『古代に真実を求めて』第十八集
盗まれた分国と能楽の祖 -- 聖徳太子の「六十六ヶ国分国・六十六番のものまね」と多利思北孤 正木裕
盗まれた「聖徳」 正木裕

「楽府」の成立 ーー「来目歌」から「久米舞」へ 冨川ケイ子(『古代に真実を求めて』第

九州年号・九州王朝説 ーー明治二十五年冨川ケイ子(会報65号)
武烈天皇紀における「倭君」 冨川ケイ子(会報78号)

「壹」から始める古田史学・二十八 多利思北孤の時代Ⅴ 多元史観で見直す「捕鳥部萬討伐譚」 正木 裕 (会報162号)
六十三代目が祀る捕鳥部萬の墓 -- 岸和田に残る書紀伝承を訪ねて 久冨直子(『古代に真実を求めて』 第二十二


河内戦争

心の自由を求める戦士と名前のないミカドが歴史を変えた

冨川ケイ子

(要約)

 『日本書紀』では用明天皇二年(五八七年)七月に起こった崇仏・排仏戦争(蘇我・物部戦争)の記事の後半に、これまで残党掃討戦のように読まれてきた地味な記事が続いている。本稿はその前半と後半の用語の違いに注目することで、双方の史料性格が異なることを明らかにし、後半における戦いを「河内戦争」と名付けた。
 第一に、この後半の記事は、評制・郡制期よりも前に成立したものと推測される。

 第二に、前半では見かけない令制用語が後半では頻繁に使われ、「朝庭みかど」を頂点とした令制的な秩序や文書行政の様子が描写されている。

 第三に、その「朝庭」の該当者は近畿天皇家には見当たらない。九州王朝の天子(多利思北孤たりしほこかもしれない)であろう。

 第四に、一王全民型の絶対服従圧力に対抗して、個人の自主性に基づく主従契約モデルが提示されている。このような主張を可能にしたのは、倭五王時代の甲冑を着た王との戦友意識だったかもしれない。

 第五に、「河内戦争」の結果、河内を中心とする近畿地方の「八つの國」が「朝庭」の支配下に入った。これら諸国には早期の令制的な統治機構や土地制度が導入されたと思われ、近年の考古学調査の報告にも興味深い指摘がある。

 第六に、「朝庭」による近畿平定は、日本史上における一大事業だったと言って過言ではない。近畿はその後数十年をかけた開発により、前期難波宮、天王寺などの建造をはじめとして、評制の施行という全国的な新政策の発信地になるなど、大発展を遂げた。八世紀以後は九州王朝に替わった近畿天皇家によって政治の中心地となる。しかし、その発展の発端となる「河内戦争」は世に埋もれ、第一の功労者である「朝庭」は名前がわからないまま放置されている。

 

          一

 『日本書紀』には著名な事件を記した記事のかげに、地味だがきわめて興味深い記事が隠れていることがある。本稿が取り上げるのはその一つである。
 『日本書紀』巻第二十一、泊瀬部はつせべ天皇(崇峻)の即位前紀に、後に崇仏・排仏戦争あるいは蘇我・物部戦争とも呼ばれるようになった戦いの記事がある。橘豊日天皇(用明)が即位二年(五八七年)四月に崩御。泊瀬部皇子の即位は八月。空位期の七月、その戦争は起こった。
 七月条は、岩波書紀(注1)の訓み下し文では五十三行に及ぶ。このうち、前半の二十五行は崇仏・排仏戦争(蘇我・物部戦争)の記事である。後半二十八行が本稿で検討する河内戦争にあたるが、多くの場合、前半で敗れた残党掃討戦、またはそれに関わる忠犬譚くらいにしか理解されて来なかったと思う。また、令制用語が多く使われていることで疑われてきた。子細に読み込むことで、後半記事の価値を再認識して行けたらと思う。
 本稿は次のような順序と内容で記述される。
 まず、前半と後半の史料を挙げ、要点を整理しながら、前半と後半では史料性格が異なることを明らかにする。次いで、後半の主人公二人を紹介しよう。「朝庭みかど」と捕鳥部萬ととりべのよろづである。「朝庭」には名前がない。『日本書紀』に該当者がいないからである。後半の戦争を本稿では「河内戦争」と呼んでいるが、この二人の対立が本稿の軸となる。
 若干遠回りになるが、いろいろ指摘されている点でもあるので、令制用語の使われ方と忠犬譚からわかることをまとめておく。「朝庭」の支配下では、すでに令制が敷かれていたのではないか。萬の領域ではまだそこには至っていない。令制社会とそうではない社会とでは、政治や戦争の仕方にも違いがあったようである。
 なぜこの戦いが河内戦争なのか、戦争の範囲を検討する。そして、その影響が近畿に広く広がったことにふれる。「河内戦争」の結果、近畿の社会は令制に向けて大きく変貌することになったと思われる。
 戦争の原因は本稿の大きなテーマの一つである。名前のない「朝庭」の正体は、九州王朝の天子(隋書に登場する多利思北孤かもしれない)であろう。その「朝庭」は、一王全民のイデオロギーのもと、絶対の服従を臣下に強いる立場にある。一方、河内を中心に「八つの国」を支配する萬は、主従契約モデルを引っ提げて、自発的な奉仕の可能性、中央と地方の対等な関係を探るが、「朝庭」から拒まれる。臣下には心の自由、自主性は許されないのか。「朝庭」自身が近畿へ来ていたとの仮説のもと、戦いの経過を復原したい。
 最後に史料の成立時期を検討し、考古学で指摘されていることを紹介する。
 まず、前半の二十五行、崇仏・排仏戦争(蘇我・物部戦争)の記事を示す。

 秋七月に、蘇我馬子宿禰大臣、諸皇子と群臣とに勸めて、物部守屋大連を滅さむことを謀はかる。泊瀬部皇子・竹田皇子・廐戸皇子・難波皇子・春日皇子・蘇我馬子宿禰大臣・紀男麻呂宿禰・巨勢臣比良夫・膳臣賀施夫・葛城臣烏那羅、倶もろともに軍旅いくさを率て、進みて大連を討つ。大伴連噛・阿倍臣人・平群臣神手・坂本臣糠手・春日臣〈名字を闕もらせり。〉倶に軍兵を率て、志紀郡より、澁河の家に到る。大連、親みづから子弟やからと奴軍やつこいくさを率て、稻城いなきを築きて戰ふ。是に、大連、衣揩きぬすりの朴えのきの枝間またに昇りて、臨み射ること雨の如し。其の軍、強く盛さかりにして、家に填ち野に溢れたり。皇子等の軍と群臣の衆いくさと、怯弱よわくして恐怖おそりて、三廻みたび却還しりぞく。
 是の時に、廐戸皇子、束髮於額ひさごはなして、〈古の俗、年少兒わらはの年、十五六の間は、束髮於額ひさごはなす。十七八の間は、分けて角子あげまきにす。今亦然しかり。〉軍の後に隨へり。自ら忖度はかりて曰はく、將はた、敗らるること無からむや。願ちかひことに非ずは成し難がたけむ」とのたまふ。乃ち白膠木ぬりでを斮り取りて、疾く四天王の像みかたに作りて、頂髮たさふさに置きて、誓ちかひを發てて言のたまはく。〈白膠木、此これをば農利泥ぬりでと云ふ。〉「今若し我をして敵に勝たしめたまはば、必ず護世四王の奉爲みために、寺塔を起立てむ」とのたまふ。蘇我馬子大臣、又誓ちかひを發てて言はく、「凡おほよそ諸天王・大神王等、我を助け衛まもりて、利益つこと獲しめたまはば、願はくは當まさに諸天と大神王との奉爲に、寺塔てらを起立てて、三寶を流通つたへむ」という。誓ひ已をはりて種種くさぐさの兵いくさを嚴よそひて、進みて討伐つ。爰ここに迹見首赤梼とみのおびといちひ有りて、大連を枝の下に射墮いおとして、大連并あはせて其の子等を誅ころす。是に由りて、大連の軍、忽然たちまちに自おのづからに敗やぶれぬ。軍合こぞりて悉ことごとくに皀衣くろぎぬを被て、廣瀬ひろせの勾原まがりのはらに馳獵かりするまねして散あかれぬ。是の役えだちに、大連の兒息と眷屬やからと、或いは葦原に逃げ匿かくれて、姓うぢを改め名を換ふる者有り。或いは逃げ亡せて向にけむ所を知らざる者有り。時の人、相謂あひかたりて曰はく、「蘇我大臣の妻は、是物部守屋大連の妹いろもなり。大臣、妄みだりに妻の計はかりごとを用ゐて、大連を殺せり」といふ。亂を平めて後に、攝津國つのくににして、四天王寺を造る。大連の奴やつこの半なかばと宅いへとを分けて、大寺の奴・田庄たどころとす。田一萬頃たよろづしろを以て、迹見首赤梼に賜ふ。蘇我大臣、亦また本願もとのねがひの依ままに、飛鳥の地にして、法興寺を起つ。

 要点は次のようである。
・七月、蘇我馬子の主導で、皇子たちと諸臣は軍旅を率いて物部守屋を志紀郡から澁川の家へ攻め寄せる。
・守屋は稻城を築き、衣揩の朴に登って矢を射て応戦。決着がつかない。
・この時、廐戸皇子が四天王の像に寺塔を建てることを誓い、馬子も同様の誓いを立てる。
・その後の戦いで迹見首赤梼が守屋を枝から射落とし、物部方は敗走。
・時の人は、馬子が守屋の妹でもある妻の計略を利用した、と噂する。
・乱後、四天王寺を建てて、守屋の奴と宅を分けて寺の領地・領民とし、手柄のあった迹見首赤梼に褒美を与え、馬子も法興寺を建立した。

 戦後処理の記述もあって、話はここで終わったかに見える。岩波書紀ではここまでで二十五行。ようやく半ばに過ぎない。後半は一見、守屋の残党を掃討する話が忠犬譚で色づけされているだけでしかなく、仏教という外来の宗教の受容をめぐる思想上の、そして政策上の大きな争いが、守屋を頂点とする物部一族の滅亡をもって決着した後では、冗長な蛇足にしか見えないのは無理もない話である。

 

          二

 だがしかし、これに続く後半は長い。七月条の半分以上を占めている。それだけではなく、前半と後半では史料性格が異なる。顕著な違いを二点挙げよう。
 第一に、前半では登場人物や地名が多彩である。諸皇子として泊瀬部皇子、竹田皇子、廐戸皇子、難波皇子、春日皇子、諸臣として蘇我馬子宿禰大臣、物部守屋大連、紀男麻呂宿禰、巨勢臣比良夫、膳臣賀施夫、葛城臣烏那羅、大伴連噛、阿倍臣人、平群臣神手、坂本臣糠手、春日臣(闕名)、迹見首赤梼という具合である。対して後半では、捕鳥部萬、櫻井田部連膽渟の二名の名前しか明らかではなく、あとは「朝廷」「有司」「衛士」「河内國司」と官名などで呼ぶか、「婦」のように性別だけで名はない。同様に地名や固有名も、前半では志紀郡、澁河、衣揩、廣瀬、勾原、攝津國、四天王寺、飛鳥、法興寺とたくさん出るが、後半では難波、茅渟縣、有眞香邑、餌香川原と四つだけで、戦場となった山や自害した河は、ごく曖昧に「山」「河」と記されるのみである。

 第二に、後半に現れる「朝廷」以下を含め、「資人」「牒」「符」のような用語の多くに、岩波書紀は「令制用語の借用」と注している。前半では令制用語の指摘はない。後半でのみ「令制用語の借用」を堂々と行うのはなぜなのだろうか。
 戦闘集団の表現にしても、岩波書紀は前半では「軍旅」「軍兵」「軍」「衆」「兵」とあるさまざまな表記をすべて「いくさ」と読んでいる。後半にはこれらの語は用いられない。ここでは「衛士」と書かれ「いくさびと」と読まれている。「衛士」は、六月条にすでに使われているので、七月条前半の記事に「衛士」が現われないことの方が不思議である。むしろ、前半は前後の文面から浮いているように見える。後述するように、前半・後半二つの史料の成立時期は異なるようである。

 

          三

 七月条の後半二十八行を示す。

 物部守屋大連の資人つかひびと捕鳥部萬〈萬は名なり。〉一百人ももたりのひとを將ひきゐて、難波の宅いへを守る。而しかうして大連滅びぬと聞きて、馬に騎りて夜逃げて、茅渟縣ちぬのあがたの有眞香邑ありまかむらに向く。仍りて婦が宅を過ぎて、遂に山に匿かくる。朝庭みかどはかりて曰はく、「萬、逆心さかしまなるこころを懷いだけり。故かれ、此の山の中に隱る。早すみやかに族やからを滅すべし。な怠りそ」といふ。萬、衣裳きものれ垢あかつき、形色かほ憔悴かしけて、弓を持ち釼つるぎを帶きて、獨ひとり自ら出で來れり。有司つかさ、數百ももあまりの衛士いくさびとを遣つかはして萬を圍かくむ。萬、即ち驚きて篁聚たかぶるに匿かくる。繩を以て竹に繋けて、引き動して他ひとをして己おのが入る所を惑まどはしむ。衛士等、詐あざむかれて、搖あゆく竹を指して馳せて言はく、「萬、此に在り」といふ。萬、即ち箭を發はなつ。一つとして中あたらざること無し。衛士等、恐おそりて敢へて近つかず。萬、便ち弓を弛はづして腋わきに挾かきはさみて、山に向ひて走げ去く。衛士等、即ち河を夾はさみて追ひて射る。皆中つること能あたはず。是に一ひとりの衛士有りて、疾く馳せて萬に先さきだちぬ。而しかうして河の側かたはらに伏して、擬さしまかなひて膝に射中てつ。萬、即ち箭を拔く。弓を張りて箭を發はなつ。地に伏して號よばひて曰はく、「萬は天皇すめらみことの楯みたてとして、其の勇いさみを効あらはさむとすれども、推問ひたまはず。翻かへりて此の窮きはまりに逼迫めらるることを致しつ。共に語るべき者來きたれ。願はくは殺し虜とらふることの際わきだめを聞かむ」といふ。衛士等、競きほひ馳せて萬を射る。萬、便たちまちに飛ぶ矢を拂はらひ捍ふせきて、卅餘人を殺す。仍なほ、持たる釼つるぎを以て、三みきだに其の弓を截うちきる。還また、其の釼を屈おしまげて、河水裏かはなかに投なげいる。別(こと)に刀子かたなを以て、頚くびを刺して死ぬ。河内國司かふちのくにのみこともち、萬の死ぬる状ありさまを以て、朝庭みかどに牒まうし上ぐ。朝庭、符おしてふみを下したまひて稱のたまはく、「八段やきだに斬りて、八つの國に散ちらし梟くしさせ」とのたまふ。河内國司、即ち符旨おしてふみのみむねに依りて、斬り梟す時に臨みて、雷いかづち鳴り大雨ひちさめふる。
 爰ここに萬が養へる白犬有り。俯し仰あふぎて其の屍かばねの側ほとりを廻り吠ゆ。遂に頭を噛ひ擧げて、古冢ふるはかに收め置く。横よこさまに枕の側かたはらに臥して、前に飢ゑ死ぬ。河内國司、其犬を尤とがめ異あやしびて、朝庭に牒し上ぐ。朝庭、哀不忍聽いとほしがりたまふ。符を下して稱めて曰のたまはく、「此の犬、世に希聞めづらしき所なり。後に觀しめすべし。萬の族やからをして、墓を作りて葬かくさしめよ」とのたまふ。是に由りて、萬が族、墓を有眞香邑に雙ならべ起つくりて、萬と犬とを葬しぬ。
 河内國司言まうさく、「餌香川原ゑがのかはらに、斬ころされたる人有り。計かぞふるに將まさに數百ももあまりばかりなり。頭かしらむくろ既に爛ただれて、姓かばね知り難がたし。但ただきものの色を以て、身を收め取る。爰に櫻井田部連膽渟さくらゐのたべのむらじいぬが養へる犬有り。身頭むくろを噛ひ續つづけて、側かたはらに伏して固く守る。已おのが主あるじを收めしめて、乃すなはちちて行く」とまうす。

 要点は次のようである。
・物部守屋の資人である捕鳥部萬は、百人を率いて難波の宅を守っていたが、守屋敗北を聞くと夜のうちに馬で逃げ、茅渟縣の有眞香邑へ向かい、「婦が宅」をも過ぎて山へ逃げ込む。

・「朝庭」は「萬、逆心を懷けり」と臣下に「議はか」り、数百の「衛士」を派遣して萬を追跡させる。萬は矢で応戦。

・「一の衛士」が萬の膝に命中させた。すると萬は、自分は「天皇の楯」として働きたかったのに、逆の立場に追いつめられてしまった、自分を殺すつもりなのかどうか知りたい、と叫ぶ。

・「衛士」らが攻め寄せて来るのを見て、萬は三十人余りを殺した後、武器を捨てて自殺する。

・「河内國司」は萬が死んだことを「牒」で「朝庭」に報告する。

・「朝庭」は「符」を下して萬の死体を「八段に斬りて、八つの國に散し梟くしさせ」と命ずる。

・「河内國司」が命令を実行しようとした時、「雷鳴り大雨ふる」

・ここに、萬の飼っていた白犬が萬の死体から離れない。その頭をくわえて「古冢」に収め、その前で飢え死にした。「河内國司」が「朝庭」に報告すると、「朝庭」は、珍しい犬だ、といたく感動し、萬の遺族に萬と犬を墓に葬ることを許す。遺族はその墓を有眞香邑に並べて作った。

・「河内國司」からの報告。餌香川原に斬殺された死体が数百あって、腐乱している。その中で、櫻井田部連膽渟の飼い犬が主人の死体を守っていた、とのことだ。

 

          四

 「物部守屋大連の資人つかひびと」という冒頭の一句と、続く「大連滅びぬと聞きて」が、前半と後半をつなぐ。「資人」は令制用語だと岩波書紀の注にあるが、捕鳥部萬は守屋の「資人」ではありえない。前半の記事から、守屋は令制用語を使わない昔の社会に属することが明らかだからである。萬もまた令制社会に属さないが、人に仕える身分でもなかった。いずれも意図あっての挿入である。
 では萬とは何者なのか。河内を中心とする近隣諸国の支配者であったことをうかがわせる記述がいくつかある。

 一つ、「朝庭みかど」自身が臣下一同に「議はか」って「早すみやかに族やからを滅すべし。な怠りそ」と命じなければならないほどの容易ならぬ相手であったこと。

 二つ、自殺する時の「持たる釼つるぎを以て、三みきだに其の弓を截うちきる。還また、其の釼を屈おしまげて、河水裏かはなかに投なげいる。別ことに刀子かたなを以て、頚くびを刺して死ぬ」という折り目正しい行動は、降伏儀礼のようにも見える。どういう身分の人間なら、敵方から自害の模様をここまで詳細に実況記録してもらえるのだろう。

 三つ、萬の死体を「八つの國に散ちらし梟くしさせ」という命令が意味するものは何か。物部守屋でさえ、枝から射落とされて殺されはしたが、「八つの國」に「梟」されはしなかった。そんな仕打ちを受けなければならなかったのは、それらの国々の支配者だったからだと考えるほかないだろう。

 四つ、萬の死体を「斬り梟す時に臨みて、雷いかづち鳴り大雨ひちさめふる」という記述は、萬の死を天が悲しみ、あるいは怒ったことを暗示しており、やはり萬がただ人ではなかったことを示している。

 次に、「朝庭」とは何者か。岩波書紀は「みかど」と読んでいるが、それが誰なのか、注はない。萬が「萬は天皇すめらみことの楯みたてとして、其の勇いさみを効あらはさむとすれども…」と「號よば」っていることを手がかりにするならば、「朝庭」とは「天皇」である。
 しかし、「朝庭」に該当する天皇はいない。この記事がある用明二年七月は、さかのぼる四月に用明天皇が崩じており、後継者の泊瀬部はつせべ皇子は翌八月にならなければ即位しない。冒頭に述べたように、空位期間なのである。もちろん『日本書紀』では即位前紀であっても、天武天皇紀のように、これから即位する皇子を「天皇」と表記する例はある。だが、この七月条では、当の泊瀬部皇子が前半に「泊瀬部皇子」として登場してしまっている。萬に無理な肩書を背負わせてまで異質の二つの史料をつなぎ、連続した記事として読ませてしまいたかった『日本書紀』としては具合が悪いことに、「朝庭」に該当する「天皇」は『日本書紀』には存在しないことが発覚する。岩波書紀が「朝庭」に口をつぐんでいるのはそういうわけである。
 ここまでで後半の主人公二人がそろった。天皇であるはずの「朝庭」の名は不明である。これに対する萬もまた、その名から受ける印象よりははるかに重要人物らしい形跡が見え隠れしている。(「朝庭」に名前がないように、萬の名前も変えられているのかもしれない)

 

          五

 若干迂遠ではあるが、令制用語使用の問題と忠犬譚を通して、次の四点を確認したい。
 第一、令制社会では令制用語が使われる。そうではない社会では使われない。

 第二、『日本書紀』の編者はむやみやたらに令制用語をばらまいているわけではない。元になった史料の性格によるのであろう。

 第三に、「朝庭」は令制社会の人である。萬はそうではない。

 第四に、「朝庭」は令制秩序を背景に統治手腕を発揮している。

 後半に散見すると指摘されている令制的な用語は、単なる借用に過ぎないのだろうか。もし文面の修飾に過ぎないのならば、『日本書紀』全面にまぶしてあってもよさそうなものであるが、七月条に限っても前半にはなく後半に集中するという風に遍在するのはなぜなのだろうか。
 後半では単に令制用語が使われているだけではなく、令制そのものが存在していたことがうかがわれる。例えば「朝庭みかどはかりて曰はく」の「議」は、左右大臣や大納言などに類した高級官僚が「朝庭」を囲んでいたと想定できる一字である。「朝庭」という文字面そのものが、そうした官僚群を従えた君主を表現している。また、「朝庭」と官僚との間に「符おしてふみ」と「牒」による命令と報告の秩序が成立していた。文書行政が行われていたと見るほかない。(「牒」は、ここでは動詞で「牒まうし」と読んでいる。岩波書紀は「牒は、令制では内外官人の主典以上が諸司に申牒するときの書式をいう。」としているから、一定の形式をもった文書であろう。ただし、文字は同じでも八世紀以降の令制とは異なって、諸司ではなく「朝庭」に対する文書である。)
 岩波書紀は「河内國司かふちのくにのみこともち」について「令制による表現。実際は万討伐の部隊長ほどの者か」と注しているが、慎重な学者らしくない。そもそも、令制なしに「部隊長」が存在できるのか。いや、それ以前に、この史料には「河内國司」が部隊を指揮したことを示す文言が見当たらない。「有司つかさ、數百ももあまりの衛士いくさびとを遣つかはして萬を圍かくむ」とあるように、「衛士」を「遣」したのは「有司」である。
 軍勢のあり方を比較してみよう。前半では、守屋の手勢が「子弟やからと奴軍やつこいくさ」「兒息と眷屬やから」のような表現をされている。それは血縁に連なる者たちと従属する者たちとの合同体だったと思われる。守屋だけではなく諸皇子、諸臣の率いた手勢も似たようなものだったであろうが、防御の意図をもって稲城を築かせ、自ら先頭に立って戦う守屋に対し、諸皇子・諸臣は諸天などに祈誓するだけで、矢一本射ない。軍勢への指揮や命令があったようでもなく、赤梼いちひ一人の活躍で戦いの帰趨が決まってしまう。令制以前の戦争はこういうものだったというだけではなく、前半史料はそれ以上に祈誓の効果を示すために書かれたものでもあったろうか。
 後半の、萬が率いたという「一百人ももたりのひと」は何者だろうか。軍勢だったとは明示されず、戦闘に参加した様子もない。あるいは「百官」を模したものだったかもしれないが、戦いを制した「朝庭」側が大義名分上そのような表記を容認するはずもなく、あくまでも想像にとどまる。
 戦い方に着目すると、自ら弓を引き矢を射て戦うという点で、守屋と赤梼、萬と「衛士」には共通性があるが、「朝庭」と「河内國司」にはそういう気配がない。萬自身は守屋らと同様、令制以前の社会に生きた指導者であったことを示しているのではなかろうか。
 つまるところ、令制社会では令制用語が使われる。それ以外の社会では使われない。当たり前である。『日本書紀』の編者たちは性格の異なる史料群を切り張りしただけで、彼らの時代の令制用語をむやみに振りまいたわけではなかったらしい。

 

          六

 忠犬譚は二つある。
 まず萬の忠犬譚からわかることの一つは、「朝庭」から見て萬の一族は慰撫する必要のある大勢力だったということである。「朝庭」が「早に族を滅すべし」と命じたにも関わらず、萬の「族」は生き残っていた。許されれば、犬と並べて二つの墓(前方後円墳の時代に「墓」と見なされる程度の墓)を造営するくらいの余力は残していたのであろう。
 もう一つは、峻厳さと恩情を使い分ける「朝庭」の政治手腕である。「八つの國に散し梟せ」という厳しさで人々を畏怖させた後は、一転、犬を口実に埋葬を許し、寛大なところを見せる。巧みな事後処理だと言うことができよう。忠犬譚そのものが「朝庭」の側で作られたものであったとしても不思議ではないくらいである。前半のように「大連の奴やつこの半なかばと宅いへとを分けて、大寺の奴・田庄たどころとす」という処理では、領地・領民を没収された守屋の遺族に不満が残ったであろう。「姓を改め名を換ふる者有り、或いは逃げ亡せて向にけむ所を知らざる者有り」という有様では、社会不安を惹起しかねなかったのではなかろうか。令制以前の社会は政治的にもまた未熟だったということかもしれない。
 第二の忠犬譚は、末尾の三行半ほどを占める短いもので、付け足しのようにも見えるが、削除された部分もあるのであろう。「河内國司」の報告であるところから、「朝庭」と萬の戦争の別の局面がここに残されたのだと思われる。これからわかるのは、萬の戦闘のみならず、河内国の広い範囲に戦火が及んだらしいことである。
 本稿の趣旨から離れるが、この記事は戦場の惨状を描写したものとして異色である。河原に数百の死体があって、それも「斬ころされたる人有り」とある。「ころされた」と読んでいるが、字は「斬」が使われている。斬殺されているのである。それが「頭かしらむくろ既に爛ただれて、姓かばね知り難がたし」という。草生す屍かばねの無残な表現である。犬が亡骸を守ったという主人の名が「イヌ」と読めるあたりは、作為があるのかいささかお粗末で(岩波書紀も「イヌは即ち犬のことであろう」と困惑している)、戦死者の死体にたかる野犬の群れがあることを婉曲に伝えて「朝庭」の対応を促す意図があったのではないかと思わせる。いつの時代も戦争は悲惨である。

 

          七

 河内戦争の戦火の範囲については、史料の制約から、後の河内国の範囲にとどめた。これを補う良質の史料が発見されれば、訂正の余地はあるであろう。ただし、その影響は、近畿に広く及んだと思われる。
 本稿の表題を「河内戦争」とした理由は、第一には、前半の崇仏・排仏戦争あるいは蘇我・物部戦争と区別する必要性からであるが、第二に、戦争の範囲が史料上確認できるのが河内に限られるためである。「八つの國」やそれ以外にまで戦域が広がっていた可能性はないわけではないが、反対に主要な戦場は河内に限られ、周辺諸国にはその勝敗の結果生じた支配層の入れ替えという影響だけが及んだのだとも考えられるからである。
 まず、「河内国」という国名についてである。岩波書紀が「河内國司」について「実際は万討伐の部隊長ほどの者か」と言っているのは、「河内國司」という官職名や「河内国」という国名が六世紀末期というこの時代に実在したかどうか疑っていることを示すが、史料を原文改定なしに読もうとすれば、「河内國」はあった、「河内國司」は任命されていた、と見ないわけにはいかない。
 次に、河内国の広さが問題である。前述のように後半に明記された地名は、難波、茅渟縣ちぬのあがた、有眞香邑ありまかむら、餌香川原ゑがのかはらの四つであるが、同時に、ここに登場する国司は「河内國司」のみである。ということは、これらの地名は河内国内であった可能性がある。八世紀には和泉国を含んだり含まなかったりした河内国であるが、六世紀末においては後の摂津国や和泉国にまでその領域が及んでいたのかもしれない。
 しかし、河内戦争の戦域はそこまで広くない。
 第一に、摂津では交戦がなかった。スタート地点である難波について、岩波書紀は「摂津志東生郡の条に「森村有守屋大連難波第址」とみえるが、確かでない」と言うが、萬は難波からただちに脱出している。

 第二に、萬の戦場は難波と有眞香邑の間、つまり摂津国でも和泉国でもない、その中間のどこかにあった。萬は難波を捨てて「茅渟縣の有眞香邑に向(ゆ)く」という。岩波書紀によると「茅渟」は和泉国一帯の地域の名で、「有眞香邑」は「延喜神名式、和泉郡条にみえる阿理莫神社の所在地(貝塚市久保)であろう」云々としている。難波も有眞香も萬にとっては重要な拠点だったであろう、あるいは有眞香の方がより重要な拠点だったかもしれないが、萬はここに到着することはできなかった。「向く」は「ゆく」と読まれているが、「向」という文字は到着の意味を持たない。前半にも「逃げ亡せて向にけむ所を知らざる者有り」という用例があって、到着すれば「所を知らざる」にはならないわけである。どの拠点へもたどり着くことができなかったことは、「婦が宅を過ぎて」山へ隠れたあたりにも示されている。
 地理的に言って、萬の脱出経路には疑問の点がある。蘇我・物部戦争の舞台となった「志紀郡」「澁河」「衣揩」が、岩波書紀が言うように、いずれも河内国の地名で、現在の大阪府八尾市・布施市(現・東大阪市の西部)にあたるとすれば、難波の東方およそ十キロメートルほどの地点に軍勢が集結していたことになる。一方、有眞香邑は南方およそ三〇キロほどであり、古代の交通路がどのようであったにせよ、また夜間、馬を使って脱出したにせよ、敵軍に遭遇する危険はかなり高かったと思われる。逃げるつもりなら北か西、船を使う方法もあったであろう。なぜそうしなかったのだろうか。この問題は萬の敵の主力がどこにいたかという疑問と関わりがあるので、後述する。結局、萬は有眞香に到着することはできず、敵に追われて、どこかの「山」に隠れ、どこかの「河」で自害した。その地名が明らかでないのが残念である。日本書紀の編者にとって不都合な何かがあったのであろうか。

 第三に、「河内國司」が萬の死を「朝庭」に報告している。戦場の割合に近くにいて状況を観察していたようである。「河内國司」であるから、任務地である河内国の中での出来事だったに違いない。

 第四に、後の和泉国も戦域から外れる。萬は有眞香邑に葬られる。つまり、彼の遺族は有眞香邑周辺に生き残っていて、ある程度の勢力を温存していたと考えられる。もし戦場がそのあたりまで及んでいたとしたら、相当な痛手を被ったに違いない。彼らはそこから逃げなかった、という点も注目してよい。

 第五に、もう一つの戦場が「餌香川原」にある。これは岩波書紀によると河内国古市郡(現・大阪府羽曳野市)にある川とされている。ここの状況報告も「河内國司」がしている。

 このように、史料による限り、この戦争の範囲はいわゆる河内国を出ないのである。後の摂津や和泉には戦火が及んだ形跡がない。そのほかの諸国はもちろんである。

 しかし、この戦争の政治的な影響はもっとずっと広い範囲に及んだ。それが「八つの國」である。「朝庭」が萬の死体を「八つの國に散し梟くしさせ」と命じた「八つの國」とは萬の勢力範囲に相違ない。それはどこか。
 後半に「國」という文字は、「河内國司」の「國」と「八つの國」の「國」の二つしか出てこない。従って、この二つの「國」は同じ行政単位の「國」を意味しているのであろう。
 そこで、「八つの國」は前に述べたようにやや広めの河内国を中心として、近畿の広い範囲に及ぶことが明らかになる。八世紀以後の国名になるが、山背や摂津、淡路や阿波、和泉や紀伊と呼ばれる領域、そして大和が数えられることは疑いもない。近江や伊賀、伊勢も含まれるのだろうか。史料の制約から範囲を特定することはむずかしいが、少なくとも「八つの國」から旧勢力は一掃された。近畿の支配層は一変した、ということである。

 

          八

 改めて「朝庭」とは何者なのであろうか。すでに述べたように、「朝庭」は近畿天皇家の天皇ではなかった。では、どこの誰なのか。九州王朝(注2)の天子であろう、と筆者は考える。隋書俀国伝によれば、大業三年(六〇七年)、隋の煬帝に国書を送った「日出処天子」は、その支配領域に阿蘇山を擁していた。多利思北孤たりしほこと名乗るこの「天子」が九州に本拠地を置いていたことは明らかである。もちろん他の地方にも同様の権力者は存在したかもしれないが、史料上に明白にその存在が確認できる以上、まず九州に「朝庭」と呼ばれる権力者の正体を求めるのが筋であろう。そこで、第一の候補は「日出処天子」こと多利思北孤である。彼と河内戦争とはおよそ二十年の年代的な隔たりがあることを勘案すれば、あるいはその先代の天子であった可能性もあるかもしれない。

 この章では河内戦争の原因、経過、結果を考える。難所である。仮説によって、史料が直接は語らない背景をどれだけ探り出すことができるかが鍵になる。内実に触れることなく表面だけをさらって通り過ぎることが、筆者はできなかった。面倒な方は先へ進んでいただきたい。
 ここに疑問がある。

その一、「朝庭」自身は近畿へ乗り込んで来たのだろうか。「朝庭」がどこにいたか、史料に記されてはいない。しかし、「萬……此の山の中に隱る」という臨場感あふれる発言や、「河内國司」との「牒」「符」による報告と命令など、九州との間で使者を何日もかけて往復させてのやり取りとは考えにくい。「朝庭」は案外近くにいたのではないか。

 その二、萬は追いつめられてから「萬は天皇すめらみことの楯みたてとして、其の勇いさみを効あらはさむとすれども、推問ひたまはず」と「號」するが、これは萬が「朝庭」から「推問」されることを期待していたことを示すのではないか。

 その三、「朝庭」はいつ、どういう事実をもって「萬、逆心を懷けり」と判断したのだろう。史料では萬が山へ逃げ込んだ時のことのように読めるが、逃亡だけで「逆心」と呼ぶのは苦しい。「八つの國に散し梟せ」という命令にも強い憎悪を感じさせる。河内戦争を引き起こしたのは、萬の「逆心」とそれに対する「朝庭」の憎悪に違いない。「逆心」とは何なのか。

 その四、萬は難波で何をしていたのだろうか。なぜ突然有眞香へ向かおうとしたのだろう。夜はともかく、「馬に騎りて」と明記するのはなぜだろう。途中で死んだのに、有眞香邑へ行くつもりだったとわかるのはどうしてか。

 萬は何を主張したのか、「朝庭」は何をもって「逆心」と判断したのか、萬が「朝庭」の怒りを想定しなかったのはなぜか、萬が自害したのはなぜか、の順で考えていく。最後に、河内戦争の経過を復原し、結果を考察する。

 萬の主張は、「萬は天皇すめらみことの楯みたてとして、其の勇いさみを効あらはさむとすれども、推問ひたまはず」に込められている。ここには二つの問題がある。一つは「天皇の楯として、其の勇を効さむ」である。岩波書紀が「万葉四三七三に「今日よりは顧みなくて大君の醜の御楯と出で立つわれは」とあるのと同じ思想」と注するように、当時の臣下が天皇に対して負う絶対の義務と解して大過なかろうが、争点なしとするには気になる点もある。後述する。もう一つは「推問」である。「朝庭」は「推問」を拒否している。「朝庭」は「推問」したくなかった。逆に、萬は「朝庭」からの「推問」を求めていたのである。対立点がはっきり現れている。ここを糸口にしよう。
 「推問」したりされたりするためには会わなければならない。萬自らは近畿を動いていない。ということは、萬は九州に使節を送って、「朝庭」との会見を求め、「朝庭」自身が近畿を訪問するように招待した、と考えてみる。想像が過ぎるだろうか。「朝庭」の近畿訪問が実現したと仮定して、この後の「朝庭」と萬の動きを推察してみよう。

 訪問要請自体が「朝庭」を怒らせたわけではないだろう。しかし何かの理由で怒った「朝庭」は、表面は穏やかに行幸という体裁を取りながら、萬討伐の準備を始めた。

 萬は難波で「朝庭」一行を迎えようと考えた。彼の本拠地は、後に墓が作られることから見ても、有眞香邑だったろうと思われる。しかし、西から来る「朝庭」を最初に迎える地点としては、難波が最もふさわしいと判断したのではないだろうか。萬はそこで、「朝庭」との会見の時を待ちわびたと思われる。
 しかし、「朝庭」は萬の思惑に乗ることなく、難波を素通りして有眞香邑へ乗り込んだ。後半に出る四つの地名の中に「朝庭」の向かった先があったとすれば、最も可能性が高いのは有眞香邑ではないだろうか。萬が留守ということもあって手薄で、ほとんど無抵抗のまま「朝庭」に屈したであろう。

 こうした「朝庭」の動きは、萬には想定外だった。慌てて有眞香邑へ向かわざるを得なくなった。なぜ馬で脱出したか、という謎がここで解ける。萬の敵は東の澁川や衣揩にはいなかった。西の海から来たのだ。海を押さえられてしまったために、船で南下することができなかった。馬を使ったのは、先を急いだためもあるだろう。また、途中で死ぬことになったけれども、有眞香邑へ向かった理由もはっきりする。「朝庭」がそこに来ていたからだ。「推問」を求めた萬は、何としても「朝庭」との会見に臨みたかったのである。
 このように、「朝庭」の近畿訪問(遠征でもあるが)を仮定すると、萬の動きがわかりやすくなる。

 「推問ひたまはず」は原文では「不推問」となっており、敬語を含まない。岩波書紀は「推問」を「朝庭」の行為と判断していることがわかる。妥当であろう。「萬は天皇の楯として、其の勇を効さむ」という意思表示は「朝庭」に向けられたものだからである。
 では、なぜ「朝庭」は「推問」しなかったのか。なぜ萬は「推問」を期待したのか。そもそも「推問」の内容は何か。
 「萬は天皇の楯として、其の勇を効さむ」を答えとする「推問」は、表現はいろいろありうるが、端的に言えば、「あなたは天皇の臣下になりますか」「どのような臣下になりますか」となろう。
 この種の問いは、「朝庭」たる者、決して口に出すことができない。答えが「はい」とか「天皇の楯」とかであることがわかっていたとしても、できない。なぜなら、問われた者は、問われたことによって、答える権利を得る。立場表明の権利である。その時、天皇への絶対服従の義務が、選択の余地のあるものに変質する。服従は義務ではなくなり、臣下の側が主体的に任意に選ぶ行為になる。天皇の天皇たる理念が崩壊するのである。
 天皇にはイデオロギー上の不可能が存在する。「臣下になれ」という命令もまた、天皇は口にすることができない。そもそも『日本書紀』における天皇という存在は、すべての人間が天皇の臣下であるという建前でできている(例えば十七条憲法の中に「率土(くにのうち)の兆民(おほみたから)は、王(きみ)を以て主(あるじ)とす」とある。岩波書紀によれば、中国古典に典拠がある)。天皇一人が主君である。残りのすべての者が臣下である。こういう一王全民型の理念の中では、臣下でない者、服従しない者の存在を認めることができない。(この時期の天皇理念は、「率土」が示すように空間軸の上に表現されている。革命(王朝交代)思想のある大陸からの直輸入だった上に、導入から日が浅かったためであろう。後には万世一系の時間軸が加わって完成する。六世紀末にはまだ「天皇」という用語も天皇理念もなかったと考えるのは間違っている。前述のとおり、「朝庭」は『日本書紀』が認める天皇ではない。筆者は『隋書』の「日出処天子」こと多利思北孤かその前代の天子を想定している。天子に一王全民型の理念が伴わないわけがないではないか。そしてそれが何の軋轢もなしに定着したはずもない。)

 萬の立場は「天皇の楯として、其の勇を効さむ」という旧態依然としたものであった。外から見れば、絶対の服従義務を遂行するのと何ら変わらない。しかし、内実は違う。「天皇の楯」という役目を、自分の意思に従って勤めたいという、自主的な申し出に基づくものだからである。萬の本当の主君は「朝庭」ではなく、萬自身の心だということである。萬が何よりも求めたものは、彼自身の主体性だった。自立と言い換えてもよい。個人主義の芽生えである。何か後ろめたいのだろうか、新しい酒は、人目を避けるように古い革袋の中に秘められ、隠されている。
 萬の発想は、時代の制約を突き抜けて新しい。もっとも、「臣下になるか」「なります」という一対の会話によって成り立つ人間関係を、萬は中国の古典などに見出したかもしれない。そこではとりあえず雇用関係、主従関係の契約が成立しているように見える。勿論、常に身分の上下が付いて回るにしても、主君である、臣下であると相互に承認しあう関係は、承認という手続きの一点で対等である。萬が「朝庭」に求めたのは、契約の当事者同士という平等の関係でもあった。

 萬の主張がもつもう一つの問題を考えてみよう。ここまで「天皇の楯として、其の勇を効さむ」は当時の臣下が天皇に対して負う絶対の義務であるということで話を進めてきたが、一つ違和感がある。「楯」や「勇」は武人に求められる役目ではないだろうか。「朝庭」は令制を敷いており、戦闘は「衛士」の役目になっている。萬は「衛士」になりたいというのだろうか。「八つの国」の支配者にふさわしい職務のようには思えない。「朝庭」がもし萬に官職を与えるとしても、まさか「衛士」ではあるまい。そのあたりに何かぴったりしない感じがある。
 九州王朝では、王が武人だった時代がある。『宋書』によると、順帝の昇明二年(四七八年)に遣使上表した文の中に、「自昔祖禰躬擐甲冑跋渉山川不遑寧處」(昔より祖禰そでいみずから甲冑を擐つらぬき山川を跋渉ばっしょうし寧處ねいしょに遑いとまあらず)とあるように、自ら甲冑を身につけて山川を跋渉(各地を歩き回ること)したという。「天皇の楯として、其の勇を効さむ」は、こういう時代の臣下の任務としてふさわしいだろう。
 ところが、萬の頃には行政官の国になっていた。令制の施行と関係があるだろう。各機関の間では文書で情報がやり取りされていた。情報は、「朝庭」の元に集約され、「朝庭」の指示はすみやかに各機関へ伝達されるのだろう。一王全民の理念にふさわしいのは、おそらく行政官の国の方である。
 とはいえ、中央と地方とでは、令制の浸透に濃淡があった。萬の「八つの國」では、まだ令制が施行される段階にはなっていなかった。ただ、中央で令制が軌道に乗れば、地方へとその触手を伸ばして来るのは時間の問題である。「八つの國」へもすでにそういう動きはあっただろう。それは、萬の目には、既得権益や昔ながらの慣行への不当な介入のように見えたかもしれないのである。中央の都合で立案された政策が地方へ一直線に降りてくれば、反発の声が上がるのは珍しい話ではない。
 萬のいささか時代錯誤な「天皇の楯として、其の勇を効さむ」は、昔の武人の国へ帰れ、の意味を含んでいたかもしれない。血を流して戦うのであってみれば、決して牧歌的な社会ではないが、君主と豪族の間には、身分の違いはあれ、頼み頼まれ、助け助けられる、何がしか平行的な人間関係があったのではないか。天皇理念をまぶして強圧的に降りてくる命令に反感を持てば、昔への郷愁がよみがえり、我々は我々のやり方でやっていきたい、との願いも強まるだろう。
 かくて、「天皇の楯として、其の勇を効さむ」が意味するものと、「推問」を機として自分の考えを申し述べようとする行為を合わせると、萬の言いたいことはこうであろう。「あなたの言うとおりにするけれども、第一に、強制や義務ではなく、自分の意思でやりたい。第二に、あなたが今言っていることではなく、あなたが昔言っていたようにやりたい」短く言えば、「私は昔どおりにやりたい」となる。別の言い方をすれば、「一王全民体制の下に入って令制組織の歯車の一つになるのはいやだ、個人としては主体性を、為政者としては「地方主権」を認めてほしい」となる。地方には地方の事情がある。萬は個人としてだけではなく、「八つの国」の為政者としても、自立を求めたのであろう。

 

 「朝庭」は怒った。
 萬の「逆心」とは何か。

 第一に、「朝庭」に発問不能の「推問」を要求し、天皇理念に挑戦したことである。

 第二に、臣下にあるまじき心の自由を求め、精神の自立を目指したことである。「朝庭」にすれば、自分の意思で「天皇の楯」になろうとする者は、自分の意思でそれを取り下げることもできるのだ。いったんそういう自己決定権を認めれば、天皇の絶対性は崩壊し、臣下は臣下でなくなる。

 第三に、「天皇の楯として、其の勇を効さむ」が令制への政策批判だったとしたら、これまた「朝庭」には受け入れられない。「推問」がそもそも天皇の絶対性にとって不可能であるのに、その用意された答えもまた時代に逆らっている。

 第四に、身分制社会の中で、下の者が上の者に対して、上下関係の定義を変更しようと求めること自体、喧嘩を売るに等しい(人はそれを革命とか下剋上などと呼ぶ)。

 第五に、萬が持ち込もうとした主従契約モデルは、天皇主権の根底を覆すものであった。天皇と萬、中央(九州王朝)と地方(近畿)の間を対等とみなすことなどあり得ない。

 第六に、「八つの国」の支配者であるがゆえに、それらの国々の独立をたくらみ、もう一人の「朝庭」たらんとしたことである。もっとも、もう一人の「朝庭」という断定は、「朝庭」側の疑心暗鬼もあったかもしれない。萬にそこまでする力量があったろうか。
 煬帝が多利思北孤の国書に不快感を表したように、天子は天下に一人しかいないのが当たり前であって、天子に並ぶもの、あるいは並ぼうとする者の存在を許さない。多利思北孤もまた、「天子」を名乗るからには、自分の手の届く範囲に自分の存在を脅かす者があれば、これを潰しに動くはずであるし、実際、そうしたと思う。

 さして問題もなさそうに見える短文から、毛を吹くようにして、萬の言い分とその罪状を探してみた。これなら「朝庭」が激怒しても不思議はない、という罪状を見つけることができただろうか。

 萬が敵視された原因として、二点を補足しておきたい。

 第一に、「朝庭」の怒りの根底には、変わろうとしない地方への苛立ちがある。「天皇の楯として、其の勇を効さむ」が示すように、地方は元から中央(九州王朝)に服属していた。しかし、この頃は、力関係ではまだ中央は圧倒的に強いというわけではなく、地方を実際に治めている豪族たちによる地方ルールがまかり通っていたし、中央もそれを認めていた。ところが、中央である九州王朝が、大陸からの独立志向を強めるに従い、それが目障りになっていった。地方があたかも中央からの独立を志向しているように見えるようになった。地方が九州に対抗して大陸に近付くという意味ではなく、地方が実際に独立しようとしたわけでもないが、地方ルールの存在が中央を脅かしているように見えるようになったのである。なぜなら、大陸からの独立志向は、同時に、列島を一つの国家でまとめようとする動きを強めたからである。大方針を変える以上、当然、服属する各地方を置き去りにするわけにはいかないではないか。そして、中央が各地方をまとめて面倒を見るためには、一つのルールが適用されなければならない。変化したのは九州だった。大陸が分裂し混乱して、服属する先がなくなった上に、これまで蛮族視されてきた匈奴・鮮卑系の国々がだんだんと力をつけてくる中で、九州王朝は、両親を亡くした子どもが突然大人びるように、自立を余儀なくされ、外側だけではなく内側までも統一された単一国家を目指すようになったのだ。こうして中央は変わったが、地方は変わらない。変わらないことが問題視されるようになったのである。

 第二に、近畿は列島の真ん中に位置する。この時代、列島の形がどのように認識されていたか必ずしも明らかではないが、近畿は九州に匹敵するほど広い。多分、生産能力も高かった。しかも、もっと東へ行こうとすれば必ず通らなければならない場所にあって、交通の要衝である。
 一罰百戒、中央の力を見せつけるとしたら、どこか。「八つの國」の萬が標的にされる要因は揃っている。

 ところが一方、萬は自分の要求が「朝庭」を激怒させると思っていなかった節がある。「…推問ひたまはず。翻かへりて此の窮きはまりに逼迫めらるることを致しつ」と、攻撃されて初めて知るのんきさである。令制への進行は時代の趨勢だったのに、なぜその願いがたやすくかなうと思ったのだろう。昔、王と豪族が肩を並べて戦った時代の、幻想だったにちがいない連帯感に甘え過ぎたのだろうか。大陸の文献に見える理想の君臣像もまた、幻想だったかもしれないのに。

 萬はなぜ「朝庭」の反応を読み違ったのか。

 第一に、大陸との関係を見据えながら国の体制を整えなければならない九州の緊張感を共有していなかった。鈍かった、疎かった、うかつだった。

 第二に、前例があったのだろう。萬の要求がシナリオの押し付けに似ているのは、前例があったためだと考えるとわかりやすい。それはおそらく『宋書』倭王武の上表文にある「東は毛人を征すること五十五国」の遠征行動の時のことで、近畿の「八つの國」はいち早く服属を表明し、「天皇の楯として、其の勇を効さむ」と誓約して事なきを得た。「推問」があってそれに答える形だったのだろう。支配者の家系に生まれた萬は、その経験を公式行事から裏話に至るまで聞き知っていた。九州と近畿は、外交プロトコルで連携する時代から、一つの国家として一つのルールで運営することが求められる時代になっていたのに、前例を踏襲すれば問題がないと思い込んでいた。

 第三に、社会のあり方が違っていたのかもしれない。萬が自分の自主性や地域の独立性を求めて変化を拒んだのは、彼が支配する「八つの國」自体が平和で、安定していて、何もしなくても徐々に成長する方向に進んでいたからであろう。そこでの支配層のあり方も上意下達型ではなく、割合と平等で、何事も話し合いで決めていたのかもしれない。それで、「朝庭」一人が絶対権力を求めて焦っているだけに見えた。近畿へ呼んで諭してやろう、と親切心で思ったのかもしれない。(本来、近畿の風土は、一王全民のような天皇理念になじまないのではないかと思う。千三百年を通じてリーダー性のある個性的な天皇はまれだし、幼少の天皇を即位させて権力の所在をあいまいにするような政治体制に走ったのもその表れであろう。一王全民でもないのに歴代の王や女王が映画の主人公になるような国もあるのに。)

 河内戦争は萬の自害をもって終結した。萬はなぜ自害したのか。作法にのっとった立派な自害だった。その直前まで激しく抵抗していたはずである。なぜ突然態度を変えたのだろうか。抗戦も自害も自分の意思ですることであってみれば、その間に失われたピースがありそうである。一案を示そう。

 萬は「共に語るべき者來れ。願はくは殺し虜とらふることの際わきだめを聞かむ」と「號」して、自分の最期について敵方に相談している。これに対して、「お前が天皇の楯ならば、証明せよ」との「朝庭」の答えが伝えられたのではないか。

 第一に、これは「推問」ではないので、天皇の立場を危うくしない。むしろ萬の立場を逆手に取っている。

 第二に、お言葉を賜わった萬は、「天皇の楯」として生きる人間の死にざまをを演じるしかあるまい。新しい酒を古い革袋に入れた報いでもある。

 第三に、それを詳細に実況記録しているのは、その死に「朝廷」の言葉が直接関わっていたからである。いろいろと符合するのである。

 

 しつこいようだが話は冒頭へ戻る。仮説を結集して「河内戦争」を復原してみよう。

 難波で萬は「朝庭」一行を迎える準備をしている。客を迎える側として、歓迎のための人員(「一百人」かもしれない)をそろえ、儀仗兵をそろえ、不測の事態に備えて警備の兵も配置する。合同演習を予定して各地から軍を呼び集めていたかもしれない。
 そこへ「朝庭」一行の先発隊が続々とやって来る。難波の港は西からの船であふれる。萬は応接に追われる。しかし、「朝庭」はなかなか現れない。暗くなる頃になってようやく、「朝庭」は有眞香邑へ向かったことが判明する。萬は下交渉に当たった外交官を叱り飛ばす。正式の行列ではなく、若干の側近と身辺警護の兵だけを伴って、取るものもとりあえず馬を出す。朝には有眞香邑に着くだろうと心の中で計算する萬。「朝庭」の戦術の手の上で踊っていることには気が付いていない。
 ところが、なぜか通行を妨害する者がいる。街道は「八つの國」から集まる人々と九州から来た人々で、すでに混乱していたかもしれない。先を急ぐ萬は街道を外れ山道へと進む。そこにも矢を射かけてくる者があって、道ははかどらない。「萬、此に在り」は史料では「衛士」たちの発言だが、最初に言ったのは萬側かもしれない。事前の通告なしに通行する者を取り締まるように命じておいた自分の配下だと思い込み、「怪しい者ではない」の意味で萬の側が制止するのはあり得ることである。しかし、「衛士」たちのは「いたぞ」の意味である。日が昇って明るくなる頃、山を下って川筋へ出る。そこで初めて萬は、自分を攻撃している者が、「朝庭」配下の「衛士」たちであることを知る。
 一方、有眞香邑を制圧した「朝庭」は北上する。難波へ上陸した「衛士」たちも友好の衣を脱ぎ捨て、南下する。異常事態に気付いた萬方の兵たちが抵抗したり、萬を助けに行こうと動き出せば殲滅する。餌香川原ゑがのかはらの戦死者たちはその一部であろう。
 こうして、萬は北と南からはさまれ、囲まれる。三十人余りを倒すという奮戦はいつの時点のことだろう。

 萬の「號」は、前半の「萬は天皇の楯として、其の勇を効さむとすれども、推問ひたまはず。翻かへりて此の窮きはまりに逼迫めらるることを致しつ」と後半の「共に語るべき者來きたれ。願はくは殺し虜とらふることの際わきだめを聞かむ」とではトーンが異なる。前半の「號」は「朝庭」への抗議である。予定されていた会見をすっぽかしたこと、頼んであった「推問」をしてくれなかったこと、平和的に迎えるつもりだった自分に攻撃を加えたこと。その怒りは三十人を倒す奮戦にふさわしい。

 しかし、「號」の後半では、戦況を変えることに絶望し、降伏の可能性を探っている。前半と後半が同時に言われたとすれば、自分の正当性と相手の不当を主張して、決着を少しでも有利にしようとしたものであろう。
 萬の「號」は誰に対するものなのか。「推問」することなく「逼迫」してきた者に向けられているのではないか。「共に語るべき者」とは誰を指すのか。「八つの國」の支配者である萬の立場を考えれば、「衛士」たちの司令官などではないだろう。「朝庭」が到着したのだろうか。萬の「號」は「地に伏して」始まっている。「朝庭」に聞かせるためのものだったことは明らかである。しかし、「共に語るべき者」の「共」は「友」に通じる。敗戦のさなかにあっても、「地に伏して」でも、萬は言葉ではあくまでも「朝庭」を対等の相手として「来たれ」と呼びかける。萬の死を報告したのが「河内國司」だったことからも、直接対面がかなったとは思えない。が、萬は「朝庭」にも肉声が届くように精一杯の声を張り上げた。それが「號」である。萬の言葉は、実際は「朝庭」の官吏によって「朝庭」へ届けられたであろう。失われたピースへの一案として、なんらかの言葉が「朝庭」から萬へ発せられた、と想定した。何と劇的な会見ではないか。それだけでも萬には、自分の戦士としての死に方を「朝庭」に見せる動機が生まれたと思う。

 (根拠がまったくない想像を一つ加える。後日談である。萬を倒したあと、「朝庭」は難波へ移動した。萬が招いた客たちを引見し、萬が用意したご馳走で祝宴を開いた。その館は後に天王寺と呼ばれるようになる。帰国前に近畿各地を巡回したかどうかまでは、さすがの想像力も力尽きる。)

 「朝庭」の功績は大きい。まさに歴史を変えたのである。

 第一に、政治的に九州から近畿までの西日本を統一した。もちろん、それ以前も近畿は九州王朝に服属していた。が、独立の気風も残っていた。河内戦争の結果、近畿は「朝庭」の直轄領地になった。巨大な衝撃だったはずである。物見遊山の風でやって来た「朝庭」を適当にもてなし、ついでに自分の権威づけに利用した行路の国々の豪族たちは、凱旋する「朝庭」をどういう顔で迎え、見送ったろうか。近畿よりもっと東の国々からも、戦勝祝賀の使節が押し寄せたことだろう。誰もがもう前方後円墳の大きさを競う気にはなれなかったに違いない。
 萬は、もう一人の「朝庭」と呼ぶには力不足だったかもしれない。しかし、西日本統一という成果を見た時、それを遮ろうと対峙した萬は、やはりもう一人の「朝庭」だったと言っていい存在だったと思われる。
 西日本統一の意義は大きい。だがそれは、九州王朝が半島から近畿へ軸足を移したことをも意味する。後に近畿天皇家が出たことを考えれば、西日本を統一したことが九州王朝滅亡の遠因だったことになる。歴史にイフは禁物だが、もし海峡国家のままでいたら、半島はいずれ失うことになっても、九州だけは残したかもしれない。

 第二に、律令体制への道筋をつけた。令制を導入することへの抵抗勢力は壊滅した。不平不満はあっても口にできるわけがない。行先は決まった。天皇を頂点とした律令制国家である。そこへ行き着くにはまだ紆余曲折があるが、「朝庭」はそこへ至る最初の石を置いた。

 第三に、近畿が列島の中の先進地帯となるきっかけを作った。萬が「朝庭」からの圧迫に反発したのは、近畿が平和な社会だったからであろう。平和が続き、生産が軌道に乗れば成長するはずだという見通しがあったかもしれない。その流れを変えたくなかった萬は、平和な社会にふさわしい平凡な政治家だった。萬の死後、九州王朝はそこへ新しい土地制度を導入したようであるが、その結果、単なる成長にとどまらず、近畿を全国的な先進地帯へと押し上げた。そこに胚胎した近畿天皇家が八世紀には九州王朝にとって代わるのであるから、皮肉な歴史ではある。

 一方、萬の願いは半ばはかなった。半ばはかなわなかった。萬は戦士として死ぬ場を与えられた。「天皇の楯」を自称した以上、言葉の上では、願いはかなえられている。が、本当の願いは拒まれた。自由に生きたい。一王全民の天皇理念に縛られたくない。中央と地方は対等だ。地方の声を聞け。萬の願いは千四百年後の今日にまで残された。

 

          九

 九州王朝は「萬」である。大陸に近いだけに、そこに興起する諸王朝との関係構築に腐心する九州王朝の立場で見るならば、九州王朝は「萬」の位置にいる。大陸の「天子」に対して、もう一人の「天子」を自称しているからである。大陸側の動き次第では、対応を誤ると、萬のように討伐の対象になる恐れもあったであろう。

 九州王朝は「萬」ではない。大陸の諸王朝が採用する新しい制度や文化を取入れ、対抗するための力を蓄えようとしている。後半史料に見るように、少なくとも令制は、六世紀末、すでに運用されていた(律については後半史料からはわからない)。九州王朝は敵に学ぶことを知っている。河内戦争の経緯や、萬の提案した目論見、手法は検討されつくしたのではないか。後半史料執筆の動機は、単なる記録に加えて、その辺にもあったかもしれない。

 もう一つ、疑問がある。
 そもそも五八七年に本当にあったのは崇仏・排仏戦争(蘇我・物部戦争)だったのだろうか。それとも本稿の河内戦争なのか。仏教戦争の意義は小さくない。それだけに、この年に意味の異なる大きな戦争が二つもあったとは到底考えられない。
 この疑問への判断材料が一つある。地名の表記である。「志紀郡」はより古い時代を描いている前半に現われる。「茅渟縣」は令制用語が多く用いられる後半に含まれる。ということは、後半の記事は「縣」の時代に成立したのであろう。

 前半は、早ければ評制期に執筆され、郡制期になってから「評」が「郡」に改訂されたのであろう。遅く見れば、郡制期であったかもしれない。前半が後で後半が先とは、逆転現象である。イメージ豊かで楽しいストーリーの前半は、戦争後まもなく体験者らによって書かれたわけではなかったのだろうか。そう言えば、自ら矢を射て戦う守屋に対して、攻め寄せた諸皇子・諸臣は誰一人、矢一本射ようとしなかった。郡制期の皇族・貴族のあり方が反映しているのかもしれない。
 一方、「令制用語の借用」が目立つとされた後半は逆に、五八七年により近い時期、評も郡もまだなかった七世紀前半までに成立した可能性が出てきた。

 

          十

 六世紀末から七世紀初めにかけて、近畿地方で新しい動きがあったという考古学上の指摘がいくつかある。たとえば、白石太一郎氏は前方後円墳の築造が終焉を迎えた、と述べている。それは列島各地でほぼ同時に起こった。巨大な衝撃があったのではないか、という。(注3)
 また広瀬和雄・安村俊史両氏によると、河内を中心とする発掘調査の結果、畿内では、
・六世紀末~七世紀初めに成立した集落が九世紀まで続く
・六世紀末~七世紀初めに竪穴住居から掘立柱建物へ移行する
・七世紀初頭を前後する時期に、統一的・計画的大開発が実施されているという。(注4)
 後者によるならば、大化改新(六四五年)や大宝律令の実施よりも早く、六世紀末~七世紀初めに、すでに近畿地方に律令制的な土地制度が導入されたのではないか、との疑いが生じる。文献だけでは及ばない知見を考古学がもたらしてくれる一例であろう。

 河内戦争は九州と近畿の間で戦われた。中央と地方の戦争であり、また国家統一を賭けた戦争でもあった。
 九州の「朝庭」は一王全民型の理念と、後に律令制度として完成することになる新しい政治制度を基盤としていた。理念と制度、その二つを近畿が受容するかどうかの戦争だった。
 近畿の側は、天皇理念に対して主従契約理念を対置することはできても、その理念を実現するための政治制度を伴っていなかった。ただ、天皇理念の圧力の前で、個人主義の芽生えが認められるだけである。ささやかだが、特筆に値する。
 河内戦争は、大陸と列島の関係をシミュレーションする格好の教材になったはずである。学習は「日出処天子」の国書となって結実した。それが列島の、大陸からのいわば独立宣言となっていることは周知のところである。
 「朝庭」に該当者がなく、「よみ人知らず」よろしく「名前知らず」なのは不都合である。仮に「河内天皇」と呼ぶことにしよう。本稿では九州王朝の天子(多利思北孤かもしれない)であろうと推定した。「河内天皇」による近畿平定は、日本史上の一大事業であったと言ってもいいであろう。近畿はその後数十年をかけた開発によって、九州王朝にとっての重要な安定領域となり、前期難波宮、天王寺の建造、さらには評制の施行という全国に及ぶ新政策の発信地となった。そしてまた、近畿天皇家を生み出す土壌ともなったのである。近畿が先進地帯になるきっかけを作ったのは、誰あろう、「河内天皇」であった。

 八世紀以降、政治の中心は九州から近畿へ移る。九州王朝は滅び、国家統一の事業は近畿天皇家が担うことになった。もし平将門を鎌倉政権の先駆者だったと呼んでいいならば、河内戦争の敗者である萬は、八世紀以降の近畿天皇家の先駆者だったことになろう。またもし、その勝者となった「河内天皇」がいなければ、近畿の、そして日本のその後の歴史は大いに違ったものになったはずである。

 

    

(注1)坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀下』一九六五年、一九九三年新装版、岩波書店。「岩波書紀」と略称する。

(注2)古田武彦氏が九州王朝説を提唱して今に至る。古田武彦『失われた九州王朝―天皇家以前の古代史―』朝日新聞社、一九七三年

(注3)白石太一郎「前方後円墳の終焉」白石太一郎編『古代を考える 終末期古墳と古代国家』吉川弘文館、二〇〇五年四月

(注4)広瀬和雄「畿内の古代集落」国立歴史民俗博物館編集・発行『国立歴史民俗博物館研究報告書第二二集』一九八九年三月三〇日発行
 安村俊史「河内における古代集落の変遷」栄原永遠男編『日本古代の王権と社会』塙書房、二〇一〇年

(付記)
 副題を「心の自由を求めた戦士と名前のないミカドが歴史を変えた」とした理由──なかんずく萬を先にし、「朝庭みかど」を後にした理由を述べたい。
 鳥をどうやって捕らえるか。餌を撒いておびき寄せ、網をかぶせる。萬はそうやって「朝庭」の術中にはまった。「捕鳥部萬」は萬を嘲笑してつけられた名前である。本当の名前はわからない。
 「朝庭」もまた、初めから名前がなかったわけではない。後の世になって奪われたのである。奪ったのは八世紀以降の近畿天皇家、及びその下で『日本書紀』を編纂した官僚たちであった。すなわち、「朝庭」は萬を倒した天皇原理で、自らも倒されている。彼は萬に続く犠牲者の一人である。

 萬は、ほんのかけらに過ぎないにせよ、心の自由という本物の宝物を手に入れた。彼がそれを、自分に仕える人々にも認めたかどうかわからないけれども、認めなかったとしても、それでも彼の理念は正当である。彼が見つけたものが本物である証拠に、彼は自由がもつ不思議な性質に気が付いている。自由は制限されてはじめて発見するものだ。そして、隠し持っているだけでは不安である。制限する者から認められなければ、本当の自由は得られない。自由とは不自由なものだ、というパラドックスを萬は体現しているかのようである。そう、萬は現代人なのである。

 「『お前は天皇の臣下か』と質問してほしい。そうしてくれたら答えるから」と迫る萬。「私の答えはあなた天皇に都合がいいはずだよ。どうして質問してくれないのか?」と責める萬。萬が何よりも求めたのは、天皇原理からの解放であった。千四百年前に萬の残した課題を、私たちが克服した時、はじめて名前のない「朝庭」の名誉も回復される。

 筆者は萬を発見できたことをうれしく思う。

 


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『古代に真実を求めて』第十八集

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