欽明紀の真実 満田正賢(会報160号)
伊吉連博徳書の捉え方について 満田正賢(会報173号)
乙巳の変は九州王朝による
蘇我本宗家からの権力奪還の戦いだった
茨木市 満田正賢
古田史学における各氏の重要な考察と私の後期九州王朝(注①)に関する仮説をつなぎ合わせると、乙巳の変は(後期)九州王朝による蘇我本宗家からの権力奪還の戦いだったことが浮かび上がってきたので発表する。
一.史実解明の出発点は蘇我馬子
六世紀後半から七世紀前半にかけての歴史を探る上で出発点となり得るのは、蘇我馬子の存在であると考える。日本書紀では、蘇我馬子は敏達元年(五七二年、金光三年)に大臣となり推古三十四年(六二六年、仁王四年)に没したとされる。なぜ蘇我馬子が考察の出発点になるかというと、第一に、蘇我馬子は近畿天皇の臣下として描かれており、万世一系の近畿天皇家による日本支配という歴史創作のために作り出された人物とは考えにくいからである。第二に、日本書紀にも扶桑略記にも蘇我馬子が作ったと記されている法興寺が、飛鳥寺跡発掘調査で現在のいわゆる「飛鳥寺」の位置にあったことが確実視されており、考古学的な裏付けを伴うものであるからである。この点については、五月例会発表「日本書紀と扶桑略記の法興寺記事の核心部分は史実である」で報告したが、これに対峙されるべき異なる仮説は聞けていない。
二.蘇我馬子が九州王朝の臣下であった理由について
1.通説は、蘇我馬子はヤマト王権内の有力者として捉えているが、この時期に近畿天皇家が存在していたかは別にして、日本全体が九州王朝の(*私は蘇我氏の全盛期においてはほぼ名目的なものとなっていたと考えているが)支配下にあったことは、聖徳太子の伝記類や善光寺縁起等に九州年号が記されていることによって証明される。蘇我馬子が近畿における実力者であったとすると、九州王朝と蘇我馬子(蘇我本宗家)との関係が説明されなくてはならない。
2.私は、蘇我氏(蘇我稲目)を初めて大臣に起用した宣化天皇の嫡男(*古事記に倉之若江王と記された人物。日本書紀では倉稚綾媛という皇女に書き替えられている)が那津官家に遷都し後期九州王朝を立ち上げた時点で、近畿に残った蘇我氏が自動的に後期九州王朝の臣下となったと考察した。一方、山崎仁礼男氏は『蘇我王国論』の中で同じく蘇我氏が九州王朝の重臣であるという見方を示したが、山崎氏は、磐井の乱のあと九州王朝が宰相である蘇我氏を近畿へ派遣し、継体王朝を滅亡させて、近畿が実質的に蘇我氏の支配下に入ったという見方をとった。しかし、蘇我氏が九州(磐井)王朝の宰相であったという仮説には有効な論拠が見出せない。九州王朝が一元的につながっているという考え方は、通説論者の近畿王朝一元説と同じ間違いに陥る危険性があると考える。
三.山崎仁礼男氏『蘇我王国論』の日本書紀造作の仮説
1.山崎氏の仮説の概要
山崎氏は、日本書紀の造作を、実在した人物の地位(立場)の造作という観点で捉えている。具体的には、用明天皇、聖徳太子、広姫皇后(*敏達妃)、押坂彦人大兄皇太子、舒明天皇、皇極天皇の地位(立場)を造作と見做している。山崎氏の主要な論証は以下である。
①日本書紀の中の推古紀と敏達紀の矛盾。推古即位前紀に記された推古天皇の略歴「十八歳にして、渟名倉太珠敷天皇の皇后と為る。三十四歳にして渟名倉太珠敷天皇崩りましぬ。」の年齢と推古紀三十六年の「天皇崩りましぬ。時に年七十五」で計算すると、敏達天皇の没年が敏達紀の記すそれと二年違い、推古立后の年は敏達紀と五年違う。即ち、用明在位二年と敏達皇后広姫の死去(敏達五年)を省けば整合がとれる。
②推古の即位時期については、推古即位前紀の推古立后=敏達即位とすれば丁度成立する。さらに『古事記』では推古が后妃の筆頭者であり広姫は三番目に書かれている。『古事記』においては敏達の正妃は推古である。
③敏達の葬儀の異常な遅れ。書紀は敏達の葬儀を崇峻紀四年に記しているが、敏達の死は敏達紀十四年(五八五)なので、崇峻紀四年(五九一)では六年後の葬儀となる。しかも母の石姫の墓に合葬である。一方、用明天皇は用明紀二年(五八七)に亡くなり、死の三ヶ月後に葬儀が行われている。その時点で敏達の葬儀はまだ済んでいない。用明の葬儀を実際には敏達の葬儀であったと考えるとつじつまが合う。
2.山崎氏の仮説とその論証について
「広姫皇后が敏達の最初の皇后であり、その子押坂彦人大兄が皇太子となり、その子である舒明、その妻である皇極が次々と天皇となったという記述は、日本書紀が天智・天武王系の美化の為に造作したものである」という山崎氏の考察は、日本書紀は何のために作られたかという問いかけにダイレクトに答えられるものとなっており、私はこの山崎氏の考察は正しいと考える。
四.欽明天皇家が滅んだ後の近畿はどうなったか
山崎氏は、欽明天皇家は推古で終わったと論じている。それでは推古崩御のあとの近畿はどうなったのか。日本書紀には、蘇我入鹿が天皇然として振る舞ったと記されており、それが近畿における当時の権力の実態を反映した記述であることがうかがえる。蘇我馬子の時代は馬子が作った推古天皇(欽明天皇家)と馬子の二頭政治であったと考えられるが、推古天皇の死後、権力は蘇我入鹿(蘇我本宗家)に一極集中したものと考えられる。
五.乙巳の変の本質は何か
大原重雄氏は、中大兄皇子と中臣鎌足が登場する蘇我入鹿の暗殺場面は、史記の中にある荊軻による秦王政(*後の始皇帝)の暗殺場面を借りた作文であり、中大兄皇子と中臣鎌足が出会う蹴鞠の場面や中大兄皇子が倉山田麻呂の娘を娶る経緯の記述は、三国史記、三国遺事にある新羅の金春秋と金庚信の記事(*金春秋は大化三年(六四七)に来日しているので、直接話を聞いた可能性がある)の借用であると述べている。乙巳の変に関する日本書紀の記述が全くの作文であれば、乙巳の変の真実は別にあると考える事が出来る。
舒明、皇極が天皇ではなかったとすると、皇極の弟である孝徳も、舒明・皇極の子である中大兄も(欽明天皇家の)天皇となる資格をもっていない。本来の天子は筑紫(大宰府)にいる(後期)九州王朝の王である。そして近畿にいる勢力は、本来(後期)九州王朝の臣下である。孝徳・中大兄を中心とするグループは、天皇然として振る舞う蘇我本宗家を倒し、九州王朝の実質的な王権復活をなしとげたのではないだろうか(注②)。
六.(後期)九州王朝と孝徳・中大兄グループとの関係について
孝徳や中大兄は、山崎氏が考察した架空の天皇系図につながっているが、その出発点は、敏達の架空の皇后として記された「広姫皇后」であり、その父親は息長真手王である。息長氏は近江の有力豪族であり、神功皇后(息長足姫)を輩出した氏族とされ、又その中興の祖は仁徳天皇の皇子若野毛二俣王の子・意富富杼王だとされる。釈日本紀が取上げた上宮記逸文では、継体天皇はこの意富富杼王の孫とされている。(*なお、本朝皇胤紹運録も同じ系図を載せている。允恭天皇の皇后で安康、雄略両天皇の実母である忍坂大中姫は、意富富杼王の同母妹となる。)
この系図の真偽は別にしても、後期九州王朝を作り出した継体―安閑―宣化の系統は、大和の豪族にとっては外様であったことは間違いない。一方、蘇我馬子は大和の有力氏族であった葛城氏の支配地を自分の本拠であると言っていることから、大和の豪族の中心的存在であったと思われる。後期九州王朝と孝徳・中大兄等が、近江に拠点を置く息長氏を通じてつながっていた可能性があるのではないだろうか。
七.大化改新と前期難波宮建設の意義
乙巳の変を上記の如く捉えることによって、乙巳の変後の大化改新(実態は正木裕氏が考察した九州王朝による常色の改革)の部分的な真実性と前期難波宮の意義が明確になる。すなわち、九州王朝は、全国に散らばっていた渡来系氏族が自らの領地の呼称として用いていた評こほり(注③)をベースにして、評制という制度的な体制を作り上げるなど、中央集権的な国家体制の建設を始めた。それが大化改新(常色の改革)である。
又、蘇我本宗家滅亡後、孝徳・中大兄等の近畿勢力は、後期九州王朝の王を近畿に迎えた。これが前期難波宮建設の意義である。この時点で後期九州王朝は難波を都とした倭国王朝に変貌したと考える。
(注)
①後期九州王朝とは、倭の五王から続く磐井王朝は磐井の乱で滅亡し、その後、宣化紀に「全国の富を集めろ」という詔が記された「那津官家」に宣化の嫡子が遷都し後期九州王朝を立てたという筆者の仮説。この仮説に関しては、「欽明紀の真実」(古田史学会報NO.160に掲載)参照。
②乙巳の変には九州王朝から直接派遣された人物が絡んでいた可能性もある。筆者は、二月例会発表「乙巳の変と九州王朝の関係についての一考察」で、孝徳期に右大臣となった大伴馬養が九州王朝から直接派遣された人物ではないかと考察した。
③「評こほり」については、北史及び隋書に高句麗の行政区域としての「内評」「外評」、梁書に新羅の行政区域としての「琢評」、日本書紀継体二十四年条に任那の「背評」(「せこほり」という読み方も附記)とあり、朝鮮半島の行政区域の呼称であったことは明白である。筆者は今まで、評こほり制は蘇我氏が渡来系氏族を全国的に配置したことによって準備されたもので、九州王朝の制度ではないと考察してきたが、九州王朝が蘇我本宗家を滅ぼしてその遺産を引き継いだという理解に至ったので、九州王朝が行政制度としての評制を確立したという見方に変更した。
これは会報の公開です。史料批判は『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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