九州王朝にあった二つの「正倉院」の謎 合田洋一(会報130号)
伊予国分寺と白鳳瓦
最初に国分寺制度を作ったのは誰か
(伊予国分寺出土の白鳳瓦を巡って)
西条市 今井 久
国分寺は、日本書紀に「聖武天皇が天平十三年(七四一)三月二十四日の詔勅によって創建された」と記し、その完成には約三十年を要し、八世紀後半に及んだ難事業であった。伊予国分寺建造の完成も八世紀後半と記すが、その廃寺跡発掘調査により、塔は回廊内に建てられていて、出土した瓦の中に七世紀の白鳳瓦がある。
日本書紀に記す事と、通説とも発掘事態とが合わない。
本稿の目的は、伊予国分寺跡より白鳳瓦が出土している事は何を物語るか考察をしてみたい。
これには、『伽藍配置の塔は回廊内に建てられていて白鳳時代の前伊予国分寺跡や、天平時代の伊予国分寺があり、白鳳瓦が出土している』「永納山城小論(長井数秋氏)」や、「誰が国分寺の制度を作ったか」(庄司圭司氏著)・等の先行論考があり、記すにあたり不勉強で、この問題に関する史料・文献を参照、参考として要約し、引用させていただく。(文責筆者)以下引用は『』とする。
亦、この地帯は古代、越智国が倭国九州王朝の一王国として存在していた。
記
いわゆる「国分寺創建」は、聖武天皇の天平十三年(七四一)三月二十四日に 次のように詔した事に始まる。
「続日本紀」上(全現代訳語・宇治谷孟)
「朕は徳のうすい身であるのに、悉く(かたじけな)も、重任をうけつぎ、云々 中略 「そこで全国に命じて、各々つつしんで七重塔一基を造営し、あわせて金光明最勝王経と妙法蓮華経をそれぞれ一揃い書経させよう 中略 そもそも七重塔を建造する寺は、国の華ともいうべきで、中略。 国司らは各々国分寺を厳かに飾るように努め、 中略 布告を出して、朕の意向を人民に知らせよ。また国毎に僧寺には封戸五十戸・水田十町を施入し、尼寺には水田十町を施入する。僧寺には必ず僧二十人を住まわせ、その寺の名は金光明四天王護国之寺とせよ。尼寺には尼十人とし、寺の名は法華滅罪の寺とせよ。」
(続日本紀全現代訳 宇治谷孟)
これを要約すると
*『仏法を国家鎮護の法として篤く敬い民衆に広く知らせる。中略、国華となる七重の塔と寺院の建立。
*寺院は僧寺と尼寺の二院制、建立する寺の名前は全国で統一。僧寺の名前は金光明四天王護国の寺(金光明寺)尼寺の名前は法華滅罪の寺(法華寺)とする。
*国からの扶持としての寺封、僧・尼の定員、任務、管理を規定している。』
一、「国分寺建立」は聖武天皇が始めた、その実態の検討
イ、「国分寺」創建の詔の寺の「名称」
*『聖武天皇の詔には僧尼寺の名は「金光明四天王寺(金光明寺)法華滅罪之寺(法華寺)を造れ」となっており「国分寺」の名前は使われていない「国分寺を創建せよ」という詔勅は日本書紀、続日本紀とも全く記録されていなく国分寺を名称とはしていない。
ロ、聖武天皇の詔の前に既に国分寺が存在している事を示す記録があること
*聖武天皇の詔の三か月前に次の記録
続日本紀天平十三年(七四一)正月十五日条
「丁酉、故太政大臣藤原朝臣の家、食封五千戸返し上る。二千戸は旧によりて、その家に返し賜う。三千戸は諸国の国分寺に施し入れて、丈六の仏像を造る料に充つ。」
ここには明確に「諸国の国分寺」と記録され、聖武天皇の「金光明寺・法華寺」創設の詔の前に既に、国分寺の制度が稼働している事を示している」との疑問がある。
*『詔の翌年の公式文書に次に示す「国分寺」の記録があること』
『天平十四年十一月十七日付「城下郡司解」-正倉院文書(大日本古文書二所収)
「優婆塞貢進解」
合弐人
鏡作首縄麻呂、年十三、黒田郷戸主正八位下大市首益山戸口
他田臣挨前人、年十六、同郷戸主鏡作連浄麻呂戸口
右、被国今月十五日午時符云、為国分寺僧尼応定、宜知此意
簡取部内清身廉行堪為僧尼之人貢挙者、謹依符旨、簡誠部内之人且貢進、謹解
天平十四年十一月十七日
大領外正八位下大養徳連友足
権小領初位上室原造具足
この要旨は「天平十四年十一月十七日の午時、大養徳国(後の大和国)の国司は、管轄下の城下郡の郡司に符を下し、大養徳国の国分寺の僧尼に充てるのにふさわしい優婆塞を貢進せよと命じた。
城下郡郡司は、早速部内において適当な優婆塞二口を簡定し同十七日にその旨を国司に解をもって申告した』(新修国分寺の研究編者角田文衛氏による要旨)
庄司圭司氏
*この文書は、聖武天皇が「国毎に建てる僧寺の名は「金光明四天王護国之寺(金光明寺)とせよ、尼寺の名は法華滅罪之寺(法華寺)とせよ」としたわずか、一年八ケ月後の公式文書である。この『文書は、国分寺という名前の官寺が既に存在し、しかもその運営が発展習熟した段階にあることを示し』。国分寺名は、金光明寺・法華寺の俗称名ではない。』
*同じく三年後の、天平十六年三月十四日には金光明王寺(東大寺)の大般若経を云々、としたその七月二十三日には、国分寺・国分尼寺云々と記している。
「続日本紀」中・全現代語訳・宇治谷孟。(28頁~29頁参照)
『この公式文書は、続日本記の記録と同じように「国分寺制度」は聖武天皇の天平十三年三月二十四日の詔に因るという通説に疑問をつきつけている。』以下記してみる。
ハ、『続日本記は詔勅の「金光明寺・法華寺」の寺名を抹消した。』
『聖武天皇天平十三年(七四一)の詔で「金光明寺・法華寺」の官寺造営を命令したこの制度の寺名表記が続日本記で見ていくと、寺名表記が次に記すごとく順次奇妙に変わっていくのである』以下引用補足する。
七四一年三月二十四日「金光明寺・法華寺」建立の詔、
七四七年十一月七日「金光明寺・法華寺」造営督促の詔。「これから三年以内を限度として金堂・僧坊をすべて造り終わらせよ云々」
七四九年七月十三日諸々の「国分金光明寺、大倭国の国分金光明寺・諸国の法華寺」
七五六年六月三日諸国が造っている「国分寺」の丈六仏像の造作を。
七五六年十二月二十日国別に灌頂の幡等を分かち使用後は「金光明寺」に収めよ
七五八年七月二十八日「国分僧寺・国分尼寺に」
七五九年十一月九日「国分二寺の図面」を天下に分かち下す
七六〇年六月七日東大寺や全国の「国分寺」を創建したことも
七六〇年七月一日それぞれ「国分金光明寺」に於いて礼拝供養させた
七六一年六月七日天下の諸国に命じてそれぞれの「国分尼寺」で阿弥陀仏の
七六二年五月二十三日高野天皇(称徳)は「法華寺」に入御した
七六六年九月五日「国分寺」と「国分尼寺」もこれに準じるように
七六七年正月八日おのおの「国分寺」である「金光明寺」に於いて
七六七年六月二十二日紀伊国那珂郡の大領、国の「国分寺」稲一万束を献上
七六八年三月一日佐渡国の「国分寺」造営料の稲一万束は、毎年越後国
七六九年九月八日国府と「国分二寺」倶に下流にあり
七七〇年四月一日私稲二万束を「国分寺」に献上したので
七七〇年九月二十二日諸国は国毎に管内の僧尼を「金光明寺・法華寺」に招請し
七七二年六月十五日畿内・七道の諸国の「国分金光明寺」で催した
七七二年十一月十日天下の諸国の「国分寺」に於いて
七七三年四月八日山背国の「国分二寺」に便宜のよい田各廿町を喜捨す
七七七年七月十四日但馬国の「国分寺」の塔に震す
七七九年八月二十六日内外の諸寺の名帳を照らし合するに「国分寺の僧尼」京に
七八一年十二月二十九日天下諸国に勅して、七七の日には「国分寺と国分尼寺」の現役にある僧尼に命じて光仁太上天皇のために斎会を設けて冥福を云々
七八二年十二月四日天下諸国の「国分寺と国分尼寺」の現役の僧尼に
七八三年四月二十八日「国分寺」の僧に死闕有る毎に
七八九年十二月二十九日天下諸国の「国分寺・国分尼寺」に現在いる僧侶や尼僧
*以上は、『続日本紀の七四一年三月、聖武天皇の金光明寺・法華寺造営の詔以後の「金光明寺・法華寺」と「国分寺」に関わる寺名表記の全てで、続日本紀の記述者は、七四一年の詔「金光明寺・法華寺」と、聖武天皇が命名した官寺制度の寺の名前を明確に記しているこの表記が実に奇妙に変わっていく経過がよく見える。
それは、八年後(七四九)からその表記が変わりはじめるのである、「国分金光明寺」と記し金光明寺の頭に国分を被せ、「国分」が形容詞かの如く表記し始める。
七五六年には「国分の丈六仏像」七五八年には「国分の僧寺・尼寺」、と記し
七五九年には「国分の二寺の図面」と形容詞的用法を拡大して表記していく』
*七六〇年六月には「天下の国分寺」と、国分寺を官寺の固有名詞として初めて表記した
『七六〇年から七七二年までの十二年間は「国分金光明寺」「金光明寺」「国分寺」「国分二寺」「金光法華二寺」と、この官寺制度には、二つの寺名が在るかのごとく、二つの寺名を繰り返し混在させて表記する。そして七七二年六月の畿内・七道の諸国の「国分金光明寺」、の表記を最後に「金光明寺」の名前を続日本紀から消し去ってしまった。
*七七二年十一月以後(光仁天皇代)は全て「国分寺」と表記している』
*『、聖武天皇が詔勅で命名した金光明寺・法華寺という官寺の名前を、大和朝廷の正史、続日本紀は少しづつ変えて行き、三十一年後の七七二年十一月以後には「金光明寺」名を完全に抹消、「国分寺」に変えてしまった。これは、単なる記述者の行為ではなく大和朝廷の為政者の作為でなければできない事である。』
(庄司圭司氏)
二、聖武天皇の詔の前に全国に国が統制する寺院が存在
*「続日本紀・大宝二年(七〇二)二月一日はじめて新律「大宝律」を天下に頒布したその二十日後『二月二十日諸国の国師をはじめて任命した。「国師」とは諸国の官寺の管理と僧・尼の監督権を与えられた僧である。この諸国の国師を任命したと記述している。既に大宝律令施行時に国が統制する寺院が全国に存在していた事を示している』
*伊予越智国にも、『高市郷朝倉郷間に古谷という処の両はずれに此度山伏寺を造建して不動明王を立つるなり 法連寺と号す 妙法院実相山といえり 是小千郡(小千国筆者)山伏此処で官位職至す 野間郡(野間国)佐方村善立院 是野間郡(野間国)山伏司なり 風早郡(風早国)山伏司は萩原山法生寺 此の三寺は伊豫国山伏司なり』と
(朝倉村誌岡文書)
*既に越智国にも「国の統制に依る寺院制度」が存在していた事を窺わせる片鱗を記している。倭国九州王朝時代の記録である。
イ、『詔以前の文献にあらわれる国分寺と推定される寺院の存在
*豊後国風土記 一総記に「寺は二所、一つは僧寺、一つは尼の寺なり」
*豊前国風土記 「寺は二所なり」
豊前国分寺跡、豊後国分寺跡、筑前国分寺跡、肥前国分寺跡、肥後国分寺跡など、九州の国分寺跡には創建以前の古い瓦が出土している寺がある
*『「復元天平諸国正税帳」(天平十年)に(国によって扶持される二箇寺)とある。既に国家統制下の寺院が存在した。』
(秋山謙蔵氏)
これらから、僧寺と尼寺の二寺制をとる官寺が、既に存在した事が推定される。
ロ、聖武天皇の詔の百年前、七世紀に寺院数が激増
『当時の寺院の数は、「日本書紀」推古三十二年(六二四)には四十六箇寺(日本書記推古天皇三十二年条)だったものが、持統六年(六九二)には五四五箇寺(扶桑略記持統六年九月条)と十倍以上にも激増している。』
『日本書記・続日本記で大寺院の建設を具体的に記述しているのは日本書記の崇峻天皇三年~推古四年の法興寺しかないが、その建築行程を列記すると次の通である。
崇峻三年(五九O)十月法興寺の用材を伐る
推古元年(五九三)一月仏舎利を法興寺の塔に納め、心柱を建てる
推古四年(五九六)十一月法興寺落成、寺司を任命
この場合でも六年を要し。しかもこれは中央政権が国内最高の技術者と技術と資金で建築したものだ。「金光明寺・法華寺」創建の時ですら三十年を要している。
こうした建築事情の背景の中で、六二八年(推古)より六九三年(持統)までの六十余年間で五百箇寺建設されている。この間、日本書記には仏教興隆政策と寺院建立がなされていると思えるその記載は見られない。』 (庄司圭司氏)
ハ、九州地方には左記の初期寺院が、小田富士雄氏に仍て列挙されている
『「筑前国十四箇寺」 浜口廃寺、神興廃寺、大分廃寺、長者原廃寺、城の原廃寺、三宅廃寺、般若寺廃寺跡、塔の原廃寺、杉塚廃寺、長安寺廃寺、観世音廃寺跡、四王寺跡、竃門山寺跡、筑前国分寺跡
「豊前国十一寺」虚空蔵寺跡、法鏡寺跡、小倉池廃寺跡、相原廃寺跡、垂水廃寺跡、上坂廃寺跡、木山廃寺跡、椿市廃寺跡、天台字跡、弥勒神宮寺跡、豊前国分寺跡、
「豊後国ニ寺」大波羅神宮寺跡、豊後国分寺跡
「肥前五寺」塔の塚廃寺、辛上廃寺、大願寺廃寺、寺浦(晴気)廃寺、肥前国分寺跡
「肥後九寺」立願字廃寺、渡鹿廃寺、十蓮寺跡、陣内廃寺、浄水寺跡、古保山廃寺、興善寺廃寺、陣山廃寺、肥後国分寺跡
「日向国一寺」日向国分寺跡
「大隅国一寺」大隅国分寺跡
「薩摩国一寺」薩摩国分寺跡
「壱岐島一寺」壱岐島分寺跡
「対馬国一寺」対馬島分寺跡
計四十六ヶ寺
以上、この寺院数が、はからずも「推古(五九三~六二八)」記」三十二年(六二四)にある「寺四十六所、(僧八百十六人、尼五百六十九人、併せて一千三百八十五人有り)」という記事とたまたま一致のことから見て、それにすべてが重なるとは思わないが、推古紀の寺院が九州王朝下の寺の記述であった可能性が高い。『九州の古代寺院は五六五年の法師寺(?)の創立を契機に、豊前の寺院は六五O年までに創立されたと百済系古瓦から推定し云々。』と、その寺院の多数の存在と古代性を記している。
九州地方古代寺院には、著名な九州修驗道の中心地の一つとされる英彦山霊山寺の縁起「彦山流記」の記事は、当山の開基を九州年号の教到年(五三一~五三五)としている、また、同書写本の末尾には「当山之立始教到元年辛亥」と記し、開基は北魏(三八六~五五〇頃)の僧・善正によると記し、大分県下毛郡耶麻渓中畑の檜原山正平寺は「豊前国志」に仁賢帝(四八八~四九八)の御宇、百済僧・正覚の開山と記し、福岡県糸島の雷山千如寺は、始祖宝持聖清賀上人(天竺僧との伝承)、人王十三代成務天皇四十八年(一八〇)来朝・応神天皇十一年庚子七月十五日示化、等と古い寺縁起の事例が記されていて早くからの仏教伝来の歴史的背景がある。
豊国(現大分県)は伊予と一衣帯水の対岸である、飛鳥時代創建伝承の法安寺(現西条市小松町北川・国史跡指定)は、推古紀に記す四十六寺の「畿外の一ヶ寺」との伝承がある。当時の「畿内」とは俀(倭)国王朝が最初に直轄地九州の地を指して呼称したのではなかろうか。
三、国分寺遺跡出土の遺構・遺物が示す」疑問点
1、『国分寺遺跡出土の伽藍配置が大きく二つにわかれている。』
*一つは塔を回廊の内、即ち塔を最も尊貴なものとして寺院の中心に置く伽藍配置。これは七世紀の古式の伽藍配置、或いは百済様の伽藍配置といわれ、法隆寺式、法起寺式、大官大寺式、川原寺式、山田寺式の伽藍配置』
*『もう一つは、塔を回廊の外に置く伽藍配置、唐様といわれ、東大寺式、興福寺式、国分寺式など八世紀以降の伽藍配置、といわれている。
この区分で全国の国分寺の伽藍配置を見てみると、次の通である。
●「塔を回廊の内に置く古式の伽藍配置の国分寺」 十八国
西海道―筑前国、筑後国、肥前国、豊後国、肥後国、薩摩国
南海道―伊予国、讃岐国、紀伊国
山陽道―備後国、備中国
山陰道―丹波国
畿内―なし
東海道―甲斐国、相模国、上総国、下総国
東山道―美濃国
北陸道―能登国
●「塔を回廊の外に置く新しい形式の伽藍配置の国分寺」
西海道―なし
南海道―淡路国、阿波国、土佐国
山陽道―播磨国、美作国、備前国、安芸国、周防国、長門国
山陰道―丹波国、但馬国、因幡国、伯耆国、出雲国
畿内―山城国、大和国、河内国、和泉国
東海道―伊賀国、尾張国、三河国、遠江国、駿河国、伊豆国、武蔵国、常陸国
東山道―近江国、信濃国、上野国、下野国、陸奥国
北陸道―若狭国、佐渡国
2、全国の国分寺遺跡から出土する国分寺の伽藍配置が分裂
七世紀のものと、八世紀以降の国分寺式のものとに分裂している。七世紀の古式の伽藍配置の国分寺からは白鳳期、七世紀の瓦出土がある。
*北部九州の筑前、筑後、肥前の、この三国の伽藍配置は同じ古式の大官大寺式で統一されている。大官大寺は元の名は百済大寺で、その規模は古代寺院の中では最も巨大な寺院で南北一九五米、東西一四四米で、その伽藍配置で統一されている。
*美濃国分寺、甲斐国分寺、能登国分寺、備中国分寺から白鳳時代の古瓦が出土している。 伊予国分寺も古式の伽藍配置で白鳳時代の古瓦が出土している。
*瓦出土ではないが、伝承文献に「寶寺古年代記」(鹿児島県)に、「白雉七年(六五八)「始国分寺」とある。七世紀の半ば、白雉七年(六五八)に国分寺が始まったと読める。
*古式の瓦出土の寺院の事例
九州で出土する百済系の単弁軒丸瓦は畿内の百済系古瓦と異なり、「九州式単弁瓦」とも言うべきその分布は九州に限られており、この瓦は筑後国分寺、豊前国分寺から出土している。 (新修国分寺の研究第五巻下小田富士雄氏「西海道の古瓦」)。
*九州の筑前、筑後、肥前、豊前豊後、肥後、薩摩の国分寺跡から出土する瓦は鴻臚館系と老司系の瓦で統一されている。
四、伊予の国分寺の考察
1、塔は回廊の内に建てられていて古式の伽藍配置で白鳳瓦が出土七世紀の瓦である。
伊予国分寺は越智国に在って、八世紀までは九州王朝の有力な一王国であった。早くから仏教を導入していた。
現小松町北川法安寺には飛鳥時代の素弁瓦が出土し、亦、倶に出土の複葉八弁蓮華文軒丸瓦(白鳳時代)は現越智郡今治市桜井の他中廃寺の瓦と、この国分寺出土の白鳳瓦に繋がるのである。この三寺は倶に古代越智国の領域である。
2、倭国九州王朝は中国王朝の正統とした南朝に朝貢し、八世紀より日本国王となった大和近畿天皇家は、隋・唐に朝貢(遣唐使)の北朝系王朝に親交した。
3、大宝元年、近畿天皇家が日本国王となった。その東大寺式寺院、即ち塔が回廊の外にある八世紀以降の国分寺は近畿天皇国家時代に即応している。
4、伊予国分寺は七世紀の九州王朝時代、越智国に創建された「国分寺」が近畿王朝に引き継がれた、それ故に「白鳳瓦」が出土したのであり、七世紀に既に、その前身国分寺が存在していたと推察する。
五、国分寺制度を最初に創ったのは倭国九州王朝である。
*『国分寺制度の創設は聖武天皇の天平十三年の詔」よりとなっているが、前記したように疑問点が幾つもある。「詔」には「金光明寺・法華寺」と命名していて、「国分寺」の呼称ではない。』
*聖武天皇の詔による官寺の制度「金光明寺創建」は全国に同じ大規模の寺院を建設するということで技術的にも、資金的にも困難を極めた。
*続日本紀の記録によれば、天平勝宝八歳(七五六)六月には「聖武天皇の一周忌日迄には国分寺造営を終わらせよ」と督促の命令が出され、天平宝字三年(七五九)には「国分二寺の図面を分つ」として建立の指導を行なっている。詔から十五年以上経っても、金光明寺(国分寺)の造営が進んでいなく、結果三十年を要したと述べている。
また『山背国分寺は、天皇の宮殿であった恭仁宮の大極殿が転用された事は文献に見え。大和国分寺は旧寺院が転用』されている。
*このように、旧寺院の転用が行われ、倭国創建の国分寺も、新国分寺に転用され、それが前身寺院といわれる遺跡、七世紀の古瓦(白鳳期)出土となって表れている。現、伊予国分寺はその一例で「白鳳時代の前伊予国分寺」を新国分寺に転用したもので、七世紀から既に存在していた。
「日出る所の天子云々」と国書を呈した九州王朝俀国王・多利思弧は既に六O七年「重ねて仏教を興す」として沙門数十人を派遣し学ばせている。その隋王朝は「北朝」であった。
*亦、聖武天皇の詔の百年前、七世紀に寺院数が激増している事は、この時代は倭国九州王朝の時代で、即ち倭国の国を挙げての仏教興隆事業があったと考えざるを得ない。
*国分寺遺跡からは、百済様といわれる白鳳期七世紀の瓦が出土する日本古式の伽藍配置の寺がある。
*聖武天皇の「金光明寺」の官寺制度の詔の前に、「国分寺」と記す寺の記録があり、この詔の前から既に、国家の統制する官寺が諸国に存在した。そしてそれは「国分寺」という通称で呼ばれていた。
*国分寺遺跡残存の中で約・三分の一が七世紀の古式寺院の伽藍配置の形式で、白鳳期の瓦の出土することは、「国分寺は七世紀に創建されていた」と考えざるを得ない。日本列島の王権は、天孫降臨以来七世紀末までは近畿天皇家に先在した倭国九州王朝である。
「国分寺制度』は倭国九州王朝が創始したと考える。
六、「国分寺制度創設」を開始した倭国王は誰か
最初に、大業三年(六O七)、「重ねて仏教を興す」として仏教を篤く敬った?国王多利思弧が沙門数十人を派遣した中国・隋王朝の仏教復興治国政策を簡略に記してみる。
*中国の寺院制度
中国も西暦六七年仏教が導入されたが、以来、『王朝が変わる度に官寺の名称が変わり・設置形態も変え、寺院制度の改廃・興亡があった。旧寺院を転用し、新寺院は建立されたが旧寺院も並行して存在した等、多様な形態をとっていること。』が報告されている。
(新修国分寺の研究第六巻角田文衛「国分寺の創設」)庄司圭次氏
西暦前中国の夏・殷・周・漢王朝以来の王朝が後代、鮮卑族の王朝・北魏(北朝・三八六年)に侵され、南北朝並立の時代となり、終に、周王朝以来の「南朝」が滅亡(五八九年)、仏教文化も「南朝系」と「北朝系」という「差」を生じた。
その北朝「隋」(五八一~六一七)王朝は、次のように仏法を復興させている。
*中国隋(文帝)の仏教治国政策
○『、開皇三年(五八三)天下の仏寺復興の詔
○開皇五年(五八五)大県別に僧・尼両寺建立の勅旨
○大興国寺という同一名称の官寺の創設を四十五州に詔す
○開皇九年(五八九)南朝陳を滅ぼし中国を統一
○国家の仏教監督統治制度を確立、中央に宗教局としての「昭玄寺」を置き、長に「大統」、副に「統」、事務局に「都維那」(以上僧官)と吏員を付属させ、州・県にはその分局としての「沙門僧」を置き、中央・地方に仏教治国の組織制度を確立
○開皇十三年(五九三)「北周武帝の廃仏毀釈の罪を懺悔」、皇室から庶民まで挙国仏教の興隆を目指す
○仁寿元年(六〇一)六月十三日「朕は三宝に帰依し、重ねて仏教を興す」として朝廷から舎利を諸州に分布し、舎利塔を建立する詔を発す
○仁寿一年~四年(六〇一~六〇四)帝室の舎利を全国百十余箇所の官寺に、塔を建立して納置する
○文帝治世期間の仏教興隆の事跡は、僧尼の育成二十三万人、寺三七九二ケ所、写経十三万巻、中央集権化を図り、皇帝の権限を強化した。』
*隋王朝は開皇三年(五八三)より仁寿四年(六〇四)にかけて「仏教を重ねて興した」のである
「隋書・東夷俀国伝」に「開皇二十年(六〇〇年・文帝の御宇)に俀国遣使。その王、字は阿毎 名は多利思北弧。六〇七年(大業三年)にまた遣使し、国書に「日出る所の天子日没する処の天子に書を至す」と記し海西の菩薩天子と呼びかけ、自らを海東の菩薩天子と自負し、国内においては仏教文化国家を目指した俀国王・多利思北弧が国書を呈して、「聞く重ねて仏教を興すと」して、「沙門数十人を派遣し仏法を学ばす」とした俀国九州王朝は七世紀初頭すでに、仏教を興し、寺院も数多く建っていたからこそ、数十人の沙門の派遣を隋国へ申しいれたと思う。
周以来の王朝の流れ「南朝」を正統として朝貢し、当然仏教文化も「南朝系」であった、その南朝陳は五八九年滅亡、自立していた俀国(倭)は、百年近い沈黙を破って中国、それも南朝に敵対し滅亡させた北朝隋に遣使した。その決断は、隋国が「仏教を重ねて興した」国であったが故に、仏教に深く帰依した俀国王多利思北弧は沙門数十人を派遣した。
*(ここからは、文献にないから推察になるが)俀国王多利思北弧は、隋の『全国百十余箇所の官寺に塔を建立し、中央に「昭玄寺」を置き、』『大県別に僧・尼両寺建立』をした「仏教治国寺院制度(国分寺制度)」を、派遣した沙門に習得させたのではなかろうか。『七世紀に全国に寺院が激増している』所以とも重なるのである。仏教に深く帰依した俀国王・多利思北弧の時代よりこの「国分寺」制度は築かれ始めたのではなかろうか。
仏教を中心にした治国政策で統治され、「秩序が維持され国民は穏やかで平和に暮らしている(隋書俀国伝)」と記している。
亦、「国分寺」の名称由来について述べる。世のいう「聖徳太子の分国記事」がある、詳しくは省くがそれは歴史の改竄で、実態は隋書「俀国伝」に「皆俀に付庸す(従う)」とある、俀国王多利思北弧の事跡で、倭国(北海道・東北・琉球を除く)を六十六国に分けたと解する。その、支配全土を六十六国に分け、その国毎に官寺を建て仏教治国政策を実行、その支配治国政策を強化した。
「国」を六十六国に「分け」、隋国の例に倣って仏教治国政策として統制した寺院をその国々に建て、「国分寺」と称したのではなかろうか。
郷土の旧朝倉村誌(下巻)には、「二名島(伊予)」のこと」として「この二名島は伊予・土佐という二国なり、中略、此の二名島を四国というは、日本国分の時、伊予より讃岐を分ち、土佐より阿波を分つ、此の時まで伊予・土佐に府中朝倉あり 阿波・讃岐に府中朝倉という所なし」との文献伝承ではあるが記されている。その史実性は措くとして、推察の深入りになった見方となる、皆様の批判・検討を仰ぎたい。
*前記した、続日本紀が三十一年かけて金光明寺名を抹消し、官寺制度の寺名を国分寺に変えたのは何故か、『それは大和朝廷が日本書記に歴史事実を改竄して記述したのと同じ手法を、続日本紀でも使ったからではないのか、それは、前王権の国分寺制度を覆い隠し、大和王権の制度にする為にその表記を工作したとしか考えられない。しかし、続日本紀は七九O年頃成立した、当時にとっては現代史だ。だから三十一年もかけて金光明寺と国分寺を融合させていったのだろう。この聖武天皇が詔勅で命名した金光明寺の表記を国分寺に替えていった続日本紀の記録こそ、正に国分寺制度が大和王権の制度ではない事を傍証するものである。』(庄司圭司氏)
*少し話はそれるが、俀国九州王朝が取り入れた「国分寺制度」は北魏系の「北魏」・「隋」の仏教制度で、それを導入した。その故か、法皇(多利思北弧)の尺寸の像という法隆寺の釈迦三尊像の相貌は「北魏佛」のそれであると、筆者にはそう見える。
先年、日本より中国へ返還された「北魏時代の石造佛(盗難により日本に渡っていた)」希少な「中国北魏仏像」といわれる石仏像と比較してそう見えるが今回はこの事は保留にして更に検討してみたい。
「九州倭国」の史書は消されて詳細は不明であるが、最初に国分寺制度を創始したのは、九州王朝俀国王であるとする所以で、一試考として記した。
まとめ
「伊予国分寺」は俀国九州王朝の仏教治国政策の下に、七世紀に創設された。
それは僧寺と尼寺による二寺制で、その教化活動の核として全国に「国分寺」という同じ名前の寺院を造営し、僧・尼の保護育成と仏教興隆治国政策により、仏教を崇め「兵あると雖も征戦せず」、平和を享受して倭国の隆盛・爛熟期を築いた「法王」多利思北弧は亦、法隆寺の釈迦三尊像の光背銘文に「法興三十一年云々」、の「法興」年号を刻され、この「夷与」にも来行し、「温湯碑文に法興六年」なる紀念を残し、亦、古代越智国、伊予残存最古の寺、現小松町北川法安寺にも「推古四年即ち法興六年、聖徳太子(多利思北弧)越智益躬をして建立」との伝承を残している。伊予国分寺はこのような歴史的背景のなかで創建されたのである。
天下に、二人の天子を許容できない「北朝」隋・唐からの「遂に絶つ(国交断絶)」は、「二人の天子」の大義名分を巡っての両国激突の前夜でもあった。
後、俀国は六六三年その白村江戦に大敗し結果、唐国に進駐軍を派遣支配されて衰退、八世紀初頭、日本列島の王権は「倭国」九州王朝から、唐(周)の則天武后の認証により日本国王は近畿大和王朝に交替された。
新国王となった近畿天皇家は、前王朝の、「国分寺制度)」はそのまま継承したが、国情が安定した七四一年三月、その基盤を固めるべく従来(九州王朝)の国分寺制度に、新王権としての新しい統制と組織を定め、その名前を「金光明寺・法華寺」に変えて、新王朝としての仏教治国政策の官寺制度を発足させた。
しかし、新寺院の建立は困難を極め、旧寺院の転用、宮殿の転用、亦、九州王朝時代の「旧国分寺」の転用が広く行われ、この制度が稼働するのには三十年を要した。
聖武天皇、詔して『金光明寺・法華寺」とすべく命名したが、それにも拘わらず既に百年余続いていた倭国九州王朝の「国分寺」は、民衆の信仰の中心となり尊崇を集め民衆に親しまれてきた尊貴な寺の名前としての「国分寺」の名を、近畿大和王朝は、ついに変えることが出来なかった』
法名としての「金光明寺」、通称としての「国分寺」と言う二つの名称をもつ寺院となったが、民衆の心の内奥までは支配できず通称としての国分寺の名称が遺存し、現在でも全国に市町村名・地名として残っている。
(当地にも、国分、古国分の地名が遺存)
国分寺の制度は倭国九州王朝が開始した仏教治国統治制度で、仏教を篤く敬った国家であった。
伊予国分寺は、越智国に倭国九州王朝の「国分寺」の一寺として建立されていた。八世紀、日本国王となった近畿大和王朝の聖武天皇天平十三年(七四一)の「金光明寺」は、この伊予国分寺に引き継がれた。
伊予国分寺跡は、日本古代の郷土に栄光の歴史を刻む七世紀の白鳳瓦を残して、その跡は今、わずかにその塔跡の大きな残存礎石に郷土の栄枯盛衰の歴史を偲ぶのみである。
二〇一二年五月五日
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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