朝鮮通信使(文化八年度)饗応『七五三図』絵巻物 合田洋一(会報107号)
「みょう」地名について -- 「斉明」と「才明」 合田洋一(会報131号)
「高御産巣日神」対馬漂着伝承の一考察
松山市 合田洋一
はじめに
平成二十三年十月三〜四日、私は「天照大神」の古里・対馬に行く機会があった(朝鮮通信使文化八年度饗応「七五三図絵巻物」の対馬での公開・展示に伴う講演のため ーー 『古田史学会報』 No.一〇七号で詳述)。その折、対馬の西南端に位置する下県の豆酘崎(因みに、南端は神崎という)で、我が国草創の神話に登場する「高天原」の神の「高御産巣日神」に関する伝承に遭遇したのである。それも、この地への漂着伝承である。そこには高御魂神社(『延喜式』「神名帖」に名神大社とある)が鎮座している。
そこで、伝承とは言え、これは大きな問題を孕んでいるとの想いから見過ごすことができなかったので、駆け足旅行の取材ではあったがこれに対する考察をここに記すことにした。
なお、その取材の二日目のこと、豆酘崎に向かっている折に、山また山の隘路を通って行くので、お恥ずかしい話、私は凄い車酔いにあって辛い思いをしてしまったのである。正に『三国志』「魏志倭人伝」にいうところの対馬は「禽鹿の径」そのものである、と思ってしまった。何かしら、「魏使」の苦難を思い起こしたようである。
また、対馬に来てびっくりしたことがある。それは、私の住む四国・松山とは、街の装いが全く違うということである。否、日本列島の各地とも違うといっても過言ではないであろう。というのは、島内にはハングル文字が至る所に書かれているからである。正にハングルの氾濫、はてさて何処の国かと見間違ってしまいそうである。特に対馬の中心地・厳原町のあちこちにある案内看板・お店の看板などは日本語の横に決まってハングルが書かれていた。そうだ、ここは、朝鮮半島を間近に見る国境の島であった、ということに気付くのである。日本で外国を見ることができる唯一の土地ということだ。
対馬の北端から、十月・十一月の天気の良い日には、韓国・釜山の街が遠望できるという。それが幸運にも、四日の朝に市の職員が対岸を撮影して来たという写真を頂戴したのである。驚くことに、その釜山の光景はビルが林立していて、ここ対馬の雰囲気とは対照的で、大都会のたたずまいが手に取るようであった。
これを見ると、対馬と朝鮮半島の関係は、切っても切れない隣同士であることが良く解る。古代から両国の交易は盛んであり、人的交流や文化も途切れることなく続き、正に“一衣帯水”の関係にあったのである。
因みに、対馬では平地が少ないため稲作が僅かしかできず、幕藩体制下においても、朝鮮半島から米を輸入していたとのことである。このようなことからも、朝鮮半島抜きにしては、対馬のくらしは成り立たなかったようである。従って、対朝鮮との争乱は死活問題であり、豊臣秀吉による朝鮮侵略の際、対馬の宗氏は秀吉の外交文書を改竄してまでも和平を計ったのは、その証左である。
前置きが大変長くなってしまったが、初めにわが国における対馬の位置関係を述べておきたかったのである。
なお、この取材に当たって、対馬市観光物産推進本部のご厚意により、小島武博氏(対馬市文化財保護審議会委員)によるご案内、阿比留正臣氏(対馬市観光物産推進本部係長)の運転で、二日間に亘り、島内各地を見聞することができました。そして、推進本部副本部長の豊田充氏には過分のおもてなしを賜りました。ここに当紙面をお借りして、衷心より感謝申し上げます。
(一)「高御産巣日神」漂着伝承とは
それでは本題に入って、「高御産巣日神」とは、一体どのような神さまであったのか。
『古事記』「別天つ神五柱」の段に、
「天地初めて発けし時、高天の原に成れる神の名は、天之御中主神。次に高御産巣日神。次に神産巣日神。この三柱の神は、みな独神と成りまして、身を隠したまひき。」(岩波文庫。なお『日本書紀』は「神代上第一段」に同様記事あり)
とあって、この岩波文庫の注に、
「天之御中主神は、高天の原の中心の主宰神。以下の二神は生成力の神格化。独神とは男女対偶の神に対して単独の神の意。」
とある。この高御産巣日神は、高皇産霊尊(『日本書紀』一書)・高皇産霊神(『古語拾遺』)・高御魂命(『出雲国造神賀詞』)または高木神(『古事記』)とも言われていて、宇宙生成力を神格化した神であるとされている(『神々の系図』川口謙二著)。
これらの神は「高天原の神」と言い、以降の神々が、わが国皇室の祖神とされる「天照大神」、そして「神武天皇」に連なるという。所謂これが「皇国史観」の原点となった。
それでは、この「高御産巣日神」に伴う伝承とは、一体どのようなものであったのかを次に示す。それは、『対州神社誌』(貞享三年?一六八六、加納貞清撰)に次のように記されていた。
「高雄むすふの [示申]躰石
昔醴豆崎に浮候うつお船有。獵船差寄る見候得は、内に石有て奇怪に光を以、取歸て祭と云俗説有。不可考。」
[示申]は、JIS第3水準ユニコードFA19
右の文を要約すれば、
「うつお(ほ)船が醴豆崎(豆酘崎)に漂着した。その船には奇怪に光る石があった。その石を高雄むすふの[示申]として祭った」
となろうか。編者は儒者らしく “不可考” ーー 考えるべからず・ありえない話しとして、記述はするが一顧に値しない、という扱いをしている。
このように、一見簡単な記述の伝承ではあるが、前述のようにこれは見過ごすことはできないと思ったのである。そこで、そのことについて論述するのであるが、その前に、対馬の郷土史家・永留久恵氏著『対馬国志』の一部をここで紹介したい。
“神体石”というのは神霊がこもる玉石(霊石)で、“うつお船”というのは「うつほ船」で、俗説では「うつろ船」(空船・虚船)ともいうが、要するに幻の“神の船”である。これを「不可考」としたのは、儒学者である本書の選者が、非合理な神話伝説を「考えられない」と決めつけて、伝承の大筋だけを記録したものである。
対馬には「うつろ船」に載って漂着して来た神の由緒や、怪奇な俗伝と化した説話の類が各地にある例については、拙書『海神と天神』に収録している。
と。詳述はしないが、『海神と天神』によると、この「うつろ船」伝承は対馬各地にあるようであり、また対馬の神々の出現を語る伝説は、
イ、海中(海底)より現れた神
ロ、海の彼方から漂着した神
ハ、天より降臨した神
ニ、神婚によって誕生した神
に大別されるという。
(二)奇怪な始祖神話
さて、“神体石”の漂着説話であるが、このような奇々怪々な始祖説話は世界各国に数多ある。中でもお隣・朝鮮半島では、国の始祖神話として次のような説話が知られている。
新羅国始祖・赫居世(在位前五七〜後四年)の出生説話 ーー 卵から生れた
楽浪郡辺りから移住してきた人たちが住んでいた高墟村の村長蘇伐公が揚山の麓にある林の中で、馬が跪くようにして嘶いていた。そこへ行ってみると、突然馬の姿が見えなくなり、ただ大きな卵だけがあった。その卵を割ると幼児が出てきた。そこで取り上げて育てた。その子が十余歳になると若いのに優秀で、老成していた。人々は彼の出生が神秘的だったので、この年になって君主に擁立した(『三国史記』巻第一「新羅本紀」 ーー 東洋文庫本の要約)。
新羅国四代王・脱解尼師今(在位五七〜八〇)の出生説話 ーー 卵から生れた
脱解はむかし多婆那国(古田武彦氏説は下関近辺の倭人の国)で生れた。その国は倭国(博多湾岸)の東北一千里(一里は七六〜七七メートルの短里)のところにある。むかしその国王が女国の王女を娶って妻とし、妊娠して七年たって、大卵を生んだ。王はいった。人でありながら卵を生むというのは不祥なことです。捨ててしまいなさい。王妃は[捨てるに]忍びず、絹の布で卵を包んで、宝物とともに箱の中に入れ、海にうかべ、[流れに]その行き先をまかせた。最初に金官国(朝鮮半島南端部にあった加羅諸国の一つ、後に任那に含まれる)の海岸に流れ着いたが、金官国の人たちはこれを怪しんで、とりあげようとしなかった。そこでまた[海にうかんで]辰韓(韓国の日本海側)の阿珍浦の海岸に流れ着いた。海岸に住んでいた老婆が箱を引き寄せた。その箱の中に一人の少年がいたので、ひきとって育てた。成人に伴い学問を身につけたところ、二代目の王・南解次次雄に見初められ王女を彼の妻とした。大輔の官職につけ、政治を一任した。そして、三代目の王・儒理尼師今が亡くなった後、四代目の王となった(『三国史記』巻第一「新羅本紀」 ーー 東洋文庫本の要約。カッコ内小字は筆者注)。
高句麗国の始祖・東明聖王(在位前三七〜前一九)の出生説話 ーー 卵から生れた
扶餘国の王・解夫婁が歳をとっても子がなかったので、山川[の神々]を祭って、世継ぎを[授かるよう]祈った。そのとき乗っていた馬が、大石をみると、[その前に]たちどまって涙を流した。 王は不思議に思って、家臣にその石を動かさせてみると、金色で蛙のような形をした子供がいた。王は喜んで、天帝が下さったといい、連れ帰って養育し、金蛙と名付けた。長じて太子となり、王となった。王は河神の娘と巡り会った。この娘は日の光によって妊った(「日光感精神話」)。やがて五升も入るほどの大卵を生んだ。この卵から一人の男の子が殻を破って生れてきた。これが後に高句麗の始祖となる東明王・朱蒙である(『三国史記』巻第一三「高句麗本紀」 ーー 東洋文庫本の要約。カッコ内小字は筆者注)。
駕洛国(加羅・伽耶ともいう。元は弁韓の地。後に倭国側では任那と呼んでいた)の始祖・首露王の出生説話?黄金の卵から生れた
始祖神話は、紫の紐が天から垂れてきて地面についた。紐の端をみると、紅いふろしきがあり、その中に、金色の合子(お盆)が包まれていた。それを開いてみると、中に黄金の卵が六個入っていた。翌日の夜明け方にお盆を開いてみると、六個の卵が化けて男の子になっていた。みるみるうちに大きくなり、一人が首露といい、一五日目に大駕洛国の王に即位した。残り五人もそれぞれの地の王となり、併せて六伽耶国と称した(『三国遺事』「駕洛国記」 ーー 金思[火華]訳・明石書店本の要約。カッコ内小字は筆者注)。
以上長々と引用したのは、始祖神話はことほど左様に怪奇説話が多いので、対馬の高御産巣日神(神体石)の漂着伝承も、“不可考”として、うち捨てるわけにいかないのである。惜しむらくは、編者が儒者でなければ、もっと多くの伝承を見ることができたのではないかと思うのである。もしかして、どこそこからやって来た、ということもあったのかも知れない。
それはともかくとして、先の大戦前の教科書を飾った「神々が“天の磐船”に乗って天上から降りてくる」という荒唐無稽の話とは違って、海上からの”うつほ船“による漂着である。
”人間を神の石に見立てた“と。あり得る話ではなかろうか。織田信長が安土城で、石を己が分身として飾り、それも神と称して、賽銭まで取って、人々に拝ませた、という有名な例もある。近隣諸国にある始祖神話の”卵から生れた“とは違うが、わが国ではご神体が”石“となっている神社は至る所にある。石を神として尊崇するのである。この漂着伝承は、
「人が石におき替えられた。それも神として」。
日本列島は、旧石器時代からの「巨石信仰」、そして「石の文化圏」であればこそ、このような説話が誕生したのであろう。
(三)「高天原寧波説」と「高御産巣日神」
そこで、この「漂着伝承」から連想することは、古田武彦先生が最近述べておられる「高天原」の比定地の一つ「寧波説」(『俾弥呼 ひみか』一〇九頁、古田武彦著、ミネルヴァ日本評伝)についてである。それは、『東日流外三郡誌』(『和田家資料1』二二四ページ)の「荒吐神要源抄」に、
「筑紫にては南藩民航着し、筑紫を掌握せり。(中略)筑紫の日向に猿田王一族と併せて勢をなして全土を掌握せし手段は、日輪を彼の国とし、その国なる高天原寧波より仙霞の霊木を以て造りし舟にて、筑紫高千穂山に降臨せし天孫なりと、自称しける。即ち、日輪の神なる子孫たりと。」
とあったので、私が遭遇した「漂着伝承」が、この「寧波説」に結びつくのではないか、と考えたのである。
寧波は中国浙江省の杭州湾にある。対岸は上海。近くには有名な会稽山があり、古田先生がいう『三国志』「魏志倭人伝」に登場する「会稽東治の東」の世界だ。そこには、
「(女王国は)男子は大小と無く、皆黥面・文身す。(中略)夏后少康の子、会稽に封ぜられ、断髪・文身、以て蛟龍の害を避けしむ。今倭の水人、好んで沈没して魚蛤を捕え、文身し亦以て大魚・水禽を厭う。後稍以て飾りと為す。諸国の文身各異なり、或いは左にし或いは右にし、或いは大に或いは小に、尊卑差有り。其の道里を計るに、当に会稽東治の東に在るべし」(前掲『俾弥呼 ひみか』)。
とあり、会稽と倭国は同じ文化圏であると記されている。
これらのことから、「天族」の古里としての「高天原寧波説」が俄然私の脳裏を激しく叩いたのである。この漂着した「高御産巣日神」は一体何処から来たのであろうか、もしや寧波からではなかろうか、と。そこで、その根拠を以下に示したい。
「漂着伝承」のある対馬の西南端に位置する豆酘には、伝承だけではなく、歴史的事実が存在していたのである。それは稲の原始的品種といわれている「赤米」の生産と神事である。
『日本書紀』顕宗天皇三年四月の条に「対馬下県直の高御産巣日神に対する穀霊神事」のことが記されているが、そのことを裏付けるように、高御魂神社のすぐ近くには「神田」という地名があり、『対州神社誌』にもある通り、そこでは古代から連綿と赤米を作っていて、それを神社の祭りに奉納しているのである。そこは、広い田んぼの中の僅かな一角であったが、私もこの赤米の稲穂を見て、何かしら不思議な古代の息吹を感じたのである。この赤米も、もしや寧波からもたらされたのではないか、と。
そして、寧波が天族の古里であるならば、ここから東(「会稽当治の東」であるが、厳密にはやや北東)に船出すると、真っ直ぐに行き着く先は韓国の済州島、あるいは日本の対馬・壱岐・五島列島・九州北部となろう。
地の利から言えば、戦国時代に倭寇の頭目“王直”が、寧波の沖合にある舟山列島とわが国の五島列島に根拠地を設け、この海域を中心に東シナ海をわが庭のように縦横無尽に暴れ回ったことからもそれは肯ける。
このように寧波と対馬は近いので、人の移動は極めて自然である。それ故、対馬の「漂着伝承」などは何の不思議もないのである。そして、中国大陸からの稲作の伝播(赤米)。また、中国・殷王朝にルーツがある“亀卜”は明治四年まで豆酘(都都智神社、近世雷神社に改名)と佐護(天諸羽神社)で行われていたことなどである(なお、朝鮮半島は骨卜であり、亀卜はないという?『対馬国志』)。 更にまた、『三国志』「魏志倭人伝」で記されていた会稽と倭国の海士・文身(刺青)の習慣なども。
これらは、正に「寧波説」を「是」とすることを雄弁に物語っているのではなかろうか。
古田先生は「高天原」について、次のようにも述べておられる。
「高天原」は「たかあまばる」である。「タ」は太郎のタ・第一の意。「カ」は川のカ、神さまのカである。「アマ」は海士であり、美しく言葉を飾って天族の意。「バル」は聚落の意である。つまり、「神聖な水の出る天族の聚落」の意であり、天族にとっては「聖地」である。
なお、『古事記』のいう「高天原」は、壱岐島(長崎県)の北端に現存する「天の原(あまのはら)海水浴場」の地付近に他ならない(『TOKYO古田会NEWS』 No.一四一)。
また、高天原という概念は各地にあったと考えられる。例えば、対馬海流の両岸や博多湾岸などの天族の活動拠点で、「良質の水が豊富に出る所」である。そして、高御産巣日神(高木神)の漂着伝承については、何処から来たのか不明であるが、その元は「高木神」の字が示す通り、博多湾岸の「吉武高木遺跡」のある「高木」であった可能性もある。その上、この「高木神」は天族特有の名称「天の高木神」ではないので「寧波」からではない、とも考えられる(二十三年十二月二十日、古田先生のご教示による)。
となると、私が考えていた「寧波」とは違ってくる。それは、「漂着伝承」の高御産巣日神は博多湾岸の「高木」からやって来た、となるからである。この「高木説」は、「吉武高木遺跡」の存在が邇邇芸命の墓にも比定されているので(古田説)、その関連からも注目される。
また、名前に「天」がついていないことから、「高御産巣日神」の天族との整合性なども一考を要することになろう。
そこで、この「高木説」を踏まえて、「高木神」を私なりに考察したい。
『古事記』「天若日子」の段に、「この高木神は高御産巣日神の別の名ぞ。」とある。そして、その段の後半、更に続いて「事代主命の服従」や「邇邇芸命 ーー 天孫誕生」の段には、専ら高木神として出現している(『古事記』には高御産巣日神は六回、高木神は七回出現。『日本書紀』には高御産巣日神は二十七回出現するが、高木神は出現しない)。
ところで、「記・紀」に出現する「亦(別)の名」の神々は、元の名前とは似ても似つかぬのが殆どである。この高御産巣日神も、高皇産霊尊・高皇産霊神・高御魂命とも言われているのに、「別の名」は高木神であるからだ。これも全く似ておらず、他の神々と同類かもしれないが、或いはもしかして違う可能性もあるのではなかろうか、と。
それに至る訳は次のようである。
『古事記』の前段は高御産巣日神とあって、後段は高木神となっている。いうまでもなく、高御産巣日神は「高天原三神」の時代であり、それが天照大神の時代まで活躍して、「天若日子」の後半から「邇邇芸命 ーー 天孫誕生」まで高木神であるので、活躍の時代が数代に亘ることになる。そして、『日本書紀』には高木神の名は一切ない。
そのようなことと、古田先生の説から思い至ることは、あくまでも推測ではあるが、『古事記』は「吉武高木」から来た神を「高木神」として、高御産巣日神に結びつけて「同一神」にしてしまったのではなかろうか。つまり、元は別々の神であった、と。
なお、ここで今一つ考えたいことがある。それは、「高天原」の高*、「高御産巣日神」の高*、「高木神」の高*、「高砂族」の高*であるが、これは種族として、「天族」の天の一派か、あるいは別の一派かということである。そうなると、寧波や対馬・壱岐・博多湾岸、あるいは琉球・台湾などの「高*」地名のある地域の研究も、今後の課題となるであろう。
高*は、高の異体字。ユニコード9AD9
いずれにしても、私にとって高御産巣日神は、中国の寧波からやって来たとの想いを捨てきれないことから、まだまだ論証不十分であるが、“対馬見聞”の一端として、ここにひとまず記すことにした。
おわりに
対馬にはこの他に注目すべきことがあった。それは、上県の佐護に「神産巣日神」を祀る神御魂神社があったのである。この神産巣日神は女神と言われ、男神とされている豆酘の高御産巣日神と対をなす神として、対馬では崇められているという。何れにしても、この神産巣日神は「高天原」の三代目の神である。対馬の最南・豆酘の高御産巣日神、最北に近い佐護の神産巣日神、そして真ん中の小船越には「天照大神」を祀る阿麻?留神社がある。何やらこの三神の鎮座の配置が大変興味を惹くが、今のところこれ以上の論証は無理であるので今後の課題としたい。
また、天照大神にまつわる伝承については、『古代は輝いていた I 「風土記」にいた卑弥呼』で、古田先生は詳しく論じておられるので、ここでは割愛する。 なお、対馬には『延喜式』にある式内社が二九座(上県一六座、下県一三座)もある。海幸彦・山幸彦や他の「記・紀神話」に登場する神々を祀る神社が数多あり、それにまつわる伝承もある(永留久恵著『対馬国志』『海神と天神』)。
それにしても、対馬は古田先生の言う「弥生神話」(「縄文神話」は「出雲神話」)の古里なのである。ここが、この弥生神話の原点であったと考えたい。
ところで、対馬には初代の主宰神「天之御中主神」の影が全く見当たらない。二代目・三代目がいて、神話の中核を担う天照大神がいる。そうなると、初代は「高天原」にいた神(事実は人間)、つまり寧波にいた、ということになりはしないか。
そして、二代目高御産巣日神以降、この系統の神々(事実は人間)が対馬や壱岐に根を下ろしていったのである。それにより、古田先生が言われた「各地に高天原が存在」することになるのかも知れない。
また、その間天族(『東日流外三郡誌』は「高砂族」としている)が争乱の回避であろうか、新天地を求めて大挙して、中国浙江省の杭州湾近辺から東シナ海の波濤を越えて、対馬・壱岐・五島列島や九州北岸にやって来たものと考える。あるいは、朝鮮半島にも。
やがて、天照大神(紀元前三〇〇〜二五〇年頃)は対馬・壱岐・隠岐諸島あるいは朝鮮半島に跨り、「出雲王朝」の支配下にあった所謂「海峡国家・天国」を統治していたのである。
その後、「出雲王朝」から「国譲り」を受け(事実は簒奪)、天孫降臨“邇邇芸命”による九州島の制圧や、西日本各地に進出して行ったのである。ここに「筑紫時代」の幕開けとなり、「九州王朝」の成立となった(古田説)。
以上のことから、対馬の「高御産巣日神」の漂着伝承は、「記・紀」において「生成力の神格化」とされた神話の世界から、人間社会に一歩も二歩も踏み出したように思える。それは、古田先生が提起された天族の古里の一つ「高天原寧波説」に正に合致すると考えたからである。
しかしながら、たった一度の対馬見聞ではからずも遭遇した「漂着伝承」からの取り敢えずの小論であることをお断りして、ここに諸兄のご批判に供したい(なお、平成二四年五月二五日〜二八日に古田史学の会・四国の研修旅行で再度対馬を訪問)。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailはここから。古田史学会報一覧へ
Created & Maintaince by" Yukio Yokota"