2014年 4月6日

古田史学会報

121号

1,筑紫舞再興30周年記念
 「宮地嶽 黄金伝説」
   のご報告

2,一元史観からの
  太宰府「王都」説
  古賀達也

3,神代と人代の相似形II
 もうひとつの海幸・山幸
   西村秀己

4,『三国志』の尺
   野田利郎

5,納音(なっちん)付き
 九州年号史料の出現
 石原家文書の紹介
  古賀達也

6,『倭人伝』の里程記事
「水行一日五百里・陸行一刻百里、一日三百里」と換算
  正木裕

 

古田史学会報一覧

「実地踏査」であることを踏まえた 『倭人伝』の行程について 正木裕(会報118号)
「末盧国・奴国・邪馬壹国」と「倭奴国」 -- 何故『倭人伝』に末盧国の官名が無いのか
正木裕(会報120号)

「邪馬台国」畿内説は学説に非ず 古賀達也(会報124号)


『倭人伝』の里程記事は正しかった


「水行一日五百里・陸行一刻百里、一日三百里」と換算

川西市 正木裕

一、倭人は「日数」で距離を計った

 古田史学会報一一八号「『実地踏査』であることを踏まえた『倭人伝』の行程について」において、『倭人伝』に記す狗邪韓国から対海国、対海国から一大国、一大国から末盧国までの距離が同じ「千余里」となっているのは、実距離は違っても潮流や潮汐等の影響で「二日間」という航海日数は変わらないからだと述べた。
 七世紀の「イ妥(倭)国」の姿を記した『隋書』「イ妥国伝」には、
 「イ妥国は、百済・新羅の東南、水陸三千里に在り、大海の中の山島に依りて居す。魏の時、中国と訳を通じること、三十余国、皆自ら王と称す。夷人は里数を知らず、但だ日を以て計るのみ」

 と「日数で距離を測る」とある。(註1) つまり七世紀の一般の倭人は「里数」は知らず「日数」で距離を表していたということだ。これは三世紀俾弥呼の時代の倭人も「日数」で距離を表していたことを意味する。それは当然「直線距離」ではなく「行程距離(道のり・航路)」となろう。
 そして「二日間の航海で千里」だから、魏使(あるいは陳寿)は「航海(水行)一日五百里」と換算していたことになる。
 考えてみれば、倭人は「里」を知らず、また、魏使が「測量」しつつ航海や行進するわけもないのだから「直線距離(里数)」など書けるはずもなく、自らの行程から「里数」を算出するほかなかったのだ。
 魏使の派遣目的は「地図を作る」ことでないのは勿論、単なる「答礼」にもとどまらず、軍事上・政治上の視察を兼ねてのものであり、国力(規模・産物)はどうか、政治・軍備の状況、その王はいかなる人物か等を探ることで、その場合、重要なのは、帯方郡(或いは魏)から人や兵・貨物を何日(何時間)で送れるか、つまり「日数・時間」であり、「直線距離」に重要な意味はなかったのだ。(この指摘は木佐氏の提言による。)

 

二、魏使の「里数」算出方法

 それでは、「航海(水行)一日五百里」との換算は合理的か、また「陸行」の場合、魏使はどのように自らの行程から里数を算出したのだろうか。

1、「航海一日五百里」の換算は妥当な数値

 「水行」の場合、当時の手漕ぎ船の標準的な航海速度は、古代船の構造や、「野生号」の実験(一九七五年に仁川から博多まで古代船を復元し実験航海)から、通常で「約三ノット(約五.四キロ/h)程度」と考えられている。湾内、即ち内海の場合はこれより速く約四ノット(約七.二キロ/h)程度、波浪・海流の影響を受ける外海では三ノットより遅くなろう。
 「野生号」では、漕ぎ手十四人が交代しながら漕いだが、朝鮮海峡(半島から対馬まで)での実績では平均一.七ノット(三キロ/h)だった。これでは朝から晩まで十時間漕いでも三〇キロほどしか進まない。「野生号」の『渡海』は二日間を要し、それも最後は動力船に曳航されたという。(註2)

 「南北に市糴」していた倭人がそうは遅くないだろうが、約二ノット(約三.六キロ/h)で五百里(三八キロ)を渡るにはちょうど十時間(五刻)を要する。約三ノット(約五.四キロ/h)なら七時間だ。つまり朝から晩まで休みなく漕ぎ続けて五百里進むというもので、航海一日の換算里数として妥当なものといえよう。
 古田武彦氏は、「水行一日四五〇里(三四キロ)が『三国志』の平均速度であるとされるが、これともほぼ整合する。ただし「千里」が割り切れる里数であるはずだから「五百里」となろう。(註3)
2、陸行では「歩行一刻を百里、一日三百里」
 「陸行」の場合、標準的な「歩速」は平地でゆっくり歩く場合は四キロ/h、急ぎ足で五キロ/h、行軍の際は六キロ/hとされる。古代の道の状況を推測すると三〜四キロ/h程度だったかと思われる。
 漢代に始まるとされる、一日を十二等分する「十二辰刻法(註4)」では一刻約二時間となり、歩速を約四キロ/時とすると、ちょうど一刻で約八キロ、短里で約「百里」となるのだ。「時間の最低単位」が「一刻」で、『倭人伝』の陸行「里数の最低単位」が「百里」であることを考えれば、「歩行一刻を百里と換算」して距離を算出していたと考えられよう。また、一日三刻の行進で三百里、四刻で四百里となり、長距離の換算法としては、こうした「日」単位での換算が相応しいと思われる。
 陸行についても、古田氏は一日二五〇里(十九キロ)が平均速度とされるが、「百里が最低単位」だから三百里が最も近い換算単位となろう。これは、後述する「韓地」の距離・陸行日数とも整合する。
 従って、「陸行」の場合、魏使は「歩行一刻を百里、一日三百里」と換算したと考えられる。

 

三、『倭人伝』里数の検証

 次に、「魏使は水行一日を五百里・陸行一刻を百里、一日三百里と換算した」との仮定をもとに『倭人伝』記載の里数を検証しよう。

1、帯方郡から狗邪韓国までの水行「千里」

 帯方郡から狗邪韓国間の「海岸に循い水行し」とある水行行程では、帯方郡治の所在及び出航地点は不確定だが、京畿湾北部又は北東部から東南部まで湾内を水行したことは確実と思われる。湾の広さは南北最大で約一三〇キロ(約千六百余里)、北東部のソウル・漢江河口付近から東南端までだと約八〇キロ(約千余里)だ。波静かな湾内で、かつ、帯方郡の高性能の船を用い約四ノット(約七.二キロ/h)で進めたとしても十二時間〜十八時間を要し、二日間の航海となる。魏使はこれを「千里」と計算したことになる。

2、韓地内陸行「六千里」

 京畿湾東南部から「乍ち南、乍ち東」という“階段状の行程”をとれば、図上計測で約四五〇キロ(約六千里)前後となるから、水行距離との合計は「七千里」となり、『倭人伝』の帯方郡から狗邪韓国「七千余里」との記述と合致することになる。


魏志の行程「水行10日、陸行1月」

 

四、総里程の「水行十日、陸行一月」は正しかった

1、「陸行一月」は正しかった

 『倭人伝』には「郡から女王国に至る。萬二千余里」とあるほか、「水行十日、陸行一月」とされ、古田氏は、これは帯方郡から邪馬壹国までの総日程であるとされている(「『邪馬台国』はなかった」)。
 韓地の「六千里」を一日三刻(六時間)三百里(二三キロ程度)で、「連日休みなく歩いた」とすれば、約二〇日の行程となる。こうした実際の「行進日数」に行事、休日を加え、更に末盧国から邪馬壹国までの七百里が加わるから、「一日三百里」と想定すれば、帯方郡から邪馬壹国までの「陸行一月」は極めて妥当な日数と言えよう。

2、「水行十日」も正しかった

 それでは「水行十日」はどうなのか。魏使の立場に立って考えてみよう。
 『倭人伝』では島の大きさが「方(一辺)」として「里数」で記されている。これも直接測量できるわけもないから、「島内の行程」つまり「端から端まで横断でどれ位かかったか」から導いたものと考えるほかない。つまりこれも「行程距離」だったのだ。
 『倭人伝』には「山は険しく、深林多く、道路は禽鹿の径の如し(対海国)」「竹木叢林多く、やや田地有り(一大国)」等地勢の詳細報告もあり、また長官名等も記されている。これは魏使に「島内の行程」があったことを裏付けるものだ。特に対海国の場合、船で対馬西岸を回り、壱岐に向かうより、陸行で浅茅湾から対馬を「横断」し東岸に抜けた方が圧倒的に速いし安全なのだ。
 そして、浅茅湾口から、船が陸上輸送で東岸に越えられる地峡「小船越」(註5)を通り、東岸最大の港厳原までは約三十数キロ(約四百里)で「方四百里」と合う。またこれには丸一日以上かかることは確実だ。
 一大国でも勝本から原の辻(註6)までカラカミ遺跡など主要遺跡の地を通る経路では約二〇キロ約三百里)で「方三百里」と合い、これも丸一日かかる行程だ。
 そして、狗邪韓国から末盧国までに「水行」はあっても「陸行」の語はなく、代って「方(島の一辺)」がある。これが「島廻り半周読法」では総里程に組み込まれているから、陳寿はこの島内の行程も併せて、狗邪韓国発から末盧国着までを「水行里程」として記述していたことになる。
 こうしたことを踏まえて「水行日数」を考えてみよう。
 狗邪韓国から二日間の航海で対海国に着くといっても、(1).初日は朝、狗邪韓国を出発し、対馬に最も近い巨斉島(註7)経由で出航する。巨斉島までは二〇〜三〇キロ、対海国浅茅湾(註8)まで計百キロ〜百十キロ(約千三百〜千四百里)程度の航海となり、二〇〜三〇時間、「一泊二日間かけての渡海(水行)」となる。(その場合船中泊または巨斉島で潮待ち泊となろう)
 以下(2).二日目(水行し対海国浅茅湾着・宿舎泊)(3).三日目(対海国内を厳原付近まで陸行・宿舎泊)(4).四日目(対海国発・船中泊または対海国南端での潮待ち泊)(5).五日目(一大国勝本着・宿舎泊)(註9) (6).六日目(一大国内を原の辻まで陸行・宿舎泊)(7).七日目(一大国発・壱岐南端か馬渡島で潮待ち泊)(8).八日目(末盧国呼子着)(註10)で、これが常識的な行程だろう。
 従って、狗邪韓国から末盧国までの水行日数は合計八日となる。
 これに「京畿湾水行」の二日を加えれば、水行の総計は十日となり、邪馬壹国へ至る総水行日数「水行十日」とぴたり一致する。
 「陸行一日三百里、水行一日五百里」とすれば、『倭人伝』の「水行十日、陸行一月」は帯方郡から邪馬壹国までの総日程として、極めて正しいものであることがわかるのだ。

3、「韓国内陸行」は正しかった

 そして、もし帯方郡治から狗邪韓国まで韓地沿岸を水行したとすれば、その距離は図上測定だが約八百キロ(一万里)で、一日五百里ならこれだけで「二〇日」を要し、「水行十日」を遥かに超えてしまう。
 このように「陸行一日三百里、水行一日五百里」は、「韓地沿岸水行」を否定し、古田氏の言う「韓国内陸行」が正しかったことを証明している。

4、不彌国〜邪馬壹国の距離「ゼロ」も正しかった

 古田氏は不彌国〜邪馬壹国の距離記載がないことについて、「これは距離ゼロで、不彌国と邪馬壹国が隣接することを表わす」とされている。
 不彌国の中心を今宿付近とすれば、今宿から東の海岸沿いは長垂山が海にせり出し、道が遮られるため、合理的な順路とはならない。そうではなく長垂山と叶山の鞍部を「南」に抜けるのが主要な街道であり、そこを通ればわずか一.四(1).(二〇里)で福岡平野に出ることが出来る。石斧で有名な今山の南からでも三.五(1).(五〇里)だ。
 陸行の最小換算単位が「一刻百里」であるから、これに満たず、徒歩でも一時間(半刻)もかからない距離(里程)は記されなかったと考えられる。即ち「不彌国・邪馬壹国は隣接し距離はゼロ」と扱われて当然だったのだ。
 そして、長垂山と叶山の鞍部を抜ければ、その眼前に開けるのは、弥生時代後期から古墳時代前期(紀元三世紀頃)とされる野方遺跡(福岡市西区野方付近)の大規模集落や、有田遺跡群(同早良区有田付近)であり、その東の古田氏が俾弥呼の墓に比定されている春日の須玖岡本遺跡(春日市岡本付近)に続く。南に行けば室見川中流からあの吉武高木遺跡(西区吉武付近)を見渡すことが出来る、文字通り「弥生の黄金地帯」だ。従って、この領域が邪馬壹国の中心・王都(政庁・宮殿の地)であれば『倭人伝』の「南、邪馬壹国に至る。女王の都する所なり」

という記述通りになる。
 そして、古田氏も『「邪馬台国」はなかった』において、
◆「長垂山 ーー 叶岳 ーー 飯盛山 ーー 王丸山 ーー 西山」の線を西限とし、「西公園 ーー 大濠公園 ーー 鴻ノ巣山 ーー 片縄山」の線を東限とする、室見川流域と周辺の山地が、少なくとも三世紀女王国の中心の、第一の候補地と言えよう。そしてその第二の候補地は那珂川と御笠川の流域である」とされているのだ。
 古田氏の、不彌国から邪馬壹国の距離記載がないことをもって、「両国は隣接しており、邪馬壹国の西限線は長垂山 ーー 叶岳 ーー 飯盛山 ーー 王丸山 ーー 西山とする」との見解は誠に当を得たものだったといえよう。


五、『倭人伝』は正しかった

 このように古田氏の『倭人伝』読解の基本、即ち「短里」「萬二千余里は総里程」「島廻り半周読法」「階段式読法」「最終行程ゼロの論理」などをもとにし、さらに『隋書』イ妥国伝の、「倭人は里数を知らず、但だ日を以て計るのみ」という記述を踏まえ、魏使(或いは陳寿)は「水行一日五百里・陸行一刻百里、一日三百里」と換算したとすれば、『倭人伝』の里程(里数)記述は決して「誇張」でも「信頼できない」ものではなく、極めて正当・正確なものであることがわかる。
 そして同時に古田氏の「博多湾岸邪馬壹国説」の正しさを、重ねて証明するものとなろう。

 

(註1)『隋書』イ妥国伝は、イ妥国の「民情」を多く記している。七世紀の倭国の官僚が「里」を知らないはずは無く、これは庶民のことを記していると考えられる。

(註2)古田武彦『邪馬一国の証明』中引用の朝日新聞記事。

(註3)同『「邪馬台国」はなかった』による。

(註4)一日の時刻を、子の刻から亥の刻まで、十二支で表す方法。

(註5)小船越は浅茅湾東端の地峡で、船は陸上約二百mを陸送で越える。阿麻氏*留神社の所在地でもある。
     氏*は、氏の下に一。JIS第3水準、ユニコード6C10

(註6)原の辻遺跡は、壱岐における弥生最大の環濠集落。一大国の国庁の最有力地。

(註7)狗邪韓国付近と考えられる洛東江河口付近か直に対馬を目指せば、対馬海流で日本海に流される。このため沿岸を西行し巨斉島経由で浅茅湾を目指すのが合理的。距離は一一〇キロ(千三百余里)となる。
(同『邪馬一国の証明』『続・邪馬台国のすべて』ほかによる)

(註8)対海国の「方」は四百里であり、これは対馬南島と考えるほかはない。その場合上陸地は浅茅湾となる。浅茅湾口の豊玉町付近は「和多津美神社」、別名「渡海神社」がある半島への海の玄関。

(註9)勝本は古来より、対馬への窓口で、「天の原 ふりさけみれば春日なる 三笠の山に出でし月かも」と安倍仲麿が歌った「天原・天の原遺跡」のある地。

(註10)「山海に濱(そ)いて居る。草木茂盛して行くに前人を見ず」との『倭人伝』の記述は穀倉地帯唐津付近に合わず、玄海沿いの呼子・名護屋に相応しい。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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