前期難波宮の論理 古賀達也(古田史学会報122号)
文字史料による「評」論 -- 「評制」の施行時期について 古賀達也(会報119号)
「ウィキペディア」の史料批判 古賀達也(会報120号)
難波と近江の出土土器の考察
京都市 古賀達也
豊崎神社境内出土の土器
『日本書紀』孝徳紀に見える孝徳天皇の宮殿、難波長柄豊碕宮の位置について、わたしは大阪市北区豊崎にある豊崎神社近辺ではないかと推測しているのですが、前期難波宮(九州王朝副都)とは異なり、七世紀中頃の宮殿遺跡の出土がありません。地名だけからの推測ではアイデア(思いつき)にとどまり学問的仮説にはなりませんから、考古学的調査結果を探していたのですが、大阪市文化財協会が発行している『葦火』(あしび)二六号(一九九〇年六月)に「豊崎神社境内出土の土器」(伊藤純)という報告が掲載されていました。
それによると、一九八三年五月、豊崎神社で境内に旗竿を立てるために穴を掘ったら土器が出土したとの連絡が宮司さんよりあり、発掘調査を行ったところ、地表(標高二・五メートル前後)から一メートルぐらいの地層から土器が出土したそうです。土器は古墳時代前期頃の特徴を示しているとされており、中には船のようなものが描かれているものもあります。
大阪市内のほぼ南北を貫く上町台地の西側にそって北へ延びる標高二〜四メートルの長柄砂州の上に豊崎神社は位置していますが、こうした土器の出土から遅くとも古墳時代には当地は低湿地ではなく、人々が生活していたことがわかります。報告によれば、この砂州に立地する遺跡は、南方約三キロメートルに中央区平野町三丁目地点、北方約二キロメートルに崇禅寺遺跡があるとのことで、豊崎神社周辺にもこの時期の遺構があることが推定されています。
今後の調査により、七世紀の宮殿跡が見つかることを期待したいと思います。
難波宮出土の百済土器
先日、久しぶりに大阪歴史博物館を訪れ、最新の報告書に目を通してきました。前期難波宮整地層から筑紫の須恵器が出土していたことを報告された寺井誠さんが、当日の相談員としておられましたので、最新論文を紹介していただきました。
その報告書は『共同研究報告書7』(大阪歴史博物館、二〇一三年)掲載の「難波における百済・新羅土器の搬入とその史的背景」(寺井誠)です。難波(上町台地)から朝鮮半島(新羅・百済)の土器が出土することはよく知られていますが、その出土事実に基づいて、その史的背景を考察された論文です。もちろん、近畿天皇家一元史観に基づかれたものですが、その中に大変興味深い記事がありました。
「以上、難波およびその周辺における6世紀後半から7世紀にかけての時期に搬入された百済土器、新羅土器について整理した。出土数については、他地域を圧倒していて、特に日本列島において搬入数がきわめて少ない百済土器が難波に集中しているのは目を引く。これらは大体7世紀第1?2四半期に搬入されたものであり、新羅土器の多くもこの時期幅で収まると考える。」(十八頁)
百済や新羅土器の出土数が他地域を圧倒しているという考古学的事実が記されており、特に百済土器の出土が難波に集中しているというのです。この考古学的事実が正しければ、多元史観・九州王朝説にとっても近畿天皇家一元史観にとっても避け難く発生する問題があります。
古代における倭国と百済の緊密な関係を考えると、その搬入品の土器は権力中枢地か地理的に近い北部九州から集中して出土するはずですが、近畿天皇家の「都」があった飛鳥でもなく、九州王朝の首都太宰府や博多湾岸でもなく、難波に最も集中して出土しているという事実は重要です。この考古学的事実をより無理なく説明できる仮説が前期難波宮九州王朝副都説であることは容易にご理解いただけるのではないでしょうか。
『日本書紀』孝徳紀白雉元年条に記された白雉改元の舞台に百済王子が現れているという史料事実からも、その舞台が前期難波宮であれば、その難波から百済土器が最も集中出土することと整合します。従って文献的にも考古学的にも、九州年号「白雉」改元の宮殿を前期難波宮とすることが支持されます。すなわち、九州王朝副都説の考古学的痕跡として百済土器を位置づけることが可能となるのです。百済土器の発掘調査報告書については、引き続き探索したいと思います。
近江遷都の年代と土器編年
本年六月の古田史学の会・全国世話人会のおり、小林副代表から、白石太一郎さんの論文「前期難波宮整地層の土器の暦年代をめぐって」『大阪府立近つ飛鳥博物館 館報十六』(二〇一二年十二月)のコピーをいただきました。白石さんは前期難波宮の造営年代を孝徳期よりも新しいとする考古学者の一人ですので、その根拠を知りたいと思っていました。今回、同論文を読んで、白石さんの主張の根拠を知ることができ、有意義でした。
白石さんは「飛鳥編年」という土器編年により、五〜十年の精度で七世紀中頃の編年が可能とする立場ですが、土器の相対編年を『日本書紀』の記事が正しいものとして、その記事の年代を根拠に暦年にリンクさせるという手法を採用されています。この方法の当否は別に論じたいと思いますが、同論文に大変興味深い指摘がありました。
それは近江大津宮の土器編年とのミスマッチの指摘です。『日本書紀』天智紀によれば、近江宮への遷都は天智六年(六六七)とされていますが、近江大津宮(錦織遺跡)内裏南門の下層出土土器の編年が「飛鳥1期」(六四〇〜六五〇頃)であり、遷都年に比べて古すぎるようなのです。白石さんは次のように記されています。
「報告書によれば確かにそれらには杯Hがみられるが、明らかに水落段階よりも古く、南門の柱抜取穴のものは飛鳥2でも古い飛鳥池、谷灰緑粘砂層段階のものであり、さらにその下層の資料に至っては飛鳥1期のものである。」(14頁)
この指摘が正しければ、「飛鳥編年」か『日本書紀』の記事のどちらかが、あるいは両方が間違っていることになります。
そこで改めて紹介したいのが九州年号史料として著名な『海東諸国紀』に見える白鳳元年(六六一)の「近江遷都」記事です。「近江遷都」が『海東諸国紀』では『日本書紀』よりも六年早く記されているのです。すなわち、白石さんの指摘にあった大津宮下層土器編年に対しては、『海東諸国紀』の記事「白鳳元年(六六一)遷都」の方がよりうまく整合するのです。わたしはこの『海東諸国紀』の九州年号記事を根拠に、「九州王朝の近江遷都」という仮説を発表していますが、考古学的土器編年からも支持されることになれば興味深いと考えています。大津宮調査報告書を実見したいと思います。
なお、白石さんは前期難波宮天武朝造営説だと、わたしは思っていたのですが、白石論文には前期難波宮造営時期を「天武朝までは下らないとしても、孝徳朝までは遡らないのである。」とされており、どうやら斉明朝造営説か天智朝造営説に立っておられるようです。
(注)本稿は「古田史学の会」ホームページ掲載の「洛中洛外日記」に本年5月から6月に発表したものを加筆修正したものです。
(補記)『日本書紀』孝徳紀に見える「難波長柄豊碕宮」を、古田先生は博多湾岸に類似地名(名柄川・豊浜など)を見いだされ、その地に豊碕宮(姪の浜の東側に位置する愛宕神社が比定地)があったのではと指摘されています(『なかった』第五号「大化改新批判」)。7世紀中頃の宮殿遺構の有無が決め手になると思われます。
これは会報の公開です。
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