2014年 4月6日

古田史学会報

121号

1,筑紫舞再興30周年記念
 「宮地嶽 黄金伝説」
   のご報告
文責 古賀達也

2,一元史観からの
  太宰府「王都」説
  古賀達也

3,神代と人代の相似形II
 もうひとつの海幸・山幸
   西村秀己

4,『三国志』の尺
   野田利郎

5,納音(なっちん)付き
 九州年号史料の出現
 石原家文書の紹介
  古賀達也

6,『倭人伝』の里程記事
「水行一日五百里・陸行一刻百里、一日三百里」と換算
  正木裕

 

古田史学会報一覧

「古田史学の会」新年賀詞交換会 -- 古田武彦講演会・要旨 文責・古賀達也(会報120号)

筑紫舞見学ツアーの報告-- 筑紫舞三〇周年記念講演と大神社展 白石恭子(会報122号)

平成27年、賀詞交換会のご報告 古賀達也(会報126号)

YouTube 2014年古田武彦九州講演「筑紫舞と九州王朝」

筑紫舞再興30周年記念

「宮地嶽 黄金伝説」のご報告

 三月二日に開催された古田先生の講演や宮地嶽神社神主さんたちによる筑紫舞を拝観してきました。なかでも、浄見宮司の「神無月の舞」は感動的でした。九州王朝宮廷雅楽そのものでした。講演要旨や演目は次の通りです。

文責 古賀達也

日時 二〇一四年三月二日(日)
           午後三時〜七時
場所 アクロス福岡

第一部 講演(要旨)
 講師 赤司善彦
      (九州国立博物館展示課長)

 演題 よみがえった宮地嶽古墳黄金の太刀

 九州の宝ともいえる宮地嶽古墳出土の金銅装頭椎太刀(こんどうそうかぶつちたち。推定全長三メートルの日本一巨大な太刀)を二〜三年前から復元した。「金銅」とは銅に金メッキしたもの。頭椎(かぶつち)とは『日本書紀』の天孫降臨記事に出てくるが、どういうものかよくわからなかったが、宮地嶽古墳からたくさんの太刀と共に頭椎太刀(束の先がにぎりこぶしのような形状をもつ)と思われるものが出土した。古墳時代で前方後円墳が造られる時代になってから、飾られた太刀(装飾太刀)が出現するようになった。刀の装飾が身分表示となった。刀が身分や権威を表すようになった。刀に大きな意味やシンボル性を持たせるようになり、それら身分制度が律令制へと引き継がれた。
 古代日本では銅に金メッキする技術がなかったので、当初は海外からもたらされた。その後、倭風の太刀が造られ、六世紀から百年間は装飾太刀が流行する。七世紀に入ると同じデザインの方頭太刀へと変化する。
 宮地嶽古墳から出土した金銅装頭椎太刀の復元にあたって、鍔や付着していた木製の鞘や繊維も分析した。玉鋼(たまはがね)の焼き入れが難しかった。刀鍛冶の人の話では、「自分が持てる最大の重さ」とのことであった。装飾のデザインは裏は「唐草紋」で、表は丸い「打ち出し紋」であった。鍔には鈴が付いており、製造は複雑でやっかいだった。金を塗る作業「鍍金」にあたっては、水銀アマルガムにして溶かして塗り、その後に水銀を蒸発させる方法がある。しかし、現在ではこうした製法は公害になるので禁止されている。現在の技術である電気溶解法ではきれいな金色にならないので採用できなかった。結局、金箔を張り付けることにした。最後は刀の刃の「研(とぎ)」の作業になるが、古代の「研」は金ぴかにはならず、鈍い輝きとなるので、それを復元した。
 宮地嶽古墳は大きな円墳であり、特徴的なことは「横穴式石室」であることである。日本全国で前方後円墳が禁止され、円墳や八角墳になる頃の古墳である。全国一の大きさの横穴式石室だったが、見瀬丸山古墳(奈良県)の横穴式石室の発見により、宮地嶽古墳は二番目の大きさとなった。基本的に大和王権につながる人物の墓が大型の「横穴式石室」であることから、宮地嶽古墳は大和王権につながる人物の古墳ということになる。
 宮地嶽古墳は江戸時代に石室が開口し発見された。その後、昭和九年(一九三四)の社務所建築により、古墳の周辺から二十点ほどの副葬品(太刀・馬具など)が出土し再埋納された。後に多くが国宝に指定されたが、一度空気に触れたものを再埋納したため、かなり痛んでしまった。報告書が無く、発見の経緯は不明。関係者の人がほとんどしゃべらず、当時の関係者も物故され、謎になりかけた。京都大学の梅原末治さんが再調査され、報告書を出されたが、核心部分は記されていない。おそらく、昭和九年という時代は国粋主義の時代であり、神社の古墳の発掘など許されなかったのではなかったか。そのため、再埋納したものと推測している。
 宮地嶽古墳の被葬者は地元の人物である。津屋崎には古墳の四つの系列があり、こんな狭い地域に四つの系列の古墳が密集している事実は、この地が裕福であった証拠である。その後、宗像地域の豪族が統合されたようで、その統合者の古墳が宮地嶽古墳である。この近くには港があり、交易により富み栄えたと思われる。現地の豪族、宗像君徳善の娘は天武天皇の妻となっている。九州には宗像君とか筑紫君などの「君」が多い。このあたりのことは古田先生が解き明かされるのではないかと思います。

宮地嶽神社 浄見宮司からのご挨拶(要旨)

 わたしは宮地嶽神社宮司の次男だったので、奈良の春日大社で十何年間「大和舞」を毎日舞わされて、それがいやになって渡米しました。跡継ぎだった兄が亡くなりましたので、宮地嶽神社に戻りましたら、父から筑紫舞を舞えといわれ、筑紫舞の練習をしました。その結果、大和舞は筑紫舞の後の形だったことがわかり、大和舞の経験が役に立ちました。

 わたしがいうのもなんですが、本当に神様はいらっしゃると思いました。神様がわたしに筑紫舞を舞えといわれたのだと思います。そして、古田先生の『失われた九州王朝』を読むことになったのだと思います。この度、宮地嶽神社がイベントをやるのであれば講演すると古田先生から言っていただきました。本当に今日はありがとうございます。

第二部 講演(要旨)
 講師 古田武彦

演題 筑紫舞と九州王朝

 古田武彦でございます。やっと皆様にお会いできることになりました。今年、八八歳になります。古田が何を考えているのかをお聞きいただき、一人でも御理解賛同していただくことができればよいと思い、本日まで生きていたいと思ってまいりました。
 現在の日本の歴史学は間違っている。このことをお話しいたします。最大のピンポイントをゆっくりとお話ししたいと思います。
 わたしの立場は、邪馬台国というのは間違っている。『三国志』には邪馬壹国(やまいちこく)と書いてあります。いずれも古い版本ではそうなっています。それを何故邪馬台国と言い直したのか、言い直してもよいのかというのが私の研究の始まりです。最初に言い直したのが江戸時代のお医者さんだった松下見林でした。彼は、日本には『日本書紀』があり、大和に天皇がおられた、だから日本の代表者は大和におられた天皇家である、だからヤマトと読めるよう邪馬壹国を邪馬台国に直したらよいとしたのです。しかし結論を先に決めて、それにあうように原文を変えて採用するという方法は学問的に何の証明にもなっていない。
 わたしの方法はそれとは違い、原文に邪馬壹国とあるのだから、邪馬壹国とするという立場です。『三国志』倭人伝には中国から倭国への詔勅が出され、それに対する返答である上表文(国書)を出されています。国書には国名が書かれるのが当たり前で、そこに邪馬壹国とあったことになります。倭王の名前も書かれていたはずで「卑弥呼(ひみか)」という名前もそこに書かれていたはずです。ところが『日本書紀』神功紀には卑弥呼という名前は記されていない。すなわち、天皇家には卑弥呼と呼ばれる女王はいなかった証拠です。
 古賀市歴史資料館の説明版には「邪馬壹国」と表記されているそうです。これが正しい歴史表記です。わたしも見に行きたいと思っています。
 「日出ずるところの天子、日没するところの天子に書をいたす」という有名な名文句があります。これは『日本書紀』にはなく、中国の史書『隋書』に書かれています。それには王様の名前「多利思 北孤」、奥さんの名前は「キミ」、国名は「イ妥国(たいこく)」と書かれています。ところが、『古事記』や『日本書紀』には多利思北孤という名前もイ妥国という国名もありません。『古事記』『日本書紀』では、七世紀初頭の天皇は推古であり女性です。従って、女性の推古天皇に奥さんがいるはずがない。すなわち、七世紀初頭に隋と交流した国は大和の天皇家ではなかったのです。
 現在の歴史学者はこの矛盾に誰も答えることができない。その矛盾を無視するというのは国民をバカにしているやり方です。こういうやり方では教育はできない。こういうやり方に終わりが来た。みんなその矛盾に気づいてきた。古賀市歴史資料館でも九州王朝説に基づいた解説表記(原文通り「邪馬壹国」と表記)をしている時代です。これこそ「開かれた博物館」で、それをやらないのは国民をバカにした「閉じられた博物館」です。昨年あたりからとどめることのできない新しい時代が来た。たとえば中国人の女性研究者(張莉さん)が古田説が正しいという論文を発表しました。そういう時代に入りました。
 昭和五五年五月にわたしに電話が入りました。西山村光寿斉さんという姫路の女性で、戦前、神戸で菊邑検校とケイさんという人に出会い、筑紫舞を伝授された方です。菊邑検校は太宰府のお寺で庭掃除していた男の所作が見事だったので、そのことをたずねると、その男は「わたしは死んだら必ず地獄に落ちると思います。師匠から習った舞を誰かに伝授しなければ地獄に落ちます。」とのことだったので、菊邑検校はその男から筑紫舞を習い、その筑紫舞をまだ子供だった西山村光寿斉さんに猛特訓して教えました。神戸の西山村さんの実家(やまじゅう)にお世話になっていた菊邑検校には筑紫のクグツが「太宰府よりの御使者まいりました」と口上を述べてよく挨拶にきたそうです。このようにして筑紫舞は現代まで奇跡的に伝わったのです。事実は小説よりも奇なりです。
 西山村さんの記憶では、戦前、宮地嶽神社の古墳の石室で筑紫舞が奉納されたとのことで、宮地嶽神社とは不思議な御縁があります。西山村さんや筑紫舞を受け継がれたお子さん、お弟子さんは「人間国宝」にふさわしい方々です。その筑紫舞の奉納の前座として今日話をさせていただいています。
 菊邑検校の「検校」を辞書で調べたところ、「盲目の人に与えられた最高の官」とありました。ということは、その官職を与える権力は「王朝」です。それは太宰府を中心とした、官職を与えることができた「権力」「制度」があったということです。これこそ、九州王朝という概念があってこその「菊邑検校」という名前だったのです。菊邑検校が筑紫舞を習った太宰府近辺のお寺を探してみたらよいと思う。「太宰府からの御使者」の人物の名前もわかっており、筑紫斉太郎(ちくしときたろう)というそうです。ぜひ探していただきたい。
 みなさんが学校で習った歴史は残念ながら本当の歴史とは言えません。わたしが京都の洛陽高校で教鞭をとっていたとき、同僚の教師から聞いた話で、その先生の隣家のおじさんが「天皇はんも偉くなりはったなあ。わたしのところには天皇はんの借金証文があります。東京であんじょうやってはるのでしょうなあ。」と言っておられたとのことで、大変驚きました。これこそ江戸時代の天皇家の実体だったのです。明治時代に薩長政権が自らの政治的目的で「万世一系」という概念を作り上げたのです。
 今、わたしは本当の歴史を再建する時代に入っていると思う。どの国家も自分たちの権力を正当化するための「教育」を行い、宗教も自分たちを正当化するための「教義」を作り上げている。だから、戦争が絶えないのです。国家も宗教も人間が人間のために造ったものです。その国家や宗教が人間を苦しめるのは「逆」である。国家や宗教のご都合主義の「教育」をキャンセルし、そこから抜け出して、人類のための国家、人類のための宗教はこうであると、言う時代がきたのです。そう言いたい。
 最後に、わたしは八七歳ですからもうすぐ間違いなく死ぬと思いますが、死んだらわたしは地獄に行きたい。地獄は苦しんでいる人や犯罪者や自殺者が行くところとされています。地獄に行ったら、自殺者からなぜ自殺したのかを聞いてみたい。なぜ犯罪を行ったかを聞いてみたい。わたしは幸せな人生でした。そのおかえしに、死んだらまっしぐらに地獄に行きたい。わたしが死んだと聞かれたら、古田は希望通り地獄に行って忙しくしていると思ってください。

第三部 筑紫舞

演目 笹の露 
舞人 宮地嶽神社権禰宜 野中芳治・渋江公誉・渋田雄史・植木貴房・竹田裕城
   
演目 神無月の舞 
舞人 宮地嶽神社宮司 浄見 譲


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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