『古代に真実を求めて』第十八集へ
盗まれた分国と能楽の祖 -- 聖徳太子の「六十六ヶ国分国・六十六番のものまね」と多利思北孤 正木裕
盗まれた遷都詔聖徳太子の「遷都予言」と多利思北孤 正木裕
「消息往来」の伝承 岡下英男
関から見た九州王朝[服部静尚]
聖徳太子の伝記の中の九州年号 岡下英男(『古代に真実を求めて』 第十七集)../sinjit18/syoukyus.html
「俀・多利思北孤・鬼前・干食」の由来 正木裕(『古代に真実を求めて』第十九集)
「『君が代』の『君』は誰か -- 倭国王子『利歌弥多弗利』考」(会報34号)
正木裕
本稿では「上宮聖徳法皇」とか、「聖徳太子」といった「厩戸皇子」の呼称が、九州王朝の天子「多利思北孤」の称号である「上宮法皇」と、その太子「利(利歌弥多弗利)」(註1)に関する年号「聖徳」から採られたものであることを述べる。
古田武彦氏は「善記(あるいは継体)」より始まる九州年号を、九州王朝の年号として「再発見」され、その後の研究者により、概ね『二中歴』が九州年号の本来の形に近いと考えられるようになっている。
その一方で、『二中歴』に記す年号群と重複する「法興・聖徳」年号があり、これらは「九州年号の別系列」とされている。
「法興」年号は『法隆寺釈迦三尊像光背銘』に「上宮法皇」の年号として記されるほか、「伊予温湯碑」等にも見え、法興元年は辛亥(五九一)で崇峻四年にあたり、末年は法興三十二年壬午(六二二)で推古三十年となる。(註2)
これは『二中歴』他に記す九州年号「端政」から「倭京」までと重複する、つまりその間は「二つの年号が並立」していたことになる。
◆『二中歴』(*年号の下の数字は何年間か、干支は元年の干支を示す)
①端政たんじょう 五 己酉 (五八九~五九三)
②告貴こくき 七 甲寅 (五九四~六〇〇)
③願転がんてん 四 辛酉 (六〇一~六〇四)
④光元こうげん 六 乙丑 (六〇五~六一〇)
⑤定居じょうこ 七 辛未 (六一一~六一七)
⑥倭京わぎょう 五 戊寅 (六一八~六二二)
「聖徳」年号は『海東諸国記』『襲国偽僭考』『麗気記私抄』『茅窻(窓)漫録ぼうそうまんろく』『如是院年代記』や諸寺社の縁起等に広く記されており、これらによると聖徳元年は己丑(六二九)で舒明元年にあたり、末年は聖徳六年甲午(六三四)で、舒明六年、九州年号なら「仁王十二年(仁王の末年)」となる。(註3) つまり、「聖徳」は『二中歴』の九州年号「仁王」と重複することになる。
⑦仁王 十二 癸未(六二三~六三四)
年号を建てうる権力は「一元的」なもののはずで、このように「年号が重複する」のは不可解であり、そこには何らかの特別な事情・背景が潜んでいると思われる。
その謎を解く鍵が『隋書』に記す俀(倭)王多利思北孤の自称する「菩薩天子」にあるのだ。
『釈迦三尊像光背銘』の「上宮法皇」とは、通説では厩戸皇子、所謂「聖徳太子」のこととされているが、その登遐年月日「法興元三十二年癸未(六二二)二月二十二日」や、法皇の母(鬼前太后)・妻(干食王后)の名は、『書紀』に記す厩戸皇子(上宮太子)の薨去年月日「推古二十九年(六二一)二月癸巳(五日)」や、厩戸の母(間人皇女)・妻(膳大郎女ほか)の名とも合わない。また、近畿天皇家に「法興」という年号は存在しない。
それに対して、『隋書』では「俀(倭)王」は「阿毎多利思北孤」とされ、彼が遣隋使を送った六〇〇年、六〇七年は、それぞれ法興十年・法興十七年と「法興年間」に当たる。「年号を建てうる」のは「天子」に限られるから、「法興」は「日出ずる處の天子」を自認した阿蘇山下の天子、即ち九州王朝の「多利思北孤」の年号だということになる。(註4)
その多利思北孤は、隋の煬帝に「海西の菩薩天子、重ねて佛法を興すと聞く」との国書を送っている。これは自らを「仏法を先に興した海東の菩薩天子」、つまり仏法上の権威(菩薩)と、俗世の権力(天子)とを兼ね備えた「菩薩天子」だと自認するものだ。
こうした「菩薩天子」の概念は、中国南朝梁の武帝萧衍(しょうえん在位五〇二~五四九)が、仏教に傾倒し、二八〇〇余所とも言われる寺を建立し、僧尼は八〇余万に達したとされ、自らも三度に亘って捨身出家し、中国史上ただ一人「菩薩皇帝」と呼ばれていることに対応するものと考えられよう。
「菩薩」とは「仏門に入り如来に成るために修行する者」のことを指すものだから、「菩薩天子(皇帝)」とは「仏法に帰依し仏門に入った天子(皇帝)」を意味し、これは『光背銘』の「法皇」や、「伊予温湯碑」の「法王大王」という呼称の意味するところと一致する。
そして「仏門に入る」際には「戒が授けられる」ことになり、本来の「俗名」とは別に「法号(戒名)」が与えられる。これは天子でも例外でない。
当時、隋王朝でも、皇帝が僧籍に入り受戒している。まず初代王楊堅(文帝)が崇仏施策をとり、開皇元年(五八一)には出家を認め、開皇四年(五八四)には、天子の権威と別に、仏教上の律師の権威を容認し、更に、開皇五年(五八五)には文帝自らが菩薩戒を受戒した。
◆(開皇元年)高祖、普く天下に詔し、任ほしいままに出家を聽す。(『隋書経籍志巻四』)
◆(開皇四年)弟子は是れ俗人(*世間一般の人)の天子、律師は是れ道人(*仏教の修行をする者)の天子ゆえに、俗を離れむと欲する者有らば師に任せ度せ。(『仏祖統紀』)
◆(開皇五年)法経法師を招き、大極殿に菩薩戒を受く。因りて獄囚二万四千九百人を放つ。(『弁正論巻三』)
そして、煬帝(当時は晋王「楊広」)は、天台宗の宗祖である智者大師智顗ちぎに帰依し、開皇十一年(五九一)に智顗から菩薩戒を授かって「総持」という「法号」を与えられている。
◆(開皇十一年)智顗は楊広をして受戒せしめ、(略)并て、楊広に「総持」の法号を授く。楊広跪ひざまつき受く。(『中国歴史故事網』)
また、中国のみならず、半島においても天子が仏門に入り、法号を得た事例が見受けられる。
新羅では、梁と積極的に交流した「法興王」(在位五一四~五四〇)が武帝の影響を受け、出家して興輪寺に住し法空(法雲とも)と号し、その子真興王(在位五四〇~五七六)は、その徳を継ぎ「一心奉仏」し法雲と号したとある。
◆「(*法興王)宮戚を施して寺隷と為し、主として其の寺に住し、躬みずから弘化に任ず」「真興乃ち徳を継ぎ聖を重ね、(略)因って額を大王興輪寺に賜ふ。前王(*法興王)姓は金氏、出家して法雲といい、法空と字す」
(『三国遺事』巻第三興法第三、原宗興法条)
◆「王(*法興王)、位を遜きて僧と為り、名を法空と改め、三衣と瓦鉢を念い、志も行いも高遠にして一切を慈悲せり」(『海東高僧伝』巻第一釈法空条)
◆「王(*真興王)、幼年にして柞ははに即つきたれども、一心に仏を奉じ、末年に至り祝髪し浮屠と為り、法服を被り自ら法雲と号し、禁戒を受持し三業清浄となり、遂に以て終焉せらる」(『海東高僧伝』巻第一釈法雲条)
このように国家統治において仏教の権威を利用する方策は、中国・朝鮮半島において広く行われていた手法だった。
こうした状況を見れば、多利思北孤が仏教を崇拝し、自らを「菩薩天子」と位置づけ、仏門に入り法号を得て当然だといえる。しかも、煬帝が法号を得た五九一年は「法興元年」にあたる。多利思北孤が「煬帝は重ねて仏法を興した」と、煬帝と崇仏を「競う」からには、この時点で同様に法号を得ていて不思議はないだろう。
これを裏付けるように『書紀』では崇峻元年(五八八)に百済から「聆照律師」が「恵総法師」らを伴い来朝したと記す。隋の文帝が「律師に任せ度せ」と詔した「律師」と、伊予温湯碑に「法王大王」と共に伊予に逍遥したと記される「恵忩(総)」だ。
『書紀』によれば、蘇我馬子は彼らに「受戒之法」を問うとあり、続いて崇峻三年(五九〇)には鞍作鳥の父とされる多須奈ら多数が出家し徳斉法師ほかの法名を与えられている。
一方この時期、九州王朝では、多利思北孤の先代と考えられる高良玉垂命が五八九年に逝去し、九州年号は「端政」と改元されている。
また『聖徳太子傳記』他によれば聖徳太子が「国政を執行」したのは太子十八才で、これも五八九年とされている。
◆『聖徳太子傳記』太子十八才御時春正月参内して国政を執行したまへり。(太子十八才は五八九年・九州年号「端政」元年)
『釈迦三尊像光背銘』の上宮法皇(多利思北孤)は、一般に厩戸皇子(聖徳太子)と置き換えられ解釈されてきたことからも、この年多利思北孤が即位したと考えられる。
隋・新羅における天子の受戒、律師来朝(五八八)、九州王朝の天子交代(五八九)、多数の出家(五九〇)といった流れから判断すると、多利思北孤が即位後間もない端政三年(五九一)、即ち「法興元年」に「道人の天子」とされる聆照律師から受戒し仏門に入り、法号を授かった可能性は高い。そして天子が仏門に入れば「法皇」となる。即ちこれが「上宮法皇」であり、その法号こそ「法興」だったと考えられる。
つまり「法興年号」は、高祖の言う「俗人(実社会)を統治する王(天子)」としての端政等の九州年号とは別に、「仏教上の法皇」としての「紀年」であり、多利思北孤が仏門に帰依し「上宮法皇として法興という法号を得てからの年数」を意味するものといえよう。
九州王朝の天子に関する年号が、九州年号と重複するのは、「統治上の権威(俀王・天子)」と、「宗教上の権威(法皇)」を併せ持つ「菩薩天子」という多利思北孤に由来するものだったからと考えられる。
このように「法皇」として「仏教を興(崇仏)」したのは多利思北孤だったが、『書紀』編者は、厩戸皇子と多利思北孤(上宮法皇)の没年が近接していることを奇貨として、仏像恭拝や法華経・勝鬘経講義など様々な業績を厩戸のものとし、これに「奇瑞」を加え「聖人」に描き出した。後にこれが「聖徳太子」として喧伝されることとなったのだ。
その厩戸皇子のものとされる「聖徳太子」という呼称は、皇子当時のものではなく八世紀まで見られない。七一二年の『古事記』に「聖徳」は無く、「上宮之厩戸豊聡耳命」とあり、七二〇年の『書紀』にようやく「豊耳聡聖徳、東宮聖徳」など「聖徳」称号が現れるが、「聖徳太子」という表記は、八世紀半ば頃の資料になって始めて見られる。(註5)
一方で、九州年号には前述のとおり、七世紀前半には「聖徳」(六二九~六三四年)があるのだ。もちろん近畿天皇家の年号には、「聖徳」など全く存在しない。それどころか近畿天皇家には、「年号」そのものも存在しない。
多利思北孤の崩御は『光背銘』から六二二年で、翌六二三年九州年号は「仁王」と改元されているから、この年に太子「利」が即位したと考えられる。そして「仁王」は、六二三年〜六三四年で「聖徳」期を含むから、九州年号「聖徳」は、多利思北孤の太子「利(利歌弥多弗利)」の年号となる。
また、『善光寺縁起集註』には命長七年(六四六)という九州年号と「斑鳩厩戸勝鬘」の署名の入った文書があるが、近畿天皇家の厩戸とは合わず、彼の文章とは考えられない。その内容は善光寺如来に「助我濟度常護念」と祈願するもので、これは死を目前にした者に相応しく、多利思北孤の崩御から二三年という間隔と、翌年に九州年号は「常色」と改元されていることから、末年の「利」の文書と考えられ、「斑鳩厩戸勝鬘」との署名は、「利」もまた聖徳太子のモデルであった事を示す。(註6)
そして、先述のとおり『三国遺事』等には六世紀新羅の法興王は仏教を崇拝し「法雲」と号し、次代の真興王は、法興王の「徳を継ぎ聖を重ね」「位を遜きて僧と為り、名を法空(法雲とも)と改めた」とある。
そうした事例からすれば、「利」も法興王・真興王のように、父多利思北孤同様仏門に帰依し、「聖徳」の法号を得て、法皇の紀年として「聖徳」年号を持ったことは十分に考えられる。
しかも「聖徳」は、真興王の事績として讃えられる「徳を継ぎ聖を重ねる(継德重聖)」の「主眼」となる句なのだ。
多利思北孤の次代の九州王朝の天子「利」は、多利思北孤の「徳を継ぎ聖を重ねる」意味で、「聖徳」という法号を得、「法皇」の紀年とした。これが九州年号「聖徳」だと考えられる。(註7)
こうした経緯から、「聖徳」は「菩薩天子」多利思北孤を父に持つ「利」のみが持つことが出来る法号・年号であり、「厩戸皇子」が名乗る必然性は何もなかったのだ。
「法興・聖徳」年号は、仏教を利用した統治が広く行われていた東アジアにおいて、九州王朝が中国や朝鮮半島と交流し、或は競い合っていたことを示す年号だった。
『書紀』編者は、こうした九州王朝の多利思北孤とその太子「利」二人の事績を近畿天皇家の「厩戸皇子」に集約して盗用した。その後、事績のみならず2人の「名称」も併せ「上宮聖徳法皇」とか、「聖徳太子」として崇拝されたが、真に尊ばれるべきは九州王朝の天子たちだった。
(註1)通説では「名太子為利歌彌多弗利」を「太子の名を利歌彌多弗利と為なす」とするが、古田氏は「太子の名を利と為なす。歌彌多弗かみたふの利なり」と読む。「利」は「倭の五王」の「讃、珍、済、興、武」と同じ「一字名」であり、「歌彌多弗」は博多の字地名(旧、九州大学の地帯)「上塔」に関連する地名ではないかとされている。
(註2)
①『伊予国風土記逸文』「伊予温湯碑」(『釈日本紀』巻十四)
法興六年(五九六)十月、歳在丙辰。我法王大王、与恵忩(総)法師及葛城臣、逍遥夷与村、正観神井、歎世妙験。欲叙意、聊作碑文一首。(略)
②『蒲生郡志 長光寺縁起』法興元二十一年壬子の年二月十八日
③『上宮法王帝説』釋曰法興元世一年此能不知也
④『聖徳太子傳私記下』法興寺者(略)其時在法興元世一年號
⑤『聖徳太子伝古今目録抄』法興元世一年
⑥『太子像胎内納入文書』法興元世一年
(註3)
①『海東諸国記』舒明天皇敏達孫名田村元年己丑改元聖徳六年甲午八月彗星見七年乙未改元僧要三月彗星見二年丙申大旱六年庚子改元命長在位十三年寿四十五
②『襲國偽僭考』舒明天皇元年巳丑。聖聴元年とす。如是院年代記に聖徳に作る。一説曰舒明帝之時聖聴三年終
③『如是院年代記』「聖徳元」(第三十五代舒明)忍坂大兄皇子之子。敏達之孫。己丑即位。居大和高市郡岡本宮。治十三年。壽四十九歳。
④『麗気記私抄』第三十五代舒明帝治元号聖徳元己丑也
⑤『茅窻漫録』聖徳〈舒明帝即位元年己丑紀元、六年終、年代、皇代、暦略、諸國記皆同、古代年號作聖聽、三年改元、〉
⑥『防長寺社由来』舒明天皇之御宇聖徳三歳経七月役小角誕生自聖徳三年辛卯(六三一)(略)御歳七十二歳御入虚)
⑦『金峰山寺古年皇代記』舒明天皇聖徳三辛卯経七箇月(略)役小角誕生是縁起ニ見タリトアリ)
⑧『講私記』(心鑑抄修要秘訣集)役行者舒明天皇聖徳三年辛卯十月二十八日降誕
⑨『長吏由来之記』欽明天皇御宇聴徳三歳辛卯年(略)聖武天王之御子出生給
⑩『園城寺伝記』夫仁経(略)欽明天皇(略)同御宇聖徳三年辛卯九月二十日辰尅
⑪『本土寺過去帳』(千葉県松戸市長谷山本土寺)聖徳三年八月、聖徳五年十一月
⑫『君台観左右帳記』聖徳六年戊巳(甲午か)
⑬『箕面寺秘密縁起』役行者(略)舒明天皇御宇正徳六年甲午(六三四)春
⑭『役行者本記』(帝王編年記)役小角行者舒明天皇聖徳六年甲午正月(一説に十月)朔日降誕
これら資料から聖徳元年は六二九年と考えられる。
(註4)『隋書』開皇二十年(六〇〇)、俀王、姓は阿毎、字は多利思北孤、阿輩雞彌と号す。使を遣して闕に詣る。(略)王の妻は雞彌きみと号く。後宮に女六七百人有り。太子を名けて利と為す、歌彌多弗の利なり。
大業三年(六〇七)、その王多利思北孤、使を遣して朝貢す。使者曰く「海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと聞く。故に遣わして朝拝させ、兼ねて沙門数十人を来らせ仏法を学ばしむ」といふ。その国書に曰く、「日出ずる處の天子、書を日沒する處の天子に致す。恙なきや」云云。帝、これを覽て悅ばず。鴻臚卿曰ふ、「蛮夷の書に無礼あり。復た以て聞くことなかれ」と。
(註5)「聖徳太子」の初出は『懐風藻』天平勝宝三年(七五一)とされている。
(註6)『善光寺縁起集註』「御使 黒木臣 名号称揚七日巳 此斯爲報廣大恩 仰願本師彌陀尊 助我濟度常護念 命長七年丙子二月十三日 進上 本師如来寶前 斑鳩厩戸勝鬘 上」
古賀達也「『君が代』の『君』は誰か -- 倭国王子『利歌弥多弗利』考」(古田史学会報一九九九年十月十一日三四号小題「善光寺文書の『命長の君』」
新古代学の扉事務局へのE-mailはここから
制作 古田史学の会