「天朝」と「本朝」 -- 「大伴部博麻」を顕彰する「持統天皇」の「詔」からの解析 上 阿部周一(会報119号)
「春耕秋收」と「貸食」 -- 「一年」の期間の意味について 阿倍周一(会報125号)
「天朝」と「本朝」
「大伴部博麻」を顕彰する「持統天皇」の「詔」からの解析 下
札幌市 阿部周一
前稿では「天朝」と「本朝」の出現例を逐次確認し、「天朝」が「諸国」から見た「筑紫朝廷」に対する「美称」であることを推測したわけですが、ここでは「持統」が「新羅」からの「弔使」に対して発した「詔」に出てくる「天朝」について考察し、それがやはり「筑紫朝廷」に対する美称であることを示します。
ところで前稿において『「正木裕氏」は『「薩夜麻の『冤罪』 I 」古田史学会報八十一号』の中で、この「天朝」について「唐朝廷」を指すとされていますが』としましたが、これは私の誤読であり、正確ではありませんでした。
「正木氏」の「趣旨」は「天朝」が「薩耶麻」を指すというものであり、「天朝に届く」とは「薩耶麻」に「唐」に滞在していた「倭国高官」を引き合わせることができた事を指すというものとのことでした。ここに訂正させていただきます。
(ただし、この「天朝」が「薩耶麻」を指すという「正木氏」の論にもやはり同意はできません。理由は前稿で述べたので省略します)
(二)「持統の詔」に出てくる「天朝」の意味と「三十四年遡上」
この例は「天武」の死去に際して「土師宿禰根麻呂」が「新羅」からの使者(弔使)に対する言葉の中に登場するものです。
この「弔使」は「持統三年(六八九)四月二十日」に「筑紫」到着したようであり、そこで「金銅阿弥陀像」等の「献上物」を「弔意」を表すため提出しています。そして、これらの「献上された」品々を「朝廷」に運び、内容を改めた結果、この「献上物」とこの「弔使」自体に疑問を持った「持統朝廷」は、これを受け取らず返還することとしたわけです。そして、これについての「説明」を(外交上非礼のないように)「勅」の形(つまり「天皇の言葉」として)で「土師宿禰根麻呂」が「詔」として伝えていることとなったと見られます。その「根麻呂」が伝える「勅」の中に「天朝」という用語が使用されており、「一見」「天皇自身」の言葉として「自王朝」を「天朝」と言っているように見えます。しかし、「天朝」を「美称」と考えると、「自分」の朝廷(というより自分自身と言えます)を「尊敬」して話していることとなってしまい、前に述べたようにはなはだ不審です。
これも「筑紫」の「朝廷」のことを指すのかと考えると、「問題」と思われることがありました。それはこの「持統三年」(六八九年)という段階で「筑紫朝廷」が存在していたかが「はっきり」しないことです。
「持統朝廷」が近畿王権なのか倭国王権なのか、倭国王権だとしても、この年次の時点で「遷都」しているのかどうかなどについてまだ明確になっておらず、定まった見解がありません。
この点について考えるといろいろな可能性があり、もしこの段階で「筑紫」にはすでに「朝廷」がない、という事であれば「天朝」が「筑紫朝廷」を指す用語という「仮定」と矛盾する、という考え方もあり得ます。
ところで、この記事に関しては、別の意味で疑問があります。
「書紀」によれば「天武」の死去した翌年の「一周忌」の直前の「持統元年(六八七年)九月」に「たまたま」「新羅王子」一行が来倭しています。彼らの来倭目的は「奏請國政」とされており、これは何らかの政治的方針の表明などを要請に来たものかと推察され、この時点では「倭国王」の死去を知らなかったのではないかと思われます。
そして、「天皇崩」という知らせを「大宰府」で聞き、そのまま「喪服」に着替え、「弔意」を表しています。
その後彼らの「接待役」として「任命」された「直廣參路眞人迹見」が「勅使」として送られ、その彼から「正式」な「天皇崩御」の知らせを受けて、改めて「三發哭」という儀式を行い「弔意」を示しています。
このようにすでに「王子」という高い地位の人間が「弔意」を表しているわけであるのにも関わらず、その後一年余り経ってから「別の」弔使が(それも位の低い人物が)派遣されたというのも不思議な話です。
この「根麻呂」の詔の中では「昔在難波宮治天下天皇」の崩御に際して「巨勢稲持」が「喪之日」を知らせる為に「新羅」に行った際、「金春秋」が「奉勅」したと書かれており、彼の肩書きが「翳餐」とあります。これは「伊餐([冫食])」と同じものであり、「新羅」の官位の十七階中第二位のものです。
[冫食]は、二水編に食。JIS第四水準ユニコード98E1
しかし、この「昔在難波宮治天下天皇」が「孝徳天皇」を示すとすれば、彼が「六五四年十月」に亡くなったわけであるのに対して、「金春秋」は、「三国史記」によればそれ以前の「六五四年三月」に先代の「真徳女王」を継いで「新羅国王」の座についています。
つまり、「孝徳天皇」死去の知らせが来た段階ではすでに「金春秋」は「国王」になっているわけであり、その時点で「翳餐」という「第二位」の官位を持っている「官人」であったとするこの「書紀」の記事とは大きく食い違っているのです。
また、この時点で「新羅」からの「弔使」に対して献上された物品を返却したり、以前からの倭国に対する態度を問題にしているなど「厳しい」態度に出ているのは、「新羅」が「唐服」を着用して追い返された「六五一年」の出来事と性格を等しくするものです。
これを「天武」の死去時のことと考えると、「天武」の時代に入ってからの「遣新羅使」や「新羅使」などの往来が頻繁になり、それにつれ「新羅」との関係が急速に良好となり「友好的」なものとなっていった「時代」の「雰囲気」と合致しないと思われます。
さらに、この「詔」の中では「治天下」という表現が使用されています。
「難波宮治天下天皇」「近江宮治天下天皇」というように「天皇の統治」を示すものとして「治天下」という「用語」が使用されているわけです。
「治天下」は「天皇の統治」を表す用語ですが、「書紀」を子細に眺めると「古い時代」にしか現れません。「神代」にあり、その後「雄略」「顯宗」「敏達」と現れ、(この「持統紀」を除けば)最後は「孝徳紀」です。ただし、「孝徳紀」の場合は「詔」の中ではなく、「地の文」に現れます。
それに対し「続日本紀」などの後代には替わって「御宇」が使用されます。「書紀」の中にも明らかに「八世紀」時点における「注」と考えられる表記以外には「舒明前紀」「仁徳前紀」「仲哀紀」で「御宇」の使用例がありますが、最後は(「治天下」同様)「孝徳紀」です。(ただし「詔」の中に現れるものです)
この「孝徳紀」の「詔」については「八世紀」時点において多大な「潤色」と「改定」が為されたものとする見解が多数であり、このことからこの「孝徳」時点で「御宇」という「用語法」が行われていたとは考えにくく、「治天下」という「地の文」の用語法が正しく時代を反映していると考えられます。
また、「飛鳥浄御原律令」は「大宝令」が「准正」としたと「続日本紀」にも書かれているように「大宝令」とほぼ同内容と考えられ、「大宝令」以降に「御宇」の例が見られることは即ち「飛鳥浄御原律令」時点で「御宇」という使用法が発生したと考えられますが、そう考えると、「持統」の「詔」に「治天下」という表現が使用されているのは「不審」と考えられることとなります。
これらの事はこの「六八九年」の「新羅弔使」である「金道那」記事の真偽について「疑い」を生じさせるものであり、この記事については年次が移動されている可能性を感じさせます。これは「正木氏」のいわゆる「三十四年のズレ」の対象記事であるという可能性があるのではないでしょうか。(「日本書紀の白村江以降に見られる『三十四年遡上り現象』について」古田史学会報七十七号及びそれに続く関連の論文をご参照願います。)
つまり、この記事は「三十四年移動」の対象として考えられている本来「孝徳」の「葬儀記事」であったものに続く「一連」のものではないかと考えられます。(ただし「正木氏」はこの記事については「移動対象」とは考えておられないようですが)
「書紀」によれば「天武天皇」は「朱鳥元年」(六八六年)九月に亡くなっています。そして、明けてすぐの「持統元年(六八七年)正月」に盛大な「誄礼」の儀が行われています。さらに、一年後の「持統二年」(六八八年)正月には「殯宮参り」が行われており、これは「一周忌」の儀式であったものと考えられるものです。
このように「通常」の理解の範囲内の「葬儀関連」記事の他に「六八九年」の「葬儀」的儀式の記事があるのであり、この記事の存在は「不審」であると理解された「正木氏」により「三十四年遡上」という「書紀」に対する研究が発生したわけです。
この「不審」はこの「新羅」からの「弔使」についても言えるのではないでしょうか。
記事の流れから見ても「三十四年遡上」と考えられる「葬儀記事」と、この「新羅」からの「弔使派遣」とそれに対する「詔」という記事は一連のものであり、「葬儀記事」と同様、本来「孝徳紀」段階の記事であったものが移動させられているのではないかと推測されます。
「田中法麻呂」は「六八七年」に「新羅」へ派遣されたとされていますが、「田中法麻呂」が派遣されたのは実は「天武」ではなく「孝徳」の時代の「倭国王」の「崩御」を知らせるものだったのではないかと思料されるわけです。(「三十四年遡上」と考えると、「孝徳死去」の前に「田中法麻呂」は派遣されていることとなります。つまり「孝徳」の死去年月とは齟齬していますから、これは「孝徳」に対するものではないと判断できるでしょう。(注一))
「天武」の崩御を知らせる役目であったと考えられる「田中法麻呂」が、「孝徳」ではなく、その時点の「倭国王」の崩御を知らせるものであったと考えられるとすれば、必然的に「巨勢稻持等」がその「喪之日」を「新羅」に知らせた「昔在難波宮治天下天皇」はそれ以前の「倭国王」のこととなるでしょう。
ところで、「書紀」によれば「六四六年」に「遣新羅使」(「高向玄理」が代表か)が送られており、それに応え翌「六四七年」(常色改元の年です)「金春秋」が「来倭」しているとされますが、この時の「金春秋」の肩書きは「大阿餐」であったとされます。他方「三国史記」によれば「六五〇年」の段階で「伊餐」であったようです。(以下の記事)
「(善徳王)十一年(六五〇年) 春正月 遣使大唐獻方物 秋七月 百濟王義慈大擧兵 攻取國西四十餘城 八月 又與高句麗謀 欲取党項城 以絶歸唐之路 王遣使 告急於太宗 是月 百濟將軍允忠 領兵攻拔大耶城 都督伊品釋 舍知竹竹・龍石等死之 冬 王將伐百濟 以報大耶之役 乃遣『伊餐』金春秋於高句麗」
これらに従えば三年ほどで「大阿餐」から「伊餐」まで昇格したこととなりますが、どこかの時点で特進したという可能性もありますが、普通に考えれば毎年一ランクずつ昇格したこととなり、これは少々考えにくいものです。彼の死去時の年齢や出自から考えても「大阿餐」となったのはもっと以前の話ではなかったかと考えられ、「書紀」の記述には疑問を感じます。つまり「高向玄理」等が「遣新羅使」として送られた段階で既に「伊[冫食]」ないしはその直下の位階を得ていたのではないかと考えられるものであり、そうであれば、「昔在難波宮治天下天皇」の「喪之日」を「金春秋」が「奉勅」したというのは(少なくとも)「六四七年」付近以降「六五三年」までの間が最も考えられるものですが、こう考えると「昔在難波宮治天下天皇」とは「利歌彌多仏利」を指すものではないかと推定されることとなるでしょう。
[冫食]は、二水編に食。JIS第四水準ユニコード98E1
「孝徳」の時代の「倭国王」以前の歴代の「倭国王」の中で、「難波」に関係している「直近」の人物というと、該当するのは年次的にも「利歌彌多仏利」になると考えられます。
「二中歴」には「倭京」の項目のところに「難波天王寺聖徳造」とあり、この「聖徳」とは「利歌彌多仏利」を指すと考えられますから、彼は「難波」に関係した人物であったようです。(拙論『「国県制」と「六十六国分国」 -- 「常陸風土記」に現れた「行政制度」の変遷との関連において」古田史学会報一〇八号及び一〇九号』でも「難波長柄豐前大宮臨軒天皇之世」というのは「阿毎多利思北孤」と「利歌彌多仏利」の朝廷を指すという指摘をさせていただきました)
「利歌彌多仏利」は「隋書イ妥国伝」によれば「阿毎多利思北孤」の「太子」であったとされていますから、「六二二年」とされる「阿毎多利思北孤」の死去以降「倭国王」であったと見るのは当然でもあり、「九州年号」では「六四七年」に「常色」に改元されていることから考えて、この年かその前年の「六四六年」に死去したものかと推察されます。
この「詔」が「三十四年」前に出されたものと考えると、「喪使」が派遣された年次としても「翳餐(伊餐)」という「金春秋」の「位階」や「治天下」という表現などもその時代に合った大変似つかわしいものになると考えられます。
ただし、このように想定した場合、当然「詔」の中の「近江宮治天下天皇」に関わる「一節」全体は「八世紀」の「書紀」編集段階での「潤色」・「付加」であると考えざるを得ません。
「昔在難波宮治天下天皇」の「崩」を知らせた「巨勢稻持」は「書紀」に名前が出て来ませんし(似た名前はありますが)、「田中法麻呂」は上で見たように「三十四年遡上」の対象記事のように見えるわけですが、「近江宮治天下天皇」についてはその「弔使」の名前が「天智紀」の記載と見事に「合致」しています。
他の部分がやや「齟齬」があることと、この部分だけが「整合」していることが全体としてアンバランスなものになっており、この事はこの部分が「潤色」であることを示唆するものです。つまり、この部分は元々の「詔」には無かったのではないかと推量され、「持統紀」に記事を移動した際に、「持統紀」に出された「詔」であることを「補強」するために行われた「偽装」と考えられるものです。
以上により、この記事「土師根麻呂」の「奉宣」記事は「三十四年」遡上して「六五五年」に移動して考える方が合理的であると推測され、この「弔使」は「孝徳」の時代の「倭国王」の「葬儀」に関する「弔使」であると考えられます。そう考えると、この当時「難波」は「副都」であり、「首都」つまり「朝廷」は「筑紫」にあったと見られますから(難波副都説については「古賀達也氏」「前期難波宮は九州王朝の副都 -- 『古賀事務局長の洛中洛外日記』より転載」古田史学会報八十五号をご参照願います)、この「詔」の「天朝」というものが「筑紫朝廷」を指す用語として「書紀」では使用されている、という「仮定」(仮説)は、ここでも成立する可能性が高いのではないでしょうか。(注二)
結語
前稿と併せ以下のように結論づけることができると思われます。
一.「大伴部の博麻」への「持統天皇」の「詔」に対する「解釈」により、「天朝」が「筑紫」の「朝廷」を指すと考えられること。
二.「書紀」内の他の「天朝」使用例においても、それが「諸国」の立場から見た「筑紫朝廷」を指すと考えられること。
三.「持統紀」の「天朝」の例については、記事の年次が移動されているらしいことが推測されることからやはり「筑紫朝廷」を指すと考えられること。
以上「天朝」と「本朝」について考察しました。
(補論)
このように「天朝」という語について推量したわけですが、また、別のこととしてこの語は「万葉集」に出てくる「遠乃朝庭」という呼称と関係があるのではないかと考えられます。
「遠乃朝庭」も「離れた場所」にある「自分達が属していない(いなかった)」「倭国(筑紫)朝庭」を指す言葉であり、意味内容は一致していると考えられます。
「天」という語は「遠」に通じているものと考えられ、「遠乃朝庭」の「漢語的表現」が「天朝」なのではないかと推察するものです。
(注)
一.この『「孝徳」の時代の倭国王』については、「新唐書」に出てくる「王代紀」に「永徽初」(六五〇年から二〜三年の範囲と思われます)に「白雉改元」と「即位」が同時であるように書かれ、その直後に「未幾死」とされた「孝徳」とされる人物が該当すると思われ、これは「書紀」に言う「孝徳」とは異なると思われますが、詳細は別稿とします。
二.なお、「持統」の詔の中には単に「朝」という表現も出てきます。これについても「天朝」という表現が本来ふさわしいものと考えられますが、この部分の構文が「朕嘉厥尊朝愛國賣己顯忠」というリズムを持った文体であるため、「修辞法」として「天朝」ではなく「朝」を使用したものと推測します。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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