2015年4月15日

古田史学会報

127号

1,「張家山漢簡・居延新簡」
 と「駑牛一日行三百里」
   正木裕

2,短里と景初
誰がいつ短里制度を布いたのか?
  西村秀己

3,“たんがく”の“た”
 平田文男

4,邪馬台国畿内説と
古田説はなぜすれ違うのか

 服部静尚

5,学問は実証よりも論証を重んじる
  古賀達也

6,「唐軍進駐」への素朴な疑問
  安随俊昌

7,『書紀』の「田身嶺・多武嶺」
 と大野城
 正木裕

8,倭国(九州王朝)
 遺産一〇選(下)
  古賀達也

9,断念
  古田武彦

 

古田史学会報一覧

四天王寺と天王寺(会報126号)

考古学が畿内説を棄却する(会報134号)


邪馬台国畿内説と古田説はなぜすれ違うのか

八尾市 服部静尚

一、はじめに

 古田先生は「邪馬台国はなかった」で、文献(主に倭人伝)の分析から、邪馬台国は実は邪馬壹国であって、博多湾岸にあったとされました。
 そして「古代の霧の中から」等で、考古学的出土物からの分析を行い、これが文献分析結果と一致するとされました。この考古学的出土物というのは、当然、魏志倭人伝に出てくる物です。
具体的には、
 (1).一番目に「鏡」で、弥生期の遺跡から出土する鏡には漢鏡と、その後の古墳時代の三角縁神獣鏡があるが、前者とすると全体の八割が博多湾岸で出土している。後者とすると近畿が中心となる。
 (2).二番目は兵が持つ「矛」、これは圧倒的に筑紫中心で、その鋳型は百%博多湾岸に集中している。
 (3).三番目は卑弥呼の墓「径百歩の冢(ちょう)」で、これは「墳」と言えるような大きな物でなく、径二五〜三〇メートルの盛り土のような物で、一番目の鏡を多く出土する墓とすると、やはり博多湾岸となる。
 (4).四番目は「鉄および鉄鏃(やじり)」で、弥生遺跡の鉄器出土数を見ると、筑前が圧倒的に多い。
 (5).五番目に「錦」で、日本列島の弥生期出土の絹は、全部で九件、その内五件が博多湾岸である。

 以上の通り、魏志倭人伝に出てくる全ての物が揃っているところ、それは博多湾岸だと言う結論です。
 魏志倭人伝に出てくる邪馬壹国の位置を検討するのですから、魏志倭人伝に出てくる物で検討するのは当然で、古田先生の方法は、これは誰が見ても妥当な方法です。
 ところが、現在においても考古学の専門家の間では、邪馬台国畿内説が大勢を占めています。考古学は遺構遺跡の「物」の研究をする学問であって、科学そのものと私は認識しています。その考古学で、何故科学的と思われる古田説が受け入れられていないのか、非常に不思議です。
 そこで、邪馬台国畿内説の先生方の論旨を学び、この理由について考えてみました。

二、邪馬台国畿内説

 柏原歴史資料館の安村館長より「土器で言えば、纒向には全国の土器が集まっているが、逆にこの時期に北九州に全国の土器が集まっているという報告はない。又、三世紀前半に、石塚・ホケノ山など纒向型の前方後円墳丘墓があるが、北九州にはない。これらを九州王朝説でうまく説明できるのか。そう言う所を研究されると良い。」とアドバイスをいただきましたので、その方向で調べました。
(1)「邪馬台国?唐古・鍵遺跡から箸墓古墳へ」(二〇一〇年雄山閣)の中で、西川寿勝氏は次のように要約しています。
 1)弥生時代の土器様式(弥生土器)と古墳時代(布留式土器)の間をつなぐ「庄内式土器」の時代が明確になりつつある。これがおよそ三世紀前半であることが年輪年代測定法・放射性炭素年代法などで位置づけられつつある。
 2)「庄内式土器」は瀬戸内地域を中心として、南九州から東海・関東地域におよぶ広範な分布域が認められ、前方後円墳が登場する前段階に、「庄内式土器」を共有する政治連合があったと説く人が多い。
 3)この時期は「纒向型前方後円墳」と呼ばれる、前方部が未発達で、埴輪の樹立や、三角縁神獣鏡の副葬がない墓が造られている。この「纒向型前方後円墳」は、大和地域を中心に全国各地に拡散したことが判りつつある。
 4)魏志倭人伝の時代と「庄内式土器」「纒向型前方後円墳」が重なることから、「庄内式土器」「纒向型前方後円墳」の分布が邪馬台国の政治体制を導く。

(2)西川氏は更に次を指摘しています。

 1)庄内式土器は北部九州で成立した土器ではなく、河内を中心に成立したもので、これが北部九州から瀬戸内沿岸の広範に交易されていた。
 2)この庄内式土器を伴う定型化した古墳はなく、弥生墳墓の時代であった。又、纒向型と呼ぶ前方後円墳の起源的な墳墓が発生している。
 3)箸墓古墳の造営時・造営後の期間の土器を布留0式とし、これが古墳時代の開幕段階とされたが、この土器に付着した放射性炭素測定で、これが卑弥呼没年と重なる。

(3)ここで弥生土器・庄内式土器・布留式土器の違いについて触れます。

 弥生後期の甕は四〜五ミリぐらいの厚さですが、庄内式甕・布留式甕では、一・五〜二ミリぐらいの非常に薄い器壁になって、煮沸したときの熱の通りが良いそうです。甕の内面を削って薄くするという手法で、これは、もともと畿内の弥生後期の甕にはみられなかったのですが、瀬戸内、日本海側の地域ではそれ以前から用いられていた手法のようです。
 庄内式の定義と布留式の定義は研究者によって異なり、例えば、細かいタタキ目を持ち内面削りをするのが庄内甕、器面に刷毛目を持ち、内面は削りの後、指頭圧痕があるのが布留系甕という感じですが、基本は弥生式と布留式の間に庄内式があるというのが、正しい認識のようです。
 表は米田敏幸氏による土器変遷と時代区分を、私が表にしたものです。

米田氏による土器変遷と時代区分

時期区分 編年 米田氏の土器様式編年 編年根拠
    V様式  
弥生時代 200年 庄内式 I 布留系 纒向石塚周濠木製品
 〃 25年 庄内式II 布留系 纒向勝山周濠木製品
 〃 250年 庄内式 III 布留系 箸墓
 〃 275年 庄内式IV 布留系  
古墳時代 300年 庄内式V 布留式 I  
 〃 325年   布留式II  
 〃 350年   布留式 III  
 〃 375年   布留式IV 宇治市街遺跡溝SD302
 〃     (仮)布留式V 平城宮下層溝SD6030

(4)「庄内式土器研究XX」(一九九九年)の中で、石野博信氏は、

 1)纒向遺跡の調査で、三・四世紀に九州から関東に及ぶ広域圏交流があったことが示された。その後三・四世紀の広域交流は大和だけでなく、九州〜北陸、九州〜東海、東海〜関東、関東〜東北、サハリン〜北陸などの間で継続的に行なわれていたことが明らかとなった。この動きは三世紀前半に始まり、四世紀以降へと続くが、弥生時代にはなかったことだという森岡秀人氏(一九八五年考古学ジャーナル)の文献を引用しています。

 2)三・四世紀の福岡市西新町(博多湾岸)遺跡の出土土器は、在地系六十三%、畿内系二十五%、山陰系九%、吉備系一%、朝鮮系二%、合計すると三十七%という極めて高率の外来系土器を持つ。同様な土器組成を持つ集落は、前原市三雲遺跡などにあり、各地の物資を求めて遠隔地の人々が集まる交易拠点が形成されていたのであろうと、溝口孝司(一九八八年考古学研究)の研究結果を踏まえて、解釈しています。

 3)纒向遺跡では、三世紀前半以降、搬入土器(原産地で製作された土器が他地へ搬入されてきたもの)が増加し、三世紀後半から四世紀前半に盛期を迎える。在地産の外来系土器も存在するけれども圧倒的に搬入土器が多く、しかも広域で多地域にわたる。
 他地域の土器を多種多量に搬入し続けながら在地化しないという現象は、九州?関東間の各地域から少なくとも数年毎に人々が来ていたことを示している。これは新嘗儀礼や王の葬儀・即位儀礼など様々であったろう。そのために吉備・伯耆の特殊器台が持ち込まれていた、と解釈しています。そして、多種多量の搬入土器を持つマチは、各地に存在してであろう。福岡市比恵遺跡や岡山県総社市遺跡などはその候補である、としています。
波線の部分が安村氏の言われる「纒向には全国の土器が集まっている→邪馬台国畿内説」の根拠のようです。
 しかし、波線以外の部分を併せると、纒向以外にも全国の土器が集まっているようです。

(5)一九八七年〜二〇〇三年にわたって全国(釜山〜関東)の研究者が集って研究をされた「庄内式土器研究会」というのがあって、その成果が「庄内式土器研究」で報告されています。
 これを読むと、少しかわってきます。長くなりますが引用します。
 1)「庄内式土器研究XIX」一九九九年
米田敏幸氏の論文より引用

 〜弥生時代の終末から古墳時代の初頭にかけて、中河内の環濠集落は姿を消す。しかしそれは、集落遺跡同士の境目がないぐらいに発展した中河内の姿である。庄内式土器の出土範囲は現在の八尾市の市街地の範囲を凌駕する範囲で土器の出土が見られる。〜南北一〇キロメートル、東西五キロメートルの大遺跡が存在することになる。その規模は纒向遺跡が都市であるとするなら、中河内は大都会といえるだろう。
〜中河内の遺跡群には、纒向遺跡と同様各地からもたらされた土器が、各遺跡からかなりの頻度で出土している。特に多いのは吉備や播磨などの山陽地方や山陰地方、四国地方といった西から搬入された土器で、大和の遺跡が東海や近江、北陸といった東の地域からの搬入土器が目立つのとは対照的である。
〜河内の庄内式土器は西日本各地に移動が確認されているが、大和の庄内式土器はほとんど移動していない。今まで日本各地から出土する大和の庄内式土器とされていたものは、ほとんど播磨の庄内式土器であって、大和の庄内式土器が移動している例は数えるほどしかない。実は播磨で作られた庄内甕と纒向遺跡の庄内甕とは瓜二つで、纒向遺跡の庄内甕が播磨の庄内甕を真似て作ったか、あるいは播磨の人が纒向で作った庄内甕の可能性がある。
大和盆地で庄内甕が出土するのは東南部だけである。すると庄内式が大和から全国に広がっていったとする従来の考え方を改めなければならなくなった。
〜確実なことは、この伝統的第 V 様式文化圏である大和、山城、摂津、河内、和泉、紀伊、丹波、播磨の内、中河内はこれらの地域のほぼ中央に位置している。さらに胎土(たいど)の研究を進めていくと庄内式の次の段階の布留式土器が大和で発生し、初期大和政権の発展とともに全国に広がったとする現在の定説も否定しなければならない。
なぜかというと胎土観察の結果、布留甕の原型になるものは畿内のものではなく、北陸地方で作られたものがほとんどであることが判ったからである。
〜しかも北陸の土器の移動は畿内だけでなく関東から九州に至る広い範囲で行なわれており、その結果として全国各地で布留式と類似する土器が出現すると考えているのである。
〜したがって、日本各地に散見する布留式土器は畿内の布留式が拡散したのではなく、北陸の土器の移動が各地の布留式に類似する土器を出現させたわけで、初期大和政権の拡張と布留式土器の広がりとは無縁であることが胎土観察の結果はっきりしてきた。我々はあまりにも土器様式と政治史を直接的に結びつけて考えてしまいがちであるが、この誤解によって生じる歴史観の誤りが古代史を歪めてしまう危険すら存在するのである。土器の移動は文化交流によって生じるもので、その交流関係は対等である。〜

 2)米田氏の上げられた胎土研究は、奥田尚氏によって行なわれたものです。
「庄内式土器研究XXIII」二〇〇〇年
 奥田尚氏の論文より引用します。

〜庄内甕から布留傾向甕・布留甕へと口縁部が変化したと形態的に説明がなされているが、庄内甕に含まれる砂礫(されき)構成と、布留傾向甕・布留甕に含まれる砂礫構成とは全く異質なものである。同じ砂礫構成を示す胎土であれば、同じ流れをくむ工人の製作による時間的な流れととらえられるが、砂礫の採取地が全く違えば同じ流れをくむ工人による器形の変化とは言えない。
〜纒向遺跡から出土する庄内甕は、播磨・河内・大和の砂礫構成を示す。大和や河内以外の地域である吉備そして伊予へは、河内・播磨の甕が運ばれている。大和の砂礫構成を示す庄内甕が運ばれている例は非常に稀である。
纒向遺跡から出土する布留傾向甕や布留甕の砂礫構成には、加賀南部の砂礫構成を示すものと、纒向遺跡付近の砂礫構成を示すものがある。八尾市中田遺跡を始めとする市内の多くの遺跡からも布留傾向甕や布留甕が出土する。これらの甕に見られる砂礫構成はほとんどのものが加賀南部の砂礫構成を示し、わずかの甕が河内平野の砂礫構成を示す。
神奈川県三浦半島大浦洞出土の布留傾向甕、鳥取県秋里遺跡出土の布留傾向甕、福岡県甘木市上々浦遺跡出土の布留甕等も、加賀南部の砂礫構成を示す。各地に出土している布留傾向甕や布留甕の砂礫構成で、奈良盆地東南部の砂礫構成を示すものを確認するに至っていない。
つまり奈良盆地東南部で製作された布留傾向甕や布留甕は、各地に運ばれていないと言える。逆に加賀南部で製作された布留傾向甕や布留甕が各地に運ばれているのである。布留傾向甕や布留甕の発生地と推定される加賀南部の梯川流域では、出土するほとんど全ての甕が月影甕から布留傾向甕に突然変わり、布留甕へと変化している。
〜これに比べて纒向遺跡付近では布留甕の時期でも大和型庄内甕が作られている。以上のような現象から布留傾向甕や布留甕は加賀南部で発生し、奈良盆地東南部を始めとする日本各地へ加賀南部に住んでいた人が運んだ甕であると言える。〜

(6)私は土器については素人で、実際に各地の庄内式土器・布留式土器を観察したこともないのですが、奥田氏、米田氏の論文を読むと、その科学的な観察眼と論証に敬意を懐きます。纒向邪馬台国説は、この成果を部分的に取り入れた方々の説のように思えます。少なくとも最大公約数では無いようです。

三、考古学者が畿内説を支持する理由

(1)庄内式土器や布留式土器の交流中心地点であることは、当時の(たくさんあった国々の中の一つの)或る国の中心地点であったことの証明にはなりますが、これが魏志倭人伝に出てくる「邪馬壹国」の証明にはならないことは、賢明なる科学者たる考古学者は判っておられると思います。

(2)その証拠に、先にあげました「鉄」の話についても、「鏡」についても何とか解釈しようと苦労されています。

(3)では何故、このように苦労してまで、邪馬台国畿内説を唱えるのでしょうか。

 この理由は三世紀の考古学成果でなくて、その後の巨大古墳、古事記・日本書紀の存在、そしてその延長上の藤原京・平城京の存在ではないかと私は考えます。
 ふり返ってみますと、初めて古田説に接した時、それはそれまで教えられてきた日本史を根源からひっくり返す驚愕の話であったわけです。七〇〇年までは九州王朝が日本を代表する政権であって、七〇一年以降現在の近畿天皇家がこれに置き換わったという、とてつもない説だったのですから。この衝撃は、当時当会員全員が受け止めたものであったと、私は思います。この衝撃を古田先生の著作・講演を通じて順々に受け入れていったと思うのです。
 それでは、ほとんどの考古学研究者には何故受け入れられなかったのでしょうか。これは、それまで築かれていた「立ち位置」が違っていたこと以外に考えられません。ただし、科学は「立ち位置」でおこなうものではないと思います。

(4)それでは、どうすれば受け止めていただけるかですが、とりあえず三世紀のことは横に置いてもらって、
 (1). 五一七年継体から大化(大宝元年七〇一年まで続く)まで連綿と続いた九州年号の存在を理解いただくこと。
 (2). 隋書イ妥国伝・旧唐書日本国伝・倭国伝を先入観無しに読み直していただくこと。
 (3). 神籠石山城と巨大古墳の規模比較をしていただくこと。
 (4). (前期)難波宮副都説を知っていただく。

 その上で魏志倭人伝に戻っていただく、これがスタートではないかと考える所です。

 


 これは会報の公開です。史料批判は『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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