豊國謂豊日別。肥國謂建日別。日向國謂豊久士比泥別。
筑紫と豊は古事記そのままだが、肥を肥と日向に分解し熊曾の別名だった建日別を肥に当てている(寮イ本及び延本はここを「速日別」としている。次の熊曾國も同じ「建日別」であることを思えば「速日別」の方が正しいのかもしれないが、或いはもともと肥國も熊曾國も同じ「建日別」だったのを怪しんだ者が肥國を「速日別」と修正したものであると考える方が素直だろう)。これが為に熊曾が筑紫嶋から抜け落ちているのだ。では、熊曾はどう扱われているかというと、
次熊曾國謂建日別。(一云佐渡嶋)
頭に「次」が付いている通り、熊曾國は筑紫嶋と同格だ。さらに、細注で「熊曾國=佐渡嶋」説を紹介しているように、この編纂者は熊曾國が九州地方にあったとは思っていないのだ。
古事記や日本書紀を知り尽くしていたであろう矢田部公望のような碩学がこのような勘違いをするとは思えない。では他の二人はどうであろうか?再び国史大辞典に依ると、
興原敏久 (中略)大同初年ごろに大宰少典であったが、(以下略)
石上宅嗣 (中略)同(注天平宝字)八年正月大宰少弐、(中略)同年(注宝亀元年)九月兼大宰帥、(以下略)
興原敏久の大宰少典は正八位上といった下級官吏であり、必ず現地に派遣されていただろう。また、石上宅嗣の兼大宰帥はともかく大宰少弐は奈良時代なので現地に行かなかったすなわち遙任であるとは考えられない。
このように都から大宰府に派遣された経験のある官吏が四国の位置関係を把握していなかったとは到底思えないのである。
以上、先代旧事本紀の編纂者は一般に言われているような、興原敏久・石上宅嗣或いは矢田部公望ではありえないことの考察である。
では誰なのだ、と問われても筆者には答えようがないのだが、おそらくは物部氏の系列に連なる無名の人物ではないだろうか。勿論、大宰府や西海道、四国及び山陽道に勤務経験のないことが必須条件である。
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