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万葉歌「水鳥のすだく水沼」の真相
川西市 正木裕
『書紀』雄略十年に「鵝鳥が犬に噛まれた」という”変な記事”がある。
『書紀』雄略十年(四六六)秋九月乙酉朔戊子(四日)に、身狹村主青等、呉の献れる二つの鵝(が)を将(も)て、筑紫に至る。是の鵝、水間君の犬の為に囓(く)はれて死ぬ。〈別本に云はく、是の鵝、筑紫の嶺の縣主、泥麻呂の犬の為に囓はれて死ぬといふ。〉是に由りて、水間の君、恐怖(おそ)り憂(う)愁(れ)へて、自ら默(もだ)あること能(あた)はずして、鴻(かり)十隻と養鳥人とを献りて、罪を贖(あか)ふことを請す。天皇、許したまふ。
「鵝」とは「水鳥の名。がんを飼いならしたもの。飛ぶことが出来ないガチョウ(『漢字語源辞典』学燈社)」のことだ。
いったい、“鳥が犬に食べられた”位の出来事が『書紀』に大書されるべきことなのだろうか。
実は、この記事には、『書紀』編者の深い意図が隠されているのだ。
万葉四二六一番歌に「水鳥のすだく水沼」を都としたという歌がある。
万葉四二六一番(壬申の年の乱平定以後の歌二首)
大王(おほきみ)は 神にしませば 水鳥の すだく水沼(みぬま)を 皇都(みやこ)となしつ(作者未詳)
右の件二首、天平勝寶四年(七五二)二月二日に聞き、即ち茲(ここ)に載す。
「壬申の年の乱平定以後の歌」とあるから、その皇都・宮とは飛鳥京・飛鳥浄御原宮と考えられるが、奈良平野と水鳥はそぐわないうえ、数次にわたり造営された飛鳥諸宮遺跡の「最上部」に位置する浄御原宮が、「水鳥の すだく(多く集る)水沼」の地を造成しできたなどとは到底考えられない。
一方、九州筑後には「水沼」があった。筑後川下流の「湿地帯」で、水鳥の飛来地として有名な「三潴」だ(中世文書では「三潴」を「みぬま」と読んでいる例もある)。『書紀』神代上に「筑紫の水沼君」、景行紀の「八女県」でのエピソードに「水沼県主」、雄略紀に「筑紫の水間君」が見える等から、「水沼・水間」とは筑後三潴をさすことは疑えない。古田氏も「『水鳥のすだく水沼』の『水沼』というのはこの日本列島の中で九州の一角に久留米にしかありません」とされている。(『日本の歴史の真相』古田武彦講演会二〇〇〇年十二月)
そして、三潴には、倭王(九州王朝の天子)と考えられる高良玉垂命を祭る大善寺玉垂宮があり、その由緒に「玉垂命は仁徳五七年(三六九)に三潴大善寺に御宮を造営し(*遷宮)筑紫を治めた」とあるから、四世紀末頃からの九州王朝の「皇都」は三潴であり、万葉歌はこれを歌っていたことになる。
一方、『書紀』の雄略十年前後には高句麗・新羅との戦が記されており、海外史書や広開土王碑文から、実年代は五世紀の“三潴皇都”時代にあたると考えられる。従って、『書紀』記事の「水間君」とは、皇都三潴で統治していた“九州王朝の天子”そのものを意味することになる。
そう考えれば、『書紀』の“仕掛け”が判明する。つまり、これは別本が正しく、九州王朝の天子に献上された鵝鳥を嶺の縣主の犬が殺し、その罪を贖うため、鴻や養鳥人を献上したということになる。
『書紀』編者は嶺の縣主と三潴の君を入れ替え、近畿天皇家の天皇に献上する鵝鳥だったかのように見せ、「九州王朝の天子は、”水間の君”と呼ばれていた雄略天皇時代から、近畿天皇家に”罪を贖う”ような臣下であった」という虚構の世界を作り上げたのだ。
三潴皇都時代、そこには「養鳥人」がおり、水鳥の捕獲・飼育に携わっていた。また、筑後川の鵜飼に用いる鵜の飼育もその任務の一つだったろう。
「水鳥の すだく水沼」には、単に「水鳥の多く集る場所」という以上の深い意味があったのだ。
(参考)古賀達也「九州王朝の筑後遷宮 -- 高良玉垂命考」(『新・古代学』第四集所収。一九九九年、新泉社)ほか
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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