『古代に真実を求めて』第十八集へ
畿内を定めたのは九州王朝か——すべてが繋がった 服部静尚
YouTube 講演 大化の改新 その1、関に護られた難波宮 その2、難波宮の官衙に官僚約八千人 その3、条坊都市はなぜ造られたのか
服部静尚
日本書紀の天武八(六七九)年、十一月是月条に、「初めて竜田山・大坂山に関を置く。仍よりて難波に羅城らじょうを築く。」という非常に興味深い記事があります。この記事から後述する数々の疑問点が浮かびます。
これらの疑問点は、通説の考え方では説明・理解が全く不能であって、古田武彦氏の九州王朝説に従い、古賀達也氏の難波宮副都説、正木裕氏の三十四年遡り説(日本書紀の七世紀の記事の中には、三十四年後にずらされた記事があるという説)を採用し、ここから思索をめぐらすと、この数々の疑問点が解明されます。その結果、竜田山・大坂山の関は、九州王朝によって(前期)難波宮を守るために置かれた可能性が大きいことが判明しました。この論考はこれについて述べます。
先ず、疑問点に行く前に、「関」とは何か、そして古代においての「関」の重要性について述べます。
(1)八三三年に編纂された養老令の注釈書である令義解軍防令置関条に、「凡およそ関を置き守固すべくは、並びに兵士を置配し、分番上下せよ。其れ三関(伊勢鈴鹿・美濃不破ふわ・越前愛発あらち)には、鼓吹・軍器を設け、国司分当して守固せよ。配するところの兵士の数は別式に依れ。」と規定されていますが、この関を置く目的については触れていません。
岸俊男氏(註1)・舘野和己氏(註2)は、「外敵に備えるためというよりも、京に反乱が起ったときに、その逆謀者が東国へ逃入しそこを拠点とし、あるいは東国の勢力を動員して行なわれる反撃を未然に抑えるほうが重要であった。」としています。
衛禁律えごんりつの私度関条には、「私に三関を越えたら懲役一年」という処罰が規定されていること、そして元明天皇崩御時(七二一年)に固関使の派遣をし、数日たって落ち着いた後、開関使の派遣を行なったこと、その後も、聖武天皇崩御時(七五六年)、恵美押勝の乱(七六四年)、称徳天皇崩御時(七七〇年)等々で非常に備えて、たびたび固関を行なったことから、少なくとも奈良時代においての関の役目は、岸氏・舘野氏のこの見方で正しいと思われます。
(2)壬申の乱(六七二年)は、大海人皇子が美濃国の多臣品治おおのおみほむじに対して、「挙兵し、国司等の了解をとって不破の道を塞ふさげ」と詔みことのりしたことからスタートしています。続いて鈴鹿山道を塞ぐなど、この関(壬申の乱の日本書紀記事には関とは書かれていません。その点は後述します)が重要な戦略ポイントとなっています。
まさに「その逆謀者(大海人皇子)が東国へ逃入しそこを拠点とし、あるいは東国の勢力を動員した」わけです。
(3)それでは古代において、関をどのような位置に設けて、どのような人が守り固めたのでしょうか。
先の三関についてですが、不破関は発掘調査でその位置が確定しています。鈴鹿関・愛発関についても異説はあるものの、大体の位置は推定可能です。これを添付図1,2,3に示します。
①鈴鹿の関は、現在の亀山市の西側、関の観音山公園で遺跡が発掘・確認されています。図1を見て下さい。東側は亀山市から伊勢湾の方向に平野があって、西側は山、国道もトンネルになっています。
図1 鈴鹿の関
②不破の関は、現在の関ヶ原町で、図2を見て下さい。東側は濃尾平野、西側は山、新幹線でもトンネルです。
図2 不破の関
③愛発の関は、現在の敦賀市にあって、疋田ひきだ地区もしくは道口みちのくち地区にあったとされています。図3を見て下さい。北側は敦賀市の平野部が広がっていて、南側は山です。
図3愛発の関
ここには共通性があります。いずれも、守るべき味方の地から山を越えて、その麓の、敵が迫ってくると考えられる(伊勢・美濃・越前)国の平野部に、対面するように位置しています。
(4)壬申の乱で「五百人の軍兵で鈴鹿山道を塞いだ」「美濃の軍勢三千人で不破道を塞いだ」とあります。舘野氏によると、不破関の発掘調査で、北辺四六〇メートル東辺四三二メートル南辺一一二メートルの土塁で囲まれて(西辺から南西にかけては藤古川の段丘崖)いたことが判明しており、これだけの軍兵が駐屯できるほどの規模であったことが判ります。
参考文献註3によると、「壬申の年当時に鈴鹿関が存したとするのが通説であるが、一行の通った道に関があった形跡はなく、本条にも山道を塞ぐとあって、関のことは見えない。疑問あり。」としています。しかし、日本書紀本条には続いて「山部王・石川王、並びに来帰まいよれり。故、関に置はべらしむ―後述(B)」とここでずばり関と書いています、当然関があったと考えるべきです。
(1)日本書紀における「関」についての記事を順に並べると、次のようになります。
(A)大化二(六四六)年、正月―大化改新の詔(其の二)に「初めて京師を修む、畿内國の司みこともち、郡司こおりのみこともち、関塞せきそく、斥候うかみ、防人さきもり、駅馬はゆま、伝馬つたわりうまを置き、及び鈴契すずしるしを造り、山河を定めよ。凡そ京には坊毎に長一人を置け、四坊に令うながし一人を置け、戸口を按検し、奸非を督察することをつかさどれ。其の坊令は、坊内にいる明廉強直で、時務に堪える者をあてよ。里坊の長には、並びに里坊の百姓の清正強幹なる者をあてよ。若し里坊に人無くば、ならびの里坊からえらぶことをゆるす。凡そ畿内は、東は名墾なばり横河よりこなた、南は紀伊兄山せやまよりこなた、西は赤石あかし櫛淵よりこなた、北は近江狹々波ささなみ合坂山よりこなたを、畿内國とする。
凡そ郡は四十里をもちて大郡とし、三十里以下四里以上を中郡とし、三里を小郡とせよ。其の郡司こおりのみやつこには、並びに國造の性識清廉にして、時務に堪える者を取り、大領・少領とし、強幹聡敏にして、書算にたくみなる者を、主政・主帳とせよ。凡そ駅馬・伝馬を給うことは、皆鈴伝符すず・つたえのしるしの剋数によれ。凡そ諸國及び関には、鈴契を給う。並びに長官が執とれ、無くば次官が執れ。」
(B)天武元(六七二)年、六月―壬申の乱で「鈴鹿関司、遣使奏言 山部王・石川王並来帰之、故置関焉。」
これは先ほど引用しました。
(C)天武八(六七九)年、十一月―「初置関於竜田山・大坂山。仍難波築羅城」
―これは冒頭にあげた記事です。
関から観た難波京は九州王朝の都
この三記事以外にも、神武紀に「天あまの関」が出てきますが、これは高天原の関門のこと。継体紀に「関媛」これは名前です。宣化紀に「筑紫の国は遠近の国々が来朝し往復する関門」とありますが、いずれもここで取り上げる関とは関連しないものです。
又、持統紀で二―(2)の多臣品治を「堅く関を守った」という功績で褒賞する記事がありますが、これも今回の論証に影響しないので、ここでは省略して、右記の三記事で話を進めます。
(A)の改新詔の其の二では、郡司とか防人とか駅馬などの制度と同時に、「関塞」という制度を置いたと、読み取れます(関は出入口・閉ざす、塞はふさぐ・砦と言う意)。
既にあった関に関塞制度を設けて関守を任命したのか、新たに関を造ってそこに関塞制度を決めて、これを運営させたのか、この詔の文章だけでは不明です。
しかし少なくとも、この(A)六四六年に既に関が置かれていたか、もしくは関を新たに置いたということになります。
(2)(A)六四六年に関塞制度を置くと告げて、(C)三三年後の六七九年になって、初めて(初めてです、これが大事です)竜田山・大坂山に関を置いたと言う記事があるわけです。しかし、(B)六七二年の壬申の乱でも鈴鹿関が出てきますし、国司・郡司・駅鈴・駅馬も出てきます。(C)六七九年まで関が無かったはずがありません。
ここで(A)の詔は、畿内国司から始まって、畿内の定義が重要な位置を占めています。(A)は畿内について主に語っている詔のように考えられます。そこから、この(A)に出てくる関は、畿内あるいは畿内と畿外の境目に設けた関と考えられます。
図4は柏原歴史資料館館長の安村俊史氏(註5)の講演資料からの抜粋ですが、同氏は竜田道と大坂道(図の上側)が、七世紀中頃の難波と大和を結ぶ幹線道であったとされています。
(図4は講演資料と同じ。講演資料は註5で確認のため再度引用しています。図5は見やすいように改定しています。)
図4 「難波と都を結ぶ道」講演資料を改定、白雉4年(653)の大道
図5 香芝市教育委員会が行った大坂山の関跡想定値の発掘調査位置
竜田越か大坂越(穴虫越)が、大和と難波を結ぶ古代の最短コースなのです。 私はこの両道に置いたのが竜田山・大坂山の関と考えます。
図4の竜田道は難波と大和の境の所で大和川に沿う道ですが、「亀の瀬」(現在地名)の「峠」(これも現在残っている地名)を越えた所(図4中に「竜田」と示した所です)に、現在も「関地蔵」があり、すぐ東を「関屋川」が流れ、その東横に龍田大社があります。
残念ながら現在の所、竜田山・大坂山関跡は発掘されていません。図5を見てください。(註6)奈良県香芝市の調査で、大坂山口神社の近傍に「郡ヶ池」と言う地名があったので、ここを大坂山の関の想定地として発掘したのですが、ここではなかったと言う結果でした。但し、図5にあるようにすぐ近辺に「関屋」と言う地名もあり、今後の発掘調査が期待されます。
要するに、発掘はされていませんが、竜田山・大坂山は奈良県と大阪府の県境にあって、竜田山・大坂山の関はその奈良県側にあった。
これはもちろん畿内にありますので、(C)が(A)の関の候補となります。(併せて(B)の鈴鹿の関も同時に置かれた可能性もあります。)
そうすると、(C)の記事は(A)の前後の記事であって、何かの事情で日本書紀編纂者が天武八年の所にもってきたと、そう考えられます。
そこで考えられるのが、「正木裕氏の三十四年遡り説」です。これを当て嵌めると(C)は大化元(六四五)年十一月となります。これなら順序がピッタリ合います。
蛇足になりますが、壬申の乱で大海人皇子側の将軍大伴連吹負ふけいは、河内よりの近江側軍を迎え撃つため、三百の軍士を竜田へ、数百人を大坂に駐屯させたとあります。この時期にこのように多数の軍勢を駐屯させる場所と砦(関)があったわけです。これも(C)の三十四年遡りを裏付けるものです。
(3)次に、竜田山と大坂山の関の位置に疑問があります。もう一度元に戻って、(C)が日本書紀記載の天武八年とすると、当時の都は飛鳥浄御原宮(大和)にあったとされています。当然守るべきは大和です。
しかし、三関の位置と比べ再度図4を見てください。2―(3)で示したように当時の関は、「守るべき味方の地から山を越えて、その麓の、敵が迫ってくると考えられる国の平野部に、対面するように位置しています。」
そうすると、竜田山・大坂山関は難波側を守っていることになります。中心は飛鳥浄御原宮ではなくて難波です。後の三関の例にならうと、竜田山・大坂山関は大和の(日本書紀などには現れませんが)国司・郡司等が分担駐留して守り固めたことになります。
それでは(C)が大化元(六四五)年十一月とした場合ですが、大化元年十二月に「難波長柄豊崎に都を遷す」とあります。これなら理にかなっています。
しかし、それでも疑問が残ります。難波の都を、大和および大和以東の敵から守る。日本書紀によると難波宮は孝徳天皇の都で、その直前の(皇極天皇の)都は飛鳥(大和)にあったはずです。その大和から難波を守る?こんな事は通説の見方では全く説明できません。
そこで考えられるのが、古賀達也氏の「難波宮は九州王朝の副都であった」という説です。
この説では、近畿天皇家は九州王朝の王の傍系あるいは家来衆にあたりますが、警戒はしなければならない関係であったのでしょう。この説に乗るなら竜田山・大坂山関の所在地地勢は納得できます。
正木氏より、「戦略上大事なのは『高地』です。生駒の山頂が敵に渡れば、難波宮・大阪平野は一望の下で、敵側の偵察や戦況の把握が容易となり、大変不利になります。逆に大和盆地を見下ろす地点は圧倒的有利な布陣地となるからで、『二〇三高地』以上の価値があるはずですから・・・。」 と助言をいただきました、まさに的をえた見識と考えます。
更に「もちろんこの関は九州王朝による設置です。何故なら、近畿天皇家側の関だとしたら、山上から敵軍が「駆け下りて」くることになり、勢いを止めることは困難になると思われ、大変効用の薄い関となります。そもそも三十四年遡上する記事は基本的に九州王朝記事です。」とされます。その通りだと思います。
先の三関は、続日本紀の延暦八(七八九)年七月甲寅条で、「軍事的防御に用いることが無くなって、交通の阻害になっている」という理由で三関は廃止されます。これに対して、竜田山・大坂山関の方はいつ頃まであって、その後どうなったかの記録が全くありません。これも疑問なのです。
しかし、先の九州王朝説からすると、七〇一年政権を奪った近畿天皇家は九州王朝そのものを歴史から抹殺しようとします。その理屈からいくと天武紀以降、竜田山・大坂山関も抹殺されたと考えられます。
(5)最後の疑問です。(C)の「初置関於竜田山・大坂山。仍難波築羅城」の後半部分です。初めて竜田山・大坂山に関を置く。仍よりて難波に羅城を築く。」とあります。この「仍」が判らないのです。この字は日本書紀に頻繁に出てきます。ちなみには天武紀下でも「仍」は三十一箇所出てきます。
この「仍」の使い方ですが、「これによって」「そしてそのために」「それに加えて」と、この語の前の文節と、その後の文節を強く関連させる接続詞です。三十一箇所ともこの使い方です。
「関を置く」と「難波に羅城を築く」が関連せず、並列の記事であれば「仍」でなくて「亦また」を使うはずです。
この接続詞の使い方からして、「竜田山・大坂山の関」と「羅城」は強く関連していることになります。
もちろん通説の見方では、その関連が見えません。3―(1)、(2)、(3)、(4)の見方であれば、その関連が見えてきます。関も羅城も(前期)難波宮を守る、そういう施策だったわけです。
ちなみに、前期難波京に羅城があったのかについては、註7の報告で、「二〇〇五 ~〇六年度の細工谷遺跡の調査で難波羅城の遺構が確認され、その工法は九州の大野城跡や鞠智城跡と類似している。」とありますが、現在の所、異論もあって確定されていません。
以上で関についての話しは終わりなのですが、大下隆司氏より「大化の改新の詔勅は六四六年が前提で話が進められているが、この詔勅の発布は七世紀末というのが学界も古田史学も共通の認識」とのご指摘をいただきました。確かに、古賀達也氏も註8の「九州年号の研究」の中で、「改新の詔は六四六年でなく、藤原宮で六九六年(九州年号の大化二年)に出されたものだ。」とされています。
これは大変な問題ですので次の論考で考察いたします。
註5、安村俊史氏の「難波と都を結ぶ道」二〇一四年十月二十六日講演資料
註7、「難波京の防衛システム、細工谷・宰相山遺跡から考えた難波羅城と難波烽」大阪文化財研究所黒田慶一著
註8、『「九州年号」の研究』古田史学の会編集、二〇一二年、ミネルヴァ書房
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制作 古田史学の会