『古代に真実を求めて』第十八集
盗まれた「聖徳」 正木裕

「消息往来」の伝承 岡下英男(会報116号は、考察の過程を述べたものです。)
天武九年の「病したまふ天皇」 -- 善光寺文書の『命長の君』の正体 正木裕(会報94号)

聖徳太子の伝記の中の九州年号 岡下英男(『古代に真実を求めて』 第十七集)../sinjit18/syoukyus.html

「九州年号の別系列(法興・聖徳・始哭)について」(『古代に真実を求めて』第十五集所収 二〇一二年)


「消息往来」の伝承

岡下英男

1.はじめに


 消息往来(聖徳太子と善光寺如来の間の書簡のやり取り)は三回にわたってなされたとされている(文献1)。これを記載している史料は各種、多数あるが、三回の書簡のやり取りを全て記載している史料は『蔡州和伝要』、『善光寺縁起集註』、『述懐抄』、『壒嚢鈔』の四点である(文献2)。これらは、相互に、使者の名前や日付などに差異があるが、最もよく整理してあるのは『蔡州和伝要』であり、これが他の三史料の元本であると考える。
 四点の史料の成立は、『述懐抄』:正中、嘉暦のころ(1320年代)、『蔡州和伝要』:暦応二年(1339)、『壒嚢鈔』:天文元年(1532)、『善光寺縁起集註』:天明五年(1785)であるとされている。この中で成立年代の早い『述懐抄』と『蔡州和伝要』を較べると、書簡の部分はそっくりであるが、使者の説明などは後者の方が簡潔で古い形を残しているようである。両者はほぼ同時期の成立とみられるが右のように考えて、次項では『蔡州和伝要』を資料として、消息往来について考える。

 

2.『蔡州和伝要』

 『蔡州和伝要』は鎌倉時代の僧「詫何」の撰である。ただし、「河内道明寺に現存する十六歳孝養太子像の胎内に、弘安九年(1286)の年号が存する文書と共に第一、第二回の消息を書いた「太子献善光寺阿弥陀如来給仏文中」と題する文書が納入されて」(前掲文献1、仏は御の誤り)おり、そこには「御詞云廿句也 法興元世一年辛己十二月十五日」(文献3)との文言があるところから、消息往来の伝承の古いことが知られている。したがって、『蔡州和伝要』の原型ともいうべきものがすでに存在していて、詫何が整理・文書化し、以後、それが利用されたと考えるべきであろう。
 この書に記載されている消息往来の本文を取り出して三回とも左に示す。各種の仏書や聖徳太子の生涯を記述する伝記ではこのうちの一回目だけが記載されているケースが多い。

一回目
聖徳太子から善光寺如来へ
名号称揚七日巳 此斯為報広大恩
仰願本師弥陀尊 助我済度常護念
命長七年丙子二月十三日

善光寺如来から聖徳太子へ
一日称揚無息留 何況七日大功徳
我待衆生心無間 汝能済度豈不護
二月二十三日

二回目
聖徳太子から善光寺如来へ
大慈大悲本誓願 愍念衆生如一子
是故方便従西方 誕生片州興正法
我身救世観世音 定慧契女大勢至
生育我身大悲母 西方教主弥陀尊
真如実相本一体 一体現三同一身
行功化縁亦巳盡 還帰西方我浄土
為度末世諸衆生 父母所生血肉身
遺留勝地此廟窟 三骨一廟三尊位
過去七佛法輪処 大乗相応功徳地
一度参詣離悪趣 決定往定極楽界
法興元世一年辛巳十二月十五日

善光寺如来から聖徳太子へ
善哉善哉大薩埵 善哉善哉大安楽
善哉善哉摩訶衍 善哉善哉大智慧
十二月二十五日
     
三回目
聖徳太子から善光寺如来へ
州域化縁度脱了 平等一子衆生界
能除一切重業障 兆載永劫成菩提
済度群生同教体 恒願本師如来国
口称誓願執持功 豈是因縁不護念
法興元世二歳壬午八月十三日

善光寺如来から聖徳太子へ
汝是救世大聖尊 能度衆生済如我
父母所性引導身 一切有情同利益
超世大願為過人 五逆重罪称念者
六方護念名号故 運心執持生安楽
   八月十三日

 一回目の往復書簡が、多くの史料に消息往来として載せられているもので、特記すべきは、善光寺如来への書簡に「命長」という九州年号による日付があることである。この書簡が九州王朝の多利思北孤の次代の利歌弥多弗利によるものであることは正木裕氏の報告に明らかである。(文献4)

 二回目の聖徳太子の書簡とされるものは、太子が、生前自ら墓所に納めたとされる「廟中廿句」と呼ばれるものである。
 聖徳太子から善光寺如来への一回目の書簡の前書きには、「欽明天皇のために七日の念仏をした」と書かれているが、文面には「我を助けたまえ」とあり、内容的に合っていない。「七日の念仏」が、『聖徳太子伝暦』の太子三十七歳条に記載されている「七日七夜の夢殿参籠」と似ているところから太子の書簡であると脚色されたのであろう。

 二回目の書簡では、終りの方には、「この廟窟は功徳のあるところだから、一度参詣すれば悪が離れ極楽往生決定」と、墓所のある叡福寺参詣の功徳を述べていて、善光寺弥陀如来へ送るような内容ではない。しかし、叡福寺の墓所に太子・大后・后の三人が一緒に葬られていることを意味する「三骨一廟」と、善光寺の阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩の三尊が一つの光背に入っている形式を示す「一光三尊」が似ているところから、太子と善光寺の関係が深いことを示すために使われたのであろう。

 

3.書簡の日付

 聖徳太子から善光寺如来へ送った書簡には左に示す日付がある。
   一回目 命長七年丙子二月十三日
   二回目 法興元世一年辛巳十二月十五日
   三回目 法興元世二歳壬午八月十三日

 これらの日付について次のように考える。
 善光寺が古くから幅広い信仰を得たのは、「聖徳太子信仰と善光寺一光三尊仏の信仰を結合して説いた善光寺聖の唱導教化があったため」(前掲文献1)とみられている。私は、これを、具体的には、布教僧(善光寺聖のこと)が消息往来をお経のように唱えて善光寺信仰を広めようとした、と理解する。消息往来をお経のように唱える場合には日付は不要であるが、これを文書化する場合には、一回目の書簡に日付が明記されているので、体裁を揃えるためには二回目、三回目にも日付が必要となる。このための日付として法隆寺釈迦三尊の光背銘(文献5)が利用されたのであろう。

 二回目の「法興元世一年」は、明らかに、光背銘の「法興元丗一年」を読み替えたものであり、三回目の「法興元世二歳」は読み替えた二回目の翌年として「二歳」としたものであると理解される。しかし、一回目の「命長七年(646)」と二回目の「法興三十一年(621)」(消息往来の中では法興元世一年と書かれている)で年次が逆転している。つまり、「法興」は、「多利思北孤の法号」であって、「多利思北孤が仏門に帰依してからの年数を示す」(文献6)というその意味を知らずに使われているのである。

 『二中歴』には「命長」はあるが、「法興」はない。そのため、「法興」は、「命長」年号との前後関係を検証できないまま、聖徳太子にゆかりのある年号として使われたのであろう。その際、「命長」から、即、「法興」に改元したとしても「三十一年」経過するのは書簡のやり取りとしては長すぎるから「丗」を「世」と読んだのであろう。
 性格の異なる年号、これは一回目と二、三回目の書簡のやり取りとされるものが性格の異なるものであることの証拠である。即ち、一回目のやり取りは実在したが、二、三回目の書簡は脚色・編纂である。当時、一部の分野ではこのことが知られていたのではなかろうか。それが聖徳太子の生涯を記述する伝記には一回目だけが記載されていることの原因の一つではなかろうか。
 なお、光背銘によれば、「法興三十一年」の翌年二月二十二日に法王は枕病、登遐しているので、三度目の書簡の日付「八月十三日」は死後となる。光背銘に明記されている翌年の死去を考慮していないのはなぜか、『善光寺縁起集註』がそれを二月十三日としているのは考証によるものか誤写なのか、疑問の残るところである。

 

4.書簡はどこにあるか、または、どこにあったか

 前項までの考察で、一回目の書簡のやり取りは実在であると考えた。では、その書簡はどこにあるか、または、どこにあったのか。
 『法隆寺の謎と秘話』(文献7)では、もちろん、法隆寺にあるとされている。しかし、日本書紀によれば、法隆寺は天智天皇の九年(670)に「一屋余すところなし」と焼けている。法隆寺に如来の返報があったとしたら、その時に焼失してしまったのではなかろうか。
 史料(聖徳太子伝以外で、消息往来を記載している史料の意味)にはどのように書かれているか。翻刻・出版されているものをいくつか調べると次のようである(前掲文献2)。

①『述懐抄』――――――正中、嘉暦のころ(1320年代頃)成立。一回目の書簡の所在の記 載無し。三回目は「御廟中にあり」とする。

②『蔡州和伝要』――――暦応二年(1339)成立。一回目の書簡の所在の記載無し。三回目は「御廟中にあり」とする。これは『述懐抄』と同じである。

③『善光寺縁起』――――原形は平安末期から鎌倉初期に遡るともされているが、現在伝わっているものは記載内容から応永年間(1400頃)の成立と見られ、「応永縁起」とも呼ばれる。一回目の書簡のやり取りだけが記載されている。所在の記載あり。 「太子御手跡。如来御自書硯。于今在之云云。」

④『神明鏡』――――――永享六年(1434)成立。所在の記載あり。「太子ノ御文ヲハ・・・
度々ノ火難ニ失セケルトナン。如来ノ御報ハ天王寺第一ノ宝蔵ニ今ニアリ」。これは、その後に「御詞云 名号称揚七日巳…」とあるから、一回目の書簡のことである。

⑤『壒嚢鈔』――――――天文元年(1532)成立、所在の記載無し。

⑥『善光寺縁起集註』――天明五年(1785)成立。一回目の書簡の所在の記載あり。
「今猶在大和国法隆寺也」

 なお、一回目の如来の返報は「白紙」に書かれたとしながら、二回目の返報では、「古無紙。有事書之於簡」となっていて、辻褄が合わない。これは如来の返報の一回目は紙に書かれたものの存在が認識されているのに対して、太子の二回目の書簡は廟内に納められたとする伝承を意識したためであろうか。

 右の六点の史料で、一回目の消息の在り処を記載しているのは、『善光寺縁起』、『神明鏡』、『善光寺縁起集註』であり、さらに、一回目の消息の双方について記載しているのは『神明鏡』だけである。如来の返報に関しては、『神明鏡』と『善光寺縁起集註』で、天王寺と法隆寺で異なるが、それらの成立年代からみて、『善光寺縁起集註』の「法隆寺」は後世の創作で、成立年代が古いところから、『神明鏡』の「天王寺」の信頼性が勝ると考える。
 坂井衡平氏は『善光寺史』の中で、一回目の書簡のやり取りに関して、次のように書かれている(文献8)。ただし、傍線は筆者が付けたものである。

 「応永縁起には、
   贈答御書即進覧王城云、太子之鳥冊云、如来竜書拝見八木之勢、殆超張之字、太子御手跡、如来御自書硯>于今有之云々

と見えて、応永初年迄は善光寺に如来書・太子書共に珍蔵されて『太子之鳥冊』なる古記録さへ在った趣が明らかである。然るに永享六年の神明鏡には、

太子ノ御文ヲハ善光寺ノ宝蔵ニ納メケルヲ、度々ノ火難ニ失セケルトナン。如来ノ御報ハ天王寺第一ノ宝トテ宝蔵ニ納メテ今ニ有リ云々

と、本寺の御書は焼失したが天王寺に御返書を宝蔵する由を伝えている。」

上記の文は、いくつかの点の修正が必要と理解する。
「八木之勢」は「入木之勢」で、木に墨が染み込むほど勢いが良いこと、『太子之鳥冊』は、「冊」は「札」の意味で、古記録ではなく「太子之鳥札」で太子の手紙のことであろう。また、珍蔵されているのは「如来書」ではなく如来が返報を書くのに使った硯であろう。如来の返報が善光寺に残っているはずがない。

 この『善光寺史』の文を右のように修正して読むと、「聖徳太子が送ったとされる書簡は、『善光寺縁起』の時代以前には存在したが、それ以後『神明鏡』の時代までの間に焼けて無くなり、一方、如来の返報は天王寺にあった。」と理解される。

 

5.書簡は誰が、どこで書いたのか

 前項で、『神明鏡』の記述を元に、如来の返報が天王寺にあったと考えた。
 先の正木氏の報告によれば、書簡は病に伏す九州王朝の太子「利」が、我を助けたまえと善光寺阿弥陀如来に願ったものである((前掲文献4) 。 そうであれば、これに対する如来の返報は、当然、「利」のもとへ届けられたはずであり、それが天王寺にあったとすれば、「利」は天王寺近辺で病に伏していたのであろう。すなわち、太子の一回目の書簡とされるものは「利」が天王寺近辺で書いたものと考える。
 なお、正木氏は別の報告(文献9)で、「記事の場所は筑紫」とも推測されているが、筑紫から善光寺は遠い。善光寺如来像は、守屋によって「難波の堀江」に捨てられ、そこから聖徳太子によって拾い上げられたとされている。この伝承は聖徳太子の伝記に記載されている情報であるが、「利」が御利益を望んで病気平癒を祈願したということは、その当時、すでに、善光寺の名声が高かったからであろう。当然、「難波の堀江」のいきさつも知られていたに違いない。したがって、「利」が天王寺付近に臥していたから、祈願する先として善光寺が浮かんだのであろうと考える。

 

6.終わりに

 本報は古田史学会報No.116に掲載された同名の報告を書き直したものである。
 この考察から得たものは既に拙稿(文献10)に取り入れている。本報は、いわば、考察の過程を述べたものである。

 

参考文献

(1)嶋口儀秋「聖徳太子信仰と善光寺」(『民衆宗教史叢書』第三十二巻所収 雄山閣出版株式会社 一九九九年)

(2)述懐抄:『浄土宗全書』続第九巻(山喜房仏書林 一九七四年)
蔡州和伝要:『大日本仏教全書』第六六巻
善光寺縁起:『続群書類従』第二八輯上
神明鏡:『続群書類従』第二九輯上
壒嚢鈔:『日本古典全集』(現代思潮新社、二〇〇六年)
善光寺縁起集註:『大日本仏教全書』第一二〇巻

(3)小林剛・杉山二郎「道明寺聖徳太子像」(『文化史論叢』奈良国立文化財研究所学報:
第8冊所収 吉川弘文館 一九六九〇年)

(4)正木裕「隠された改元」(『「九州年号」の研究』所収 ミネルヴァ書房 二〇一二年)

(5)古田武彦著『法隆寺の中の九州王朝』(ミネルヴァ書房 二〇一四年)

(6)正木裕「九州年号の別系列(法興・聖徳・始哭)について」(『古代に真実を求めて』第十五集所収 二〇一二年)

(7)高田良信著『法隆寺の謎と秘話』(小学館 一九九三年)

(8)坂井衡平著『善光寺史』上(東京美術 一九六九年)

(9)正木裕 『古田史学会報』 第九四号
  天武九年の「病したまふ天皇」 -- 善光寺文書の『命長の君』の正体 正木裕

(10)岡下英男「聖徳太子の伝記の中の九州年号」(『古代に真実を求めて』第十七集所収二〇一四年)


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