2014年 4月6日

古田史学会報

121号

1,筑紫舞再興30周年記念
 「宮地嶽 黄金伝説」
   のご報告

2,一元史観からの
  太宰府「王都」説
  古賀達也

3,神代と人代の相似形II
 もうひとつの海幸・山幸
   西村秀己

4,『三国志』の尺
   野田利郎

5,納音(なっちん)付き
 九州年号史料の出現
 石原家文書の紹介
  古賀達也

6,『倭人伝』の里程記事
「水行一日五百里・陸行一刻百里、一日三百里」と換算
  正木裕

 

古田史学会報一覧

「邪馬一国」は「女王国」ではない -- 『東海の古代』の石田敬一氏への回答(会報110号) 野田利郎


『三国志』の尺

姫路市 野田利郎

はじめに

 『三国志』の里は、通説の長里ではなく、「短里」で記述されていることが解ってきた。ところで、里程の単位には、「里」の下には「歩」があるから、「短里」が実在する以上、「短歩」も実在するものと考えられる。
 その場合の「短歩」は「短里」の三〇〇分の一の約二六センチが想定される。これを「短里」対する「短歩」と呼び、通説を「長里」と「長歩」と呼ぶことにする。谷本茂氏は、古田武彦氏との共著、
『古代史の「ゆがみ」を正す』の「東アジアの古代文献を「短里」で読む」で次のように述べている。

古代の東アジアにおいて「短里」「短歩」の単位系が存在し、実際に使用されていたとみなす立場を「短里」仮説と呼ぼう。

 谷本氏は「短里」仮説を導入することにより、従来「一歩=六尺」の関係に固執した里単位認識からは矛盾や非現実的とみなされていた古典の内容が、生き生きとした現実性を帯びてくるといわれる。長里と短里の関係を対比すると次のようになる。

長里と短里

  長里(通説) 短里仮説
長里 約435m 短里76〜77m
里と歩 1里は300歩 1里は300歩
長歩 144.72cm 短歩25.33〜25.67cm
歩と尺 6尺は一歩 なし
一尺 24.12cm なし

 

 「短里」説では「短尺」の存在は考えられていない。「短歩」の約二六センチは、同時代の一尺約二四センチと、ほぼ同じ長さとなるから、谷本氏は、尺と歩の関係を「(丈 ー)尺 ーー 寸は、手を起源とする単位系、(里) ーー 歩は、足をが、起源とする単位系なので、本来独立のもの」と述べるとともに、「一尺は一歩」と推定されている。
 すでに、「短里」の実例は『三国志』をはじめとして、中国、朝鮮、日本の古典から確認されている。
 しかし、「短歩」は『史記』から二例が確認されているが、『三国志』からは、発見されていない。「倭人伝」には、卑弥呼の墓は「径百余歩」とあり、この「歩」は「短歩」と推定されているが、卑弥呼の墓は未発見のため、確定的な「短歩」の実例とはならない。『三国志』の「歩」が、「短歩」であるか、「長歩」であるかを確認する必要がある。ただ、通説では「一歩=六尺」であるから、「歩」を確認する前に、「尺」を明確にすることにした。
 本稿は、『三国志』の「尺」を身長の例から検討したが、『三国志』の「尺」は魏尺ではなく、それ以前の「尺」であるとの結論となった。
 多くの皆様のご批判を願うものである。

一.尺の確認

 一尺の距離は時代により変遷している。大修館書店の『漢語林』の「歴代度量衡変遷表」から、各時代の尺を抜粋する。
 『漢語林』には、唐代以降の宋、元、明、清、現代までの尺についても記載されているが、本稿と直接、関連しない部分は省略した。
 その代わり、『漢語林』の注に、「周尺には一九・一九センチ、二三・〇四センチなどの説がある」とあるから、その数値を、括弧で記載した。

歴代度量衡変遷表・抜粋

時代 一尺
(周) 19.91cm
(周) 23.01cm
周〜前漢 22.50cm
新・後漢 23.04cm
24.12cm
31.10cm

 尺は、歩、里などと異なり、物差し(基準尺)が、古代の遺物として残っている。例えば、中国国家計量総局主編『中国古代度量衡図集』には、商、戦国、前漢、新、後漢、魏、呉、西晋などから清までに発掘された、物差し七十七例の写真が記載されている。したがって、各時代の尺の長さは、物差しから直接、証明することができるが、その尺が、その時代に日常的に使用されていたか、どうかは不明である。
 『三国志』の本文の「尺」は全部で四十九例あり、その使用の内訳は「長さ」が四十例、「慣用等」が四例、「わずかの意味」が五例である。また、「長さ」四十例について、長さの対象をみると、「身長」が二十例、「器物」が十例、「その他(積雪、植物・動物など)」が十例であった。
 次に、裴松之の注釈の「尺」は六十七例あり、「長さ」が四七例、「慣用等」が九例、「わずかの意味」が十一例である。「長さ」の対象は、「身長」が十八例、「器物」が二十三例、「その他」六例となっている。         
 資料はhttp://www.seisaku.bz/sangokushi.htmlの「三国志」を検索した。また、訳文には、筑摩書房の『世界古典文学全集』の三国志を使用した。

 

二.「本文」の身長例『三国志』に使用された「尺」が、どの時代の尺であるかを、成人の男子の身長から、考えることにする。

『三国志』「尺」の集計表

  長さ 慣用 わずか
本文 40 4 5 49
注釈 47 9 11 67
合計 87 13 16 116

 

上記の長さの内訳表

  身長 器具 その他
本文 20 10 10 40
注釈 18 23 6 47
合計 38 33 16 87

(1)身長の二十例をすべてリストアップして、身長の高い順に記載する。
 No.1何キ*は、・・身長八尺三寸、慎み深く威厳のある容貌。(魏書十二)
     キ*はインターネット上は表示不可。JIS第四水準ユニコード5914

 No.2程[日/立]は、・身長八尺三寸、・・みごとなひげを生やして。(魏書十四)
     [日/立]は。日の下に立。JIS第3水準ユニコード6631

 No.3劉表、身長は八尺余あり、容姿はたいへんりっぱで。(魏書六)

 No.4許[ネ*者]は、身長八尺余・・武勇・力量は人並みはずれて。(魏書十八)
     [ネ*者]は。衣編に者。JIS第3水準ユニコード891A

 No.5管寧は、・・身長八尺、ひげと眉が美しかった。(魏書十一)
 No.6諸葛亮は、身長は八尺あり・・管仲、樂毅に擬した。(蜀書五)
 No.7諸葛亮は、身長は八尺、容貌はすぐれ、高く評価した。(蜀書五)
 No.8彭[羊*/水]は、身長八尺、はなはだ容貌は魁偉であった。(蜀書十)
     [羊*/水]は。羊編の下に水。JIS第4水準ユニコード23D0E。

 No.9周は、身長は八尺、風貌は素朴で、誠実で。(蜀書十二)
 No.10孫韶は、身の丈が八尺で、温雅な風貌をそなえていた。(呉書六)
 No.11董襲は、身の丈は八尺、人並みはずれた武力があった。(呉書十)
 No.12太史慈は、身の丈七尺七寸、臂(うで)が長く、射に巧み。(呉書四)
 No.13陳武は年が十八で、身の丈が七尺七寸あった。(呉書十)
 No.14先主は、身の丈、七尺五寸、手を下げると膝までとどき(蜀書二)
 No.15朱然は身の丈は七尺に満たなかった。(呉書十一)
 No.16帝は、桓階の病気を見舞い、「わしは六尺之孤を託し、天下の運命を卿にあずけるつもりだ。頑張ってくれよ。」(魏書二十二)
 No.17孤児たちの後ろ盾(保六尺之託)となっておられます。(呉書四)
 No.18五尺の童子でさえみな学問をやります。(蜀書八)
 No.19侏儒国がその南にあり、身の丈が、三、四尺(魏書三十)
 No.20胎児が出され、・・色は黒く、身の丈は一尺(魏書二十九)

(2)次に、この二十例から、重複した例、成人でない例の六例を除外する。

No.6とNo.7は、諸葛亮の身長である。後の方を削除する。
No.16とNo.17の「六尺之孤(託)」とは、十四、五歳の父に死に別れた幼君のことである。
No.18は、「五尺の童子」である。
No.19は「侏儒国」の人々の身長である。
No.20は胎児の身長である。

(3)No.3、No.4とは、「八尺余」とある。数値で、比較するため、「余」は、仮に「二寸」とする。「余」は「1〜7を示しうる語」であるが、「八尺三寸」が二例あるので、「余」を三寸以上でなく、「1〜2」と考え、大きい方の「2」を選択し、「八尺二寸」とする。

(4)No.15は、「不盈満たさず七尺」となっている。「七尺に満たなかった」の意味で、具体的な数値は不明ある。そこで、仮に、七尺の近い数値で、六尺八寸とする。

 

三 注釈の身長例

(1)身長の一八例を身長の高い順に記載する。また、注釈に使用された引用文献を補記した。

S1車離国は、民衆は男女ともに身の丈が一丈八尺。象や駱*駝*らくだに乗って戦う。(魏書三十)。『魏略』西戎傳の引用。
     駱*駝*は論証に関係しないので別字。

S2袁熙は、身長八尺五寸。体格容貌は大きくりっぱで、たちふるまいは見事だった。(魏書十二)。華[山喬]の『漢書』の引用。華[山喬]は晋の人。
     [山喬]は。山編に喬。JIS第3水準ユニコード5DA0

S3子の襃*は、身長八尺四寸、容貌はとりわけすぐれていた。(魏書十 一)。王隱の『晉書』の引用。
     襃*は。呆の代わりに予。

S4司馬儁は、身長八尺三寸、腰まわりは五尺、たくましくりっぱな姿。(魏書十五)。司馬彪の「序傳」(『続漢書』)の引用。司馬彪は晋の歴史家。
S5馬騰、身長が八尺余もあり、巨大な体格で、顔も鼻もりっぱであった。(蜀書六)。『典略』の引用。『典略』の一部が『魏略』。
S6満寵・満偉・満長武・満奮いずれも身長が八尺あった。(魏書二十六)。『世語』の引用。『魏晋世語』が正確な書名。西晋に成立。
S7趙雲は身長八尺あり、姿や顔つきがきわだってりっぱだった。(蜀書六)。『趙雲別傳』の引用。蜀の将軍趙雲の伝。
S8孫邵は、北海郡の人で、身の丈は八尺。(呉書二)。『呉録』の引用。張勃撰。呉に生まれ、晋に仕えた。
S9ひとには八尺の身体があって、どこからでも病魔が入り込みそうですが(呉書三)。干寶の『晉紀』の引用。干寶は晋の人。
S10臣、裴松之が考えるには、人には八尺の身体があって、」(呉書三)。裴松之の評。
S11陳化は、身の丈は七尺九寸、平素より威風があった」(呉書二)。『呉書』の引用。呉の史官、韋昭撰
S12諸葛恪は、身のたけ七尺六寸、髭や眉はうすく(呉書十九)。『呉録』の引用。呉に生まれ、晋に仕えた張勃の撰。
S13生きているときは七尺の肉体をもちますが、死ねばただ、一棺の土となるだけです。(魏書二)。王沈撰、『魏書』の引用。
S14管輅が答えて「人間の七尺の身体を万物の変化の中に遊ばせ」(魏書二十九)。『管輅別傳』の引用。
S15幼い孤児を引き受け(受六尺之孤)一国の政務をつかさどり、(蜀書五)『袁子正論』の引用。
S16内には、来客の取次をする小僧(五尺之童)もおらず(蜀書十五)『華陽國志』は蜀の歴史、地理、風俗の書。記事は東晋まである。
S17一人の見なれぬ子供があらわれた。身のたけ四尺あまり、年は六、七?で、青い着物をきていた。(呉書三)。『搜神記』千宝撰。
S18短人国は康居の西北にあって、男女ともに身の丈三尺、人口ははなはだ多い。(魏書三十)。『魏略』西戎傳の引用。

(2)次に、この十八例から、実在の成人でない、次の九例を除外する。

 (1) S1は、「人民男女皆長一丈八尺」とある。「一丈八尺」では、四メートルを超える身長となるので、通常の人ではない。
 (2) S9、S10は具体的な人物の例でなく、「ひとには八尺の身体があって」と人のたとえである。
 (3) S13、S14も、「人間の七尺の身体」と人のたとえである。
 (4) S15は、「六尺之孤」と、十四、五歳の父に死に別れた幼君のたとえ。
 (5) S16は、「五尺之童 」と来客の取次をする小僧のたとえ。
 (6) S17不思議な子供の身長。
 (7) S18短人国の人々の身長。

(3)「余」は、仮に「二寸」と考える。S5の「八尺余」は「八尺二寸」とする。

四.成人男子の身長

 本文の成人男子の身長を、魏の一尺、二四・一二センチを適用して、表示すると次の通りとなる。

表1 本文の成人・男子の身長

No. 人数 cm
1.,2. 2 八尺三寸 200.2
3.,4. 2 八尺二寸 197.78
5.,6.,7.,8.,9.,10.,11 6 八尺 192.96
12.,13. 七尺七寸 185.72
14. 1 七尺五寸 180.9
15. 1 六尺八寸 164.01
平均 14   190.72

 表1を見ると、十四例中、一九〇センチ以上が十例あり、平均身長も一九〇・七二センチとなっている。しかも、No.の例を除きすべて、一八〇センチ以上の身長ばかりであり、極めて高身長である。
 同じように、注釈の場合を表2に記載した。十二例中十一例が一九〇センチ以上であり、平均身長も一九四・七七センチと高身長である。
 この、二つの表の人物は、『三国志』の列伝等に登場する。その中でも、特に身長が高い場合に、尺の数値を表記したと思われるが、それにしても、この高身長は不審である。そこで、標準的な成人の身長の例をみることにする。

 

表2 注釈の成人・男子の身長

No. 人数 cm
S2. 1 八尺五寸 205.02
S3. 1 八尺四寸 202.61
S4. 1 八尺三寸 200.2
S5. 1 八尺二寸 197.78
S6.(四人)、S7、S8. 6 八尺 192.96
S11. 1 七尺九寸 190.55
S12. 1 七尺六寸 183.31
平均 12   194.77


五.『三国志』の標準身長

 本文と注釈に標準身長の例がある。

(1)本文のNo.15は、「朱然は身の丈は七尺に満たなかったが、からっとした性格で,内々の生活は身を修めて清潔なものであり、飾りは軍器にだけは施すが、それ以外はみな質素な用具を用いた。」とある。
 朱然は、身長が七尺を満たさなかったが、生活態度は優秀であると書かれている。つまり、七尺が、大人の標準と考えられている。

(2)注釈のS13は、魏書に書かれた文帝の手紙の内容である。「生きているときは七尺の肉体をもちますが、死ねばただ、一棺の土となるだけです。」とある。標準の身長を七尺と考えていることが伺える。

(3)注釈のS14は、魏書の管輅を記載した『管輅別伝』で、石苞が管輅に「あなたは姿を消すことができるが、本当か」と聞くと、「人間の七尺の身体を万物の変化の中に遊ばせ、あとかたもなくすことなど、なんの雑作もないことです。」と答えた。やはり、七尺を標準と考えている。

(4)八尺を人の身長に例えた例があるが、これは、大男の身長のたとえと思われる。

 注釈のS9は、『晉紀』に書かれた内容で、呉の紀陟が魏を訪問し、文王の宴会に出席したとき、文王が尋ねた。「呉の防備はいかほどであるか」。答えていった。「西陵から江都にいたるまで、五千七百里でございます」。重ねて尋ねていった、「それだけの距離があれば、堅固にするのはむつかしかろう」。答えていった、「疆界線は長いとは申しましても、そのうちでも要害の地であって必ずその奪取が争われるという地点は、三つか四つにすぎません。それは、ちょうど、ひとには八尺の身体があって、どこからでも病魔が入り込みそうですが、風邪をひかぬよう保護するのが、数か所にすぎないのと同様なのでございます」と回答した。
 このことへの、裴松之の評が次の文である。
S10「臣、裴松之が考えるには、人には八尺の身体があって、どこからでも病魔が入り込みそうではあるが、風邪をひかぬように保護するのは、本当に数か所だけであろうか。この喩は巧とはいいがたい。・・」という。
 呉の紀陟が、「八尺の身体」を例としたのは、呉の領土が広いことから、標準の七尺ではなく、「八尺」の大男にたとえたと思われる。
 裴松之も、本文のNo.15、注釈のS13、S14を承知しているが、「八尺の身体」と繰り返したのは、大男のたとえだからと思われる。
 以上から、『三国志』では標準の身長を、七尺と考えていたことが、わかる。

 

6.「古代人」の身長

 身長に関する資料を見ると、次のようである。
(1)現代の中国人と日本人の平均身長は次の通りである。(OECDの資料)
 日本人の男性(二〇一〇年)、一七一・六センチ。
中国人の男性(二〇〇九年)、一六六・五センチ。

(2)弥生時代の渡来系弥生人は、一六四センチぐらいである(吉野ヶ里遺跡公園の資料)

(3)日本人の身長の歴史的な推移をみると、縄文時代の一五八センチが伸びて、弥生時代には一六四センチとピークになる。
 それ以降、江戸時代末期までは低下し続け、明治維新直前は、一五五センチと最小値になる。その後、明治以降は伸びてゆき、終戦時には一六〇センチ、二〇一〇年には一七一センチとなった。(平本嘉助「骨からみた日本人の身長の移り変わり」の引用)

(4)中国の魏の時代の標準身長は不明である。
 ただし、日本の渡来弥生人の身長は、一六四センチぐらいである。この数値は、現代の中国人の一六六・五センチ以下であるから、魏の頃の、中国人の身長は、一六四センチ程度と思われる。
 以上から、『三国志』、本文の平均一九〇・七二センチは過大と考えられる。
その原因は、一尺を魏の二四・一二センチで計算したからでは、ないだろうか。そこで、身長を、周、後漢の尺でも計算して、比較、検討することにした。さらに、標準身長の七尺を検証の項目に追加して、平均とならべて見ることにする。

 

7.各時代の「尺」での検証

表1

身長 人数 19.91cm 22.5cm 23.04cm 24.12cm
(周) 周〜前漢 魏 新・後漢(周)
八尺三寸 165.25.23 186.75 191.23 200.02
八尺二寸 163.26 184.5 188.93 197.78
八尺 159.28 184.5 184.32 192.96
七尺七寸 151.31 180 177.41 185.72

七尺五寸

1

149.33 173.25 172.8 180.9

七尺八寸

1 135.39 168.75 156.67 164.02
平均 14 157.43 177.91 182.18 190.72
七尺(標準) -- 139.37 157.5 161.28 168.84

 

 表1に、周、前漢、後漢の尺の場合を追加した。また、標準身長七尺の項目を設けた。
 (1).古代の中国人の平均身長は、一六四センチぐらいと推定される。それから考えると、魏尺の七尺(標準身長)一六八・八四センチは過大である。
 現代の中国人の平均身長一六六・五センチをも超えている。

 (2).標準身長を尺別にみると、新・後漢尺の一六一・二八センチと周・前漢の一五七.五センチが、古代中国人の平均身長に近い。しかも、この尺を基準とすると、二〇〇センチの身長がなくなり、大半が、一八〇センチ台であり、現実的となる。

 (3).注釈の場合を表4に、記載したが、本文と同様の傾向である。

表4 注釈の「尺」に関する比較表

身長 人数 19.91cm 22.5cm 23.04cm 24.12cm
(周) 周〜前漢 魏 新・後漢(周)
八尺五寸 169.23 191.25 195.84 205.02
八尺四寸 167.24 189 193.84 202.61
八尺三寸 165.25 186.75 191.23 200.2
八尺二寸 163.26 184.5 188.93 197.78

八尺

1

159.28 180 184.32 192.96

7尺九寸

1 157.29 177.75 182.01 190.55
7尺六寸 1 151.31 171 175.1 183.31
平均 12 160.77 181.69 186.07 194.77
七尺(標準)   139.37 157.5 161.28 168.84


8.まとめ

 第一に、身長に使用されている尺をみる限り、尺には「短尺」がないことは、明確である。

 第二に、『三国志』の尺を魏尺の二四・一二センチとすると、『三国志』の登場人物一四名の平均身長は一九〇・七二センチとなる。さらに、その場合には、成人の標準身長の七尺が、一六八・八四センチと、現代の中国人の身長一六六・五センチを超えるから、非現実的である。このことは、注釈も同じ傾向であり、身長に使用されている『三国志』の尺は、魏代の尺ではないと考えられる。

 第三に、魏の尺でないとすると、それ以前の尺である。それ以前の尺は、一九・九一センチ、二二・五センチ、二三・〇四センチと三種類があるが、どの尺であるかは、この資料だけで決定できない。ただ、『三国志』の「里」は、周代の短里が使用されていることを考えると、尺も、周代の尺が使用されている可能性がある。(完)


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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