年頭のご挨拶と編集後記
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年頭のご挨拶
代表 水野孝夫
会員の皆様、明けましておめでとうございます。日頃は会運営にご協力いただきありがとうございます。
皆様は今年も新しい研究を進められて、その結果を会誌や会報にご投稿くださるようお願いいたします。
古田先生もお元気で、年末にはわたし経由で文献を数冊購入されたり、一月十一日の当会・新年賀詞交換会の準備・実施をしていただきましたが、『よみがえる九州王朝』ミネルヴァ版関係の校正などもあり、なかなかお休みになれないとかで心配もしております。この本で取り上げられた「筑紫舞」関係の先生講演などが九州で行われることは会報本号などでご紹介のとおりです。
昨年は年末になって、やっと会誌「古代に真実を求めて・第十六集」をお届けできましたが、例年より大幅に発刊遅延となりました。言い訳は十六集の編集後記に書きましたが、わたしの個人的事情が大部分で明石書店側の担当者が死去されたことも重なりました。お詫びいたします。
昨年十二月には当会のハイキンググループは高槻市・今城塚古代歴史館へ行きましたが、わたしはそこで十二月二十二日の高槻市制施行七十周年・中核市移行十周年記念歴史シンポジウム「中臣(藤原)鎌足と阿武山古墳」が行われることを知りました。昭和九年に京大の地震観測所設置のための調査時に古墳が発見され、乾漆棺に収められた遺骸は「金糸を纏う貴人」で、当時から「中臣鎌足か」とされながら古墳は埋め戻されたが、遺骸のレントゲン写真はこの歴史館に展示されています。このシンポの資料集(¥五〇〇)は大下隆司さんが入手してわたしに送ってくださったが、左記賀詞交換会のとき古田先生が興味をもたれたのでお譲りした経緯があります。
このシンポの内容紹介は朝日新聞関西版の一月八日夕刊に紹介があり、このシンポの講師のおひとりが帝塚山大学の教授になられるとかで帝塚山大学でもシンポがあったりしましたが、おもしろいことがあります。それは、この阿武山古墳の被葬者を中臣鎌足とすることに、多くの研究者たちが賛成の模様であることです。わたしも実は鎌足説に賛成です。鎌足以下の藤原氏(南家)については日本書紀、続日本紀のほか『藤氏家伝』に記載がありますが、『藤氏家伝』について、周知なのは鎌足、貞慧、武智麻呂伝はあるのに「不比等伝はない」のです。上巻末尾に「史(ふひと)伝は別にある」と記載されているが、発見したひとはいない。それから『藤氏家伝』の写本のうち、伏見宮家本には鎌足について「火葬於山階之舎」とあります。群書類聚本では「葬於山階之精舎」となっています。遺骸のレントゲン写真では骨が連続して写っており、絶対に「火葬」とは見えません。
もし「火葬」とした記事を信じるなら、この遺骸は「鎌足ではない」。ところがこのように論じた方を知りません。今城塚古代歴史館名誉館長でシンポの司会をされた水野正好氏は群書類聚本を引用されていますが、この本の方が伏見宮家本よりも正しいという論証はありません。一九九九年刊行の矢嶋氏等の本○1以来、伏見宮家本の本を正しいとするのが、学界の通説のようです。わたしは○1を図書館で借りていたが、遂にこの本を購入しました。つぎのように考えています。「書紀や藤氏家伝で蘇我入鹿を殺すクーデターに軍師役で活躍する中臣鎌足とは実は藤原不比等である」。このクーデターは以前は「大化改新」といわれていました。戦後は「乙巳の変」と呼ばれますが、この年代は書紀では六四五年に造作。九州年号なら六九五年です。このクーデターは六九五年におこったと考えます。すると活躍可能なのは「藤原不比等」、鎌足は過去の人です。だいたい、列島最初の火葬で有名なのは藤原不比等です。鎌足の墓、不比等の墓はどこでしょうか。奈良県多武峰・談山神社。神社側はここに鎌足が祀られるとしますが、不比等説も過去に繰り返されています。この関係の話をわたしは関西例会では話していますが、会報への掲載ははじめてです。
昨年十二月に、わたしは東大寺執事長・平岡昇修氏の講演「江戸時代の大仏殿再興物語」を聴き、芭蕉が二月堂の「お水取り」を読んだ句、「水取りや 氷の僧の 沓の音」(野ざらし紀行)というのを知りました。これが句碑では「水取りや 籠りの僧の 沓の音」となっていると知り、初詣のときに確認しました。未確認ですが「籠りの」とした方が理解できるという論者が多いそうです。例えば司馬遼太郎氏。これを関西例会で紹介したら西村秀己氏と古賀達也から「氷の」の方が良いという説がでました。その理由は、西村氏「五七五の各語句の先頭の字は水に関係する字からなるから」、古賀氏「氷と籠りのどちらが原形かと考えるに、籠り→氷という変更は考えにくいから」。どちらも面白く優れた考えと思いますが、そうすると、さきの遺骸についても「葬→火葬の変更は考えにくいから火葬が原形」という論理はなりたつのではないか。
編集後記
本号は紙面の割付にかなり苦労しました。
最後に空いた一頁半。お預かりしている原稿はどれも、帯に長くて襷にも長いものばかり。水野代表に「年頭のご挨拶」の増量をお願いし、それでも四分の三頁の不足。二〜三頁のつもりで暖めていた論考を急遽半分に縮小した拙稿は、古賀編集長曰く「短すぎて、何のこっちゃ分らん」と敢え無く撃沈。そこで、「困った時の」何とやら、正木さんにお願いしたところ、たった一日で注文通りの分量の好論を仕上げて戴きました。
水野さん・正木さん有難うございました。一頁前後のストックが数点あると、割付担当としては、もっと助かるのですが・・・
(西村)
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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