2016年4月9日

古田史学会報

133号

1,「是川」は「許の川」
 岡下英男

2,「近江朝年号」の実在
 正木 裕

3,筑前にも出雲があった
 中村通敏

4,「要衝の都」前期難波宮
 古賀達也

5,「善光寺」と「天然痘」
 阿部周一

6,令亀の法
 服部静尚

7,追憶・古田武彦先生3
蕉門の離合の迹を辿りつつ
 古賀達也

8,「壹」から始める
 古田史学Ⅳ
 正木裕

 

古田史学会報一覧

「相撲の起源」説話を記載する目的 岡下英男(会報129号)
「多利思北孤」 について 岡下英男(会報139号)


「是川」は「許の川」

京都市 岡下英男

1.はじめに

 万葉集で、柿本人麻呂が宇治川で詠んだとされる歌四首(次項に示す二四二七~二四三〇番歌)のうちの三首に使われている「是川」は、古くは「この川」と訓まれていたが、伏見稲荷大社の神官の子である荷田春満(一六六九-一七三六)が「うじ川」と訓んで以来、現在、殆どの万葉集の注釈書で「宇治川」と訓まれている。そのように訓まれる根拠は左記である。

 中国語で、「是」=「氏」
 (発音は同じで、意味は通用する)
 日本語で、「氏」=「うじ」
  従って、「是」=「うじ」

 万葉集で宇治川を詠んだ歌は十首以上あるが、多くは読み違えのない「氏川」や「氏河」と書かれている。「是川」はこの三首のみに使われている(岩波書店『新日本古典文学大系』本による)。
 『全注』では、人麻呂がこの言葉(是川)を使ったのは、「一方では宇治川という固有名詞を喚起せしめつつ、一方ではその宇治川の河畔にいるという臨場表現の機能を加えるため」と解説されている。
 しかし、この四首の歌を眺めていると引っかかるものがあるので、私なりに考えてみた。

2.四首の歌とその訓み

四首の歌とその訓みを『全注』に従って示す。ただし、「是川」は「宇治川」と書き替えた。

二四二七〓是川瀬ゝ敷波布ゝ妹心乗在鴨
(宇治川の瀬々のしき浪しくしくに妹は心に乗りにけるかも)

二四二八〓千早人宇治度速瀬不相有後我孋
(千早人宇治の渡りの速き瀬に逢わずこそあれ後の我が孋)

二四二九〓早敷哉不相子故徒是川瀬裳襴潤
(はしきやし逢わぬ子故にいたづらに宇治川の瀬に裳裾ぬらしつ)

二四三〇〓是川水阿和逆纏行水事不反思始為
(宇治川の水沫さかまき行く水の事返さずと思い始めたる)


3.引っかかる点

 ①四首のうち、三首は「是川」としながら、二四二八番歌だけ「宇治」としたのはなぜか。私が調べた万葉集の注釈書にはこれに関する議論は見当たらなかった。
 ②二四二九番歌の類歌とされる二七〇五番歌では、「是川」ではなく、「此川」となっている。この場合には「この川」であって「うじ川」とは訓めない。したがって、二四二九番歌の「是川」も「この川」と訓むべきではないか。

4.二四二八番歌の解釈

 この歌には、「宇治の渡り」が急流であるために渡ることができない、従って、会えないけれども、という意味が込められている。
 川を渡るときには、当然、渡りやすい、すなわち、流れが緩やかな所が選ばれるはずである。ところがこの歌では「速き瀬」とある。急流である。
 はじめ、「渡り」に対して「速き瀬」はそぐわない、つまり、「速き瀬」を渡るはずがないと考えた。会いに行けない、なぜか、渡れないから、ということを強調するあまりの、柿本人麻呂ともあろう歌人の、オーバーな言葉遣いかも、と考えた。
 しかし、さらに考えているうちに、宇治川は、琵琶湖を水源としてやがて巨椋池(現在は無い)にそそぐ水量の多い川なので、全域が急流で、渡る場所とされる「宇治の渡り」ですら流れが早いのだ、ということに気が付いた。
 万葉集で、間違いなく「宇治川」を示す歌で、急流であることを言っている歌には下記のようなものがある。

一一三六〓氏川尓・・・河早 (川速み)

二七一四〓八十氏川之急瀬 (速き瀬に)

三二四〇〓氏渡乃多企都瀬乎 (激つ瀬)

 「宇治の渡り」はそれほど急流で、危険な渡りなのである。橋が整備されていない当時は、川は徒歩で渡る、そのような「渡り」は各所にあったであろうが、その中で「宇治の渡り」は危険なことで有名、著名だったのではないか。それを特定し、強調するために「宇治の渡り」と場所の固有名詞を使ったのではないか。宇治は、大和から逢坂山を越えて近江へ通じる交通の要衝であることは広く知られており、万葉集にも歌われている。「宇治の渡り」はその旅路の一番の難所として知られていたのであろう。
 このように、急流で危険な宇治の渡りを特定し、強調しているのに、隣接の歌でも「宇治川」と言っているのでは、折角の強調が薄れてしまい、効果がなくなる。「是川」は「うじ川」とは訓むべきでないと考える。

5.「是川」は「この川」と訓む

 では、「是川」を「宇治川」と訓まない場合はどう訓むか。
 文字通り、「この川」と訓むと考える。「此の川」という臨場表現は同じであるが、同時に込められた意味は「許の川」(この川)であろうと考える。
『宇治市史』に、「もともと「許乃国」という小国名があったことが、『山城国風土記』逸文と伝えるものによって知られている。」と書かれている。岩波書店『日本古典文学大系・風土記』によれば、その逸文は次のごとくである(出所は貞治五年(一三六六)に成った『詞林采葉抄』)。

 山城国風土記曰 謂宇治者 軽島豊明宮御宇天皇之子 宇治若郎子 造桐原日桁宮 以為宮室 因御名號宇治 本名曰許乃国矣
 (山城の国の風土記に曰はく、宇治と謂ふは、軽島の豊明の宮に御宇しめしし天皇のみ子、宇治若郎子、桐原の日桁の宮を造りて、宮室と為したまひき。御名に因りて宇治と號く。本の名は許乃国と曰ひき。)

 即ち、「是川」は、宇治の古い名前である「許の国の川」の意味を含んでいると考える。この地域では、宇治川が最も大きい川であるから、「許の国の川」と言えば「宇治川」のことと理解されたであろう。
 ここで問題なのは、この逸文の信頼性である。岩波書店本では、逸文としては疑わしいとする(存疑)のマークが記されている。その注には「紀の国の訛か。」とある。
 しかし、宇治には「許波多神社」がある。「コハタ神社」である。現在、「木幡」という地名がある。「許波多」の語源については諸説があるとのことである。私は、それらの説のうち、「許と呼ばれる国または地域」があって、その端にあるから「許端」と呼ばれるようになったという説を採りたい。現存する「許波多神社」は「許の国」があったことの証拠で、風土記逸文は信頼できると考える。

6.二四二九番歌と二七〇五番歌の比較

二四二九〓早敷哉 不相子故徒是川瀬裳襴潤

二七〇五〓愛八師 不相君故徒爾此川瀬爾玉裳沾津

 二七〇五番歌は、二四二九番歌の「類歌」とされるものである。違いは「子」と「君」で、前者が男から女へ、後者が女から男への歌であることである。
 二つの歌を比較して、次のように考える。
 二四二九番歌が漢文的であるのに対して、二七〇五番歌は、「爾」(に)という助詞が入っていて、「徒に」、「此の川に」と、日本語的である。ここから、作歌の時期は、二四二九番歌が早く、二七〇五番歌はその後と考える。二七〇五番歌の「此川」は「この川」としか読めないから、二七〇五番歌ができた時点で二四二九番歌の「是川」は「この川」=「許の川」と訓まれていたと考える。
 この二つの歌の関連について、私が見た唯一の議論は『新考』で、二七〇五番歌については、「此は彼を傳へ誤れるにこそ」と書かれている。誤写とすることで、議論が避けられているように思う。

7.まとめ

 二四二八番歌では、「宇治の渡り」と詠んで宇治を特定し、強調している。その前後の歌で、「是川」を「うじ川」と訓めば、強調の効果が薄れてしまう。「是川」を「うじ川」と訓んではいけないと考える。
 「是川」は、作歌場所としての臨場表現「此の川」と、「許の国の川」、即ち、「宇治川」、という二つの意味を込めた「この川」と訓むべきであると考える。「この川」と訓めば、類歌二七〇五番歌の表現とも合う。
 このように考えると、四首の歌の配列も工夫されているように思われる。急流で著名な難所である「宇治の渡り」は、三個の「是川」に囲まれていて、「許の国」の中にあるということが示されているのではなかろうか。そのような効果をも考えてあるように思われる。


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