2016年2月10日

古田史学会報

132号

1,『日本書紀』に引用された
 「漢籍」と九州王朝
 正木裕

2,伊予国分寺と白鳳瓦
 今井久

3,「皇極」と「斉明」
 についての一考察
 古田武彦先生を偲びつつ
 合田洋一

4,追憶・古田武彦先生(2)
池田大作氏の書評「批判と研究」
 代表 古賀達也

5, 二〇一五年の回顧と
年頭のご挨拶
古田史学の会・代表 古賀達也

6,古田武彦先生
 追悼会の報告

 

古田史学会報一覧

九州・四国に多い「みょう」地名 古賀達也(会報129号)へ
「権力」地名と諡号成立の考察 古賀達也(会報130号)へ

古賀達也氏の論稿「みょう」地名について -- 「斉明」と「才明」(会報131号)へ
九州王朝にあった二つの「正倉院」の謎 合田洋一(会報130号)
『要衛の都』前期難波宮」に反論する (会報134号)へ


「皇極」と「斉明」についての一考察

古田武彦先生を偲びつつ

松山市 合田洋一

   序

 私が論じてきた「越智国と斉明天皇」について、疑義をもたれている方がおられるようなので、前号で述べた「『みょう』地名について -- 『斉明』と『才明』」に引き続き、その関連を述べることにしたい。
 それは、近畿天皇家において重祚ちょうそした最初の天皇とされる斉明天皇についてであり、従来の拙論を踏まえて「皇極天皇とは同一人物ではない」・「九州王朝の天子であった」・「その諱いみなは生前の天子名であり没後の名前ではない」など、及びそれに加えて「斉明天皇と前期難波宮との関係は」についても論述する。―古田先生を偲びつつ―これにて疑念を払拭されれば幸いである。

一、「皇極天皇」・「斉明天皇」の通説

 おさらいの意味で、『日本書紀』(岩波文庫本、ルビ筆者)による両天皇の通説を述べると次のようである。
 
 皇極天皇
 生前の諱を天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしはひたらしひめのすめらみこと 第三五代)と言い、淳中倉太珠敷天皇(ぬなくらのふとたましきのすめらみこと 第三〇代漢風諡号かんぷうしごう・敏達天皇)の孫の茅渟王ちぬのおほぎみの子であり、夫となる息長足日広額天皇(おきながたたしひろぬかのすめらみこと 田村皇子、第三四代漢風諡号・舒明天皇)の姪である。
 初見は「舒明天皇即位前紀」の
 「二年の春正月丁卯朔戊寅、立寶皇女為皇后」(宝皇女を立てて皇后とす)
 とあり、夫の息長足日広額天皇(舒明天皇)の亡き後皇位を継いだ。ところが、蘇我入鹿惨殺の「乙巳ノ変 いっしのへん」にショックを受け同母弟の天万豊日天皇(あめよろずひのすめらみこと 第三六代漢風諡号・孝徳天皇)に皇位を譲る。
 
 斉明天皇
 前の天豊財重日足姫天皇(皇極天皇)のことであり、天万豊日天皇(孝徳天皇)の亡き後再び皇位に就いた。重祚である。
 そして、「即位前紀」の冒頭に、

 「天豊財重日足姫天皇は、初に橘豊日天皇(たちばなのとよひのすめらみこと 漢風諡号・用明天皇)の孫髙向王たかむくのおほきみに適みあひして、漢皇子あやのみこを生しませり。後に息長足日広額天皇(舒明天皇)に適して、二の男ふさはしらのひこみこ・一の女ひとはしらのひめみこを生します。二年に立ちて皇后と為りたまふ。息長足日広額天皇の紀に見ゆ。」

 とあり、「初めに髙向王に嫁ぎ漢皇子を生んだ」と記されている。後述するがこれは不思議な記事である。
 その後、舒明天皇に嫁して二の男(天智天皇・天武天皇)と一の女(間人皇女 はいひとのひめみこ)を生んだとある。

 

二、斉明天皇は九州王朝の天子であった

 古田武彦先生は「皇極天皇と斉明天皇は同一人物ではなく、皇極天皇は近畿天皇家の大王であり、斉明天皇(さいみょう天皇)は九州王朝の天子で、その時の年号は白鳳である」(『古代に真実を求めて』第十五集「九州王朝終末期の史料批判―白鳳年号をめぐって―」)と。すなわち、その理由として次のように述べておられる。肝心のところなので少し長くなるが引用しておきたい。

       七
(その一)日本書紀では「皇極(六四二~六四五)」と「斉明(六五五~六六一)」を同一人としているけれど、両者の「役割」は全く異なっている。前者(皇極)は「天智と天武たちの母」である上、いわゆる「大化の改新(六四五)のさいの「天皇」という“晴れがましい”立場である。これに対し、後者(斉明)は「狂心の渠(みぞ)」の主(ぬし)として、他に見られぬ最悪の「役割」が“振られ”ている。

(その二)従来のメディアの報道する飛鳥(奈良県)の溝など小さく整美なものであり、全くその“そしり”には当たらない(いわゆる「八角墓」も不当。十一月六日の八王子・大学セミナーで詳述)。

(その三)これに対し九州の(太宰府、筑後川流域を中心とする)神籠石群は、対敵(新羅、高句麗、隋・唐)軍事要塞として、壮大な建造物。水城や運河(筑後川沿い)も厖大な労力を費やした対敵軍事施設である。「白村江の敗戦」のあと筑紫に追跡してきた唐軍(戦勝軍)に対して、右のような厖大な対敵軍事施設が「狂心の女王」のリードによるものとし、筑紫周辺の住民も“迷惑していた旨の”「責任者」としての「役割」を“当てられた”女王、それが「斉明天皇」なのであった。

(その四)皇極(大和)と斉明(筑紫)この“別人”を「同一人物」として“結合”する手法は日本書紀の神功紀と同一である。そこでは「俾弥呼と壹与」という東アジア周知の「別人物」を、日本側の同一人物(神功皇后)を以て当てる、という手法が採られている。同じく「二人が一人」の“構造”なのである。「九州王朝は存在しなかった」という「筑紫から大和への転換」の虚構の立場に日本書紀が立ったため、共に“編み出され”た苦肉の手法の一つなのであった。

      八

第一命題。「白鳳年号」のときの天子(天皇)は斉明天皇である(サチヤマは皇太子・摂政)。

第二命題。斉明天皇は最初「九州王朝の天子」として、白村江の戦いに臨む。敗戦のあと伊予の越智に移り、その地に紫宸殿を営む。

第三命題。唐の戦勝軍は(六六二~七〇一)の間、三十九年間の間に「六回」倭国に進駐した。書紀はこれを「天智の九年間」の中に“まとめ”て記した。
(以下略)

 これに到るに古田先生は、持論に加えて越智国朝倉に遺された中・近世の『無量寺文書』『岡文書』『旧故口伝略記』『萬年山保国禅寺歴代畧記』や江戸時代末成立の『西条誌』それに『朝倉村誌』『朝倉村の文化財』(先生が当地へ足を運ばなくても済むよう、これらを私が差し上げた)などを厳密に検証された上で、拙論の「越智国と斉明天皇」(『新説伊予の古代』・『古代に真実を求めて』第十三集・第十四集などで論述)を精査し、前記の「斉明天皇論」を唱えられたものと確信している。
 ところで、私事に亘って恐縮であり以前にも述べていることであるが、古田先生を偲びつつ、ここで重ねて述べておきたい。
 私が「古田史学」と郷土史に入る切っ掛けは一冊の本からであった。それは、古田武彦先生の不滅の名著『「邪馬台国」はなかった』である。二〇〇〇年十月に故・小倉晴夫叔父(「多元の会」・「古田史学の会」会員、古田先生とは同年で先生より二十日前に亡くなった)からこの本を奨められて以降、私は「古田史学」に傾倒していったのである。
 先生の著作を読み漁る中で、三作目の『盗まれた神話』にある「国生み神話の伊予之二名洲」の比定地が「愛媛県伊予郡双海町」となっていたことに注目したことから、私の郷土史の研究が始まったのである。大先生に“恐れながらの押っ取り刀”で、これは「昭和三〇年合併による新町名で間違いであり、二名として風早の難波・那賀の二ヵ所の“ナ”を比定します」との論稿をお送りしたところ、すぐさま先生からお電話を戴き「私の間違いでした」と述べられたのである。これには正に“びっくり仰天、そして感動”した。これほどの大先生が素直にご自分の間違いを認めるとは“凄い先生だ”、大袈裟と思われるかも知れないが“この先生にならこれからの私の人生をかけることができる”とまで思ったのである。
 因みに、拙書の一作目『国生み神話の 伊予之二名洲考』(風早歴史文化研究会二十五周年記念出版、二〇〇二年七月三十一日発行)に先生の「特別寄稿・緒言」を戴いている。
 その後、私は「聖徳太子道後来湯説」を研究する過程で、これはどうもおかしい、松山・道後は全くそれに適合しないことに気が付き、足が自ずと朝倉・西条の「越智国」へ向かったのである。そこで、当地にお住まいの今井久氏(古田史学の会・四国幹事)のご案内のもと史跡巡りをするのであるが、「犬も歩けば棒に当たる」のたとえではないけれど、大げさに言えばぶつかる所は全てと言っても過言でないくらい「聖徳太子関連=多利思北孤」そして「斉明天皇伝承」の地であった。中でも斉明天皇に関する伝承は大変多く、当地へは数回も来ていることが解ったのである。
 そうなると、「多元史観の九州王朝説」で考察すれば、斉明天皇が近畿の天皇ではないと気付くのにそれほど時間はかからなかった。何しろ、七〇一年以前は近畿天皇家と越智国は九州王朝の同じ傘下にあって「個別独立に存在」しているので“同格”のはずである。従って、斉明天皇がもし近畿の天皇だったのなら、他人の領土である越智国に何回も来て、五ヵ所も行宮を造り、何ヵ月も居座ることなど出来る訳がないからである。これは、正しく上位国である九州王朝の天子の所業と言わざるを得ない。つまり、越智国が九州王朝の傘下の国であるので可能だった、と。
 そして、『日本書紀』中の斉明天皇晩年の記事にある地名・行宮名などは全て越智国と隣の宇摩国にあったのである(拙書『新説伊予の古代』、『古代に真実を求めて』十三・十四・十六・十七・十八集の拙論で詳述)。これらを『日本書紀』の記事に合わせて、後世に創ったのであろうと言う人がいるかも知れないが、現地を鑑みると、これら全てをそんなに上手く付き合わせることなど出来るはずもない、と思うのである。
 中でも、宇摩国の「磐瀬行宮改め長津宮」については、卜部兼方(『釈日本紀』―鎌倉時代)・谷川士清(『日本書紀通證』―江戸時代)も『日本書紀』の記事をここに比定していることを付言しておきたい(『古代に真実を求めて』第十三集所載、拙稿「娜大津の長津宮考」)。
 従って、「斉明は近畿天皇家の大王ではなく、九州王朝の天子」であったのである。
 そうだとすれば、当然のことながら、古田先生が述べておられる通り「斉明天皇」は近畿の「皇極天皇」とは同一人物ではないことになる。

 更にそのことは、『日本書紀』「斉明紀」の冒頭にある
 
「髙向王に適して、漢皇子を生しませり。後に息長足日広額天皇(舒明天皇)に適して、二の男・一の女を生します。」

の記事が、同一人物であるはずの最初の「皇極紀」には無い。これは全く不自然であり異常である。しかも、夫であった髙向王も天皇の子でもある漢皇子も他に出現しない“未詳”の人物なのである(「岩波文庫」注)。明らかに別人を組み合わせた結果こうなったとしか考えられないのである。
 そして、次の「二の男」を生んだ記事、つまり天智と天武のことであるが、このことについて私は「天武は斉明の弟であり、天智とは兄弟ではない」と論述している(『古代に真実を求めて』第十七集所収「天武天皇の謎―斉明天皇と天武天皇は果たして親子か」)。つまり、『日本書紀』は明らかに手の込んだ“合体策”を作った。それは、「皇極」改め「斉明」となり、ここに史上初の“重祚”という形を知ることになる。
 また、「皇極天皇」の諱は天豊財重日足姫天皇であるが、「舒明天皇即位前紀」に「立寶皇女為皇后」(宝皇女を立てて皇后とす)とあって、“別名”として「宝」という皇女の“予告記事”を載せている。しかし、どうもこれも変である。
 これは、奇しくも「斉明」の「宝」と「皇極」の本名の一字である「財」が同じ「たから」であるため、同一人物として合体させるには格好の“材料”であり、そこで重祚を正当化するためにわざわざ「舒明天皇即位前紀」に細工したのである。後述するが「宝」は、斉明天皇の即位前の幼い頃からの名前ではなかったか。
 因みに、以前にも触れたが、私は斉明の夫である「舒明天皇」(田村皇子)も九州王朝の天子であったと考えている。

三、「斉明」は生前の天子名であり没後の名前ではない

 九州王朝の大王や天子名に「中国風」一字名称があることは、つとに知られている。例えば、倭王「旨」、邪馬壹国の女王「与」、倭の五王「讃・珍・済・興・武」、『隋書』俀国伝に登場する「上塔の“利”」(古田説)、「多利思北孤の“鉾”」(正木裕氏説)などがそれである。これが九州王朝の大王や天子名の形式であるという見方もあるが、一方「卑弥呼」、「磐井」、「薩野馬」や、天子説もある「伊勢」(古賀達也氏説)などの二文字や三文字もある。
 そこで、二文字の「斉明」はどうなのか。そして、これは生前の天子名なのか没後の名前なのか。つまり、近畿天皇家と同様に後世に名付けられた「漢風諡号」なのかの議論があるであろう。
 しかし、九州王朝天子には没後の諡号は現在まで発見されていないので、これは生前の諱であると考える。
 それも、中国の南朝に臣従した九州王朝ならではの「南朝音」の「さいみょう」である。何故ならば前回の「『みょう』地名について」で述べたように越智国朝倉にある地名が古くは「斉明」であり、現・地名が「才明(さいみょう)」であるからである。
 そして何分にも、越智国に遺る古文書や伝承地は全て「斉明」となっている。これについて、「九州にはあちこちに天皇地名があることから、これと同様にこれらは後の世に付けられたのではないか」との古賀達也氏の指摘がある。
 しかしながら思うに、「斉明天皇」となっている古文書や伝承地の地名が仮に元・地名が近畿天皇家の「天豊財重日足姫天皇」や九州王朝の「宝天皇」か○○天皇だったとして、それが後世に「斉明天皇」と変えられたとは到底考えられない。それを一斉にか序々にかは言いようがないが、果たして変えることが可能であろうか。何しろ、数が多いことからも、またそのような痕跡が見当たらないことからも、有り得ないと言わざるを得ない。
 但し、宇摩国長津宮に関しては、「斉明天皇」と「宝」が同居している。すなわち、長津宮は現在村山神社(四国中央市土居町)となっており、その社殿の真ん前に「宝塚」があって、この塚からは、「鉄剣・槍の穂先など十二本・鏡一面・香合七個」などの“宝物”が発掘されているからで、この他にも現在は失われているが「鞍・鎧・高麗犬」などもあったようである。
 『西条誌』や『村山神社の由緒書き=パンフレット』によれば、斉明天皇はこの地へは二度来ていると思われる。初めは、斉明天皇一行を乗せた御座船が「娜大津なのおおつ」の沖合の燧灘ひうちなだで難破したため、かろうじてここに上陸することが出来、「磐瀬」に行宮を設営した。その後、再びここへ来て助かった御礼として「宝塚」を造り、「磐瀬宮」を「長津宮」に改名したという(「娜大津」・「磐瀬宮」改名「長津宮」については『日本書紀』にも記述あり。拙論上掲第十三集所載)。
 そこで、この「宝塚」であるが、これは“宝物”を埋めたということと、自分の即位前の名前である「宝」を合わせたと見られる。そのようなことから推しはかると「斉明」と「宝」が同じ土俵上にあることになる。
 以上のことなどから、私は「斉明(さいみょう)」は九州王朝の生前の天子名だった、と考えている。
 なお、『日本書紀』の「斉明紀」については、古賀達也氏や正木裕氏は九州王朝天子の事績の盗用であるとしている。このことは、古田先生や拙論と一致しているようであるが、違うことは天子名についてであり「斉明」であったかどうかは解らない、と両氏は述べている。以上付言しておきたい。

 
四、斉明天皇と「前期難波宮」との関係は

 ここで、古賀達也氏の説である「前期難波宮は九州王朝の副都」について、少し述べておきたい。
 実は「白村江の敗戦」に伴い「天子・斉明」と「越智国の紫宸殿」の関係からみて、この「副都説」がどうしても解らない。果たして副都なのか。変な言い方ではあるが、その解らないことを以下に述べたい。

その一―古田先生の斉明天皇説
 「斉明天皇は九州王朝の天子」で、その年号が「白鳳」であって、「白村江の敗戦」(六六二年)のあと、唐の進駐軍に太宰府を追われ、越智国に「紫宸殿」を営んだ―
 と。なお、先生はこの「白村江の敗戦(六六二年)後、越智国に紫宸殿を営む」と述べておられるが、私の考えは少し違う。
 それは、この戦いには越智国の将兵が一説に五〇〇〇名(『日本国現報善悪霊異記』・『予章記』など)ほど参戦しており、このとき国主である越智守興も唐の捕虜となっていることなどから、“造営”の時期を先生の述べておられる敗戦後に求めることは、人手や費用の上から無理と思っている。但し、斉明による“遷都”は戦中後半ではなかろうか、と。
 それでは、越智国の「紫宸殿」造営時期はとなると、太宰府の「紫宸殿」造営(紫宸殿の名前の由来は、唐の高祖・李淵の宮殿に始まるとされているので、李淵が全土を統一した六二一年より後と考えられるが、確かなことは解らない)より後であることは言うまでもないが、朝鮮半島での戦局が危うい状況になってから、つまり「白村江の敗戦」に間近い時期と考えている。
 とは言え論の核心に触れるが、摂津国難波に九州王朝の宮殿があるとすれば何故に途中下車の状態で越智国に「紫宸殿」を営んだのか。それも、前期難波宮は七世紀中葉には造営されていて、規模も太宰府政庁よりも広大とのことであるのに、である。

 ところで、『日本書紀』天武天皇下十二年(六八三)十二月の記事、
 
「凡おおよそ都城みやこ・宮室おほみや、一処ひとところに非ず、必ず両参ふたところみたところ造らむ。故から、先づ難波に都つくらむと欲おもふ。」

について。「都を二、三ヵ所造れ」とあるが、正木裕氏はこの記事について「三十四年遡上説」(事実は六四九年)を提唱していることから、これを古賀氏は「九州王朝史書からの盗用」と位置付けて、「前期難波宮九州王朝の副都説」の根拠の一つとしている。
 しかしながら私は、このことも承知の上で、なお納得できないのである。
 それは、越智国の「紫宸殿」はまだ発掘されていないが、言うまでもなくこのような地名を地元が勝手に付けることは出来ないであろうから、存在していたことは間違いない。そのため、近畿王朝の「律令体制」(七〇一年以降)になった時に “僅か三郷”で「桑村郡」になったことは、それが九州王朝の“遺産”(当時は既に破却されていたと思われる)であっても、由緒ある土地であったればこそ、の格別の計らいによるものではなかろうか。
 なお、郷土史家の間ではかねて三郷での立郡は不思議とされていた。それは「紫宸殿」の小字地名の存在を知らなかった、或いは知っていてもその存在理由が解らなかったため、と考えている(明治三十年に桑村郡と周敷郡が合併して周桑郡となる)。因みに、『倭名類従抄』によると、伊予国十三郡のうち「小郡」は桑村郡と久米郡(五郷で立郡、ここには「久米評」の官衙が存在していた)だけであった。 重ねて述べるが、「紫宸殿」を造るとなると、厖大に費用と時間がかかること
は言を待たない。それなのに、前期難波宮の他にわざわざ越智国に「紫宸殿」を造営したことが解らないのである。しかも、“激動極まる九州王朝存亡の時”においてである。

その二―古田先生も述べておられるが、前期難波宮が「九州王朝の副都」であるならば、そこに防御施設たるべき「神籠石城」「山城」が全く無いのは何故なのか。
 七世紀中葉というと、九州では首都太宰府を取り巻くように城が盛んに造られていた時期である。それであるのに、舞鶴湾・若狭湾・敦賀湾などの日本海側および大阪湾からの敵(隋・唐、新羅・高句麗)の侵入の想定もない。つまり、“近畿圏には防御施設が無い”のである(但し、『日本書紀』には高安城の記述があるが不確か)。
 これについて古賀氏は、「前期難波宮は上町台地にあり河内湖に囲まれた要害の地にあるため防御施設は必要なかった」(「前期難波宮九州王朝副都説と大化の改新」、平成二〇年六月七日、松山市立北条ふるさと館、第五四回古田史学の会・四国勉強会にて)と述べている。
 しかしながら、これで思うことは仮に要害の地にあったとしても(なお、『古田史学会報』一〇七号に「古代大阪湾の新しい地図―難波は上町台地になかった」と、大下隆司氏の反論記事がある)、これはあくまでも宮殿のみを守ることであって、近畿一円の領土を守ることには成り得ない。このことは、奈良時代に築かれた 「三関」即ち「愛発関(あらちのせき)・不破関・鈴鹿関」により、関東の東戎(あずまえびす)の侵入を防ぐための防御施設の存在、或いは奥羽の藤原氏が白河関を造り、己の領土を守ろうとしたことを見ても、前述の日本海側から侵入に対する防御施設がないのは、「九州王朝の副都」であるならば有り得ないことと考える。これはどう見てもおかしい、納得できないのである。
 因みに、越智国「紫宸殿」には、その前面の海側に「永納山古代山城」がある。この山城が築造された当初の目的は、越智国の王都・朝倉を守るためであったと思われるが、これがあったことから都合良くここに「紫宸殿」が造られたと考えている。

その三―「白村江の敗戦」の後、「唐の進駐軍」が近畿には一兵も来た“気配”が無いのは何故なのか。もし、「副都」であるならば当然来るのが当たり前。来ていないのは不思議である。

その四―難波宮が九州王朝の「副都」であるならば、天智天皇の時代までは、ここには兵士が常駐していたはずである。そうなると、近畿天皇家の兵力と九州王朝の兵力がこの地に混在していたことになる。
 しかしながら、「壬申の大乱」前まで九州王朝の兵力があったとの“気配”が全くないのである。

その五―古賀氏は「九州王朝の首都である太宰府政庁より前期難波宮の方が遙かに規模が広大であるので、もしこれが近畿王国の政庁・宮殿であるならば不自然であり、これは九州王朝の副都である」(前記の第五四回古田史学の会・四国勉
強会)としている。

 しかしながら、当時九州王朝は朝鮮半島の争乱(百済対新羅・高句麗)に巻き込まれ、混迷の度を深めているばかりか、九州本土内においても“火の粉”を防ぐ必要性から盛んに防御施設の「神籠石城」や「水城」などを築造していた。そのため、王朝は疲弊し政庁や宮殿に費用をかける余裕が無かったと思われる。
 それに対して近畿天皇家側は、政敵の物部氏を倒し、次いで蘇我氏を葬り去り、近畿一の大豪族に成長していた。そして、朝鮮半島の争乱にも介入せず、墓の築造以外は土木に費やすこともなかったと思われ、太宰府を圧倒しうる政庁・宮殿を設営出来たと考えるのであるが、如何なものであろう。
 私には造営時期がいつなのか、などの考古学的なことは解らないので、古賀氏の精力的な研究に対しこれ以上立ち入ることはできないが、「前期難波宮は九州王朝の副都」説に対して、日頃の疑問点を述べるに留めたい。

   結び

 わが国の古代史は、七世紀中葉より末までの期間、つまり九州王朝の終末期ほど解らないことが多すぎて、矛盾だらけとなっている。その根源は『日本書紀』にある。つまり、過去に日本列島の主権者であった九州王朝を“なかった”ことにして、その歴史を勝者である近畿天皇家に取り込み、盗作・改作・造作してわが国の“正史”とされる『日本書紀』を作り上げた。その際、系図まで自分達の都合の良いように作成したのである。
 この書で語られる歴史、つまり「近畿王朝一元史観」を、為政者やそれにおもねる学者達によって、今日に至るまで真実の歴史として伝えられて来た。それを反映して郷土史も往々にして矛盾に満ちたものになっていたのである。
 しかしながら、ここ越智国では伊予国の他地区(特に松山・道後)とは違って、多くの真実が遺されていた。そこで、一部に覆われていた靄を「多元史観・九州王朝説」で繙いたところ一挙に晴れてきたのである。
 その結果、誠に僭越ではあるが、郷土史を通しわが国古代史の根幹に関わる事柄に矛先を向けることが出来たのではないかと思っている。向後、本論がそこに横たわっている大きな矛盾や闇を切り拓いていく一助になれば望外の慶びである。諸兄のご批判に供したい。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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