盗まれた九州王朝の天文観測 正木裕(会報134号)へ
『日本書紀』に引用された「漢籍」と九州王朝
川西市 正木裕
一、『日本書紀』における「漢籍」の引用
1、間接引用と直接引用
『書紀』には様々な「漢籍(中国の漢文書籍)」が引用されている。その多くは唐代、六二四年の撰とされる『藝文類聚げいもんるいじゅう』に収録されており、これらは『書紀』の「潤色」のため『類聚』を通して「間接」に引用されたものと考えられている。その一方で、「漢籍の原典」にあるが『類聚』に見えない文章もあり、「原典からの直接引用」の存在も疑えないとされている。(註1)
しかし、「直接・間接」のいずれにせよ、通説では「大和朝廷」において、『書紀』編者が編纂時に引用したものとすることに異論はないようだ。
2、『古事記』と『日本書紀』の間
ところで、和銅五年(七一二)に 上梓された『古事記』では、意祁王(仁賢)以降、系図的記述を除いて、その事績はほとんど記されていない。一方、その後僅か八年後の養老四年(七二〇)に完成した『日本書紀』には半島や中国との交流など豊富な記事が記載されている。
この点について、古田武彦氏は『盗まれた神話』ほかで、『書紀』には九州王朝の史書が盗用されていることを示された。そして、『続日本紀』の和銅元年(七〇八)正月条に、「山沢に亡命して禁書を挟蔵し、百日まで首せずんば罪に復すること初めの如くす」とある「禁書」とは「当然九州王朝を正統とする立場の書物であろう」とされている。
そして九州年号は七一二年の「大長九年」で途絶え、『続日本紀』によれば翌七一三年大和朝廷より征隼人将軍らへ恩賞が下され、大隅国が設置される。これは南九州の九州王朝の残存勢力が「隼人」として討伐され、七一三年に九州王朝が消滅したことを意味するものだ。
従って、『書紀』における記事量の拡大の原因は、近畿天皇家が七一二~七二〇年の間に「九州王朝を正統とする」書物を入手し、そこからの盗用・引用を行ったことによると推測されよう。そうであれば『書紀』中の「漢籍」も、そもそも九州王朝の史書資料に既に引用されていた可能性があろう。そこで、本稿では『書紀』に引用された『漢籍』の内容を、近畿天皇家の天皇の事績と比較することにより、これを確認していくこととする。
二、『書紀』中に見える「漢籍」
1、「白雉改元」記事に見える「漢籍」
『書紀』六五〇年記事の「白雉改元」には、当時の知識人が「漢籍」を典拠とし、白雉が「吉兆」であることを語る記事がある(後掲)。「白雉」年号は「元壬子年」木簡の発見で、九州年号どおりの壬子元年(六五二)が本来の姿で、白雉改元は九州王朝の事績であることが明らかにされた。従って、この改元記事は九州王朝の史書資料からの盗用であり、「改元根拠」を形成し改元と不可分な「漢籍」も当然「一体のもの」として盗用されたことになろう。これは、そうした「漢籍」は既に九州王朝に伝わっていたことを示すものだ。
◆『書紀』白雉元年(六五〇)二月戊寅(九日)に、穴戸国司草壁連醜経、白雉を献りて曰さく、「国造首が同族贄、正月九日に、麻山をのやまにして獲たり」とまうす。是に、諸を百済君に問ひたまふ。百済君曰さく、①「後漢の明帝の永平十一年に、白雉在所に見ゆ」と、云々。(略)僧旻法師曰さく、「此休祥よきさがと謂ひて、希めずらしき物とするに足れり。②伏して聞く、王者四表に旁あまねく流るときは、則ち白雉見ゆ。又、王者の祭祀、相踰あやまらず、宴食衣服、節有るときは至る。又、王者の清素なるときは、山に白雉出づ。又、王者の仁聖にましますときは見ゆ。又、③周の成王の時に、越裳えっしょう氏、来りて白雉を献りて曰さく、『吾聞く、国の黄人の曰はく、久しく無別風淫雨無く、江海波溢あげざること、ここに三年なり。意はく、中国には聖人の有しますらむか。盍ぞ往でて朝つかえまつらざらむといふ。故、三つの訳を重ねて至る』とまうす。又、④晋の武帝の咸寧元年に、松滋に見ゆ。是れ休祥なり。天下に赦すべし」とまうす。是に白雉を以て、園に放たしむ。
このうち①は、『後漢書』明帝紀に「永平十一年、時に麒麟・白雉・醴れい泉・嘉禾出る所在り」とあり、九州王朝には『後漢書』が伝わっていたことが分かる。『後漢書』は九州王朝が臣従していた南朝宋代の范曄(はんよう 三九八~四四五)の編だからこれは尤もなことと言えよう。
②の伏聞以下は『芸文類聚』祥瑞部、記事条の「孝経授神契曰、周成王時、越裳献白雉・・・王者祭祀不相踰、宴食衣服有節、即至・・・、春秋感精符曰、王者旁流四表、即白雉見」による。なお、『孝経援神契こうきょうけいしんけい』は漢代、儒家の経書を神秘主義的に解釈した「緯書いしょ」のひとつ。前漢末から後漢にかけて隆盛し、後漢では内学とまで呼ばれた。緯書の原本は隋の煬帝により禁書処分されて散逸した。
③周成王時以下は、「芸文類聚」水部、海水条の「漢詩外伝曰、成王時有越裳氏、重三訳而朝曰、吾受命、国之黄髪曰、久矣、天之不迅風雨、海之不波溢也、三年於茲、意者中国有聖人乎、蓋往朝之」によったもの。『漢詩外伝』は前漢の韓嬰かんえいの著だ。
④は『宋書』符瑞志に、「晋武帝咸寧元年四月丁巳、白雉見安豊松滋」とある。『宋書』も南朝代の沈約(しんやく 四四一~五一三)の編だ。
このように、『後漢書』『孝経援神契』『漢詩外伝』『宋書』の何れも『芸文類聚』を待たずとも九州王朝に伝わっており、九州王朝の史書資料にそのまま記述されていた可能性が高い。『書紀』編者は「白雉年号」と「改元経緯」のみならず、その年号の「所以・由来」を語る「漢籍」も併せて盗用していたことになろう。
2、「継体天皇」を讃えるとされる「漢籍」
次に、『書紀』安閑元年には、「漢籍」を引用し「継体」の事績を讃える詔勅が記されている。
◆安閑元年(五三四)閏十二月己卯朔壬午(四日)(略)大伴大連、勅を奉りて宣りて曰く、「(略)故、①先天皇、顕号を建て鴻名を垂れて、広く大きなること乾坤あめつちに配そひ、光華日月に象かたどれり。②長く駕ゆき遠く撫でて、横に都の外に逸こえいで、区域を瑩みがき鏡てらして、限り無きに充みち塞みてり。上は九垓(くがい *九州、或いは天)に冠らしめ、旁あまねく八表(*地上)に済わたす。③礼を制さだめて功成ることを告し、④楽うたまひを作おこして、治まつりごとの定まることを顕す(略)
この文章は中国南朝梁の裴子野(はいしや 四六九~五三〇)の「丹陽尹湘東王(梁の蕭繹しょうえき、後の元帝)善政碑」(「藝文類聚」治教部、論政)という「漢籍」から採られたもので、『書紀』編者が継体の事績の潤色に用いたものとされている。
『書紀』では継体が半島の任那を支配、百済と親交し、新羅と激しく戦ったと書かれている。しかし、『宋書』等で半島で覇権を競った倭の五王「讃、珍、済、興、武」の「名」は『書紀』には見えず、続柄や年代から近畿天皇家の歴代天皇に比定するのが困難なことは承知の通りだ。そして、近年百済地域から発見された前方後円墳が、石室の形から「九州様式」であり、出土物も磐井の本拠の筑後をはじめとする古墳群と類似することが確認されている。つまり、「継体紀」に書かれている事績は、継体のものではなく、九州王朝の天子磐井の事績の盗用である可能性が極めて高いといえる。
古田氏は、「継体紀」の半島関係記事に見える「穂積臣押山」は、『百済本記』では「委意斯移麻岐弥」とあり、これは「委ゐの石(磐)の今君」即ち磐井のことだとされている。そうであれば『書紀』編者が磐井の事績を「盗用」し他人に潤色したことになる。
そうした観点から「継体紀」を見ると、その中に「漢籍」に記す「礼を制さだめ」たことも「楽を作おこし」たことも書かれていないことがわかる。つまり継体の事績ではないことが「善政碑」から引用されているのだ。
3、盗まれた磐井への「称賛」
一方、九州王朝の天子の事績はどうなのか。
まず、①の「先天皇、顕号を建て鴻名を垂れて」の「顕号」について、通説は「いちしろきみな」と読み「継体の霊威の強く示される意」等とするが、これでは全く意味不明だ。「顕」は顕著の「顕」で「明らか」、「号」は「称号」の「号」で、蕭繹の場合は「丹陽尹湘東王」だが、「天子」であれば「元号」を意味する可能性が高いのではないか。何故なら「武」までは梁から称号(『梁書』「號征東大將軍」)を授かっていたが、以後受号は途絶えており、そのうえで「号を建て」るとは「元号」以外に考えづらいからだ。
そして『二中歴』で最初の九州年号は「継体(五一七)」で、また「善記(五二二)」も磐井の存命中であり、「九州年号の制定」が磐井の事績であることは確実と言える。そして没直後の五三四年時点で九州王朝の「先天皇」とは「磐井」を指すこととなる。つまり「磐井が始めて元号を建てた」という実績を称賛するものなら、極めて具体的で的確な「漢籍」の引用となるのだ。
次に②の「長く駕き遠く撫で」以下だが、『書紀』宣化元年(五三六)に「全国の屯倉」から穀稼もみいねを「筑紫」に運ばせた記事がある。
この屯倉は九州王朝の都「筑紫」や、その版図である九州を遥かに超え、河内・尾張・伊賀など「東国」も含めた「遠方」に及んでいる。直前の安閑元年(五三四)十一件、安閑二年二七件、宣化元年(五三六)五件と計四三件に上る屯倉設置記事があるが、これは支配権(区域)の確立を意味し、それには相当の期間が必要であることは確かだ。『書紀』では二~三年間の事績のように集約されているが、一方で、宣化元年の記事中に「胎中之帝より、朕が身に泪るまで」と、長期にわたる事績とされていることから、「東は毛人を征すること、五十五国」と上表した武王から、前代の磐井の時代にかけ、その基が築かれたと考えて支障がないだろう。従ってこの点でも安閑元年の勅は近畿天皇家の天皇ではなく、九州王朝の「先天皇」磐井の事績を讃えたものといえよう。
③の「礼を制めて功成ることを告し」だが、古代の「礼」とは『礼記』にみるように「制度・儀礼・礼法など」を言う。そして『筑後国風土記』には磐井の墳墓に「衙頭・解部・偸とう人・贓物」など「律」に基づく用語が認められ、古田氏はこれを磐井の「律令制定」を示すものとされている。
そして、『漢書』(刑法志第三)には聖帝の事績として「制礼(礼法の制定)」と「律令制定(立法設刑)」は密接なものと記されており(「制礼以崇敬、作刑以明威也」「制礼作教、立法設刑」)、これから磐井が「律令」とともに「礼(礼法)を制め」たことが推測できるのだ。
④の「楽を作し」以下だが九州年号『二中歴』の「教到」年間(五三一~五三五)の「細注」に「舞遊始」と書かれている。
◆『二中歴』教倒 五 元辛亥 舞遊始
これは、九州年号「教倒」は五年間続き、その間に舞遊が始まった記事だ。
辛亥年は継体二五年(五三一)で、『百済本記』により「磐井崩御年」で、かつ次代の「葛子」の即位年と考えられる。磐井の末年の事績か、葛子が磐井を記念して始めたのかは微妙だが、年から考えて磐井に関する事実であることは確かだろう。(『隋書』俀国伝には、朝会では必ず「奏其國樂」し、葬儀の際には「親賓就屍歌舞」するとある)
結局、安閑元年(五三四)の勅の内容は、①五一七年に最初の九州年号「継体」を建元し、②筑紫のみならず広く屯倉を設置するなど東国の支配も確立し、③礼法と律令を制定し、④五三一年に崩御した故磐井の業績を讃えるに相応しいものといえる。そして、「勅を奉りて宣りて曰く」とあるところから、この勅を発した「次代の天子」とは「葛子」のこととなろう。
三、剽窃・潤色された「漢籍」
本稿第一章では、九州王朝の事績と考えられる「白雉改元」に引用された「漢籍」から、この時代九州王朝には、様々な漢籍・史書類が六二四年の『藝文類聚』を通じてではなく、直接伝わっていた可能性が高いことを示した。
また第二章では、『書紀』の継体崩御直後の詔勅に引用された「漢籍」の内容が、継体の事績と合わず、磐井の事績とよく一致することから、九州王朝の史書・資料に記載されていた「磐井を讃える趣旨の漢籍」が、継体を讃えるものとして剽窃されていることを示した。
『古事記』継体記には全くと言っていいほど事績がないのに反し、『書紀』継体紀のほとんどが「半島関連記事」で埋め尽くされている。倭の五王以来磐井の時期にかけ朝鮮半島で新羅等と覇を競っていたのが九州王朝であれば、『書紀』の「継体」の事績のほとんどが「磐井」の事績の剽窃・潤色であって何ら不思議はない。『書紀』編者は「事績」のみならず、それを讃える「漢籍」までも剽窃・潤色し、継体のものとしたことになろう。
(註1)小島憲之「上代日本文学と中国文学」塙書房一九六二~六五)
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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