邪馬台国畿内説と古田説はなぜすれ違うのか (会報127号)
令亀の法 服部静尚(会報133号)
考古学が畿内説を棄却する 服部静尚(会報134号)../kaiho134/kai13405.html
考古学が畿内説を棄却する
八尾市 服部静尚
大阪河内地区で考古学の成果が積み重ねられ、弥生時代終末期の姿の解明が進んでいます。その結果、畿内説学者の拠り所であった庄内式土器を含めて、新たな知見が得られたのでここに述べます。
一、河内における考古学成果
大阪府八尾市文化財調査研究会の原田昌則氏らが中心になってまとめられた、「考古資料からみる八尾の歴史」(二〇一四年発刊)に次のような興味深い事象が紹介されています。(この冊子は、大阪府の中東部に位置し東部の生駒山西麓部から西部の河内平野にかけて広がる八尾市で、これまで発掘・蓄積された埋蔵文化財を年代順に整理して、非常に判り易く調査結果をまとめあげたものです。)
① 弥生時代の集落は平地に設けられるのが大半であるが、一~二世紀にかけて、高い丘陵上や尾根上に集落を営む例があり、これらは戦争に対応する防御や見張り機能を持つ高地性集落とみられる。(図1)
図1:弥生時代後期の高地性集落と土器の大量廃棄が見られた遺跡
② 二世紀、弥生Ⅴ様式土器の時代に、弥生時代を代表する青銅器祭器である銅鐸が大きく装飾的に変化し、その後、これが現れなくなる。
③ 弥生後期後半の二世紀から三世紀の初めにかけて、各遺跡で溝の中に大量の土器廃棄が確認される。例えば弓削遺跡では約七〇〇個の土器が、隣接する東大阪市の段上遺跡では径八〇m幅一~二mの円形状の溝に二〇〇〇個以上の土器が廃棄されている。しかもこれらの土器は短期間に廃棄され一括性が高く、緊迫する社会情勢に対応した集落移動などの痕跡とも見られる。(図1)(図2)
図2:溝内から大量の土器が出土したようす(弓削遺跡)
④ 畿内に見られる弥生Ⅴ様式甕(かめ)のタタキ技法と、吉備系甕の内面ヘラ削り技法(薄肉にすることよって煮炊きに適する)の融合によって、三世紀初頭に河内庄内式甕が生まれる。
⑤ 同じ頃に、吉備で作られた吉備系土器が大量に搬入される。その後四世紀前半(古墳時代前期前半)まで、吉備系から山陰系・東部四国系へと比率中心が変化しつつ、外来系土器が布留式古相期をピークに増加する。
表1:弥生土器・銅鐸・高地性集落編年
二、考古学成果の解釈
先にあげた事象の二世紀とか三世紀とかの紀年は研究者によって若干見解の相違がありますが、弥生時代の終末期に①~⑤の事象がその順序で生じたと言う点については異論が無いと思います。(表1)
そして先入観無しにこれら事象を受容するとこうなります。
(一) 先ず①より数百年・数十年にわたって河内へ侵入しようとする勢力があった。
(二) 次に②より、ある段階で、それまで崇め立てていた(銅鐸)祭器を捨て、一切作らなくなった。これにより支配者が変わったか、異なる住民が住みついたか、新しい宗教創始者が現れて住民を洗脳したというような可能性が考えられます。いずれにしても何らかの争いの結果であったはずです。
(三) ②および③より、これらの争いによって、集落を捨てた人々がいた。
(四) そこに侵入してきた人々の中に吉備の人々がいて、吉備の土器文化を河内に伝えるとともに、在地の河内文化とも融合した。その結果生まれたのが庄内式土器であった。
(五) その後吉備以外の西日本勢力も河内に入植を続けた。これらが弥生時代の終末期に起こり、その結果巨大古墳を生む古墳時代が始まった。
私にはこの解釈以外に他は考えられません。侵入者のベクトルは西から東(河内)です。
これは吉備を中継地とする記紀の神武東征と一致します。ご存知のように古田武彦氏は、神武東征が史実であって、神武以外にも複数の東征勢力が順次やって来たのだと指摘されました。
三、畿内説は終焉する
一方邪馬台国畿内説を掲げる歴史学者は、庄内式土器は大和・河内から全国へ波及したとし、これが交流のしるしであって、大和にあった邪馬台国が全国統治を行ったことの証左とします。
各地に出土する庄内式土器は(その胎土から)吉備に隣接する播磨製であって、少なくとも大和製の庄内式土器が全国に普及した事実は無いと、庄内式土器研究者(考古学者)が論証しても、これを無視する姿勢です。
しかしいくら無視を続けても、先の通り考古学の成果から出る答えは、「侵入者、文化伝播などすべてのベクトルの向きは西から東」です。
古田武彦氏が指摘した、三国志魏志倭人伝に記載された邪馬壹国の「鉄」「絹」は、この時期の大和に出土しません。少なくとも出土中心は博多湾岸です。そこで畿内論者が唯一の拠り所としたのが(倭人伝に記載の無い)庄内式土器でしたが、これも考古学成果がばっさりと棄却する、そのように私には見えます。
最後に、『邪馬一国の証明』での古田氏の記述を振り返ります。
―目を奪う新問題がある。「こわされた銅鐸」だ。最初、巻向(奈良)遺跡で発見され、「こわれた」か「こわされた」かの論議を生んだが、やがて利倉・池上(大阪)、森広(香川)と各地で発見されるに及んで、他の力で「こわされた」ことが疑えなくなった。では誰がこわしたのか。これに対する端的な答えは、戦後史学の骨髄を刺し貫く、そういう貫徹力をもつ。なぜなら全銅鐸圏(広島県から静岡県)の消滅直後、これにとって代わったもの、それは言うまでもない、天皇家による巨大古墳群の時代だ。従ってこの破壊者は天皇家(の祖先)、そう考えるほかない。さらに一歩を進めよう。弥生後期末の、全銅鐸圏の消滅に先行して、弥生後期初頭前後から消滅(=破壊)がはじまった所、それが大和盆地だ。すなわち弥生後期(二~三世紀)の大和盆地は、天皇家(の祖先)という名の銅鐸破壊者の支配した小天地だったのだ。―
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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