すり替えられた九州王朝の南方諸島支配 正木裕(会報119号)
亡国の天子薩夜麻
川西市 正木裕
一、半島出兵と筑紫の君薩夜麻
『書紀』では、百済支援のための半島出兵や白村江の敗戦は、“近畿天皇家の事績”であるとされる。しかし、九州王朝説の立場からは、これらは“九州王朝の事績”であり、古田氏は『壬申大乱』(註1)において、万葉一九九番歌ほかの分析から、半島に出征しこれを指揮したのは「明日香の皇子」即ち薩夜麻であるとされた。
ただ、万葉歌と異なり、『書紀』には、薩夜麻の半島での活躍は一切記されず、ただ「彼が唐の捕虜になって帰国した」と記されているばかりだ。
一方、古田氏は、『書紀』編者が九州王朝の史書を“盗用”した上、その事績を削除したり、近畿天皇家の事績のように“潤色”していることを、斉明紀の「狂心」と記される事績や、持統の吉野行幸が九州王朝の天子の事績であったこと等の論証を通じて明らかにされてきた。
そうであれば、本来薩夜麻の事績であるはずの半島出兵記事が、『書紀』では近畿天皇家の事績のように潤色されている可能性が高くなる。
本稿では、『書紀』の白村江前夜の半島出兵関係記事を分析し、記事の背後に隠された九州王朝・薩夜麻の半島出兵の経緯を明らかにしていく。
同時に、薩夜麻の前代の天子(「伊勢王」と考えられる。註2)時代の外交政策は「専守防衛」であったのに対し、「半島出兵、唐・新羅との開戦」を先頭に立って推進したのが薩夜麻であったこと、そして、薩夜麻の行動は、結局九州王朝を滅亡に導く暴挙であり、彼は九州王朝にとって「亡国の天子」とでも言うべき存在であったことを明らかにする。
二、半島出兵の経緯に関する『書紀』の詐術と潤色
始めに、半島出兵から白村江に至るまでの九州王朝における唐・百済・新羅に対する外交政策の推移を見よう。
1、鬼室福信による「唐の俘」献上と、百済支援要請
斉明六年(六六〇)七月、唐・新羅連合による侵攻によって、泗批・熊津両城が陥落、義慈王以下が捕虜となり百済は滅亡した。開戦から滅亡に至る間、倭国は『書紀』ほかによれば、百済支援に関する何らかの行動を起こした様子は見られない。
斉明五年に倭国は遣唐使を派遣し、蝦夷を率いて唐の高宗に謁見しており、唐への敵対姿勢は見受けられない。また斉明紀全体を見ても、「宮の東の山」に石垣を築き、田身嶺に垣を周らせ、大規模な渠を掘るなどの事業が記されているが、これは “海外派兵”に直ちに結び付くものではなく、唐・新羅の侵攻に備えた“防衛上の施策”であることは疑えない。
そして『書紀』は、百済滅亡後の斉明六年(六六〇)十月、百済遺臣鬼室福信が佐平貴智を派遣し、百済支援と豊璋の帰国要請を行ったことを契機に倭国の百済支援が始まると記す。
A◆『書紀』斉明六年(六六〇)
(1).冬十月、百済佐平鬼室福信、佐平貴智(くゐち)等を遣して、来て唐の俘(とりこ)一百余人を献る。今美濃国の不破・片県、二郡の唐人等なり。又師(いくさ)を乞(まう)して救をこふ。并て王子豊璋を乞して曰さく(略)「唐人、我が螯*賊(あしきあた)を率て、来りて我が疆場(さかひ)を蕩揺(ただよ)はし、我が社稷(くに)を覆へし、我が君臣を俘にす。
(略)而も百済国、遥に天皇の護念(みめぐみ)に頼(かう)ぶりて、更に鳩(もと)め集めて以て邦を成す。方に今、謹みて願はくは、百済国の、天朝に遣り侍る王子豊璋を迎へて、国の主とせむとす」
螯*は、土方の代わりに矛。JIS第4水準ユニコード8765
と、云々。
しかしこの記事は、次の記事から実際は一年ずれていることが分かる。
B◆『書紀』斉明七年(六六一)
(1).日本世記に云、十一月に、福信が獲たる唐人続守言等、筑紫に至るといふ。或本に云、辛酉の年(斉明七年)、百済の佐平福信が献れる唐の俘一百六口、近江国の墾田に居らしめたりといふ。
(2).庚申の年(斉明六年)、既に福信、唐の俘を献れりと云へり。故、今存きて注す。其れ決めよ。
福信が「唐人の捕虜(俘)」を献上したのは、『日本世記』(*高麗僧道顕の著。『書紀』編纂の基礎資料だが詳細不明)及び「或本」のB(1).では「斉明七年(六六一」、B(2).の「別の説」と『書紀』のA(1).では「斉明六年(六六〇)」と「一年のずれ」がある。
『書紀』編者は「今存きて注す。其れ決めよ」と、どちらの記述が正しいか決めかねているが、斉明六年七月一三日、唐・新羅の攻撃で泗[シ比]城は陥落、一八日熊津城に逃げた義慈王も投降し捕虜となり、九月三日に唐に送還された。九月二三日に百済遺臣は唐・新羅の籠る泗批城への攻撃を開始したが、唐も防衛し、一〇月末の新羅武烈王による救援戦に続く。
[シ比]は三水編に比。JIS第3水準ユニコード6C98
百余人の捕虜の輸送には、それに倍する要員と船団が必要なことは明らかで、こうした激戦下で、限られた戦力・兵糧を割き、かつ佐平貴智等を戦線から離脱させ、九月末の百済遺臣の攻撃開始から短期間に船団を組織し、大量の唐の捕虜を倭国に送り、一〇月中に献上したなど到底想定できない。
実際の戦闘経過を見ると、翌斉明七年三月「唐兵千名」が、百済遺臣軍が籠る真[山見]城を奪還する為に派遣されたが、福信の攻撃により一名も生還しなかったという事件が起こっており、(註3)百余名という大量の「唐の俘」が生じたのはこの時が最初と考えられる。従って、唐俘献上や百済遺臣軍救援のための派兵と豊璋の帰国要請は、『日本世記』や「或本」に記すように斉明七年が正しいことになるのだ。
[山見]は、山編に見。JIS第3水準ユニコード5CF4
2、百済支援決定と豊璋発遣のずれ
こうした斉明六年の「要請記事」が斉明七年のものなら、これに答える次の支援や豊璋発遣「決定」記事も、当然のように斉明七年のこととなろう。
C◆斉明六年(六六〇)十月。詔して曰はく「師を乞ひ救を請すことを、今昔に聞けり。危を扶け絶えたるを継ぐことは、恒の典に著れたり。(略)雲のごとくに会ひ、雷のごとくに動きて、倶に沙喙に集まらば、其の鯨鯢(あた)を翦(き)りて、彼の倒懸(せまれる)を[糸予](の)べてむ。(略・豊璋を)礼を以て発て遣せ」と、云々。
(1).王子豊璋及び妻子と、其の叔父忠勝等とを送る。
(2).其の正しく発遣(た)ちし時は、七年に見ゆ。(略)
[糸予]は、JIS第3水準ユニコード7D13
豊璋発遣はC(1).では「斉明六年」とされるが、一方C(2).及び次のD(1).では「七年」で、唐俘献上同様、『書紀』記事内でも「一年のずれ」があるのだ。
D◆『書紀』(天智即位前記・斉明七年)九月に、皇太子、長津宮に御す。織冠を以て、百済の王子豊璋に授けたまふ。復以多臣蒋敷の妹を妻す。
(1).乃ち大山下狭井連檳榔・小山下秦造田来津を遣して、軍五千余を率て、本郷に衛り送らしむ。
3、豊璋帰国は斉明七年(六六一)が正しい
「一年のずれ」があると述べたが、実は、この豊璋発遣も「正しく」は七年であることが『旧唐書』でわかるのだ。
「岩波補注」は、『旧唐書』斉明七年(六六一)条に、「福信は道探*を殺し、その兵をあわせて豊璋を国王に推戴した」とあることから「豊璋帰国と倭国救援軍の到着」は斉明七年冬のこととしている。
E◆(岩波補注二六〜九)「豊璋帰国と倭国救援軍の到着について(略)『旧唐書』百済伝が、その竜朔元年(六六一年)の記事を「福信殺道探*、併其兵衆。扶余豊但主祭而己」と結んでいるのを無視すべきでないとすれば、豊璋の帰国も百済遺臣間の内訌も、六六一年(斉明七年)冬の事と考えられよう」
また、豊璋の帰国にはD(1).記事のように救援軍が付き添っているから、補注の言うように『旧唐書』を信頼するなら、「豊璋帰国・軍派遣」の実行は斉明七年が正しいこととなる。
そして、もしC記事の「豊璋帰国・軍派遣”決定”の詔勅」が『書紀』どおり斉明六年一〇月のものであれば、派遣を決定してから実行するまで一年もかかったことになってしまう。
緊迫した半島の軍事情勢のなかで、「雲のごとくに会ひ、雷のごとくに動きて・彼の倒懸を[糸予]べてむ(差し迫った苦しみを緩めよ)」と、緊急の支援を宣言した詔勅の内容から見て、一年のタイムラグは誠に不可解であり、斉明六年の軍派遣の詔勅が、実際は斉明七年の派遣実行時の詔勅だったことを裏づけるものとなる。
ちなみに斉明六年記事では発遣決定の詔が出されたのは一〇月とあり、斉明七年記事では豊璋を送ったのは九月となっているから、斉明六年記事が斉明七年のものなら月が逆転すると思われるだろう。
しかし暦日干支を見ればその「仕掛け」がわかる。斉明七年(六六一)九月朔日の干支は「癸巳」、五日が「丁酉」、斉明六年一〇月二六日の干支も「癸巳」で月末三〇日は「丁酉」だ。つまり、斉明七年九月一日から五日までの詔は、暦日干支を尊重して斉明六年に移せば一〇月のこととなるのだ。「月の逆転」は干支のトリックだった。
探*は、手編の代わりに王。JIS第3水準ユニコード741B
[糸予]は、JIS第3水準ユニコード7D13
4、斉明六年九月の百済からの奏上も斉明七年
もう一つ事例を挙げる。『書紀』A(福信の唐俘献上と支援要請)直前の斉明六年九月に、次の「百済の奏上記事」がある。
F◆『書紀』斉明六年九月己亥朔癸卯(五日)、百済達率<名を闕かせり>沙弥覚従等を遣し、来奏して曰く、「(略)今年の七月、新羅力を恃み勢を作して、隣に親びず。唐人を引構せ、百済を傾け覆す。君臣総俘にし、略[口焦]類(のこれるもの)無し。(略)是に、西部恩率鬼室福信、赫然(いか)り発憤りて、任射岐山に拠る。(略)各一所に営み、散けたる卒を誘り聚む。兵(武器のこと)、前の役に尽きたり。故、焙*(つかなぎ)を以て戦ふ。新羅の軍破れぬ。百済其の兵を奪ふ。既にして百済の兵翻りて鋭し。唐敢へて入らず。福信等遂に同国(くにひと)を鳩(もと)め集め、共に王城を保(まも)る。国入尊びて曰はく、佐平福信、佐平自進といふ。唯し福信のみ神しく武き権(はかりごと)を起し、既に亡ぶる国を興す」とまうす。
焙*は、火の代わりに木。
この文では「今年」と奏上が斉明六年の事の様に書かれている。しかし当時の半島での軍事情勢を「岩波補注」(二六-九)により確認しよう。
同注では、福信・道?らが百済遺臣三万人を集め山城にこもって抵抗を始めたのは斉明六年八月中。二六日に唐・新羅連合軍はこれに攻勢をかけるが成功せず、九月三日唐将蘇定方は義慈王ら捕虜を伴い大軍と共に帰国した。これを契機に九月二三日以降先述のような唐の駐留軍・新羅軍と百済遺臣軍による攻防戦が展開されたとした上で、
◆斉明七年(六六一)二月、百済兵が再び泗?城を囲んだので新羅は大兵を送ったが、却って各地で敗られて、”兵器を多数奪われた”。唐では(略)この年の始め、新羅兵と共同して百済兵の本拠である周留城を攻撃したが成功せず(略)更に攻撃を続ける事が出来ず、戦線はしばらく膠着した」と記す。
この補注によれば、『書紀』F記事の「新羅の軍破れぬ。百済其の兵を奪ふ。既にして百済の兵翻りて鋭し。唐敢へて入らず」という事件は斉明七年当初(二月頃)となる(註4)。従って、これを奏上できるのはそれ以降となる。
仮にこの事件(「新羅の軍破れぬ」以下)が、斉明六年八月二六日の唐・新羅側の攻勢や、九月二三日の百済遺臣の攻撃戦であったとしても、九月五日の百済の使者がこの事を奏上出来るはずは無い。
「百済覚従等の奏上」も一年ずれた斉明七年の事なのだ。(註5)
5、『書紀』斉明六年の半島関係記事は七年の事だった
結論として、『書紀』で斉明六年とされる百済の奏上、福信の救援・豊璋の国王推戴要請、豊璋送還・救援軍派遣も、全て斉明七年の事と考えられる。従って戦を指揮する内容のC記事は、主語が斉明のように見えても、既に死去した「斉明」の記事とするのは不可能。全て斉明の死後「水表の軍政」を聴いた「皇太子」の記事、戦の指揮は皇太子が執ったという記事となるのだ。
そして九州王朝においては斉明七年六月に伊勢王は崩御し、万葉歌によれば明日香皇子が「皇子ながら御軍士を率ひ」たことになる。『書紀』で中大兄とされる「水表の軍政」を聴いた「皇太子」とは明日香皇子(薩夜麻)であり、百済支援と半島出兵を決定したのは全て薩夜麻の決断だった。
三、救援軍の指揮を薩夜麻が執った
1、倭国の高句麗救援
斉明七年に準備された百済への援軍は、E(岩波補注二六 ー 九)通り実際に年末に半島に派遣され、それは同時に高句麗支援をも兼ねた出兵だったことが、『書紀』斉明七年記事に「是歳(略)日本の高麗を救ふ軍将等、百済の加巴利浜に泊りて、火を燃く」とある事からわかる。斉明七年、倭国軍は高句麗兵・百済遺臣と共に唐・新羅と戦うため出兵していたのだ。
2、唐・新羅の対高句麗戦は斉明七年冬
『書紀』では唐・新羅の対高句麗戦は天智元年三月とされている。
G◆『書紀』天智元年(六六二)三月
(1).是月。唐人・新羅人、高麗を伐ちき。高麗、救を国家に乞へり。仍ち軍将を遣して、疏留城に拠らしむ。是に由りて、唐人其の南堺を略(かす)むること得ず、新羅其の西壘を輸(おと)すこと獲ず。
しかし、岩波の解説は(唐の高句麗征伐は)「三月となっているが、二月に唐・新羅軍とも高句麗から撤退した」と述べている。また、
H◆「海外資料によると(斉明七年)冬、遼東から南下した契?加力の軍(唐)は鴨緑江岸で高句麗軍にくいとめられたが、江が凍結するに及び鼓譟して進撃した。翌春、唐軍は蛇水(平城東北方)で大雪に苦しみ大敗したので、二月には遠征を中止、撤退した」
とも解説している。つまり唐・新羅の高句麗討伐が天智元年是月(三月)とあるのはおかしい。斉明七年冬のことなのだ。そして、「将軍を疏留城(都都岐留山:周留城)に入城させたので“是に由りて”唐・新羅は侵略できなかった」とあるから、唐・新羅の攻撃前(斉明七年冬)に倭国の高麗支援軍が入城していたことになる。
岩波解説も「日本が高句麗にも救援軍を分遣しようとしたことは、海外資料には見えないが元年・二年の関連記事からも確かであろう」とする。
つまり唐・新羅の高句麗討伐と倭国の高麗支援軍派遣は「天智元年(六六二)三月」ではなく、百済救援同様「斉明七年(六六一)末」の事なのだ。
3、高句麗・百済・倭国連合の勝利
この戦の結果を岩波補注二六-九はこう記す。
◆六六二年(天智元年)春、高句麗征討をあきらめた唐は兵を引きあげ、新羅軍の主力もまた帰国した。百済兵の意気は盛んで、泗批・熊津に籠る劉仁願・劉仁軌に書を送って、「大使等何時西に還る。当に相送り遣すべし」と豪語するほどであった。
この時点では高句麗・百済・倭国連合は一時の勝利を収めていたのだ。
岩波解説は「海外資料によると、この冬(斉明七年末)は特に寒く、鴨緑江・大同江共に凍結した」「翌春、唐軍は大雪に苦しみ大敗した」という。
そして、万葉一九九番歌は「皇子ながら 任(よさ)し賜へば 大御身に 大刀取り佩かし 大御手に 弓取り持たし 御軍士を 率(あども)ひたまひ 整ふる 鼓の音は 雷の 声と聞くまで 吹き鳴せる 小角くだの音も 敵(あた)見たる 虎か吼ゆると 諸人の おびゆるまでに ささげたる 幡の靡きは 冬こもり 春さり来れば 野毎に つきてある火の 風の共 靡くが如く 取り持てる 弓弭の騒き み雪降る 冬の林に つむじかも い巻き渡ると 思ふまで 聞きの畏く 引き放つ 矢の繁けく 大雪の 乱れて来れ まつろはず 立ち向ひ」と歌う。この歌は斉明七年末から天智元年にかけての「真冬の半島」における百済・高句麗支援戦での薩夜麻の活躍を歌っていたのだ。(註6)
つまり薩夜麻は斉明七年冬、九州王朝の百済・高麗支援軍を指揮し、百済遺臣軍の本拠疏留城に入城して戦っていたことになる。そこに豊璋・福信らがいたことは当然だろう。豊璋・福信ら百済遺臣は唐の劉仁願・仁軌が籠った泗批・熊津の「二城」を囲んで攻撃を続けた。しかし、Iの解説からは、結果的に百済兵は「豪語」しても「泗批・熊津」が落とせなかったことがわかる。一方、同じ時、高麗はHの解説のように「鼓譟して進撃」してくる唐軍を見事に撃退していたのだ。
4、「高麗の言」は斉明七年末の醸成を見事に反映している
斉明七年十二月の「この時点」で、次の「高麗の言」が発せられたのだ。
◆『書紀』斉明七年十二月。高麗の言さく、「惟(こ)の十二月、高麗国にして、寒きこと極まりて江凍れり。故に唐の軍、雲車・衝[車朋]ありて、鼓鉦吼然(な)る。高麗の士卒、胆(たけく)勇み雄壮し。故に更に唐の二つの壘を取る。唯二つの塞のみ有り。亦夜取らむ計に備ふ。唐の兵膝を抱へて哭く。鋭鈍(ときさきにぶ)り力竭(つ)きて、抜くこと能はず」とまうす。臍を噬(く)ふ恥(機を失って後悔しても力の及ばない恥・岩波注)、此に非ずして何ぞ。
(分註)釈道顕云はく、春秋の志といふは、正に高麗に起れり。而して先づ百済に声(きか)しめむとす。百済、近(このごろ)侵さるること甚しくて苦急ぶ。故、爾いふといふ。
高麗兵は、「胆(たけく)勇み雄壮し」と誇り、実際に唐軍を撃退した。何故彼らが「恥をかく」ことになるのか。一方百済はどうか。唐の城はわずかに泗批・熊津の「二城」しかないのに、落とせないでいた。「恥をかく」のは百済遺臣軍の方なのだ。「唯二つの塞のみ有り」とは史料上「泗批・熊津」しかない。従ってこの「高麗の言」記事に『書紀』の大きな「仕掛け」が隠されている、即ち「高麗の言」とは「薩夜麻の言」の潤色であり、本来は次のように書かれていたと考えられるのだ。
◆薩夜麻曰(のたま)はく、「この十二月、高麗国にして、寒きこと極まりて江凍れり。故に唐の軍、雲車・衝[車朋]ありて、鼓鉦吼然る。高麗の士卒、胆く勇み雄壮し。故に更に唐の二つの壘を取る。(*ここに)唯二つの塞のみ有り。亦夜取らむ計に備ふ唐の兵膝を抱へて哭く。(*しかるに)鋭鈍り力竭きて、抜くこと能はず。臍を噬ふ恥此に非ずして何ぞ」とのたまふ。
○薩夜麻は(*疏留城の豊璋・福信ら百済兵に)、「唐は高麗に対し雲車・衝[車朋]等を動員して攻勢をかけてきたが、高麗の兵は勇壮で、逆に唐の二壘を落とした。ここには泗[シ比]・熊津の二城があるだけで、かつ唐の兵は夜襲に備えて凍え苦しんでいる。それなのに力尽きて落とせない。何という恥辱か。悔やんでも取り返しがつかないぞ」と言って叱咤した。
こう解釈すれば、筋も通るし、戦の状況とも合うのだ。
[車朋]
5、釈道顕の言の新たな解釈
そうすると次の釈道顕の言も理解できるようになる。
◆(分註)釈道顕云はく、春秋の志といふは、正に高麗に起れり。而して先づ百済に声(きか)しめむとす。百済、近(このごろ)侵さるること甚しくて苦急ぶ。故、爾いふといふ。
この「春秋の志」について、『史記』「太史公自叙」は次のように記す。
◆上大夫壺遂(こすい)曰く、「昔孔子は何が為に春秋を作なすや」といふ。太史公曰く、(略)
「夫れ春秋は上は三王の道を明らかにし、下は人事の辨(けじめ)、嫌疑、是非を明らかにし、猶予(きめかねていること)を定め、善を善、悪を悪、賢を賢とし、不肖を賤しめ、亡びんとする国を存(たも)ち、絶えたる世を継ぎ、廃れたるを起す王道の大者なり。(略)。乱世を抜(のぞ)き、正しきに反(返)すに春秋より近くは莫し。」
これは司馬遷の解釈する孔子の春秋を著した目的であり、孔子の春秋にこめた志と同義だろう。従って、釈道顕の言は次のような内容となる。
○「高句麗兵は、春秋の志(『史記』にいう王道)を我がものとし奮い立った。これに比べ百済は何と軟弱な事か。それだから近頃侵略され著しく苦しむのだ」と先ず豊璋・福信ら百済遺臣に声しめ(聞かせ)叱責したのだ。
「先ず」というのは倭国の救援軍も駐留していたはずで、名分上「百済の防衛戦」だから百済を叱責し、次に倭国軍を叱咤したことの表れではないか。
6、『書紀』編者の「盗用と潤色」
結局、『書紀』編者は九州王朝の史書を盗用した上、次のような「潤色」をしたのだ。
(1).九州王朝の天子(伊勢王)、皇太子(明日香皇子=薩夜麻)を近畿天皇家の天皇(斉明)、皇太子(中大兄=天智)と入れ替えた。
(2).斉明の死を口実に天智は半島に出征しなかった事にした。
(3).福信の救援要請等半島出征に関する事(薩夜麻の行為)を一年繰り上げ、斉明六年の事(斉明の行為)とし
(4).薩夜麻の半島出征は全てカットした。
この『書紀』の「潤色」によって「近畿天皇家は倭国唯一の政権として、百済救援の準備をおこない、臣下の将軍達を半島に派兵した。唐で捕虜になった薩夜麻も当然そうした“単なる臣下の一人”だった。彼等は百済と共に白村江で大敗したが、斉明・天智は唐・新羅とは直接戦わなかった」という歴史を創造した。唐を敗北させた百済・高句麗支援戦での倭国救援軍=薩夜麻の華やかな勝利は、当然のように抹消されたのだ。
四、亡国の天子薩夜麻
このように事実関係を整理すると「重大な事実」が浮かび上がってくる。
それは伊勢王時代と薩夜麻時代の対唐・新羅姿勢の大転換だ。倭国(九州王朝)は斉明五年には蝦夷を率い唐の高宗に謁見している。また斉明六年に百済が唐・新羅に攻められ滅亡する時にも何ら救援行動を起こしていない。
ところが滅亡後の百済遺臣による復興戦にあたり、突然支援軍を派遣している。しかもこれまで述べてきた「年次のズレ」から、一連の支援行動は斉明七年伊勢王が崩御して後に始まっている。即ち「薩夜麻時代」になってからなのだ。
九州王朝は、百済国が健在な時でさえ、百済の対唐・新羅戦を支援せず、「渠を掘り、石垣を積み」ひたすら「狂心」といわれるほど「防衛のための事業」を展開していた。戦乱を恐れ遠い摂津に難波宮を建設し、崩御の直前の斉明七年(白鳳元年)に、更に遠方の近江にまで宮を造った可能性もあるほど慎重だった。
これは長い外交経験から、伊勢王は唐を相手に戦っても勝算が無い、或は非常に危険である事を十分に承知していたからだと思われる。しかし薩夜麻は、百済崩壊後という不利な状況にも係らず半島出兵に突き進んでいった。その結果として、白村江で大敗し、多数の犠牲者をだし、唐の進駐も許すこととなった。しかも自ら出兵するという「愚挙」によって、天子が捕虜になるという、九州王朝にとって致命的な事態を招いてしまったのだ。
六五二年に造られた前期難波の宮は、「宮殿の状、ことごとくに論(い)ふベからず」と記され、現在の遺構からも、飛鳥の諸宮と比較して、遥かに「壮大なもの」だったことが偲ばれる。また全国に評制を敷き、蝦夷を臣従させるなど、伊勢王時代、九州王朝の勢力は絶頂を極めたといえるだろう。
伊勢王が存命で半島出兵と対唐戦が避けられていたとすれば、九州王朝の歴史、いや日本の歴史は全く変わったものになっていたと思われる。
九州王朝にとって薩夜麻は「亡国の天子」だったのだ。
(註1)『壬申大乱』(東洋書林二〇〇二年。二〇一二年にミネルヴァ書房より復刊)古田氏は、題詞に高市皇子の殯宮での人麻呂作歌とある万葉二九九番歌は、
(1).万葉歌は真冬の戦いでの“皇子”の活躍を歌っているが、高市皇子の活躍した壬申の乱は、“夏の戦”である。
(2).高麗剣・虎・言さへく(言葉が通じない)百済の原・背面の国などは「朝鮮半島」をさすに相応しい。「和射見」も百済の地名にある。(「倭山」三国史記巻三十七 韓志・地理四)
(3).「城上」も筑紫朝倉にある。
等の理由から九州王朝の皇太子「明日香皇子(後の筑紫の君薩夜麻)」の、白村江直前の半島での活躍を歌ったものとされた。
(註2)「伊勢王」については、白雉元年(六五〇)から持統二年(六八八)にかけて『書紀』に十回記される事績のうち、天武・持統紀記事を三四年遡上させれば九州年号白雉年間に収まり、かつ評制施行や白雉改元等の九州王朝の事績と整合することから、薩夜麻前代の九州王朝の天子であると考えられる。詳細は拙稿「伊勢王と筑紫君薩夜麻の接点」(古田史学会報八六号二〇〇八年六月)に記す。
(註4)注釈では「二月ごろ」とあるが、『朝鮮上古史』では、福信が新羅の救援軍を破り、軍事物資や武器を奪い「棍棒と取り換えた」のを六六一年三月五日とする。
(註5)斉明六年九月癸卯を、そのまま斉明七年に移せば九月癸卯は十一日となるが、百済滅亡以後の報告内容であるから斉明七年七月癸卯は四日、九月癸卯は十一日。
(註6)「あの戦い(*白村江)そのものは海の戦いです。今の八月の終わりから九月の初めにかけてです。ところが一方の陸の戦いは前年の十二月から一・二月、真冬と早春に朝鮮半島で行われている。」古田武彦講演(二〇〇〇年十一月十四日。古田武彦と行く佐賀県吉野の旅)より
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailはここから。古田史学会報一覧へ
Created & Maintaince by" Yukio Yokota"