「多利思北孤」 について 岡下英男(会報139号)
倭国年号の史料批判・展開方法について 谷本茂(会報141号)
隋・煬帝のときに鴻臚寺掌客は無かった!
神戸市 谷本 茂
推古紀十六年秋八月・九月条に記載された「鴻臚寺掌客裴世清」の職制について、従来多くの議論がなされてきたが、隋の煬帝治世に「鴻臚寺掌客」という職制が存在したのかどうかという視点からの検討は充分なされたとは言い難い。今回、隋書の記載から、煬帝治世に「鴻臚寺掌客」という職制は存在していない事が判明したので、手短かに報告する。
「鴻臚寺掌客」問題については、池田温氏の「裴世清と高表仁」(日本歴史二八〇/昭和四十六年九月号、『東アジアの文化交流』平成十四年刊・吉川弘文館に所収)および古田武彦氏の「日本書紀の史料批判」(文芸研究九五集/昭和五十五年九月、『多元的古代の成立・上・邪馬壹国の方法』昭和五十八年刊・駸々堂に所収)に詳しく述べられているが、両氏ともに「鴻臚寺掌客」は煬帝の時期に存在したと見做しておられる様である。
池田氏は「開皇令では正九品下、唐令は正九品上、大業令は未詳だが正九品か」として、当時、隋使としての裴世清は「文林郎」と「鴻臚寺掌客」の両方を共有していたかのように解釈され、「ただし、当時も前官を特にことわらず称することは珍しくないので、世清が開皇年代乃至大業初年に散官文林郎であり大業三・四年に別に昇進していなければ、起用の際に旧時の散官を記す可能性も充分あるのである。」とされた。
また、古田氏は、池田氏の史料認識を基本的に踏まえて「大業令では未詳だが正九品に属すると見られる」とされながらも、隋書と推古紀の史料性格を再検討するならば、「文林郎」と「鴻臚寺掌客」の違いは池田氏の様な安易な“解決”では却って疑問を増幅することになると指摘され、両者の「品」の違い、国書問題、「宝命」問題、国名問題(推古紀は「大唐」「唐」と「日本」の交流、隋書は「隋」と「俀(倭)」の交流)などから、周知のように「推古朝の遣隋使は無かった」と主張された。
では、中国史書には「文林郎」と「鴻臚寺掌客」について、具体的にどのように記述されているであろうか。本来ならば、隋書、舊唐書の該当箇所を全文引用・解説すべきであるが、ここでは、それらの記載の概略を挙げて、基本的な史料事実だけを確認しておく。
隋書巻二十七・百官・中に、
北斉のとき鴻臚寺は掌蕃客朝會、吉凶弔祭の担当であり、典客署が置かれていた。
とあり、巻二十八・百官・下に、
隋・高祖のとき、鴻臚寺に典客署が置かれ、掌客十人有り。
とあり、開皇二年(五八二年)の令では
典客署掌客を正九品と為す。
とある。正九品上の規定外なので、正九品下とする池田氏の見解は妥当である。
ところが、煬帝の治世になり、大業三年(六〇七年)の令で、多くの部署の改革が行なわれた。
秘書省に設置した文林郎は二十人(従八品)、掌撰録文史、検討舊事が担当と明記されている。つまり、当時の文林郎は、必ずしも散官(無任所)というわけではなく、職務の規定された職制であった事がわかる。(唐代では文林郎は文字通りの散官として位置付けられるが、煬帝の時には事情が異なることを再確認しておきたい。)
さらに煬帝のとき、鴻臚寺の実態は大きく変えられ、常設の役所機能はかなり弱められ、臨機応変に割り当てられる組織に近いものに改革された。鴻臚寺の典客署は典蕃署と改められ、典蕃署に掌客という職制があったとは明記されていない。他の細々とした(一人定員の)職制まで記しているのに、掌客という職制および「品」は記載が無いのである。こうした史料状況なので、「下級職は記載を省略したのだろう」という“言い逃れ”は出来ない。
舊唐書には、巻四十二職官一の正九品上階に
典客署掌客。
とあり、従九品上階に
文林郎(文散官)。
とある。また、巻四十四職官三に、
鴻臚寺/典客署/掌客十五人(正九品上)。
とある。(大唐六典の巻十八にも同じ内容の記載がある。)
つまり、文林郎は、煬帝のとき従八品、唐代になって従九品上の官であり、鴻臚寺掌客は煬帝より前が正九品下、煬帝のとき無し、唐代になって正九品上の官ということになる。
この点、古田氏が裴世清の「降品」について議論された部分は、現時点から見れば、気にすべき論点ではなかったことが知られよう。唐代になって裴世清が文林郎のままでいれば従九品上になったはずであるが、鴻臚寺掌客に移り正九品上の官に任ぜられたのであり、古田氏の指摘の通り、「隋代における外交実務経験(俀国派遣)を買われたものと思われる」のである。
以上、原文の詳細な分析(今問題の二つの職制以外の外交担当部署のことなど)は割愛したが、結論として、煬帝のときに(大業三年から隋末にかけて)「鴻臚寺掌客」という官の存在を隋書に確認出来ないという史料事実が判明した。
これは、隋書の四夷列伝中にも煬帝が派遣した使者のうちに鴻臚寺掌客が存在しないという史料状況(左記)とも整合が取れていると思われる。
☆大業七年 尚書起部郎・席律を百済へ。
☆大業三年 羽騎尉・朱寛を入海させ沖縄へ。
☆大業四年 文林郎・裴清を俀(倭)国へ。
☆大業三年 屯田主事・常駿、虞部主事・王君政を赤土へ。
☆煬帝時 侍御史・韋節、司隷従事・杜行満を西蕃諸国へ。
☆煬帝時 雲騎尉・李昱を波斯へ。
☆大業初 黄門侍郎・裴矩を吐谷渾、西突厥などへ。
いずれも一見常時外交の職務をしているとは思えない部署の人を夷蕃の地へ派遣している傾向が見て取れる。鴻臚寺に掌客がいなかったという事実と矛盾しない状況なのである。
そもそも、隋書巻八十一・俀(倭)国伝に、
其王與清(裴世清)相見、大悦、曰「我聞海西有大隋、礼義之國故遣朝貢・・・」
とあるように、國王が直接裴世清と面会して「大隋」と言っているのであるから、もしその國王が推古天皇もしくは聖徳太子であるならば、口で「大隋」と言いながら文書には「大唐」とだけ書くのであるから、まったく理解出来ない言動である。簡明に、その國王は推古天皇や聖徳太子ではない、という視点から歴史を理解すべきであろう。
推古紀に書かれた大唐からの使者、鴻臚寺掌客・裴世清が隋・煬帝の使者ではありえないという史料事実が明らかになったことにより、日中相互の年表を比較すれば(中国側王朝の)年代が整合しないことが容易に分かるにも拘わらず(あるいは分かっていながら)推古紀が敢えて「唐」を「隋」に書き換えずに、源史料の国名を尊重して編纂処理した理由は何故なのか?が謎として依然残ることになる。
{二〇一六年五月三日稿了}
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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