2020年10月12日

古田史学会報

160号

1,改新詔は
九州王朝によって宣勅された

 服部静尚
   編集後記

2,「防」無き所に「防人」無し
 山田 春廣

3,西明寺から飛鳥時代の
 絵画「発見」
 古賀達也

4,欽明紀の真実
 満田正賢

5,近江の九州王朝
湖東の「聖徳太子」伝承
 古賀達也

6,『二中歴』・年代歴の
  「不記」への新視点
 谷本 茂

7,「壹」から始める古田史学二十六
多利思北孤の時代
倭国の危機と仏教を利用した統治
古田史学の会事務局長 正木裕

 

古田史学会報一覧
ホームページに戻る


造籍年のずれと王朝交替 -- 戸令「六年一造」の不成立 古賀達也(会報159号)
田和山遺跡出土「文字」板石硯の画期 古賀達也 (会報162号)

「滋賀県出土法隆寺式瓦の予察」(会報149号)


西明寺から飛鳥時代の絵画「発見」

滋賀県湖東に九州王朝の痕跡

京都市 古賀達也

 本年八月十日の京都新聞WEB版によると、滋賀県甲良町の古刹西明寺本堂(国宝、鎌倉時代)の柱に書かれていた菩薩立像が飛鳥時代(五九二~七一〇)に描かれたもので、国内最古級の絵画であることが判ったとのこと。湖東の甲良町には天武の奥さんで高市皇子の母である尼子姫が筑後の高良大社の神を勧請したとされる高良神社(御祭神は武内宿禰)があり、以前から注目してきたところです(「洛中洛外日記」一四七話〝甲良神社と林俊彦さん〟参照)。
 湖東には九州王朝との関係をうかがわせる旧跡や伝承(「洛中洛外日記」八〇九話〝湖国の「聖徳太子」伝説〟参照)があり、近年は創建法隆寺(若草伽藍。天智九年に焼失)と同范瓦(忍冬文単弁蓮華文軒丸瓦)が栗東市の蜂屋遺跡から出土しています(古賀達也「滋賀県出土法隆寺式瓦の予察」『古田史学会報』一四九号参照)。
 今回「発見」された仏画が七世紀に遡るのであれば、九州王朝や多利思北孤との関係を考えてみる必要がありそうです。

 

【転載】京都新聞社 2020/08/10
一三〇〇年以上前の絵画を「発見」、日本最古級か
黒くすすけた柱から赤外線撮影で確認
滋賀・甲良の寺

 湖東三山の一つ、西明寺(滋賀県甲良町池寺)の本堂内陣の柱絵を調査・分析していた広島大大学院の安嶋(あじま)紀昭教授(美術学史)は九日、絵は飛鳥時代(五九二~七一〇)に描かれた菩薩(ぼさつ)立像で、描式から日本最古級の絵画とみられると発表した。八三四年とされる同寺の創建前で、創建時期が大きくさかのぼる可能性があるとも指摘した。
 菩薩立像は、本堂内陣の本尊・薬師如来像前にある西柱と南柱に描かれていた。柱は黒くすすけ、これまで何が描かれているのか分からなかったが、昨年六月、周囲の仏像を移動させ、高さ三~四メートルに描かれた絵を赤外線で撮影することができた。
 分析の結果、両柱(直径約四五センチ)には、菩薩立像が四体ずつ描かれていた。薬師如来像をたたえるように力強い筆致で、背景には雲塊や唐草文もある。青や緑、朱などの顔料が使われ、当時は極彩色だったという。
 安嶋教授によると、像は長身で細面で線が太い。耳の中や手のひらの描き方は単調で、隋代(五八一~六一八)の描法の特徴を表している。飛鳥時代に描かれた法隆寺の国宝・玉虫厨子(たまむしのずし)の扉の菩薩像に酷似しているといい、「絵画としては日本最古級」とした。寺周辺には東大寺の彩色を担当した渡来系の画工集団・簀秦画師(すのはたのえし)が居を構えていたことから、「彼らによる仕事では」とも推測した。
 西明寺の中野英勝住職は「本堂自体が国宝だが、絵画にも注目してほしい」と話した。

 

【転載】「洛中洛外日記」一四七話 2007/10/09 甲良神社と林俊彦さん

 先週の土曜日は、滋賀県湖東をドライブしました。第一の目的は、甲良町にある甲良神社を訪れることでした。甲良神社は、天武天皇の時代に、天武の奥さんで高市皇子の母である尼子姫が筑後の高良神社の神を勧請したのが起源とされています。そのため御祭神は武内宿禰です。筑後の高良大社の御祭神は高良玉垂命で、この玉垂命を武内宿禰のこととするのは、本来は間違いで、後に武内宿禰と比定されるようになったケースと思われます。
 ご存じのように、尼子姫は筑前の豪族、宗像君徳善の娘ですから、勧請するのであれば筑後の高良神ではなく、宗像の三女神であるのが当然と思われるのですが、何とも不思議な現象です(相殿に三女神が祀られている)。しかし、それだからこそ逆に後世にできた作り話とは思われないのです。
 わたしは次のようなことを考えています。それは、天武が起こした壬申の乱を筑後の高良神を祀る勢力が支援したのではないかという仮説です。天武と高良山との関係については、拙論「『古事記』序文の壬申大乱」(『古代に真実を求めて』第九集)で論じましたので、御覧頂ければ幸いです。
 この甲良神社のことをわたしに教えてくれたのは、林俊彦さん(全国世話人、古田史学の会・東海代表)でしたが、その林さんが十月五日、脳溢血で亡くなられました。まだ五五歳でした。古田史学の会・東海を横田さん(事務局次長、インターネット担当)と共に創立された功労者であり、先月の関西例会でも研究発表され、わたしと激しい論争をしたばかりでした。その時に、この甲良神社のことを教えていただいたのです。七日の告別式に参列しましたが、棺の中には古田先生の『「邪馬台国」はなかった』がお供えされており、それを見たとき、もう涙を止めることができませんでした。かけがえのない同志を失いました。合掌。

 

【転載】「洛中洛外日記」八〇九話 2014/10/25 湖国の「聖徳太子」伝説

 滋賀県、特に湖東には聖徳太子の創建とするお寺が多いのですが、今から二七年前に滋賀県の九州年号調査報告「九州年号を求めて 滋賀県の九州年号2(吉貴・法興編)」(『市民の古代研究』第十九号、一九八七年一月)を発表したことがあります。それには『蒲生郡志』などに記された九州年号「吉貴五年」創建とされる「箱石山雲冠寺御縁起」などを紹介しました。そして結論として、それら聖徳太子創建伝承を「後代の人が太子信仰を利用して寺院の格を上げるために縁起等を造ったと考えるのが自然であるまいか。」としました。

 わたしが古代史研究を始めたばかりの頃の論稿ですので、考察も浅く未熟な内容です。現在の研究状況から見れば、九州王朝による倭京二年(六一九)の難波天王寺創建(『二中歴』所収「年代歴」)や前期難波宮九州王朝副都説、白鳳元年(六六一)の近江遷都説などの九州王朝史研究の進展により、湖東の「聖徳太子」伝承も九州王朝の天子・多利思北孤による「国分寺」創建という視点から再検討する必要があります。
 先日、久しぶりに湖東を訪れ、聖徳太子創建伝承を持つ石馬寺(いしばじ東近江市)を拝観しました。険しい石段を登り、山奥にある石馬寺に着いて驚きました。国指定重要文化財の仏像(平安時代)が何体も並び、こんな山中のそれほど大きくもないお寺にこれほどの仏像があるとは思いもよりませんでした。
 お寺でいただいたパンフレットには推古二年(五九四)に聖徳太子が訪れて建立したとあります。この推古二年は九州年号の告貴元年に相当し、九州王朝の多利思北孤が各地に「国分寺」を造営した年です。このことを「洛中洛外日記」七一八話『「告期の儀」と九州年号「告貴」』に記しました。
 たとえば、九州年号(金光三年、勝照三年・四年、端政五年)を持つ『聖徳太子伝記』(文保二年〔一三一八〕頃成立)には、告貴元年甲寅(五九四)に相当する「聖徳太子二三歳条」に「六十六ヶ国建立大伽藍名国府寺」(六十六ヶ国に大伽藍を建立し、国府寺と名付ける)という記事がありますし、『日本書紀』の推古二年条の次の記事も実は九州王朝による「国府寺」建立詔の反映ではないかとしました。
 「二年の春二月丙寅の朔に、皇太子及び大臣に詔みことのりして、三宝を興おこして隆さかえしむ。この時に、諸臣連等、各君親の恩の為に、競いて佛舎ほとけのおほどのを造る。即ち、是を寺てらという。」

 この告貴元年(五九四)の「国分寺創建」の一つの事例が湖東の石馬寺ではないかと、今では考えています。拝観した本堂には「石馬寺」と書かれた扁額が保存されており、「傳聖徳太子筆」と説明されていました。小振りですがかなり古い扁額のように思われました。石馬寺には平安時代の仏像が現存していますから、この扁額はそれよりも古いか同時代のものと思れますから、もしかすると六世紀末頃の可能性も感じられました。炭素同位体年代測定により科学的に証明できれば、九州王朝の多利思北孤による「国分寺」の一つとすることもできます。
 告貴元年における九州王朝の「国分寺」建立という視点で、各地の古刹や縁起の検討が期待されます。

滋賀県甲良町の古刹西明寺本堂の柱に書かれていた菩薩立像
滋賀県甲良町の古刹西明寺本堂の柱に書かれていた菩薩立像


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailはここから

古田史学会報一覧

ホームページ


Created & Maintaince by" Yukio Yokota"