筑紫舞再興30周年記念 -- 「宮地嶽 黄金伝説」のご報告 文責:古賀達也(古田史学会報121号)
梅花香る邪馬壱国の旅 PDF(電子データ 作成:古田史学の会四国 松浦秀人)
邪馬壹国への道-- 魏志倭人伝の一大國と伊都國を訪ねて 白石恭子(古田史学会報117号)
筑紫舞見学ツアーの報告
筑紫舞三〇周年記念講演と大神社展
今治市 白石恭子
恒例の古田史学の会・四国の研修旅行が、筑紫舞三〇周年記念講演への参会を兼ねて二月二八日から三月三日までの三泊二日の日程で行われました。阿部誠一副会長をはじめ合田洋一事務局長、幹事の大政就平氏を含む総勢二〇名で、二月二八日の深夜に松山港を出港しました。
翌朝五時、小倉港に入港し、六時半よりマイクロバスで一路、福津市にある宮地嶽神社に向かいました。宮地嶽神社は春期大祭(善哉祭ぜんざいさい)の翌日だったため、参道には色とりどりの幟が立てられ、参拝する人も多く随分にぎやかな印象を受けました。愛媛県愛南町出身の権禰宜、竹田さんの案内で立派な社殿を見て回りました。本殿には出雲大社を彷彿させる重さ三トンの巨大な注連縄が掛けられています。御祭神は神功皇后と随従の勝村、勝頼大神ですが、奥の院のような位置関係にある日本最大級の巨石古墳は胸形君徳前か、あるいは安曇氏の墓と言われています。
九州国立博物館展示課長、赤司善彦氏によると、福岡平野で造られ始めた古墳がやがて久留米に移り、最後は遠賀川下流で終焉を迎えていることから、この宮地嶽古墳に葬られている人物こそ古墳時代の最後の覇者であったと考えられるそうです。いずれにしても、古墳に使われている巨石や地下の正倉院とも言われる約三〇〇点の遺物を見るかぎり強大な権力を持っていたことは確かです。
この宮地嶽古墳(全長二三メートル、高さ、幅それぞれ五メートル)の玄室の中で、昭和十一年に筑紫舞が舞われたことは古田武彦先生の調査により確認されています。しかし、羨道の入り口から奥を覗くと、中で舞が舞われていたとはとても信じられないような狭さです。けれども、奥へ行くほど少し広くなっていて、玄室は部屋の広さに換算して十二畳くらいはあるそうです。それならば十人くらい舞うスペースはあると納得しました。
宮地嶽神社を後にして、私たちは古賀市立歴史資料館に向かいました。そこで、たまたま壁の歴史年表を見ていた会員の長野喜久男氏が、邪馬台国の「台」に紙が貼られて「壹」に訂正されていることに気がつきました。長野氏の指摘を受けて、みんな「どれどれ」と言いながらそのことを確認しました。合田氏から伝え聞いた古田先生は講演会の冒頭でそのことに言及されました。翌日、古田先生は歴史資料館まで足を運ばれてご自身で確かめられたそうです。古田説が九州でもだんだん浸透してきていることを実感した出来事でした。
古賀市にある鹿部田渕ししぶたぶち遺跡は、磐井の乱の後、筑紫君、葛子が死罪を免れるために継体天皇に献上したと日本書紀に書かれている「糟屋屯倉」に比定されています。この地は玄界灘に面した良港で、太宰府から糟屋郡を通る峠ルート(県道三五号線)と福岡平野から北九州に抜けるルート(国道三号線)が交差する交通の要衝でもあります。
しかし、「屯倉」という表現は朝廷の直轄地を意味するので「糟屋」を献上するというのならともかく「糟屋屯倉」を献上するという表現は、筑紫君の側に優位性があったということを図らずも示しているのではないでしょうか。(永岡豊伸氏の指摘)
古賀市を訪れた主な目的は、船原ふなばる三号墳に隣接する土坑から出土した金銅製馬具一式を見ることでした。奥まったところにある展示スペースにいくつかの遺物と写真パネルが置かれていました。いずれも土に埋もれて変質、あるいは変色しているため、その豪華さを実感することはできません。専門家による復元作業が待たれるところです。六世紀末から七世紀初めとされる豪華な馬具を使用した人物は特定されていませんが、年代的にみて多利思北孤との関係を考えざるを得ない気がします。
次に訪れた水城は、外敵から九州王朝の都である大宰府を守るために築かれたものです。お城のお堀をイメージしていたので、実際の水城が山の麓と麓を結ぶ一・二キロの直線であることに驚きました。まるで津波よけの長大な堤防のようです。百メートルくらい手前にある駐車場から水城の全容を眺めたのですが、できることなら水城の上に立ってその構造を目で確認したいと思いました。しかし、現在は木々が生い茂っているため、周囲の様子はよく見えないかも知れません。
九州国立博物館と太宰府天満宮は、面白いことに動く歩道とエスカレーターで繋がっています。まず、満開の梅と参拝客で溢れかえっている天満宮を参拝し、それから裏手にある菅公歴史館に入りました。菅原道真のエピソードが場面ごとに大きな雛人形で表現されていて子供にもよく分かる展示でした。しかし、私たちが最も注目したのは、太宰府の立体模型でした。水城や大野城の配置と構造が、まるで上空から見ているかのようによく理解できました。
九州国立博物館の「大神社展」では、最初に古事記と日本書紀の写本が展示されていました。古事記はわが国最古の歴史書と言われていますが、稗田阿礼が読み方を記憶していた「帝紀」(王統譜)と「旧辞」(物語)を太安萬侶が編纂し、和銅五年(七一二年)、元明天皇に献上したものです。つまり、古事記以前に「帝紀」や「旧辞」が存在したのです。ところが、それらはもとより太安萬侶が編纂した祖本さえ現在は残っていません。私たちが目にしているのは、南北朝時代(一三七一年)に真福寺の僧であった賢瑜けんゆが書き写した古写本です。
古事記の祖本は、元々は鷹司家が所蔵していましたが、奈良の東大寺東南院を通じて真福寺にもたらされたのだそうです。東南院は真言宗の寺ですが、後白河法皇、後醍醐天皇などが行在所とされたため南都御所とも呼ばれていました。南北朝時代、京都の動乱を避けて多くの典籍が奈良に運ばれたようです。
見るもの聞くものすべてが珍しく、感動の一日が終わりました。マイクロバスで小雨に煙る山道を、宿泊先であるルートイン・太宰府に向かってゆっくりと登って行きました。
夜は大浴場で一日の疲れを癒した後、海の幸、山の幸を味わいながら会員相互の親睦を深めました。
翌朝は晴天に恵まれ、前日曇っていてよく見えなかった宝満山(三笠山)をじっくり眺めながら、再び太宰府まで戻ってきました。
太宰府政庁跡は礎石だけを残して建物はひとつも残っておらず、一瞥でその広大さを実感しました。どの礎石も直径が一メートルを超えていて、奈良の平城京にも引けを取らない巨大な建物が並んでいたことが推察されます。
中央に建っている三基の石碑のところで、貞刈氏という九五歳のいかにも品のよさそうなガイドにお会いしました。その方は、なんと大宰府政庁の端にお住まいだとかで、そこは合田氏がその場所を尋ねた内裏跡のすぐ向こうでした。はるか彼方の木立の中に氏の家が小さく見えました。因みに、貞刈氏の住所を名刺で確認すると、太宰府市観世音寺字内裏とありました。
太宰府政庁跡より約五〇〇メートル東に観世音寺があります。創建当時のものとして残っているのは、わずかに梵鐘と五重塔の心柱の巨大な礎石だけです。梵鐘は京都の妙心寺にあるものとよく似ていて、妙心寺の鐘の内側には「戊戌ぼじゅつ年四月十三日壬寅じんいん収糟屋評造春米連広国鋳鐘」との陽鋳銘があるそうです。戊戌年とは六九八年のことで、観世音寺の鐘が鋳造されたのはそれより少し前と考えられています。一方、観世音寺の鐘には、底部に「上三毛かみつみけ」(福岡県と大分県の県境)という地名の陰刻があるのみです。
観世音寺と妙心寺の鐘は兄弟鐘と称されていますが、造られた場所や銘のスタイルがかなり違っていることから、私は観世音寺の鐘は妙心寺のそれよりかなり前に鋳造されたと考えています。
続日本紀には、観世音寺は天智天皇が斉明天皇の追善のために発願したと書かれていますが、この記述は当時の状況からすると不自然です。七〇九年、元明天皇の詔をもって造営を開始したというのが真実のところでしょう。そして、それに先立つ前期観世音寺とも言える寺があったことも想像に難くないと思います。梵鐘はこの前期観世音寺のために鋳造されたと考えます。
それにしても、梵鐘の寿命の長さには驚かされます。同時に、そのルーツは銅鐸だったかも知れないと思いました。
観世音寺の宝蔵には、観世音寺がかつて大伽藍であったことを示す、高さが五メートル以上もある馬頭観音立像や不空羂索観音立像などが展示されています。残念なことに、宝蔵は、その控えめな佇まいから多くの人が素通りしてしまうそうです。
次に、小郡市にある真新しい近代的な九州歴史資料館を訪れました。九州からあまりにも多くの遺物が出土することから、建設せざるを得なかったという印象を受けます。ここで前述の金剛製馬具一式の保存と修復作業が行われています。
ホール中央のガラスケースの中に、水城の木樋の一部が展示されていました。合田氏が年輪年代測定の結果を学芸員に尋ねたところ、まだ調べていないという返事でした。しかし、同学芸員によると、大野城に残っていた柱の測定結果は六四八年だったそうです。まさに白村江の戦いの一五年前です。水城もほぼ同時期と考えられるので、それらは半島情勢の緊迫化を受けて築造されたのでしょう。とすると、太宰府政庁はもっと以前に造営されていたことになります。
年輪年代測定法では、基本的に杉と檜木しか測定できないのだそうです。ところが、近年どんな樹木にも適用できる「年輪セルロース酸素同位体比」という測定法が、総合地球環境学研究所の中塚武教授によって開発されました。これにより前期難波宮に使われていた二本の柱が、五八三年と六一二年に伐採されたものであることが分かりました。新たな発掘や、このような画期的な技術によって古代の真実の姿がだんだんと明らかになっていくのは楽しいことです。
春日市にある奴国の丘歴史資料館と須玖岡本遺跡にも行きました。資料館で最も目を引いたのは、金製垂飾付耳飾です。春日市の前方後円墳(日拝塚古墳)から出土した古代のイヤリングで、クチナシの実を模った精巧な作りです。残念ながら国産ではなく、六世紀の朝鮮半島製です。純金の装飾品は、大神社展で見た金製指輪もそうですが一五〇〇年の時を経てもその輝きを失っていません。豪華な金銅製の馬具をはじめ、当時の日本は朝鮮半島から多くの進んだ文物を取り入れていたことが分かります。
須玖岡本遺跡は、甕棺墓という弥生時代の埋葬形態を展示しています。しかし、奴国王墓とされる円墳は住宅地の中にあって、その一部を残すのみとなっています。
午後は、古田武彦先生の講演と筑紫舞の公演に合わせてアクロス福岡に入りました。八〇〇人収容の会場は、古田先生の講演が始まる頃には立ち見が出る満席となりました。
古田先生の講演は分かりやすく親しみの持てる内容でした。筑紫舞を伝承された西山村光寿斎氏との運命的な出会いについて、「神々が寄り集まり物事を諮る」という古事記の表現を引用して話されたのが印象的でした。私も古田史学との出会いを振り返ると、そのような思いがあるのでとても共感しました。
最後に「私は死んだら地獄に行って、道を誤った人たちに会い、どうしてそんなことをしたのか聞きたい」とのお言葉は古田先生のお人柄と人生が凝縮されているように感じました。
白妙の狩衣姿の権禰宜たち五人が扇を手にして舞う筑紫舞「笹の露」は、優雅で軽やかという表現がぴったりでした。かの光源氏もこのような舞を舞っていたに違いないと思いました。宮地嶽神社の宮司、浄見譲氏は若い頃奈良の春日大社で倭舞を舞われていたそうです。そして、筑紫舞は春日大社に伝わる倭舞のルーツであると話されていました。氏は第二幕で「神無月の舞」を披露しました。
ただ、古田史学を学んでいる者としては、少なくとも「五人立」の「翁の舞」を見たかったと思いました。「五人立」とは、都の翁、肥後の翁、加賀の翁、難波津より上がりし翁と出雲の翁の五人が踊る舞のことです。
筑紫舞は、毎年十月二十二日の御遷座記念大祭に奉納されているそうなので「翁の舞」も将来見る機会があるかも知れません。
今回の研修旅行は、九州王朝説を学ぶ者にとって大変有意義で印象的な旅となりました。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailはここから。古田史学会報一覧へ
Created & Maintaince by" Yukio Yokota"