2014年 2月10日

古田史学会報

120号

1、賀詞交換会
 古田武彦講演要旨
  文責・古賀達也

2、九州年号
 「大長」の考察
  古賀達也

3,「末盧国・奴国・
邪馬壹国」と「倭奴国」
  正木 裕

4、「天朝」と「本朝」
「大伴部博麻」を顕彰する 「持統天皇」の「詔」からの解析

5,「ウィキペディア」の史料批判

  古賀達也

6、「水鳥のすだく水沼」の真相
  正木裕

7、年頭のご挨拶
  水野孝夫

 

古田史学会報一覧

前期難波宮の論理 古賀達也(古田史学会報122号)
文字史料による「評」論 -- 「評制」の施行時期について 古賀達也(会報119号)

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 「ウィキペディア」の史料批判 

京都市 古賀達也

 二〇一一年七月、松山で講演してきました(古田史学の会・四国主催)。その冒頭で「ウィキペディア」の史料批判というテーマを少しお話ししたのですが、そこでの眼目は歴史研究における「史料批判」とは何かという問題でした。古田先生も『東京古田会NEWS』 No.一三八(二〇一一年五月)掲載の「学問論 第二六回」で『「史料批判」の史料批判』というテーマで、ウィキペディアの「九州王朝説」について取り上げられていますが、そもそも史料批判とは何かということについて、古田史学以外の古代史ファンには意外と理解されていないようです。
 松山の講演会では、犯罪捜査を例にして史料批判の説明をしたのですが、歴史研究も犯罪捜査も過去に起きた事件について、証拠や証言に基づいて真実を明らかにするという点に於いて共通する性格を持った仕事(学問研究)だからです。
 たとえば、ある家(日本列島)に大和さん(大和朝廷)が住んでいますが、九州さん(九州王朝)がその家の主は元々は私で、大和さんに家を乗っ取られたと警察に訴えたとしましょう。当然、警察は大和さんに事情聴取するでしょう。当然のことです。そこで大和さんは大昔からこの家の主人はわたしで、九州さんなんて見たことも聞いたこともないと証言(『古事記』『日本書紀』)します。
 次に警察はご近所に聞いて廻るでしょう。これも当然の捜査手法です。隣に住んでいる隋さんや唐さんに聞いたところ、この家のもともとの主人は九州さんで、大和さんは小部屋を間借りしていたが、いつのまにか九州さんを追い出していたと唐さんは証言(『旧唐書』倭国伝・日本国伝)し、隋さんはここに住んでいた人の名前はタリシホコさんで、お互い手紙のやりとりもしていたと証言(『隋書』?国伝)しました。大和さんの証言では、大和家にはタリシホコなどという名前の人物はいません。
 さて、皆さんならこの事件について誰の証言を重視しますか。信用しますか。当然、利害関係の無い第三者である隣人の目撃証言や手紙を重要証拠として採用するでしょう。まかり間違っても、訴えられている被疑者の大和さんの証言(『古事記』『日本書紀』)を無批判に信用されることはなく、まずは正しいかどうか疑ってかかられると思います。この「誰の証言・証拠が信用できるのか、より真実を証言しているのか」を判断することが、歴史研究における史料批判なのです。ここを間違えると、犯人を取り逃がしたり冤罪事件が発生しますから、警察や裁判所は慎重に科学的学問的に捜査・審議するのです。
 この事件で言えば、大和朝廷一元史観の日本古代史学界は、大和さんの証言のみを無批判に採用し、隣家の目撃証言や証拠を不採用にしているわけですが、より客観的で利害関係のない隣国史料を重視するという古田先生の史料批判の方が優れており、学問的であることは決定的なのです。
 さて、ウィキペディアの「九州王朝説」の説明には次のようなことが記されています。

 「古田武彦やその支持者が史料批判など歴史学の基礎手続きを尊重していない。日本古代史学界の研究成果に合わない。」

 わたしはこの一文を読んで思わず吹き出してしまいました。既に説明しましたように、古田史学・多元史観は、大和朝廷が自らの為に自らが造った『古事記』『日本書紀』を史料批判抜きで採用して造られた大和朝廷一元史観に対して、史料批判ができていないと批判しているのであり、従ってそれら日本古代史学界の結論(研究成果)とと合わないのは当たり前のことなのです。
 ウィキペディアの解説は巧みに「中立」を装いながら、「自分達の説と異なるから間違っている」と言っているのと同じで、こうした反論や批判は非学問的です。もし古田説が通説の研究成果と異なるというのであれば、どちらが正しい史料批判を行っているのかを解説するべきでしょう。あるいは史料批判の方法論について両論併記するべきです。
 恐らく、ウィキペディアの「九州王朝説」の編集者達には学問の方法や史料批判という言葉の意味が理解できていないようです。ウィキペディア編集の匿名性・密室性・多数決性(賛成者と反対者の編集合戦)がこのような無責任編集を結果として許しているのですが、これは利用する側の「見る目」の問題でもある と思います。学問は多数決ではないのですから。
 たとえば、コペルニクスやガリレオの時代にウィキペディアのような「事典」があったとしたら、次のような表現になるのではないでしょうか。

 「コペルニクスやガリレオの地動説は、天体観測という基礎手続きを尊重していない。ローマ法王庁公認の天文学界の研究成果である天動説と合わない。」

 これと同じくらい、ウィキペディアの「九州王朝説」の解説はいかがわしいものなのです。
 他にもいかがわしい表現があります。「九州王朝の歴史を記した一次史料が存在しない。」「この直接的記録がないことが、九州王朝否定論の根拠の一つ」という部分です。これを読むと、いかにも九州王朝の存在を示す証拠は無いかのように受け取られるのですが、これも事実無根の虚偽情報です。
 わたしはこれまでに九州年号の存在を示す金石文や木簡を提示し続けてきました。芦屋市三条九ノ坪遺跡出土の「元壬子年」木簡もその一つです。『日本書紀』孝徳紀の白雉三年壬子ではなく、『二中歴』などの多くの九州年号史料に記された白雉元年壬子の方が真実であったことを、この「元壬子年」木簡は示しており、いわば九州年号木簡そのものなのです。しかし、九州王朝説否定派はこの木簡について一切口を閉ざしたままで、ダンマリを決め込んでいます。もちろん、ウィキペデイアの「九州王朝説」の解説でも取り上げられていません。たいへん卑怯な編集・情報操作の一例と言えるでしょう。
 もっとも、ウィキペディアの史料性格上、将来的には違った表記・評価に変化するかもしれませんが、恐らくそれは古田史学が世に受け入れられた時のことと思います。その日が訪れるまで、わたしたち古田学派は一切ぶれることなく、「日本古代史」村の一元史観と戦い続けなければなりません。こうした名誉ある運命と歴史的使命を持っているのです。
 さて前段で、ウィキペディアの「九州王朝説」の解説に見える「いかがわしい表現」として「九州王朝の歴史を記した一次史料が存在しない。」を指摘しましたが、もう少し具体的に批判したいと思います。
 ここでいわれている「一次史料」の定義が問題なのですが、その後の文章に「記紀や支那や韓国の歴史書等に散見される間接的な記事」などに九州王朝説の論拠が止まっているとしたり、「この直接的記録が無いことが、九州王朝否定論の論拠の一つ」という記述が見られることから、彼らのいう「一次史料」とは九州王朝自身による自らの歴史書の類であるようです。 ここでいわれている「一次史料」の定義が問題なのですが、その後の文章に「記紀や支那や韓国の歴史書等に散見される間接的な記事」などに九州王朝説の論拠が止まっているとしたり、「この直接的記録が無いことが、九州王朝否定論の論拠の一つ」という記述が見られることから、彼らのいう「一次史料」とは九州王朝自身による自らの歴史書の類であるようです。
 この主張は一見もっともらしく見えますが、学問的にはまったくダメです。およそ理系や世界の歴史学の分野では通用しない主張で、いわば「死人に口無し」論法ともいうべき詭弁なのです。たとえば世界の古代史では自らが編纂した歴史書や文字史料がない文明や王朝の遺跡や痕跡はいくらでもあり、それらは学問的にきちんと「文明」「王朝」の実在を認められています。世界の歴史学はそのレベルに達しているのです。
 大和朝廷に滅ぼされた九州王朝の歴史書が残っていないから九州王朝は存在しなかったというのは、まさに「死人に口無し」を利用した非学問的な暴論に過ぎま せん。しかし、こうした彼ら(大和朝廷一元史観に立つ「日本古代史」村)の主張も実は虚偽情報(ウソ)なのです。というのも、九州王朝の歴史や実在を記録した一次史料として、隣国の中国正史に「倭人伝」「倭国伝」として九州王朝のことを延々と記録してくれているからです。その中には大和朝廷の記紀よりも成立が古く、同時代史書もあるのです。
 例えば『後漢書』倭伝には倭奴国に金印を授与したと記していますが、その金印は大和ではなく北部九州の志賀島から出土しています。『宋書』倭国伝には宋と交流した歴代倭王の名前を記しており、いずれも大和朝廷には存在しない名称です。『隋書』イ妥国伝には同国が『後漢書』にある倭国から連綿と続いた王朝であり、その王の名前はタリシホコであり、その地には阿蘇山があると記しています。これらは全て記紀よりも成立が古く、こと日本列島に関する記録としては客観的で、信頼性が高いのです。
 更に『旧唐書』では倭国伝と日本国伝を併記しており、倭国は古の倭奴国であり、他方、日本国は倭国の別種でもと小国だったが倭国の地を併せたと、日本列島内での王朝の交代までも記録しているのです。これらの記録こそ九州王朝の歴史を記した一次史料なのです。これらを「間接的な記事」と称して無視したり、 「この直接的記録が無いことが、九州王朝否定論の論拠の一つ」と言うに及んでは、開いた口が塞がりません。
 これらを犯罪捜査の例でいうならば、殺された九州さん自身の直接証拠はないから、容疑者の大和さんの証言(『古事記』『日本書紀』)のみを採用し、事件はなかったことにするというものです。しかも隣人の目撃証言(歴代中国史書)や隣家の防犯カメラの画像記録(同時代一次史料)をすべて無視ないし軽視するという、とんでもない捜査方法なのです。
 福島原発事故以来、わが国では「原子力村」による「安全神話」がウソであったことが白日の下にさらけ出され批判されていますが、「日本古代史」村の「大和朝廷一元神話」も、いつの日かその虚構が国民周知のものとなり、批判を浴びる日が来ることでしょう。

※編集部注・本稿は二〇一二年一一月に執筆されたものですが、機会の訪れないまま本号の掲載となってしまいました。従って、今現在のウィキペデイアの記述内容とは異なる部分もあるかもしれませんが、古賀氏の論旨に影響を与えるものではないと判断し、若干の(「昨年」を「二〇一一年」とするなど)訂正を加えて掲載します。 (西村)


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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