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盗用された「仁王経・金光明経」講説 正木裕(会報126号)
『書紀』の「田身嶺・多武嶺」と大野城
川西市 正木 裕
持統七年(六九三)九月辛卯(五日)記事に、持統が「多武嶺(とうのみね)に幸(いでま)す」とあり、通説では「多武嶺」とは大和飛鳥(桜井市南部)の山に比定されていますが、何故このような時期に、何の目的で持統が多武嶺に行幸したのか、一切記されていません。
一方、斉明二年(六五六)(九州年号では白雉五年)「是歳」記事に「田身嶺(たむのみね)」での工事記事が見えます。
◆田身嶺に冠しむるに周れる垣を以てす。〈田身。山の名。此を太務と云ふ。〉復た嶺の上の両の槻(つき)の樹の辺に観(楼閣・たかどの)を起つ。号けて両槻宮とす。亦は天宮と曰ふ。
通説では、これは「多武嶺」の事とされ、大和なる多武嶺でこうした垣や楼閣、宮の遺跡の探索が試みられていますが、未だ発見されていません。一方、九州王朝説の立場から、古田武彦氏は、この斉明紀の記事は「狂心の渠」等と共に九州王朝の天子の事績で、唐・新羅戦に備えたものとされています。
そして、九州筑紫に目を転じると、田身嶺の記述にぴったりの山があります。それは、大宰府の裏に聳える「大野山(四王子山)」で、山上には山城「大野城」が築かれ、大野城は尾根筋に沿う全長約八kmの石垣や版築土塁で「冠状」に取り囲まれています。現在石垣は五か所で残っており、中でも「百間石垣」は一八〇m を超す国内最大規模のものです。
大野城にはこうした「垣」だけではなく、七〇棟以上の礎石建物、八か所の城門、水場などが設けられていました。礎石形式の門は二階建て楼門となっていたとされ、吉野ヶ里遺跡の例から、門の上に「望楼(観)」が設けられていたと推測されます。
このように大野山が田身嶺であれば記事内容と遺跡が一致するのです。
そこで注目されるのが持統七年の「多武嶺」行幸記事です。古田氏は、『書紀』に記す「持統天皇の吉野行幸は三四年前の九州王朝の天子の佐賀なる吉野行幸である」とされていますが、そうであれば、この「持統の多武嶺行幸」も「三四年前の九州王朝の天子の大野城行幸」と考えることが出来るのではないでしょうか。
『書紀』では田身嶺・両槻宮造営工事は斉明二年(六五六)に行われたとありますが、「百間石垣」等の築造は、巨大古墳に匹敵する作業量となりますから、完成には相当の期間を要したと考えられます。
従って持統七年(六九三)の行幸記事は、実際は三四年前の斉明五年(六五九)のことで、三年間かけ築城した大野城、即ち「田身嶺の垣と両槻宮」の完成に伴う、九州王朝の天子の行幸記事の盗用だとすれば時期も見事に整合します。
これを九州年号で考えれば、斉明五年は「白雉八年」、持統七年は「朱鳥八年」ですから、白雉と朱鳥を入れ替えて盗用したことになります。
大野城は『書紀』では水城などと同様に白村江敗戦以降の天智四年(六六五)(九州年号では白鳳五年)建設となっています。しかし、白村江敗北後にそのような膨大な事業を遂行できるとも思えず、かつ大野城跡から出土した木柱の伐採年代は、?線CTスキャナーにより六五〇年ごろとされ(*西日本新聞二〇一二年十一月二三日)、白村江前の建設であることは疑えません。田身嶺の工事が大野城築城工事だとすれば、斉明二年は九州年号「白雉五年」、天智四年は九州年号「白鳳五年」ですから、これは白雉と白鳳を入れ替えたことになります。
結局、田身嶺とは筑紫大野山のことで、白村江前の九州年号「白雉五年」の大野城着工記事が、『書紀』では白村江後の九州年号「白鳳五年」に盗用され、斉明五年・九州年号「白雉八年」の完成視察記事が持統七年・九州年号「朱鳥八年」に盗用されたものと考えられるのです。
(補足)
「田身を太務と云ふ」とあるが、「大務(たいむ)」は国家の果たすべき重要な責務のこと。『漢書』国家之大務、『宋書』經国大務、『旧唐書』国大務、『新唐書』軍国大務・国家之大務などと記す。
陳寿が編纂した『諸葛亮集』に収められていたとされる諸葛孔明の兵法書『将苑』(戒備編)には「夫れ国の大務は、戒備に先んずる莫し」(国家にとって重要なのは、まず国防である)とある。「田身嶺」が「太(大)務嶺」であれば、「何より重要な国防の山」という意味となる。
これは会報の公開です。
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