2014年 2月10日

古田史学会報

120号

1、賀詞交換会
 古田武彦講演要旨
  文責・古賀達也

2、九州年号
 「大長」の考察
  古賀達也

3,「末盧国・奴国・
邪馬壹国」と「倭奴国」
  正木 裕

4、「天朝」と「本朝」
「大伴部博麻」を顕彰する 「持統天皇」の「詔」からの解析

5,「ウィキペディア」の史料批判

  古賀達也

6、「水鳥のすだく水沼」の真相
  正木裕

7、年頭のご挨拶
  水野孝夫

古田史学会報一覧

筑紫舞再興30周年記念 -- 「宮地嶽 黄金伝説」のご報告 文責:古賀達也(古田史学会報121号)

続・古田史学の真実 -- 切言 古田武彦(古田史学会報119号)

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「古田史学の会」新年賀詞交換会 

古田武彦講演会・要旨 

二〇一四年一月十一日 I‐siteなんば

(文責・古賀達也)

○古田史学の会 水野代表あいさつ

 芭蕉の句で「水取りや 籠りの僧の 沓の音」か「氷の僧の」かの二説がある。「氷」から「籠り」へと改変されるのはありうるが、「籠り」を「氷」と改変するのは不自然とする古賀さんの説は古田史学らしい考えといえる。また、五・七・五の最初の字に「水」という字が含まれるという西村説も興味深い。古賀さんの調査によれば天理図書館の芭蕉自筆本には「氷の僧」とあるとのことである。

 

○古田史学の会・東海 竹内会長あいさつ

 「一所懸命」に頑張りたい。

 

○古田史学の会・四国 合田事務局長あいさつ

 3月2日アクロス福岡で古田先生の講演会「宮地嶽神社筑紫舞奉納30周年記念」がある。講演会に参加するために、「四国の会」では旅行を企画している。関西の皆さんにも参加してほしい。

 

○古田史学の会・今年の出版事業の報告(古賀達也)

古田先生講演要旨(文責・古賀達也)

○靖国参拝問題について

 『祝詞』「六月の晦(つごもり)の大祓」に「安国」が見える。この『祝詞』は筑紫で成立している。そこにある「天つ罪」「国つ罪」は具体的で、その「罪」を明確にしている。
 「南京大虐殺」ではなく「中国大虐殺」である。小学校時代の経験だが、校長の訓話(日本軍は中国民衆から歓迎されている)と若い用務員の戦争経験談(中国人婦女子への陵辱と殺害。「上官の命令は天皇の命令と心得よ」だから罪にはならない)とは異なっていた。どちらの話が本当かは子供心にもわかった。校長の話はきれいごとで、用務員の話が真実だ。
 このような戦争犯罪を犯した人物を祀る靖国神社に、こうした「罪」の記述がない。「罪」を具体的に記した『祝詞』とは異なる。
 同時に、中国も日本人虐殺の歴史(通州事件など)があるが、「記述」されていない。「元寇」での中国人や朝鮮人による対馬島民虐殺(中国側が行った戦争犯罪)も中国は言わない。中国や韓国側も「嘘」をついている。
 アメリカ軍も日本占領時に日本人婦女子を陵辱したが、このことも伏せられている。GHQが報道させなかった。青年時代にわたしはそうした事件があったことを知っていた。
 自国の悪いことも、相手国の悪いことも共に明らかにし、「罪」として述べることが大切である。これが『祝詞』の精神である。これが「安国」の本来の姿であり、現在の靖国神社の精神は偽物である。
 古今未曾有の戦争犯罪は広島・長崎の原爆投下である。このような戦争犯罪は歴史上なかった。釈迦も孔子もこれほどの戦争犯罪を知らなかった。
 天皇が「A級戦犯合祀」を理由に参拝しないのはおかしい。昭和天皇の戦争に対する責任において靖国参拝を行うべき。本当の責任は、軍部による戦争犯罪を止めなかった昭和天皇にあることは明白。今上天皇もこうした昭和天皇の戦争責任(罪)を明白にして、参拝すべきてある。

○「言素論」について

 「死」が漢語であったとすれば、「死ぬ」の反対語として「生(せい)ぬ」という日本語はないのはおかしい。「生(い)く」は日本語であるから、反対語の「死ぬ」も日本語と考えざるを得ない。従って、日本語の「死(し)」が中国に伝播したのである。周辺諸国の言語を取り込んで、中国語が成立したのではないか。この考えが「言素論」の元になった。
 司馬遷の『史記』の「會稽山」の「かいけい」の語義解釈(「会計」のこととする)は誤り。「かいけい」は古代日本語である。「か」は川の「か」で水のこと、「い」は井戸の「い」、「け」は古い神のこと、「い」は井戸の「い」。すなわち、豊富な水のある井戸、神の井戸という日本語である。中国語の中にある「日本語」の研究は無視できない重要テーマである。
 「崩」(ほう)の字も「葬(ほうむ)る」という日本語からきているのではないか。昨日の明け方に気づいたテーマなので断言はできないが、ありうるのではないか。『礼記』に見える「昧(まい)は東夷の楽なり」の「昧」は日本語の「舞(まい)」のことではないかとする結論に達していたが、最高人物に対する用語である「崩」まで日本語であったとすれば驚きである。「階級言語」としての日本語の「崩(ほう)」まで中国語に取り入れられたことになり、まだ断言はしないが、わたしとしては驚いている。

○『東日流外三郡誌』について

 偽書としてわたしを攻撃している人物はいるが、わたしにとって偽書ではないことは明白なことである。
 日本国家が『東日流外三郡誌』記念館・秋田孝季記念館を作ることを提案する。原本は五所川原の石塔山の地下のどこかにあるので、探して記念館に保管してほしい。石塔山は国有地である。
 「和田家文書」と言っているが、本来は「秋田家文書」であり、更に遡れば「安倍家文書」である。この安倍家は安倍首相の先祖である。首相のお母さんの洋子さんは和田喜八郎さんの葬儀にも出席され、寛政原本も安倍家に一部が保管されている。寛政原本だけでなく、安本美典氏らの偽作説の文献も全て記念館に保存し、将来の「証拠」として残しておくべき。いずれ真実は明らかとなる。

○アメリカは何故東京に原爆を落とさなかったか

 アメリカ軍は皇居に爆弾を落とさなかった。うっかりミスではない。毎回の爆撃で一回も皇居を爆撃しなかった。勝った後に天皇家を利用するために、皇居を爆撃しなかった。だから原爆を東京に落とさなかった。京都も同様である。京都を絨毯爆撃したら京都御所も延焼するから、京都には爆撃も原爆も落とさなかった。
 アメリカは勝った後のことを考えて、爆撃していた。戦争を起こしたのは日本ではなくアメリカである。アジアで独立国であった日本国を植民地にしたかったため、黒船は来航したのである。マッカーサーはそれを受け継いで戦争と日本統治を行った。学校ではこうしたことを教えない。
 旧制広島高校の同級生が湯川秀樹の知人で、彼の父母や兄は原爆で死んだ。その彼から聞いたことだが、広島にあったアメリカの研究機関ABCCに出向いたところ、相手側の学者は湯川秀樹氏の友人だったこともあり親しくなり、その学者から原爆投下前の広島市の航空写真を見せられたとのこと。アメリカ軍はあらかじめ広島の地形を完全に調べてから、人体実験として広島に原爆を落としたのである。▼ このことから気づいたのだが、アメリカは皇居の航空写真を撮っていたはずである。天皇や皇太子がどこで寝起きしていたかは知っていたはずである。その写真に基づいて、爆撃から皇居を外したのである。これらの航空写真はまだ情報公開されていない。アメリカにとって、「万世一系」の天皇家は戦後統治のために必要だったのである。九州王朝はなかったとする大嘘に基づいて、現在も「万世一
系」の歴史観が利用されているのである。
 権力を握ったら自分の歴史を飾り、嘘を本当の歴史であるかのように作り直している、と秋田孝季は言っている。秋田孝季の思想からみれば、人類の歴史の中で国家は発生し、なくなっていくものである。宗教も同様で、宗教がある時代から無い時代へと変わっていく。歴史学とはいかなる権力・宗教にも迎合することなく、真実を明らかにする学問である。

○井上章一さんの『真実に悔いなし』書評紹介

 ロシアのレナ川のとなりに「ヤナ川」がある。これは日本語であるとの指摘がロシア側の学者からも出されている。方向としてはロシアから日本へ伝播した可能性が高い。
 沿海州の「オロチ族」の「おろち」は「やまたのおろち」の「おろち」と同源である。
 ※「シベリア物語」の歌(古田先生が歌われる)

 「荒れ果てて けわしきところ イルトゥーイシの不毛の岸辺に エルマルクは座して 思いにふける」

 「イルトゥークシ」ならロシア語だが、「イルトゥーイシ」の場合、「イルトゥー」までがロシア語で、「イシ」は日本語ではないか。石狩平野の「イシ」と同じではないか。従って「イルトゥーイシ」はロシア語と日本語の合成語ではないか。「イ」は神聖なという意味、「シ」は生き死にする場所の「シ」である。「君が代」にも「イシ」がある。「さざれいし」の「いし」とは、神聖な生き死にする場所という意味ではないか。
 日本の地名に「いし」がやたらとでてくるので、石の「いし」なのか、神聖な場所の「いし」なのかを調べてみればよい。自分で調べてから発表すればよいと言われるかもしれないが、明日死ぬかもしれないので、今のうちに言っておきます。わたしは早晩死んでいきますが、皆さんにあとをついでほしい。

  偶詠ぐうえい    古田武彦 八十七歳

 竹林の道 死の迫り来る音を聞く
            (12/24)
 天 日本を滅ぼすべし
   虚偽の歴史を 公とし通すとき             (12/23)


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