2015年 4月15日

古田史学会報

127号

1,「張家山漢簡・居延新簡」
 と「駑牛一日行三百里」
   正木裕

2,短里と景初
誰がいつ短里制度を布いたのか?   西村秀己

3,“たんがく”の“た”
   平田文男

4,邪馬台国畿内説と古田説はなぜすれ違うのか
   服部静尚

5,学問は実証よりも論証
  を重んじる
   古賀達也

6,「唐軍進駐」への素朴な疑問
   安随俊昌

7,『書紀』の「田身嶺・多武嶺」
   と大野城
   正木 裕

8,倭国(九州王朝)
   遺産一〇選(下)
   古賀達也

9,断念
   古田武彦


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「唐軍進駐」への素朴な疑問

芦屋市 安随俊昌

天智紀十年(六七一)の薩夜馬帰着記事に現れる二〇〇〇人の内一四〇〇人は戦闘部隊・占領軍ではないのではないか。

 (1).一四〇〇人は唐兵ではなく、百済人の集団であるハズである;

「唐国使人郭務宗*等六〇〇人」と「送使沙宅孫登等一四〇〇人」とは各々異なる要素であると明示されており、一四〇〇人は「送使孫登」揮下の「送使団」と理解されるようになっている(六〇〇人がこの集団の「本体」)。
トップが百済人(沙宅という役職)であるからには、その部下も当然百済人でなければならない。即ち、撃破したばかりの百済の要人の下に一四〇〇人もの唐兵をつけるということはあり得ないと考えざるを得ない。
百済人の大集団を「送使」という無難な目的に用いることは、後述する「盛大な使節団」を装う上でも極めて有効な手段と思われる。
尚、「本体」の大部分は護衛・儀仗の為の唐兵(一部は百済兵あがりも含むか)であると想像され、これが「盛大さ」演出の中心と思われる。
 亦、「海外国記」天智三年(六六四)の郭務宗*初来日記事も同じ構成になっていて、矢張り百済人率いる集団の人数は本体の約三倍に達している。但し「送使」の語はナイ(“大使郭務宗*等三十人、百済佐平禰軍等百余人”)。

 (2).「送使」は送る役目を果たしたら、「本体」を置いて先に帰国するのが原則ではないか;

 送使記事は天武紀・持統紀にも各々八例と一例あるが、天武紀八例中四例で先に帰国している(他の四例は送使の帰国記事がナイ)。(註)
 持統紀の一例は判断材料にはならない(倭人を倭国へ送るケースである為)。

 (3).天武元年(六七二)“夏五月三十日郭務宗*等罷歸”という記事は郭務宗*以下使節団の枢要部分の帰国を意味し(滞在六ヵ月半)、「本体」六〇〇人の一部さえ先に帰国している可能性もあると考えた方が自然なのではないか。
     郭務宗*(かくむそう)の宗*(そう)は立心編に宗。JIS第4水準ユニコード68D5

 抑々六〇〇人では広域の占領などは不可能であり、長逗留する必要が全く見出せない。百済に早期帰陣する方が遥かに得策と思われるからである。
 ではこの様に異様に大きな使節団となった理由・背景は何か;
 薩野馬送還(帰国)にあたり盛大な「お国入り」を演出する必要があり、セレモニーに重点を置いた為ではないか。
 其の為に、護衛兵にしては多目の唐兵に加え、多数の百済人送使団も編成して大集団を形成し劇的効果を高め、併せて唐・倭・半島新時代〓新体制を祝う意味合いも持たせたのではないか。
 因みに、天智三年(六六四)の場合は、「本体」は護衛等を含めても三十人のみであり、実務中心かと思われる。
 即ち、同年三月〜四月頃の第一次新羅・百済会盟を踏まえて、倭国も戦後体制(冊封)に含まれるべきことの通告・交渉が目的と思われ、その後筑紫都督府が成立している。

追記〓六六九年の二〇〇〇余人記事は「六七一年記事」と精粗に大差あり、重出とみるべき(粗略な記事の方が先に出るのも不審)。その場合、「六七一年記事」自体も六六九或はそれ以前に遡る可能性がある。何故なら、薩野馬帰国が六六四年からでさえ七年も後になる上、六七一年では半島情勢(新羅の攻勢)とそぐわない。

(註)(1).天武紀二年六月・十一月、(2).同四年二月・三月、(3).同五年十一月・同六年四月、(4).同九年五月・六月、(5).同二年、(6).同五年、(7).同七年、(8).同九年、(1).持統四年 以上


 これは会報の公開です。

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