「要衝の都」前期難波宮 古賀達也(会報133号)へ
「皇極」と「斉明」についての一考察 古田武彦先生を偲びつつ 合田洋一(会報132号)へ
古賀達也氏の論稿
『要衛の都』前期難波宮」に反論する
松山市 合田洋一
はじめに
『古田史学会報』№一三三号にて、古賀達也氏の首記の評論を拝見した。それは、拙論「『皇極』と『斉明』についての一考察」の中で述べた「斉明天皇と『前期難波宮』との関係は」(同会報№一三二号)に対してのものである。
実は、氏が論究していることで、私が述べていることとは筋違いのこともあり、反論を歓迎するとのことでもあるので、以下に述べることにした。
一、「みょう」・「才明」地名について
先ず、本題に入る前に申し上げておきたいことがある。それは、古賀氏の論稿「九州・四国に多い『みょう』地名」(『古田史学会報』№一二九号)についてである。それを要約すると、
「合田洋一さんらの調査による愛媛県に才明(さいみょう)地名を見出され、わたしが今回着目したのはこの才明(さいみょう)でした」
として、ネットで「みょう」地名を検索した上、
「全部で八二件このうち九州に三六件(四四%)・四国に一九件(二三%)があり、このように四国にも『みょう』地名が多いことを考えると、『才明(さいみょう)』も『みょう』地名である可能性が高いようにも思われます。この件、引き続き調査検討したいと思います。」
と結んでいる。
そして、氏の次の論稿「『権力』地名と諡号成立の考察」(同会報№一三〇号)で、再び「才明(さいみょう)」地名に言及している。
「愛媛県にある字地名『才明(さいみょう)』が各地にある『みょう』地名の一つではないかと考えたのですが、合田洋一さんは斉明天皇の『才明』ではないかとされています。」
と。
この「才明(さいみょう)」地名について、古賀氏は全く誤解している。私はそのようには言っていない。当地に遺る古文書(『岡文書』)の地名が「斉明」であり、近代になって「斉明」が「才明」
に替わったと述べていたのである。
なお、当地に遺る古文書には「斉明天皇」の名が頻出している。
そして、九州・四国に多い「みょう」地名のうち、一番多い「名」(五九件、七二%)についての意味は次のようであった。
「古代・中世において、荘園・国衙領の内部を構成した基本単位、徴税単位。荘園領主・国衙は、この名を単位として農民を支配した云云」(『国史大辞典』 吉川弘文館)
ということで、「みょう」地名のうちの「名」は、平安時代の荘園・国衙領の「徴税単位」ということから、古賀氏が意図したこととは違ったようである。
私は、これについて「『みょう』地名について―『斉明』と『才明』―」(同会報№一三一号)で述べたのである。
ここで、重ねて言うが、これは失礼ながら古賀氏の誤解と認識不足であった。
二、「前期難波宮」の防衛施設に対して
ところで、今回の首記テーマ(同会報№一三三号)で古賀氏は、前項一で論述したことについて一言の断りもないまま、拙論「『皇極』と『斉明』についての一考察」(同会報№一三二号)で述べた「斉明天皇と『前期難波宮』との関係は」を、次のように批判した。冒頭名指しで、「わたしが提唱している前期難波宮九州王朝副都説に対して、前期難波宮は防衛施設がなく九州王朝の副都にふさわしくないとの疑義が示されました。(中略)難波宮が要害の地にある『要衛の都』であったことを詳述させていただきたいと思います。」として、前期難波宮のある上町台地が難攻不落の地であることを、縷々力説している。そこで、これについて述べることにするが、ここは会報の読者の方に対しても必要と思われるので、詳述しておきたい。私は次のように記した。
その二―古田先生も述べておられるが、前期難波宮が「九州王朝の副都」であるならば、そこに防御施設たるべき「神籠石城」「山城」が全く無いのは何故なのか。
七世紀中葉というと、九州では首都太宰府を取り巻くように城が盛んに造られていた時期である。それであるのに、舞鶴湾・若狭湾・敦賀湾などの日本海側および大阪湾からの敵(隋・唐、新羅・高句麗)の侵入の想定もない。つまり“近畿圏には防御施設が無い”のである(但し、『日本書紀』には高安城の記述があるが不確か)。
これについて古賀氏は、「前期難波宮は上町台地にあり河内湖に囲まれた要害の地にあるため防御施設は必要なかった」(「前期難波宮九州王朝副都説と大化の改新」、平成二〇年六月七日、松山市立北条ふるさと館、第五四回古田史学の会勉強会にて)
と述べている。しかしながら、これで思うことは仮に要害の地にあったとしても(なお、『古田史学会報』一〇七号に「古代大阪湾の新しい地図―難波は上町台地になかった」と、大下隆司氏の反論記事がある)、これは宮殿のみを守ることであって、近畿一円の領土を守ることには成り得ない(そして、「三関」や「白河関」などの防御施設のことを記した上で)。前述の日本海側からの侵入に対する防御施設がないのは、「九州王朝の副都」であるならば有り得ないことと考える。これはどう見てもおかしい、納得できないのである。と。
ここで私は、上町台地は要害の地ではなかったとは言っていない。あくまでも、九州王朝の副都と近畿圏を守るための一連の防禦施設がないと言ったのである。
更に古賀氏は、近畿圏を守る防御施設に関して、関門海峡・瀬戸内海・大阪湾経路による敵侵入を想定した後、日本海側からの敵侵入に対しては次のように述べている。
「同様に日本海側からの侵入も困難です。仮に敦賀や舞鶴から上陸でき、琵琶湖岸で陸戦を続けながら、大阪峠を越え河内湾北岸まで到達できたとしても、既に船は敦賀や舞鶴に乗り捨てていますから、上町台地に上陸するための船がありません。このように難波宮は難攻不落という表現は決して大げさではないのです。だからこそ近畿天皇家の聖武天皇も難波を都(後期難波宮)としたのです。」と。
はてさて、古賀氏の「国防論」は如何なものであろう。不思議に思うことを次に述べる。
それは、敵は他国を攻略する際、当時は先ず侵攻した土地・物品を略奪し、人民を殺戮して、敵を疲弊させ、最終目的は王の居る宮殿を乗っ取ることではなかろうか。従って、最終目的地の宮殿だけの防衛構想は意味をなさない。日本国を守るのに皇居だけを守れば良いのか、と。
つまり、要害の地である河内湖に守られていた前期難波宮であったとしても、日本海側からの敵侵入を想定しない「近畿圏防衛」などはあり得ないことだと言ったのである。それが、たとえ河内湖に浮かべる船が有ろうと無かろうと、これは侵略する際の当初の問題ではないと考える。
なお、前掲の大下隆司氏が指摘している「古代大阪湾の新しい地図―難波は上町台地になかった」として、これについて新旧考古学者の間では意見が分かれて、まだ決着がついていないとのことである。また、織田信長と石山本願寺の戦争の際に、本願寺側が大阪湾を大改修して海と繋がるようにしたとの説もあるようであり、そうなると古賀説に大きな打撃を与えるものと思うが、ここではこれ以上は立ち入らないことにする。
三、越智国にあった「紫宸殿」と「永納山古代山城」
また、越智国の「紫宸殿」と「永納山古代山城」についても古賀氏は次のように言及している。
「同様の視点から、愛媛県西条市で発見された字地名『紫宸殿』には防衛上の問題があります。当地の発掘調査はなされていませんから、字地名『紫宸殿』が何世紀の遺構なのか、さらには宮殿遺構が存在するのかも不明ですので、今の時点で『紫宸殿』地名を根拠に何かを論ずるのは学問的に危険です。もし仮に当地がある時代の九州王朝の『都』か『王宮』であったとすれば(わたしは『行宮』のようなものがあったのではないかと想像しています)ここも周囲に防衛施設の痕跡はありませんから、近くの海岸に敵勢力が上陸したら『紫宸殿』防衛は極めて困難です。その北方に永納山神籠石城はありますが、離れ過ぎていますから直接には王宮防衛の役割は果たせません。」と。
先ず、「『紫宸殿』地名を根拠に何かを論ずるのは学問的に危険です。」は確かに一理ではあるが、古田先生が述べておられる「向日市の『大極殿』(長岡京)の論証」および「奈良市平城京の『大極の芝』の論証」からも推して、「紫宸殿」という地名を地元が勝手に付けることの出来ない「唯一・無二の中心」の“至高”の文字であることを考えなければならない。発掘はまだであるが、「紫宸殿」(地積面積七四,八〇〇平方メートル・隣接して天皇地名八一,〇〇〇平方メートル)という地名があるということは、「紫宸殿」がそこに無ければならないであろう。従って、氏の言われる「行宮」ではあり得ない。土地面積の規模から言っても違うことはお解り戴けるのではなかろうか。何しろ、斉明天皇の行宮伝承地はこの他に五ヵ所もあるのである。
因みに、わが国で「紫宸殿」と言う名前が遺っている所は僅か三ヵ所、「太宰府」と「平安京の御所」、それに「越智国明理川」だけなのである。
また、「何世紀の遺構なのか」とあるが、造営時期の問題は、その名前から推して(唐の初代皇帝「李淵」の宮殿に始まるとされている)古くはない。上限は「白村江の戦い」(六六二年)の直前か、敗戦濃厚になった時点と考えられる。下限は近畿王朝になってからの七〇一年以降では絶対と言って良いほど考えられない。そして、ここ越智国「紫宸殿」は、氏が言われている「九州王朝の副都」の建設時期の七世紀中葉の頃とは違って、九州王朝が滅亡に瀕していた時期である。なお、そのような時期であることから、豪華な施設は造れなかったと思っている。
次に、永納山は「神籠石城」ではなく「山城」である。そして「永納山古代山城」は「紫宸殿」の北西に在り距離は現在で二キロメートルであるが、古代の海岸線は内陸にずっと入り込んでいたので相当近かったはずである。これが氏の言う「離れすぎ」なのであろうか。見解の相違であるかも知れないが、私は「指呼の間」とも言うべき距離であると思っている。
また、関門海峡を経て「紫宸殿」に来るまでには、来島海峡などの渦巻く海域の島嶼部を越えて来なければならないし、そこには「越智水軍」が待ち構えている難攻不落の地でもある。
更に、古賀氏は「紫宸殿」の周囲に防衛施設の痕跡はないと述べているが、これは当然のこと、造営時期の問題から防衛施設などを造る余裕がなかったからである。それに、越智国主・越智守興が参戦し、捕虜になっていたことから、主の留守中でもあり、大勢の越智国の将兵が“海の藻屑”と消えたことを考えると尚更のことである。
なお、「永納山古代山城」は古田先生も述べておられる通り、築造年代は「紫宸殿」よりもずっと古い。私は、「永納山古代山城」があったので、ここに「紫宸殿」を造営したと記している。敢えて言わせて戴くと、古賀氏は失礼ながら現地を知らないでものを言い過ぎる。
四、「『副都説』反対論者への問い」について
私は会報№一三二号で、次のように記した。
私には造営時期がいつなのか、などの考古学的なことは解らないので、古賀氏の精力的な研究に対しこれ以上立ち入ることはできないが、「前期難波宮九州王朝の副都」説に対して、日頃の疑問点を述べるに留めたい。
として、五項目の疑問点を挙げていた。
その中で氏が答えたのは、<その二>「前期難波宮の防衛施設」についてであり、これは前項で記した通りである。
しかしながら、次の四項目については一切答えてもらえなかった。
<その一>古田先生の「斉明天皇九州王朝天子説」について。
<その三>「白村江の敗戦」の後、「唐の進駐軍」が近畿には一兵も来た“気配”がない。難波宮が副都であるならば来て当然のことと思われるが不思議である。<その四>難波宮が副都であるならば、天智天皇の時代までは、ここには九州王朝の兵士が常駐していたはずである。しかしながら、「壬申の大乱」前までその“気配”がない。
<その五>太宰府政庁と前期難波宮の規模の比較問題について。
それに反して「『副都説』反対論者への問い」として、次の四項目を挙げている。
1,前期難波宮は誰の宮殿なのか。
2,前期難波宮は何のための宮殿なのか。
3,全国を評制支配するにふさわしい七世紀中頃の宮殿・官衛遺跡はどこか。
4,『日本書紀』に見える白雉改元の大規模な儀式が可能な七世紀中頃の宮殿はどこか。
1,2,については、私は解らないとしか言いようはない。と言うのは、造営時期がまだ確定していないのではないかと思うのである。これに関しては、考古学者の間でも見解が分かれていて、私は納得できる決定的な要素がないと思っている。そして、何分にも古田先生の見解が示されていない。私は、再三に亘り先生に結論を出して戴きたいとお願いして来たのである。最後に「第十一回八王子セミナ―」前の夏頃電話にてお尋ねしたところ、このようにおっしゃられた。
「今のところ、これは近畿天皇家の施設だと思っているが、まだ確定できない。」と。
古田先生が結論を出せないほどの、史料・考古学上の決定的な要因がまだない状況で、私には到底見解を述べることはできないのである。
3,について、「評」制度の制定時期についての私の理解は、古田先生の次の説による。
「『倭の五王』時代の継体二四年(五三〇)に任那に『評』が出現していることから、わが国でも既に『評』があった(『市民の古代』第六集、「大化の改新と九州王朝」一九八四年)」。
この説に従えば、評」制の発布・施行は九州の「倭の五王」の首都で、ということになるのではなかろうか。また、古田先生は次のようにも述べておられる。
「『評』のはじまりは孝徳天皇の時だなどといっていますが、記紀のどこにも書かれていない。それは学者の説にすぎないのです(『古田史学会報』№一一三―「古田史学の会・四国例会百回記念講演会」)。と。
4,については、答えになるかは分からないが、一つ気になることがある。それは「難波長柄豊崎宮」の所在地について、古田先生は博多湾の「愛宕神社」がある所とされている。それに対して古賀氏は「難波宮」でもなく、大阪市の長柄にあるとしている。大きな違いであるが、これについては如何なものであろう。
おわりに
反論大歓迎ということでもあったので、ついつい縷々申し上げてしまった。ところで、この論争は古賀氏の『古田史学会報』(一二九・一三〇)で、私の「斉明天皇論」の越智国にある「斉明地名」に対して誤解して論究して来たことに始まっている。これは一体何故なのか。
抑も「斉明天皇論」は、古田先生の説でもあるが、斉明天皇が九州王朝の天子で越智国と密接な関係があって、しかも「紫宸殿」まであることに、何か不都合があるからではないのか、と。それは「前期難波宮九州王朝説」に照らして、と勘ぐってしまう。
会員諸氏のご意見は如何なものであろうか。おそらく “不毛の論争”に明け暮れて、と思っているに違いない。以上である。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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